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SECRET LOVE  作者: 雨音れいん
SECRET LOVE
14/32

#13.Just after the rain

 季節は春を終えようとしているが、やや足踏みしているようでもあった。三日前までは晴天が続いており、夏日もあった。この地域はきまぐれのように気象が晴れ・雨・雷などと変化しやすいため年中長袖を着た人が歩いているのだが、その日は半袖姿の人口が急増していたほどだ。しかし今日吹いている風は底冷えするように冷たく、春先に戻ったようだった。乾燥して喉を痛める。異常気象のせいだろう。先月末晴れていよいよ夏間近かと言われていたら、翌週には雪が降った。そして三日前に夏日が続いて、今日はこの寒さだ。暖かい陽気は気持ちがいいが、寒い季節が恋しくもあった。季節が変わることに寂しさを覚えてしまう。

 去年の後半は地味ではあったが、胸に染みる出来事を体験した年だった。外科医として、患者を直接死に繋げてしまう経験をしたことはその時までなかった。エミリーのことも、医療行為によって死なせてしまったわけではなかったが、あの時まで彼女はオレの患者だった。彼女はオレに気付かせてくれた。オレはあの時まで事務的な医療行為をすることのみに徹した医者という機械ロボットだった。いつからか心を無くしてしまっていたのだ。医者を志したきっかけをどこかに置き忘れていたのかもしれない。そのことを彼女が気付かせてくれた。それを思うと感謝の気持ちでいっぱいになるが、同時に辛くもなった。

 しかし彼女はこんなオレに感謝の言葉を書いた手紙をくれた。そしてその言葉によって励まされた気がした。

 エミリー、オレも恋をしているよ。

 まるで彼女が傍で話を聞いてくれていて、今あの時見せた聖母のような笑みをしているような気がした。オレは心の中で話しかける。

 オレは誰にも言えない恋をしてるんだ。心の声で打ち明けるのも怖い。でも、君にだけは教えよう。オレは……







 午前の診察を終えて昼休みに入ることにした。ファイルをまとめて席を立ち、手を広げて伸びをする。気怠い睡魔が襲ってきた。ジョゼはこの病院へはもう来ないだろう。担当していた外科手術は終わったのだ。もしかしたら月に一度ぐらい、術後の経過を看に来るかもしれないが。

「……」

 小さな溜め息が漏れた。いいさ、また会えばいい。オレは少し積極的になったか? エミリーに話したら開放的になったようだ。迷わず携帯電話からメールを送信していた。

 テーブルの上に端末を置いて昼食を取っていたが、着信音は一度も鳴らず返信メールは届かなかった。しかし――あいつにも仕事があるからな。そう割り切って、とくに気に止めることなく仕事に戻った。




 午後の診察。その最終。

「ありがとうございました」

 中年男性が口上を述べて席を立つ。仕事帰りに診察に訪れた会社員だった。籠に預けていたジャケットと鞄を取りだして診察室を辞するその患者を、

「お大事に」とオレは送り出す。少しだけ笑みが零れた。心境の変化だろうか。あの“告白”が効いたのかもしれない。心が少し温かくなっていた。




 夜半過ぎ、寝室の床に置いていた充電器に差し込んであった携帯電話のランプが青く点滅した。着信を報せていた。寝る前はいつもそうやって音もバイブも切っている。たんにうるさいからということだけが理由ではなかった。着信があったことを妻に知られ、勘付かれることを恐れていたのだ。後ろめたさがあるオレは、質問されたくなかった。問い詰められたら隠し通す自信はない。幸いにもまだ彼との関係を疑う様子は見られないが、こうでもしないと安心できなかった。

 昼間の返事を期待していたオレは寝る前の支度を全部済ませると、そうやってダブルベッドに横臥しながら、ときどきランプが点滅するのをチェックしていたのだった。そして今来たことを確認すると、そっと上掛けを捲り、絨毯を敷いた床に足を降ろした。隣には仰向けになった妻がいて、寝息を立てていた。その呼吸と傍らのベビーベッドから漏れる娘の寝息とが、交互に重なり合唱している。オレは軋む音を立てないようにと、祈りながらベッドから腰を上げた。折り畳み式の端末を開いてメールを確認する。


 【Jozeph】

 “こんな時間にメールしてごめん。オレも会いたいと思ってたんだ。”


