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SECRET LOVE  作者: 雨音れいん
SECRET LOVE
20/32

#19.The decisive vattle is sunday

 決戦は日曜――

 その日はすぐにやって来た。



 薄青い夏空が容赦なく皮膚を焦がす休日の昼下がり、オレは妻とともに自宅のテラスドハウスを後にした。まだ赤ん坊の娘は知り合いにあずけていた。妻は白いチューリップハットを被り、日傘を差して陽射しを遮り、眼を痛めないために茶系レンズのサングラスもかけていた。服は白いチュニック丈の白いカットソーに太い黒のベルトを締め、黒いスキニーパンツと黒いサンダルを合わせていた。オレはカジュアルにTシャツにチノパンという服装で、黒いサングラスをかけ、黒の中折れハットを被っていた。

 門の前には電話で呼んでおいたタクシーが待機しており、二人でそれに乗り込むとオレが運転手に向かって行き先を告げた。

「二人で出かけるのって久しぶりね」

 タクシーが発車して間もなく妻が言った。

「そうだな」

 淡泊にオレはそう返す。寡黙な夫の代わりに砂利だらけででこぼこの路面がBGMを付け足した。

 オレたちは既に恋人という関係を卒業して夫婦となった。男女関係の甘い熱に取って代わって安心感が生まれ、いるのが当たり前の空気のような存在になり。

 それがいつの間にか歯車が噛み合わなくなったみたいに互いの気持ちにずれが生じてしまった。夫婦関係が壊れていくというのはこういうことなのかもしれない。

「車が欲しいわね」

 車窓から外の景色を眺めて別のことを考えていたオレはその声に目を丸くした。ぼんやりと上の空で妻に顔を向ける。

「え?」

「車よ」

 妻が繰り返した。

 オレは脇を見て少しだけ思案する。

「車か……そろそろ買うか?」

「ええ」

 車内の会話はそこで終止符を打った。

 アスファルトの滑らかな路上に出て車内を静寂が包み込む。見慣れた並びの建物。店や標識。空の色、大気の色さえも通常と同じ姿に映る。何も変化は見られなかった。だがそれは外観だけのまやかしのようにも思えた。

 気紛れな空はきっと不意の雨を降らすだろう。その前兆の雷鳴が、静寂の大気の中で小さく唸っている。平穏を生活いきる者には決して聴こえない雷鳴が――

 自分には聴こえる気がした。







 午後二時前に妻と国道沿いのレストランに入った。ほぼ満席に近かったが、かろうじて禁煙席だけは空いていた。煙草を吸わないオレたち夫婦は迷わずそこを選び、ウエイトレスに案内されてその席に座った。四人掛けで、妻を窓際にしてその隣りにオレは座った。妻が帽子を脱いで座席の傍らに置き、サングラスも外してテーブルの隅に置き、オレも帽子を脱いでサングラスを普通の眼鏡に架け替えた。妻がテーブルに頬杖を突き、無言で窓の外を眺める。その横顔を尻目に、オレも言葉を発しなかった。

 彼女は今どんな気持ちでいるのだろう。何を思っているのか。表情は穏やかだが、憤りが冷めたとは考えずらい。

 疑問や不安が胸中に浮んでは揺れていたが、訊くことによって自分の心理を見透かされそうで訊くことができなかった。



 その数分後にジョゼが現れた。白いポロシャツにグレーのズボンを履いていた。ラインがスリムな体系に馴染んでいて美しい。どちらもポールスミスのものだろうか。襟を開けて多少着崩してはいたが清潔感があり、誠実さが表れる出で立ちだった。眼鏡は落ち着いた茶系で、スクエア型のハーフリムの物をかけていた。それがクラシカルな印象をプラスしてコーディネートとしては地味ではあるが、端麗な容貌は静かに輝き、近付くほどにその美しさが露呈する。眼鏡のレンズ越しに見える水平に流れるような形をした瞳。その全貌を見たい衝動に駆られ。

 ココア色の柔らかそうな髪に触れたくなった。手を伸ばしてその緩やかな曲線ウェーブをなぞり、顔を寄せてそっと匂いを嗅ぎたくなり。長く濃い睫毛に縁取られた瞼に口付けしたい衝動が押し寄せる。

