#21.My Fantasia
「奥さん、あれで納得してくれた?」
窺うような眼差しでジョゼが言った。
「ああ」
オレは頷いた。助かったよ。君のおかげだ、と付け足す。
金曜日の午前。多少肌寒く感じるほど冷房の利いた院内に、そこだけうららかな春が訪れていた。心地よい涼しさをもたらす風が舞う。それは心の安息を表わしていた。新しい風が吹き、新しい展開が待つ。
波乱の季節は過ぎ去った。
次は開花の季節だ……
妻の説得に成功してから、オレは開放された気分になっていた。それをきっかけに、ジョゼと会うときは堂々と妻に伝えるようにしている。なんの呵責も覚えることはない。オレは何も悪いことはしていないのだから。自分にそう言い聞かせ。
妻は完全に信じきっているらしく、以前のように問い質してくるようなことはなかった。そして今日もまた妻に連絡済みだった。既に灼熱の季節は通り過ぎ、樹木は地面に枯れ葉を落としている。時折地面を舐める風は不気味な高音で唱い、底冷えするほどの寒気をもたらした。
安心してジョゼと会えるようになったとはいえ、あれから何か進展があったわけではなかった。仕事帰りにカフェに寄る、それぐらいだった。相変わらず……
だがそうやって同じことを繰り返していても、以前よりジョゼに近付けた気がした。ゆとりが芽生えたのだろう。
妻は信じきっている。もう邪魔されることはない。あとはオレが一歩前へ進むだけだ……
だが、ジョゼ。君は受け入れてくれるだろうか?
「ダリル」
「!?……」
はっとしてオレは目を見開いた。すっかり思考に耽ってしまっていたが、今ジョゼとカフェにいた。仕事帰りに寄ったのだ。
「どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと考え事を……」
オレは苦笑しながら、ジョゼから視線をずらした。心の中で言っていたことが急に恥ずかしくなる。赤面してしまいそうで、まともに彼の顔が見れなかった。
「……」
内心の動揺を隠すのに苦労した。動揺が脈拍を逸らせ、手が震えそうになる。テーブルに置いたコーヒー入りのカップを持ち上げる時も、自然に自然に……! と心の中で強く念じた。
「今度」
「え?」
急に話を切り出されて、オレはすっとんきょうな顔をしてしまった。ジョゼが話を続ける。
「落ち着いたら、ダリルの家に行ってもいいかな?」
「?……」
オレは言葉を詰まらせた。逃げ口実を探し、彷徨う思考。
ジョゼが言葉を継いだ。
「この間、奥さんに随分と心労を与えちゃっただろ? もう一度会ってきちんと謝りたいんだ。今のままだとなんだか、まだギスギスしてるっていうか……嫌なんだ」
「……」
オレは言うべき言葉が見当たらず沈黙した。
「親友の奥さんとぎくしゃくした関係でいたくない。それに……ダリルの娘のルーシェちゃんにも会いたいしね」
言い終えてジョゼは、柔和な笑みを浮かべた。黒いスクエアフレームの眼鏡のレンズ越しに見える目が細められ、その瞳の優しさにとろけてしまったオレは、今すぐ彼を抱き寄せたい衝動に駆られた。
やばい、理性と本能を隔てる壁が崩れそうだ。
「……っ!」
ごくりと唾を飲み下す。甘い誘惑になんとかオレは打ち勝った。そんなオレの葛藤などジョゼは知る由もなく
「あの奥さんとダリルの子供なら、きっとかわいいんだろうな」
と安穏な様子でそう言って、思い浮かべるような目をした。
「そりゃあもう、めちゃめちゃかわいい! なんてったってオレの天使だからな」
と心の中でオレは得意げになった。こんな軽い台詞は口に出さないが、それが本心だった。
「写真とか持ち歩いてないの?」
「あるけど……」
「見せてよ?」
瞳を輝かせてジョゼが促した。
「う……ん」
オレは気乗りしない返事をした。見せたいような、見せなくないような、でもやっぱり見せて自慢したいような複雑な心境になった。家族のことにあまり深入りしてほしくない気持ちがあったのだ。だが、こうやってジョゼにせがまれたら断れるはずもなく、仕方なくオレは鞄の中から娘の写真を取り出した。それをジョゼに渡す。
「どれどれ」
ジョゼは陽気に声を弾ませて、写真に目をやった。
「わぁ〜〜……」
途端に彼は感嘆の声を上げた。間延びした語尾が、溜め息のように零れる。
「かわいい〜〜!?」
それは賛美の意味だった。
「はは……」
娘のことを褒められて、オレは少し照れくさかった。
「いいなぁ、こんなにかわいい娘がいて。早く実物のルーシェちゃんに会いたいよ」
「落ち着いたらな……」
オレはそう言い、取りあえずその場はそれで収めた。
“二人”を会わせると何が起こるかわからない。何よりオレが気まずくなる。あんな息の詰まるような時間はもう、うんざりだった。そもそもオレは不器用な人間だ。演技なんて本当は苦手だった。それでもなんとか妻を信じ込ませることに成功したっていうのに、わざわざまた厄介事を作るようなことはしたくない。そんなことを続けていたらオレの身が持たない。とにかく今は、やっと得たこの貴い平和を乱さないことが大事なんだ。
オレはジョゼから写真を返してもらうと、手早くそれを鞄にしまった。
「……」
ジョゼは少し名残惜しそうな顔をした。テーブルに頬杖を突き、窓の外に目を向ける。その瞳が寂しげに遠くを見ていた。
「オレもいつか、結婚できるかなぁ……」
「え?」
衝撃的なジョゼの呟きに、思わずオレは耳を疑った。
ジョゼは外の景色を見たまま言葉を紡いだ。
「この前ダリルは“結婚なんてしないほうがいい”なんて言ってたけど……」
彼はそこで一旦言葉を切ると、口を閉じて含み笑いをした。
「?」
それがあまりにも何か意味があるような笑い方だったので、オレは戸惑ってしまった。
「ダリルを見てると、家族っていいなぁって思えてくる」
なんだって?