 メールはその文章で始まっていた。

「ジョゼ……」

 オレは感激のあまり、思わずそう零しそうになった。端末を両手で握り締め、しばしその余韻に浸ってからメールを返信して端末を閉じた。

 静寂の中に二つの寝息だけが鮮明に響く。妻は軽く口を開け、瞼を閉じていた。オレは何事もなかったように、その隣に身を潜り込ませた。







 年が明けてからジョゼとはプライベートで会っていなかった。病院でも一度見掛けたきりだった。お互いにタイミングが合わなかったのだろう。メールのやりとりもほとんどなく、オレのほうからときどき送るぐらいだった。返信が来るのは翌々日またはそれ以上後など当たり前で、内容も簡素で素っ気ないものだった。

 それが昨晩届いたあのメール……あの言葉には感激した。自分が言いたくても控えていた台詞を彼から言われたのだ。瞬間、思いが通じたという錯覚すら覚えてしまった。さらには文末で、近いうちに病院こっちへ来ると言っていた。期待は高まる一方だった。



 昼過ぎに雷をともなった驟雨があり、一時的に窓に日が差し射し込まなくなった。やがて数分ほどで雷鳴が鎮まるとともに雨が止み、院内に薄暗い影を落としていた空が明るくなった。

 それはあまりに突然訪れた。

「来月からこの病院に週二回、助勤で入ることになったんだ」

 ジョゼが言った。オレは雨上がりの虹を見たような感動を覚えた。予期せぬタイミングで廊下を渡ってきた彼に呼び止められ、そのことを知らされたのだ。オレはただ嬉しかった。これから毎週ジョゼに会える。その喜びで心に幸福感が充満した。

 ジョゼの勤務は毎週火曜と金曜だった。常勤のオレは月六日まで休みを取れることになっていたが、もちろん彼の出勤日には休みを入れなかった。時間の許す限り、タイミングさえ合えば彼を誘うようになっていた。




「レコードが聴きたいなぁ」

 ある日の仕事帰り。二人で立ち寄ったいつものカフェで、黄昏るような遠い目をしてジョゼが呟いた。楕円型をした眼鏡のレンズ越しに見える青い瞳が細められて虚ろになり、離れた場所にいる人を恋しがるようにその長い指先が下唇に触れた。

「……!?」

 オレは瞠目した。その光景に釘付けになり、心も身体も自由を失っていた。首から頭にかけて熱いものが上昇してくる。顔が紅潮しているかもしれない。この動揺に彼が気付くかもしれない! そう懸念していながらも、彼から目を外すことができなかった。息ができない。窒息してしまう。そんな感覚の虜になっていた。

 ジョゼは唇から指を離し、スプーンでグラスの中をかき混ぜた。氷がぶつかってカランカランと清涼な音を立てる。彼はアイスティーを飲んでいた。この時の彼に似合う暮れなずむ夕日の茜色だった。

「……」

 彼はオレの動揺に気付く様子もなく、二人掛けのテーブルに両手で頬杖を突いた。

「ダリル」

 その声にはっとして、身動きを取れなくしていた緊張の縄が解けた。

「何?……」

 素早い瞬きをして、ぎこちない口調でそう返す。

「今でもレコード聴いてる?」

「レコード? いや、プレーヤーがないから聴いてない」

 オレはきょとんとして目を丸めた。

「そっか……」

 ジョゼは少し寂しそうに、瞼を伏せてそう呟いた。

「お前はあのプレーヤーどうしたんだ? この前家に行った時は見なかったけど」

「あれは前の家にある」

 俄かに声と表情に陰が墜ちた。

「前の家?」

 オレは困惑気味に首を傾げた。

 ジョゼが答える。

「前住んでたマンションに置いたままなんだ。取りに行きたいんだけど、なかなか行けなくて……」

 卓上に視線を落とした彼の声は、重苦しくなっていた。

「お前は、あっちの病院とうちの病院とかけもちで忙しいからな」

「……」

 慰めようとして言ったオレの言葉に、ジョゼは沈黙した。口を閉ざしてしまった彼を見てオレは気まずくなり、自分も黙り込んでしまった。店内に流れる甘いバラードのBGMが物哀しく聴こえた。セレナーデも今は別れの唄に聴こえてしまう。

 ふいにジョゼが動いた。居住まいを直してから、ストローで残ったアイスティーを飲みほす。彼は微笑して言った。

「この話はまた今度にするよ。ここではちょっと話しづらいから……」

 顔では笑っているが、そう口にするのも辛そうだった。ジョゼ……

「待てよ!」

 荷物を手に、席を立とうとした彼を呼び止めた。

「なんだよ。悩みごとでもあるのか? あるなら言ってくれよ」

 そんな君をほうっておけない……

「ありがとう」

 ジョゼはそれだけ言い残すと、踵を返して去って行った。


                                          ――to be contined―― 

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