 その急激な激情の熱をオレは理性で冷却した。向かいの席に彼を招き、隣りにいた妻を紹介する。

「妻のメーガンだ」

 ジョゼを初めて見た女は皆、目を止めて頬を赤らめる。妻も例外ではなかった。仄かに頬を上気させ、息を呑んだのが分かった。続いてオレは掌をジョゼに向け、妻に紹介した。

「メーガン、こちらがジョゼフ・コールさんだ」

 握手を交わす二人。その間に嫌悪する空気は窺われなかった。もともと物腰の柔らかなジョゼは小さくだが好感的な微笑を浮かべ、着席する時尻目に見た妻も同じく笑顔に見えた。

 ウエイトレスを呼んでオーダーを済ませると三人の間にぽっかりと会話の空白ができた。何から話したら良いものか……

 このまま何事もなく、他愛もない会話でもして終わってくれれば楽なのに。

 ああ、だがここで妻を安心させておかないと後々面倒だ。


 無言でオレが思案に暮れていると

「コールさんは、どちらにお住まいなんですか?」

 ふと妻が話を切り出した。ジョゼの答えを頷きながら、熱心に妻は聞いていた。

「お勤め先は?」

「メイフィールド総合病院です」

「まぁ、メイフィールド総合病院」

 関心したように目を広げた妻を見てジョゼが言う。

「ご存じですか?」

「ええ、もちろん。有名な所ですもの。私も病院で働いていたことがあるので知っています」

「ダリル(彼)から聞きました。カウンゼント病院で事務をされていたそうですね」

「ええ」

「お待たせ致しました」

 そこにウエイトレスがやって来て話が中断した。トレイに乗せたコーヒーをテーブルに並べていき、カップに伝票を入れてからお辞儀をして去っていく。

 その間生じたぎこちない空白の後、三人ともカップを持ち上げてコーヒーを飲む、または砂糖を入れてから飲む動作を始めた。カップをテーブルに降ろしてから妻が言う。

「コールさんは主人の働いているカウンゼント病院によくいらっしゃるそうですね?」

「ええ」

 ジョゼは伏せていた瞼を上げた。眼鏡のレンズ越しに、彼の青い瞳が妻を見る。

「五月からカウンゼント病院の助勤医師になったんです」

「そう……」

 ジョゼはおやっと言うように片眉を上げた。

「ダリルから聞いていませんか?」

「ええ全く」

 妻が力なく答える。

「今初めて知りましたわ」と尻目にオレを見た。

「?」

 その視線にオレは目を丸くする。内心の怯懦が表面に現れた瞬間だった。妻がそれに気付いたかは分からないが。

 まずいな……ジョゼにそのことを言っておくんだった。

「気になさらないでください」

 ジョゼが言った。

「私がたまたま彼のいる病院に派遣されて助勤医師になった、というだけの話なので」

「……」

 妻は視線をテーブルの上に落とした。ジョゼの説得にまだ納得がいかない様子が窺えた。

「コールさん」

 妻はふとまた顔を上げて言った。

「はい」とジョゼが答える。

「コールさんは、ご結婚されてるんですか?」

「いいえ」とジョゼが軽く首を振る。

「そのご予定は?」と窺う目に加え、小首を傾けて微笑する妻。その問い掛けに悪意が感じられた。

「!」

 オレは思わず目をむいた。何てことを訊くんだ!? 

 そんなオレの憤りを知ってか知らずか妻は続けた。

「でも恋人はいらっしゃるんでしょ? そんなに素敵だったらいないはずがないわ。黙っていても女の子のほうから声をかけてきそう」

「!?……」

 オレは絶句した。妻(彼女)はこんな毒々しいことを平気で淡々と口にするような女だっただろうか? オレは猜疑と嫌悪の眼で妻を睨んだ。すると泰然とした妻の横顔がそこにあった。そのしたたかなまでの済ました表情に、女の心のしたたかさを垣間見た気がした。窘めるはずだったオレは完全に圧倒されてしまった。

