#25.The flooding of the tear
もう戻れないのだろうか。ジョゼとは友情さえ取り戻せなくなってしまったのか。この恋は時間が経っても忘れられないだろう。それならせめて友人でもいいから、彼の側にいたかった。
あの日以来、ジョゼと勤務先の病院で会わなくなった。うちの病院は辞めたのかもしれない。本人ではなくとも、それを聞くことはできなかった。穏やかで単調な日常が過ぎていく。オレは与えられた仕事を事務的にこなし、後は家に帰るだけ。妻はいつもオレを温かく迎え、素知らぬ顔でいてくれる。それを見ていると自分が犯した浮気が、まるでただの夢だったような気がしてくる。やはりオレにはこの何もない日常が似合っているということなのか。結局戻ってきてしまった。この空虚な日常に。幸福なはずなのに何も感じない。喜びも悲しみも忘れてしまった。怒り方も泣き方も。
仕事帰り、だいぶ冷たくなってきた秋の風を感じながら、オレは公園に来ていた。ジョゼと最後に待ち合わせした公園へ。もう一度あの日に還りたい。彼を失うぐらいなら、オレは気持ちを隠し続ける。永遠にこの胸に……
そう思った途端涙が込み上げてきて、オレは顔を覆い膝の上に肘を突いてうなだれた。夕方にそこに来る人は少ない。ボールで遊んでいた子供たちの声もいつしかしなくなっていた。小さな足音が近付いて来る。犬の散歩かジョギングの途中で誰かが立ち寄ったのだろう。その足音はオレの前で止まった。
「大丈夫?」
深沈とした公園の中でその声ははっきりと聴こえた。覆った手の隙間から地面に視線を移すときちんと磨かれた紳士の革靴が見えた。顔を上げなくてもそれが誰のものなのか分かった。顔を上げるとやはり目の前には――“彼”がいた。下はツイードのパンツ。上はジャケット丈でカジュアルな印象の黒のPコートを羽織っている。珍しく黒いウェリントン型の眼鏡をかけていた。
「なんでここに……」
「車を今車検に出していてバス通勤なんだ。この公園を通ると丁度バス停まで近いから」
すると「ちょっと待ってて」と言って彼――ジョゼはどこかに行ってしまった。少しして戻って来ると上着のポケットから缶コーヒーを取り出し「熱いから気をつけて」とオレに渡した。手袋を嵌めていたオレはそれを受け取って両手で包み込む。ジョゼは隣に腰掛けて、自分の缶コーヒーを開けた。手袋を外した手でオレも開けて、涙ではれぼったくなった目で熱々のコーヒーを飲む。
「何でオレなんかにかまうんだ」
正面を向いたままオレは言った。隣でジョゼがコーヒーを啜る。
「友達のそんな姿を見たらほっとけないだろ」
「……」
あんなことがあっても、彼はまだオレのことを友達だと思ってくれているのか? 閉じ込めていた感情が溢れ出て、涙が止まらなくなった。
「あんまり泣くと腫れが曳かなくなるぞ」
彼が慰めるようにオレの背中に手を当てた。嗚咽が込み上げる。彼の手が温かくて、それが嬉しくてほっとしたのかどんどん涙が溢れ出す。もう戻れないと思っていた。こんな風に接してもらえるなんて思わなかった。
ジョゼ……ありがとう。
彼はオレが泣き止むまで、辺りが暗くなってもそうしていてくれた。
「落ち着いた?」
「……」
オレは無言で頷いた。
「じゃあ」と言って彼が立ち上がる。去ろうとした彼の手首をオレは掴んだ。彼が振り向く。オレが言葉を発する前に彼は言った。
「ダリル、ごめん。君の気持ちには応えられない。オレは人の家庭を壊すようなことはしたくないんだ」
オレは立ち上がった。二人の目線の高さがほぼ一緒になる。
「家庭なら大丈夫だ。妻とはうまくやっている」
「気付いてないの?」
「わからない。だが何も訊いてこない。お前との関係を疑ってはいないようだ」
「……」
彼は動きを止めて沈黙した。オレはもう片方の手を伸ばし両手で彼の手を包み込んだ。風が囁く。他には何も聴こえない。その沈黙は数秒続いた。園内の街灯が点灯し、柔らかな茜色の空がいつのまにか寒色のグラデーションの一部に変わっていた。
――to be contined――
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。次回が最終話になりますので、どうか最後までお付き合いよろしくお願いします。