#12.A song to give to her
オレは音源を求めて原付バイクを走らせた。自宅から十分とかからない距離に一軒知っている店があったので、そこから探してみることにした。
外観は瀟洒な小屋。看板は色褪せていて、ほとんど文字が読み取れなくなっている。一見何の店か、営業してるのか、はたしてここは店なのかすら分からない。そこが何の店かを知ったのはこの町に越してきて間もない頃で、オレと妻が新婚生活を始めたばかりの時だった。その日は仕事が休みでオレは家で寛いでいた。当時妊娠中で既にお腹が大きかった妻が急にケーキが食べたいと言い出したので、オレは原付バイクで買出しに出たのだった。
確かこの通りにケーキ屋があったはずだ、と馴染みの薄い町並みを記憶を辿りつつ、半ば勘に任せながら進んで行った。
――あった!
探していた店を発見すると即そこに入った。ショーケースの中をざっと見て頼まれたケーキを探しだす。ラズベリーヨーグルト、レモンパイ、オレンジ・ショコラムースのフェアリーケーキを購入するとさっさと店を出た。なま物だということと、なんとなく気恥ずかしかったのだ。
「?」
と、その時だった。どこからか懐かしい響きのある音が耳に入ってきた。
この音は……?
左右に首を巡らせて、その音の出どころを探す。すると二軒先に古びた看板を掲げた店らしき建物があり、音はそこから漏れているようだった。好奇心が大きく花開く。それを覗かずにはいられなくなった。オレはケーキの箱片手に歩み寄った。
「わぁ……」
ガラス戸を開けて入店するなり、思わず感嘆した。そこに学生時代ジョゼと共有した空間で聞いた音と、同じ音が広がっていたのだ。先程懐かしいと感じた音は店内に流れるレコードの音だった。
雑音を取り省き、一音一音がクリアに再生されるCDの音とは違う。回転するレコード盤の溝を硬質の針先がなぞる。時折生じるパキパキッとはぜるような摩擦音は、耳に心地良い雑音となる。流れてくる音声は何故か身近に感じられた。瞼を閉じれば、まるですぐ傍に演奏者や歌い手がいるような錯覚を起こしてしまうほどだ。その音は人工的ではなく、どこか暖かみを感じさせた。技術と言うよりも、芸術と呼ぶに相応しい音色を奏で。
――懐かしい。この音も、このレコード盤も、このレコードプレーヤーも……
ジョゼはまだあのレコードプレーヤーで聞いているのだろうか。あの頃みたいに同じ音楽に耳を澄ませ、同じ時間に溶け込めたら……
魔法が解けたみたいに心が開放されていったのを覚えている。いや、逆に魔法をかけられたみたいだったのかもしれない。急に心の声がおしゃべりになっていた。あの時はそうやってオレが道草をくったせいで、待ちくたびれた妻が不機嫌になったんだっけ。
短時間での凝縮された追想を終え、その余韻を残しながら、オレはその店のガラス戸を開けた。するとまた何かの音楽が聴こえてきた。知らない歌だったが、妙に懐かしい感じがした。
店の内装は倉庫みたいで飾り気がない。台の上に紙ジャケット入りのレコードや廃盤になったCDがある他、年季の入ったレコードプレーヤーなどが置かれている。その中にいると時代を溯ってしまったような気分になれる。印刷の色が薄くなってすっかり古ぼけてしまったレコードの紙ジャケット。電気屋ではお目にかかれない型の古いレコードプレイヤー。それらは無機質な店内を飾るアンティーク用品のように見えた。マニアには堪らないはずだ。
この店は中古のレコードやプレーヤーなどを専門に取り扱っている店だという。中には相当な値打のあるプレミア商品も紛れていると、前回来店時に店の主人が言っていた。その中でオレは、数十枚ほどが積まれたCDの山に目を向けた。
――なんだこれ?