 ジョゼは愛想笑いで妻の問いに応じているが、声が沈み明らかに困って見えた。

 ジョゼが気にしていることを……

 オレは悔しさに歯噛みした。彼がモテるということは見れば一目瞭然だ。だから特別勘を働かせなくても分かる。だがジョゼは女性不審というトラウマを抱え、恋愛ができずにいる哀れな青年だ。天が二物も三物も与えたのに、報われぬ。その心に土足で踏み込むなんて……

「ジョゼは仕事で忙しいんだ。だから恋人なんか作っている暇はない!」

 思わずオレは声を荒げた。しかし妻は動じなかった。冷めた声で一言――

「忙しいのに“あなた”と会う時間はあるのね?」

「それは……」

 オレはつい言葉を詰まらせてしまった。するとジョゼが「あぁ、そのことなんですが……」と引きつった笑みを浮かべながら低声で言い、苦渋を漏らそうとするような素振りを見せた。

「忙しいというのは嘘ではありません。ですが、本当の理由はただ……そういうことが苦手なだけなんです。恋愛もそうですが人付き合いそのものも下手でして、心底打ち解けて話ができる友人はダリルしかいません。それで彼とばかり親しくさせてもらってるんです。ですが、そのことで何か奥さんにあらぬ誤解を与えてしまったというのならお詫び致します」

 妻はその言葉に不審感を抱いた。

「主人から何か聞かされたんですか?」

 妻の鋭い切り口。

「……」

 ジョゼは沈黙し、オレは

「……」

 内心でだらだらと冷汗を流していた。そんなオレにジョゼは視線を送り「オレに任せて」とでもいうように、無言で合図した。頼む、ジョゼ。どうにか切り抜けてくれ!――とオレは心の中で懇願する。

 ジョゼが答えた。

「悩みごとがあるとは聞いていました」

「……」

 黙って聞き入る妻。

「奥さんに、浮気しているんじゃないかと疑われていると」

「それで?」

「それで、その相手が“私”だと」

 ジョゼが言い終えた瞬間、オレは生唾を飲み下した。ごくっという生々しい音が両耳の中ではっきりと響いた。やばい、妻にも聞こえてしまったかもしれない! その時店内に流れていた音楽が静かなピアノ協奏曲であることが悔やまれた。

「あ、でも何も心配する必要はありません」

 苦笑したというか、そんなことは有り得ないというようにジョゼは首を振った。

「ダリルと会っていると言っても、仕事が終わってからちょっとお茶を嗜む程度のことですし」

 しかし不安が拭えないのか、妻は尚食い下がった。

「本当にそれだけ?」

「ええ」

「あなたの家で二人きりになって、何かしてない?」

 妻の語調がきつくなる。

「二人きりになってもすることと言ったら、ただ話をするぐらいです」

「……」

 妻はジョゼを見据えてまだ訝っている。

「休暇に二人で出かけたことは?」

 まずい……言ってない! 余計怪しまれる。

 オレは頭を抱えて叫びたくなった。休暇にジョゼと会う時に、怪しまれないようにと妻に隠していたことが、ここに来て逆に怪しまれる要素になってしまったのだ。しかし

「“偶然”会ったことはありました。彼とは趣味が合うので、レコードが置いてある店を探し歩いていた時、たまたま店でばったり遭遇して。それぐらいかなぁ」と機転を効かせたジョゼは巧妙だった。

 ジョゼ~~、ありがとう! 

 ジョゼが聡い男で良かったと、この時オレは心から感謝した。彼が言ったのは実は嘘で、本当は約束して店に行ったのだが、なにしろこんな状況だ。馬鹿正直に話せば確実にもめる。時には嘘も必要なのだ。

 相手を傷付けないための“優しい嘘”が。

「……」

 妻はまだどこかもやもやしているのか、眉を潜めて再度思案した。しかし、すぐに苛立つ表情で言った。

「……っじゃあ、信じていいのね? 本当におかしなことは何もしてないのね?」と念を押す。“本当に”のところを強調して。

「ええ」

 ジョゼはほぼ即答して頷き、安心させるように妻に向かって柔和な微笑を捧げた。


――to be contined――

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