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彼がいないと日常は希薄だった。紙でできた本のページを捲るように綴る日々。奥行きも立体感もない日常を描いたその本は、どこか他人事のようで感情も大きく揺さぶられない。自分はその本を退屈しのぎに読んでいる読者、そんな感覚だった。
それでもいつの間にか笑っていた。塞がらない傷を胸の奥に隠しながら、いつの間にか日常に溶け込んでいた。大きな変化のない普通の世界――
“Ordinary world”の中に。
あれからいろんなことがあったが、妻とは今も続いている。だが彼女との間にはもう情熱のようなものは存在しない。お互い空気のような居て当たり前の存在と化していた。
娘のルーシェは大学に進学すると同時に家を出て、同級生の彼氏と同棲している。高校生の頃からの交際相手で、何度か家に連れてきたこともあるので私も妻も彼のことを知っている。最初は父親の私よりむしろ母親の妻のほうが「まだ早い」と反対していたが、最終的には折れた。彼氏の熱心な説得に負けて。その替わり、別れても構わないが――これは口には出さなかったが――大学は絶対に卒業すること。学業を絶対疎かにしないこと。それを条件に同棲することを許可した。妻には「甘い」と言われてしまったが……
自分の職場も変わった。十年以上勤めていたかカウンゼント病院を辞めて、今は故郷で開業医をしている。小さなクリニックなので最新の設備などは揃っていないが、知識と経験を活かし、十分なカウンセリングをすることを心掛けている。そうすることで病気の早期発見にも繋がるのだ。症状を聞き、異変が見付かり、もし検査が必要な場合なるべく早く動いたほうがいい。最新の機器を使った検査や医療が行えなくても、その橋渡しはできる。それが今の自分にできることだ。
嬉しいことに住民たちの健康意識も上がり、以前より病気の死亡率も下がりつつある。
定休日の今日は、一人で車に乗って出掛けた。妻は興味がないので付いてこない。数十分ほどかけて隣町に向かった。地元のほうに移り住んでからまたレコードを聴くようになった。レコードプレイヤーを買い、時間さえあればそれを聴き浸っている。今日は新しい――といっても中古品だが――レコードを探しに来たのだ。収穫があるとは限らないが、物色したり顔馴染みの客や店主としゃべるのも楽しい。その日は欲しい物が見付からなかったが、店内に流れる音楽は自分のコレクションにはない曲で、たまにはこういうのもいいなと、少し聞き入ってから店を後にした。
――to be contined――