最強系チート持ち勇者 VS B級ホラー系最強怪人
「あのヤロウ! いくらファイアーボールを撃ち込んでもビクともしねえ!」
オレは叫んだ。
暗い三日月の夜、名前もわからない深い森を必死で走りながら。
「ケイン、効かなくても魔法は使ってちょうだい! 足元が見えないわ!」
「おう、わかってる!」
並んで必死に走るルーシーに応じて、オレはもう一度ファイアーボールを後ろに放った。
魔力で生んだ炎は、何かに燃え移っても数秒で全て消えてしまう。だが荷物を無くしたオレたちにとって、この光源は確かに大事な生命線だ。
「チクショウ……無敵の力を手に入れたはずなのに、なんでこんなコトになっちまったんだ……!」
オレの憤りにルーシーの返事はない。綺麗なブロンドの長い髪が汗で肌に張り付いていて、息遣いも荒い。もう体力の限界が近いようだ。
「…………」
オレたちと一緒にヤツから逃げている他の六人も、それは変わらない。
誰一人として会話をする余裕などないらしく、無言で走り続けるだけだった。
****** ****** ****** ****** ******
――事の発端は三日前。
とある噂を耳にして、この辺境の町スカイエデン・シティに訪れたのが始まりだった。
噂の内容は、スカイエデンにある洞窟の中に最強の力が眠っているという、とてもシンプルなものだ。
よくある話にすぎず、ほとんどの者は鼻で笑って相手にしないような噂だが、魔王を倒すためにルーシーと旅をしているオレは、とにかく力が欲しかった。
弱いルーシーを守って、一刻も早く旅を終わらせるために。
――そして、噂は真実だった。
魔物すらいないような深くてだだっ広い森。その奥深くにあった洞窟の中に、最強の力は眠っていたのだ。
洞窟には数々の試練と、オレのほかに噂を聞いてやってきたライバルが十五人ほどもいたが、無我夢中で挑んでなんとか力を勝ち取れた。
得た力は三つ。
最強の魔力と、不死身の体と、千里眼だ。
そりゃもう、有頂天になったさ。
魔法は未熟でまだファイアーボールしか使えないが、不死身な上に敵の居場所が容易にわかる千里眼が手に入ったんだからな。
魔王を倒す日も近い。ひょっとしたらオレたちの十八歳の誕生日前には、国に帰る事ができるんじゃないか、そう舞い上がったさ。
――手に入れた直後は。
「ケイン!」
無我夢中で走っていたオレの耳に、ルーシーの悲鳴が飛び込んだ。気付いた時には激痛と衝撃が体を突き抜け、オレの首は胴体と泣き別れになっていた。
血飛沫と共に、視界がクルクルと回っていく。かなりの勢いで首が飛んだはずなのに、景色が動いていく様はひどくゆっくりなものに感じた。
お、胸にもウォーハンマーで大穴をあけられてらあ……
――力の封印を解いた途端のことだ。脇の土壁を壊して、ヤツは突然現われた。
いや、心臓が口から飛び出そうになるってああいう事を言うんだな。ルーシーはもちろん、他の連中やオレだって叫びまくるくらいに驚いた。
なにせ正体がわからない。魔力をまるで感じないから魔物ではないが、ただの生き物とはとても思えない。
ヤツの見た目は人型で、一番近い表現をするなら上半身が裸な筋肉隆々の大男だ。
そこまではいい。問題は頭部だ。
本来なら顔があるはずの場所は、黒い鉄球のようなものが乗っている。人の頭部の二倍ほどの大きさだ。
目も鼻も無ければ口も耳も無く、しかしツルツルとしたその塊と向き合うと、確かに視線が合ったような奇妙な感覚を受ける。
まず犠牲になったのは、崩れた壁穴の近くにいた男だ。挨拶代わりの一撃とばかりに繰り出された拳に、あっけなく頭を砕かれた。
次に狙われたのは、それを見て竦みあがった男女だ。冗談みたいな勢いで振られたヤツのウォーハンマーは、二人の胴をまとめて叩きちぎった。