オレは懐疑的な眼差しでジョゼを見詰めた。オレには全く意味不明な、ジョゼの言葉だった。
「オレの?……どこを見てそう思ったんだ?」
理解できない、とオレは首を捻った。
するとジョゼは窓に向けていた視線をこちらに向け、居住まいを直して言った。
「そうだなぁ。まず、いつも帰りを待っていてくれる人がいるって所かな」
「……っ」
オレはその時、思わず口から出かけた言葉をはっとして飲み込んだ。お前にだっているじゃないか――危うくそう言ってしまう所だった。“アビー”のことを……
オレは冷めたように笑い
「一人になりたい時もあるけどな」
そう皮肉を返した。
なんて嫌な奴だ……と内心で自嘲する。
「そんな時もあるかもしれないね」
ジョゼは反論はせず、苦笑した。瞳にその余韻を残したまま、口に運んだコーヒーカップを傾ける。細く長い指が、なにげない動作さえも可憐に見せていた。それを小さく音を立ててソーサーに置いた。
「でもオレは、ダリルがうらやましいよ。オレは――家族の温もりを知らないから」
「……」
穏やかな表情でジョゼは言ったが、オレはそこに悲哀の影を見て、胸が痛んだ。
「愛する妻と子供が待つ家。食卓を家族で囲み、その日あった出来事やとりとめのないおしゃべりをしながら夕飯を食べる。そんな普通の家庭に憬れてる。ダリルの家庭はまさにその典型で、オレの理想だ。父親がいて、母親がいて、子供がいる……
それは普通のことなのかもしれないけど、オレには特別に感じる。
オレは子供の頃にそういうまともな環境で育たなかったから、ふつうを知らない。だから普通であることは、とても特別なことなんだ」
ジョゼの声が熱を帯びてきた。
「そりゃあ、たまには夫婦喧嘩をしたり、一人になりたい時もあるかもしれない。でも、だからって結婚生活に失望することなんてないと思う。オレから見たら、ダリルは相当幸せ者だよ。好きな女性と結婚できて、あんなにかわいい娘まで授かったんだから」
「……」
オレはコーヒーを飲みながら、半分他人事のようにそれを聴いていた。ジョゼにはオレたち家族が、理想か……
理想の家族。
汚れていないお前の目にはそう映るのか。
オレはおもむろにカップを卓上のソーサーの上に置いた。
わかっているよジョゼ。たぶん、君の言う通りだろう。だが、そんなことは頭の中だけの幻想に過ぎないんだ。
「ジョゼ」
オレは開口した。
彼の中の幻想を潰すために。
「オレは普通の家族を演じていただけだ」
「演じていた?」
ジョゼは眉を上げずに目を瞠り、懐疑的にオレを凝視した。オレは「ああ」と静かに頷いた。
「オレの心の奥にはずっと……消去できずにいることがあった」
「どういうこと?」
ジョゼは首を傾げた。
オレはブリッジを押して眼鏡の位置を直し、瞬きした。
「ずっと忘れられない人がいるんだ」
「忘れられない人?――」
ジョゼの顔が瞬時に凍結した。それは絶望の凍結だろう。
すっかり残酷になっていたオレは、さらに言葉を継いだ。
「オレは妻と結婚することで、“その人”のことを忘れようとしていたのかもしれない。だが、そのことに……自分でさえすぐには気付かなかった」
「どういうこと?」
ジョゼはオレを直視した。オレも彼を見返した。
沈黙が重たい秒を刻んでいった。胸の中でそれが反響する。
ジョゼ、君はなんと答えるだろうか。
本当のことを告げたら
君はオレの気持ちを
受け入れてくれるだろうか……
「妻のことは確かに愛していた」
「……」
「そして娘が生まれた」
「……」
「妻と一生添い遂げるつもりだった」
「……」
「妻や家庭に何も不満はなかった」
「……」
「だが、気付いてしまったんだ」
“君をまだ愛している自分がいることに”
「ふふ……」
言葉は声にはならなかった。代わりに唇から零れたのは、臆病者の自分に対する嘲笑い――という失望だった。
「ジョゼ、結婚や家庭というものに、幻想は抱かないほうがいい。表向きは幸せそうに見える家族も、本当はそう演じているだけなのかもしれない。
普通の家族に見えているだけで……」