その一角に『店長のお薦め』とペンで書かれた立て札を見付けた。手前に置かれていたCDを手に取り収録曲を調べてみると、どうやらクリスマスソングを集めたアルバムらしかった。『聖しこの夜』『もろびとこぞりて』そんな定番の曲が並び…………
『祈り』
探していた曲のタイトルを見付けた。これか? 手掛かりは曲名と音の記憶だけ。聴いてみれば分かるのだが……
「あの……」
品物の埃をはたいていた店の主人に尋ねると。その曲を知っていた主人は快く答えてくれた。
「これは心が洗われるような綺麗な歌でねぇ、今の時期にぴったりですよ」
「心が洗われるような……」
そう繰り返すオレに主人は頷き、目を細めて微笑した。
あの歌も今聞いたような印象があった。それにこうして偶然見付けた物が、まさに自分が探し求めていた音源であったという奇跡がほしい。オレは期待を込めてそのCDを購入し、帰路に着いた。
「おかえりなさい」
自宅に戻ると妻がほっとしたような顔をした。オレの浮気疑惑を
「勘違いだった」と言っていたが、あれはただの強がりだったのだろう。少し家を留守にしただけでこの様子だ。
――ごめん、メーガン。気苦労ばかりかけて
オレは悪い亭主だな……
心の中でそう呟き
「ただいま」
彼女に向かって微笑した。妻は抱っこした娘の尻をぽんぽんと押さえて一定のリズムを刻み、自分の体をゆりかごにして揺らす。その視線がオレの手元に移動した。
「何か買って来たの?」
「ああ、CD」
「へぇ、何の?」
「クリスマスソングだよ」
会話しながらオレは奥の部屋へと進んでいく。書斎に入り、後ろ手にドアを閉めた。上着を脱いでポールハンガーに掛け、店の袋から買ってきた物を取り出す。さっそくCDを聴いてみることにした。コンポにセットして再生ボタンを押す。一曲目は『赤鼻のトナカイ』だった。陽気なインストゥルメンタルが心を弾ませる曲調だ。オレはCDジャケットを眺めた。歌詞カードはなく、ジャケットの裏面に曲目リストが載っている。『祈り』は最後に収録されていた。
二曲目以降も明るい曲が続き、聴けば聴くほどクリスマスの雰囲気が演出されていった。頬杖を突きながら、オレはジャケットを片手にぼーっとそれを眺めやる。その間妻は入ってこようとはしなかった。オレはあえて部屋に来ないようにとは口にしなかったが、彼女は何かを読み取ったのかもしれない。
『アヴェ・マリア』が流れた。バイオリンの奏でる主旋律がおおらかに流れ、風に揺れるカーテンのようだ。友人、恋人、家族、すべてに通じる慈愛を感じさせ、温もりとロマンスとどこか涙を誘う不思議な曲だ。
やがてそれが終盤に差し掛かかった。オレは机の引きだしを開け、しまっておいた物を取り出す。
エミリーからの手紙だった。
流れていた曲が終わり、次が最終曲になる。
『祈り』が始まった。
歌声の重奏が徐々に音量を上げながら、伸びやかに室内に広がっていく。
心に振動する、優しくも哀しい波長。
オレはエミリーの手紙を広げていた。それに視線を注ぐ。
込み上げる物はあったが、涙が伝い落ちることはなかった。彼女が選んだ結論は世間には理解されないかもしれないが、彼女にとってそれは必ずしも悲劇ではなかったのだ。彼女が微笑んでいる、そんな気がした。だから涙は流れなかった。瞳を潤ませる涙には彼女を送り出す声援の意味がある。オレは瞼を閉じて心の声で話しかけた。
エミリー、この唄とともに君に捧ぐ。
君が何を思い、何を求め、何を伝えたかったか
この手紙を読んで知ることができた。
そのことを胸に受け止め、記憶としてしまっておく。
そして君が旅立ってしまった日には必ず
この唄を聴いて君のことを思い出す。
言い終えるとオレは開いた便箋を畳んで封筒にしまい、また引きだしの中にしまった。
後日オレは、エミリーの自宅に電話した。彼女から届いた手紙を遺品として家族のもとへ届けたいとその旨を話すと、エミリーの父親は快い返事をくれた。母親はエミリーが七歳の時に亡くなったらしく、父親のみの対面となった。先方と都合を合わせ、祭日の午後に会うことが決まる。
「その説は……」