そして一番実力に自信のあった中年の男が剣を片手に挑んだが、勝負にすらならなくいとも簡単に首をひねり折られてしまう。
そこが、オレたちの限界だった。
それまでライバルだったオレたち試練の挑戦者連中は、肩を並べて仲良く全力で逃げ出した。
が、追ってくる。どこまでもどこまでも。途中でばらけた五人には目もくれず、固まって逃げたオレたち八人を執拗に追ってくる。
森をを逃げ回ってすでに三十分は経っていた。
ヤツは走らずに歩いていて動きが遅いはずなのに、撒けない。
最強になった魔力を惜しみなく使ったファイアーボールでも、倒せない。
洞窟を見つけるまでに半日以上も森をさ迷った。町まではまだかなりの距離がある。
不死身になったオレは多分どうにでもなるが、ルーシーだけはなんとしても無事に逃がさないと――
オレは首無しになった体を動かし、ウォーハンマーを片手で構えたヤツを蹴飛ばす。そしてファイアーボールを叩き込んでから、思い切り走り出した。
落下してきた頭部をナイスキャッチで腕に抱え、急いで首の根元に押し付ける。
グチャグチャという、あまりルーシーには聞かせたくない音に気持ち悪くなりながら、喉が使えるまで回復したことに気付いた。
「うわっ、何これ!? 俺の体これ不死身って恐すぎねえっ!? 頭も半分えぐれてるし、めちゃくちゃ痛え!」
「ゆ、ケインは……ケインだから……ウン! わたしは気にしないわよ!」
そう言ってくれるルーシーにどれだけの葛藤があったのか。その顔を見れば一目瞭然だ。
オレがルーシーの優しさに感動していると、前を走っていた男の一人が立ち止まり、剣を抜いた。
「クソが! こんなバケモノなんかに俺はやられねえぞ!」
「馬鹿、戦ってどうにかなる相手じゃないぞ! 逃げるんだよ!!」
オレは男の肩を掴んで怒鳴りつけた。
ヤツはオレが蹴った拍子に転んで、ゆっくりと起き上がろうとしているところだ。距離を稼ぐなら今しかない。
が、男はオレの手を乱暴に振りほどき、ヤツに向かって走り出した。
「テメエの腰に刺してる二本の剣は飾りかよ!? 逃げられねえ事はもう分かっただろうが……俺たちゃこいつを倒さないと助からねえのさ!」
「――ッ! オレはまだ逃げ切ることを諦めてない……先に行くぞ」
「へ、せいぜい時間を稼いでやらあ!」
その声を最後にオレは振り返り、待ってくれていたルーシーの手を引っ張って走り出した。
他の五人の姿はもう見えない。かなり離れた場所で魔力の炎が灯り、そこを目標に定める。
「ケイン、あの人は……」
「…………行こう、逃げるんだ」
あれだけ間合いを詰めてしまったら、もうどうしようもない。
走りながら、千里眼で男を見る。ヤツの胸に剣を突き刺したが、怯む様子すらなかった。
剣を手放し、ヤツの腹に何発ものパンチを繰り出すが効いている様子はない。
とてもノロい動きでヤツは立ち上がり、右の拳を握りしめる。次の瞬間には、男の首は捻れ飛んで近くの木に激突していた。
「……クソっ!」
オレはルーシーには聞こえないように小さく舌打ちして、ファイアーボールを後方に放ちながらひた走った。
****** ****** ****** ****** ******
「……館か」
「どうする? あ、ケイン。もう下ろして大丈夫よ、ありがとう」
どのくらい走っただろうか。途中でルーシーは力尽きて、オレはルーシーを両手で抱えていた。
ゆっくりとルーシーを足から下ろす。いくらかは体力も回復したようだ。
「千里眼で見る限り、ヤツとはまだかなり距離がある。ひょっとしたらやり過ごせるかもしれない、入ろう」
「うん」
慎重に扉を開けて中に入る。
外からでは分からなかったが、驚いたことに暗闇ではなかった。薄暗いが、橙色の弱い魔力光が灯っている。
そこそこ広い館とはいえ、見るからに廃屋だったんだが……まさか人が住んでいるのか?
