#9.A notice
空が漆黒の幕を降ろし、歩道に点在する街頭が灯る。多くの建物の窓からは照明が零れていた。会社のビルの窓に光る点々とした明かりはしだいに数を減らしていく。仕事帰りの労働者が帰路に着く時間帯だった。道路が混雑するピークのちょうど間隙をうまく潜り抜け、オレはこの前来たカフェに来ていた。
向かいの席にはジョゼが座っている。ほとんど一日中のように彼に会うことを待ちわびていた。ずっと顔が見たくて、声が聞きたかった。だが、その舞い上がるような浮かれた気持ちも、今は沈んでしまっていた。
「初めてだね、ダリルがオレに相談持ちかけてくるなんて」
ジョゼはカップを口に運んだ。相談を受けたことがうれしそうだった。服装に合わせてか、その日はテンプルの太いハードな印象の眼鏡をかけていた。その奥にある瞳は“オレに任せろ”と兄が弟に包容力を示すような意気を放っていた。岩のような逞しさとはいかなかったが、その胸に今はすがりたい気持ちだった。
オレは注文したコーヒーには口を付けず、話を切り出した。
「オレの患者のことなんだが……」
話したのは、あのリストカットの患者のことだった。名前はエミリー。彼女は心に傷があり、情緒不安定なようだ。心のケアが必要なのかもしれない。もうオレの手には負えない。どうしたらいいと思う?
オレは胸の内のわだかまりを打ち明けた。
「原因が分からないと何とも言えないけど、カウンセリングを受けた方がよさそうだね」
ジョゼの答えにオレは、もっともだと言うように頷く。しかし次の彼の問いかけに言葉を失った。
「聞いてないの? “原因”」
「……」
ドキリとして顔が凍結する。言いたくなかった。
オレに好意を抱き、それが自殺行為に繋がったなど。
だが、言ったところでどうもしないだろう。ジョゼは、ただ彼なりの対策を述べるだけだ。
彼はオレのことを“そういう”対象として見ていないのだから。
エミリーが退院してから、オレ個人を苛む問題はなくなっていた。あの日ジョゼに全部のことを打ち明け、一つの対策を講じたのだ。
「そういうことか……」
事情を聞いたジョゼは最初気の毒そうに険しい表情をしたが、一人頷くとすぐに提案した。
「それなら、うちの病院で催眠術を取り入れた医療を行ってるから、そこに紹介状を書くのはどうかな」
ジョゼが籍を置く病院は都会にあり、最新技術などを逸早く取り入れているという。そこではエミリーのように、情緒が不安定な人の治療として催眠術を取り入れているらしかった。それで改善された事例もいくつかあるらしい。
試してみるしかないな。そう思い、さっそく紹介状を書いた。外来で来たエミリー本人も断ることなく、そのことを承諾したのだった。
それ以降オレを悩ませ、頭の中を曇らせていた靄は晴れ、エミリーのことは半ば解決したとして思考の隅に置き去りにされた。オレの中で平和が戻ると、ある日オレはまたジョゼと、仕事の後に会う約束をした。
その日は十二月に入ってから久しぶりに暖かさが戻り、気持ちのよい日だった。あの耳を聾する不吉な救急車のサイレンの音を何度か耳にしたが、“彼女”を運んで来た音ではなかった。それよりも頭の中は彼のことで占拠されかけていた。仕事が終われば彼一色だ。
ジョゼ、ジョゼ、ジョゼ――――!
結局その日は、厄介なことは起こらず平穏無事に過ぎていった。順調に仕事が片付くと、オレの気持ちは約束の場所へと急いでいた。逸る気持ちが動作を早め、あっという間に着替え終える。鞄を片手に廊下に出た。そこから玄関前の広場までやって来る。
「あ、アボット先生!」
ふいに携帯電話の着信音が鳴ったのとほぼ同時に声をかけられた。受付の女性だった。何だろうと近付くと、彼女は意味ありげに深刻な表情をしていた。
「先生の患者さんからお電話で、どうしても直接お話したいそうです」
「……」
オレが無言で首を傾げると
「若い女性の方です」
と受付の女性は付け足した。
受話器を受け取り電話に応対すると、雑音混じりの音の向こうから声がした。
「もうすぐ会いに行くね。“患者”として」
それは紛れもない“エミリー”の声だった。
――to be contined――