互いに形式通りの挨拶を交わしてから、席に着いた。とある町のレストランだった。午後三時過ぎ。飲食店が混み合う時間帯とされる昼時を過ぎていたということもあったが、客入りはだいぶ少なく、流行っていない店のようだった。店員と客の人数が変わらない。エミリーの父親――オルセン氏はというと、悲観に暮れた様子もなく物腰が穏やかで、一月前に娘を失った親には見えなかった。
「これがその手紙です」
オレは折を見計らって、テーブルの上にエミリーから届いた手紙を置いた。オルセン氏がそれを受けとって書面に目を通す。
「……」
読み進めるうちに彼の顔に様々な色が浮かんだ。眉を潜めた渋面。顔を上げて溜息混じりに頭を振る。そして最後は、頷きながら安堵とも思える笑みを湛え。その微笑をオレに向けた。オレは戸惑いながらも目を逸らさずにそれを受け止める。
その微笑の意味が読み取れなかった。表情そのものは笑っているが、胸中では哀しんでいるのか、オレに憎しみを覚えているのか、その裏を返した笑みなのか。
それとも、いずれの感情でもないのか……
彼が一旦表情を緩め沈黙を脱した。過去を振り返るように、その眼差しが遠くに注がれる。
「……あの子は、娘のエミリーには十歳離れた兄がいましてね」
「……」
「妻の前夫との子なんですが、それはもう大の仲良しでした。歳が十も離れているということと、妻が私と再婚したのもエミリーが生まれる前でしたから、いさかいなくできたといいますか。父親の私から見ても羨むほどでした。娘はよく『大きくなったらオリヴァーのお嫁さんになるの』と言っていて……」
オレは短い相槌を打ち、オルセン氏は話を続けた。
「それだけだったらありそうなことで、微笑ましいでしょう。だが、そうではなかった」
語尾が沈み、オルセン氏の視線が手紙に落ちた。オレはテーブルの上で手を組み、冷静な面持ちで聞く体勢をとった。
「後はこの手紙に書いてある通りです」
オルセン氏はそこで一旦言葉を切り、コーヒーの入ったカップに手を伸ばした。僅かに手が震え、食器がカタカタと音をたてた。一口飲んでからテーブルにカップを下ろす。気を落ち着かせるように瞼を閉じてから彼は言った。
「あの子は……間違いを起こしてしまうかもしれなかった。父親違いとはいえ、兄を……愛してしまい」
途切れてしまう言葉が、一度に言い尽くせないほどの苦悶を表しているかのようだった。オルセン氏の表情が奇妙にひきつる。
「こんなことを言うと冷たい親だと思われるかもしれませんが……
正直、今は少しほっとしてるんです」
「……」
オレが問いたげな目をすると、オルセン氏は視線を虚空に流した。
「エミリーが自殺未遂をしてから息子は、責任を感じて私やエミリーと会わなくなっていました。連絡を取るのは携帯電話で、エミリーのいない所で隠れてこそこそと行い。そんなこともありまして、息子達夫婦はまだ式を挙げていないんです」
つまり……
彼が言おうとしていることが何を意味しているのかをそれとなく理解できたが、それを口にするのはあまりに哀しすぎるように思われた。
「アボット先生」
「はい……?」
改まって名を呼ばれ、オレは少しきょとんして返事した。オルセン氏が好感的な眼差しを向けてくる。
「お会いして驚きましたよ。先生が“私の息子”に似ていたので」
「そんなに似てるんですか?」
オレは困惑気味に目を丸くした。その勢いで僅かにずれた眼鏡に触れる。
頷いてからオルセン氏が言った。
「歳も近いですし……この手紙にも書いてありましたが、エミリーがそういう気持ちになってしまったのも分かる気がします」
「そうですか」
生活をともにしていた家族が言うのだから確かだろう。オレはそう自分を納得させた。
「しかし先生はご結婚されている。――実らぬ恋でした。何か間違いを起こして先生の家庭に罅が入りでもしたら、それこそ悲惨な結果が生まれたでしょう。深入りしなくて良かった。……これで良かったんです」
彼は娘に対する情が薄いのだろうか?――そんな気がしたが
「これであの子も救われたはずです」
独り言のように呟いたその言葉に、温かみが感じられた。
親の幸せとは、必ずしも子が生きていてくれることではないのかもしれない。彼は娘を解放してあげたかったのだろう。報われぬ恋にばかり陥ってしまう娘を、その残酷な運命から解き放ってあげたかった。そう願うことも愛情なのかもしれない。
そんな気がする出来事だった……
――to be contined――