オレとルーシーは慎重に足音を殺して、廊下を進んだ。
一番奥の部屋の扉をゆっくりと開けると、オレの顔のすぐ横にある柱に、投げ斧が突き刺さった。
後ろから「ヒッ!」とルーシーの短い悲鳴。オレも目を剥いて声が出そうになったが、なんとか堪えて手斧が飛んできた方向を睨みつけた。
「何するんだよ」
「……お前らか」
オレたちを乱暴な歓迎で迎えたのは、口の周りいっぱいに髭を生やした男だった。さっきまで一緒に逃げていた男の一人で、おそらく年齢が一番上のオッサンだ。
オッサンは無愛想にオレたちに近付いてきて、何も言わずに手斧を引き抜いて奧の椅子へと戻っていった。
「おい」
「……感謝するんだな。途中でお前らだと気付いて、斧の軌道を逸らしたんだぜ? バケモノに襲われてるんだからな、部屋に入ってくる奴を攻撃するのは当然だろう?」
「…………まあな」
釈然としないが、ケンカしている場合でもない。オレはおとなしくルーシーを連れて近くのソファーに座った。
「ばらけた五人以外の全員がいるとは思わなかったな。アンタらも隠れてやり過ごすつもりなのか?」
「ああ。俺たちがこんな逃げ場のないところで寛いでるとは、あのバケモノも思わんだろう」
オッサンと、カップルの男女と、怯えた様子の緑髪の男に、ガラの悪そうな赤髪の男。それに、オレとルーシー。
一緒に逃げていた全員が集まったが、その誰もが暗い表情をしている。
陰鬱な空気に耐えきれないという風に、緑髪の男が立ち上がった。
「あ、アレはいったいなんなんですか……!?」
「そ、そうよ! アタシ、あんなの見たことないわよ。ねえフレッド!?」
「ああ、ジョディ。人型であの強さと不死身の特性……吸血鬼がくらいしか思い浮かばないけど、あいつらは頭に鉄球を乗せるなんて悪ふざけはしないからね」
「俺らにそんなのわかるかよ。わかってたらこんな逃げてないっつーの」
カップルが緑髪の男に追従し、赤髪が面倒くさそうに答えた。
「――悪魔じゃよ。私の可愛い可愛い息子のな」
しわがれた声は、集まったオレたちの誰のものでもなかった。一斉に声のした方へ振り向く。
ローブを深々と被った老婆が、目を異常にぎらつかせてオレたちを見ていた。
「誰だテメエ!」
「ほうほう、元気の良いことじゃなあ。よいぞよいぞ……」
老婆は怒鳴る赤髪をじろりと睨みつけ、ずかずかと近付いてくる。
ルーシーがオレの腕を掴む力が強くなる。オレも老婆から隠すようにルーシーの前に立つ。
老婆は赤髪に鼻先を近付けると、いくつもの皺が入った顔を醜悪に歪めた。
「お前たちが息子を目覚めさしてくれたんじゃろう? 感謝しておるよ」
「…………」
「あの子はねえ、生まれつき体が弱かったんだよ。私はそれが悲しくって悲しくてねえ。祈祷、生贄、禁術。悪魔の召喚。昔、魔法を学んだ知識を元に色んな事をやった」
「…………」
「生贄の時点で体は健康になっていたんじゃが、私は満足できなくてねえ。とりわけ悪魔の召喚。そして融合は、息子の肉体を強靱なものに変えてくれたのじゃ」
「――――」
「ところが無理をしすぎたのか、息子は眠ったまま目が覚めなくなってしまった」
老婆は赤髪から離れて、オッサンを見て、緑髪を見て、そして最後にオレを見てにんまりと口の端を吊り上げた。
「今から五十年前の話じゃ。お前さんが息子を目覚めさせてくれて、私は感謝してもしきれんよぉ」
「……こいつ、とんでもねえ」
オッサンが手斧を持って立ち上がった。
「このババアを縛り上げるぞ! あのバケモノの切り札になるかもしれねえ!!」
オレもその意見に反対はない。もしかしたら、ヤツを鎮めてくれるかもしれないと期待した。