「……」
オレの言葉はみるみるジョゼの心を落胆させていった。
もはや嗜虐的になったオレの舌は、そこに追い討ちをかけた。
“善意”の毒を吐く――……
「悪いことは言わない。結婚に失望したくなかったら、幻想など抱かないことだ。幻想は幻想でしかなかったと、いつか思い知ることになる。そして気付くんだ。
幻想は幻想のうちが華なんだと」
「……」
オレを見詰めるジョゼの目は、希望を失っていた。
「“悪い夢”は、見ないほうがいい」
どこまでも失望させようとするオレの言葉に、ついにジョゼは嫌疑をかけてきた。
「何故、そんなことを言うんだ? そんなにオレを失望させたいのか?」
そうだ、失望させたい。
君が誰かと結婚して、“普通”の家庭を築くなんてことを
オレは望まない。
失望してくれ。
家庭にも
夫婦にも
男女関係にも
失望してくれ――――!
「……」
会話が止まった。この時窓から見える景色には暗いベールがかかっていた。どれぐらいここにいるのだろう。 今夜はこのままでは終われない気がした。
目の前の君をさらいたい。
君が落ちるまで、夜通し愛を語りたい。
長い夜はそのためにあるに違いない。
男が誰かを口説くために。
夜の闇に紛れて禁忌を犯すために……
オレはただ彼を見詰めていた。瞳の奥に無言の愛を湛えながら。
ジョゼもまたオレを見詰めていた。彼のかけている眼鏡の四角い枠が邪魔をする。微妙な目の表情を隠していた。
「ダリル」
彼は決意したように言葉を発した。
「離婚なんて考えちゃ駄目だよ?」
「……」
ジョゼ。
オレは薄く唇を開けた。
「どうしても忘れられない人がいるなら、それはそれで仕方がない。でも、離婚は絶対にしちゃ駄目だ! 子供には、父親も母親も必要なんだから」
「……」
ジョゼ、君は敏感なのか、鈍感なのか分からない。そういうことには気が回っても、オレの気持ちには全然気付いてくれやしない。君はオレをいたぶるのが上手だ、ジョゼ……
オレは笑いたい気分になった。どんなに饒舌に愛を語っても、心の声は彼に届かない。彼はいつだってノーマルな見解をする。この繰り返しは、もはや滑稽でしかなかった。
彼は熱意を込めた目で言った。
「家族が欠けてしまったら、子供の心にはぽっかり穴が空いてしまう。それは永遠に塞がらない寂しさとして、大人になっても消えることはない。同じ幸福感、それ以上の幸福感で満たされるまで、その穴は塞がらないんだ」
そう言うとジョゼは手を伸ばした。
「オレにはそれが分かるから」
ジョゼの手がオレの手に重なった。彼の両手に包み込まれた左手が、熱く重たい鐘を打つ。その鐘がやがて駆け足の速度となって駆け上り、胸の内を強打した。
「そんな思いをさせてほしくない」
ジョゼの手に力が込められた。
その手から熱い思いが伝わってくる。
ジョゼ――
握られた手を離されたくなかった。
オレが忘れられない人――それは“君だよ”とすぐに伝えたかった。
その時ふいに、歌が流れてきた。
幻想的な旋律をワルツに乗せたその歌は、店のBGMだった。
Woo, wonderful biew
(すばらしい眺めだ)
Wonderful amazing
(すばらしい驚きだ)
Wonderful scene
(すばらしい場面だ)
I found an only miracle now
(これを奇跡と呼ぼう)
Music of the fantazia plays
(幻想曲が始まる)
A dance begins in a fantasy……
(幻想の舞踏が始まる)
一瞬にして恋に落ち、相手の姿を大袈裟すぎるほど褒め称える男の歌だった。
今の二人の雰囲気に、なんて場違いで軽快な旋律だろう。
なんてくさい歌詞だろう。
これはまるで
オレの心の中を映してるみたいじゃないか。
照れもせずにこんな台詞を言えたら
楽になれるのかもしれない……
オレは手をどけて、上からジョゼの手を包み込むと
「心配するな、ジョゼ。オレは離婚は考えていないから」
そう言った。
――to be contined――