「な、何をするんじゃ。止めろ、やめろ、ヤメロぉおお!」
オレと赤髪のとオッサンの三人がかりで、老婆を部屋にあった縄で縛る。いくらおかしな人物でも、しょせん非力な老婆だ。どれだけ足掻こうとも、大した抵抗にはならない。
あっさりと縛られた老婆を、オレは椅子に座らせた。
「あまり手荒な真似はしたくない。もしオレたちがヤツに見つかったときは、あんたがオレたちを逃がしてくれるように頼んでくれ」
「はあ? 何を甘いこと言ってんだよお前は。あいつの弱点を聞き出して殺すに決まってんだろ」
「いや、倒す方法があるようには見えなかった。オレはどうにかして逃げるべきだと思う」
赤髪がオレを睨む。気の強いのはいいが、向かっていってもすぐに殺されるのがオチだぞ。
最強の魔力になったオレのファイアーボールでもダメなんだ。ヤツは戦ってどうこうできる相手じゃない。
「ヒヒ、そうじゃ、無駄じゃよ。お前たちは目覚めの贄じゃ。あの子の好きな匂いが、魂にまで染みついておるわ。みんなあの子に、ノーマンに殺されるのじゃ!」
「…………」
それから老婆は、さっきの抵抗が無かったかのようにただ笑うだけとなり、オレたちの言葉には一切反応しなくなった。
****** ****** ****** ****** ******
「さて、どうする? 倒すか、逃げるか。この状況だ。俺たちがバラバラになるわけにはいかないぞ」
オッサンがオレたちを見回して言った。
何が正しいのかは、誰にもわからない。意見はあっても、このメンバーの行動を決断する言葉は誰もが口にできずにいた、
重い沈黙が広間に生まれ、
「あのう、思ったんだけど……」
それを破ったのは、意外にもルーシーだった。
「あの怪物……ノーマンだっけ。わたしたちに気付いてるなら、とっくに襲って来てもよさそうな時間が経ってるんじゃない……?」
「――――!!」
オレたちは思わず顔を見回せた。
もしかして、ヤツは館を無視して先に進んだんじゃあ――そんな期待が生まれて、オレはようやく千里眼の事を思い出した。
「すまないみんな。気が動転してて言い忘れていたことがある」
オレは手を上げてみんなの注目を集めた。
千里眼で見てみると、ヤツはまだ森をさまよっている。暗い森の中なので具体的にどこにいるかはわからないが、少なくとも近くに館はない。
「洞窟でオレが手に入れた力には、千里眼というものがある。つまり周囲の状況が全て見えるんだ――もちろん、ヤツの姿だって見える」
「――な! テメエ早く言えよコラァ!」
赤髪がオレに掴みかかってくる。ルーシーが何か言おうとするのを感じ、オレはそれを手で制した。
「すまない。色んな事があって混乱していたんだ。だが安心してくれ、ヤツがいる場所は確認できた」
「ど、どこにいるんです!?」
怯えた緑髪が目を輝かせる。
オレは赤髪の手を払いのけ、みんなに見えるように笑った。
「まだ森にはいるが、館の近くじゃないことは確かだ。オレたちを見失っているのは間違いない。ヤツの動き次第だが、とりあえずはこのまま遠くに行ってくれるまでここに隠れて、夜明けと同時に反対側へ逃げよう」
オレの言葉に、全員が安堵しように息を吐いた。
弛緩した空気が広間に流れていく。良かった、いつまでも緊張しぱっなしじゃあ、気が滅入ってしまう。
「ああ、よかったー、お兄さんありがとう。あの怪物は見当違いの方向に向かってるのね。安心したわ。ねえフレッド」
「そうだね、ジョディ。これでゆっくりできるね」
カップルが頷き合い、オレを見てバカみたいな軽薄な笑いを浮かべた。
「最初にこの建物を見回ったときに、いい感じの寝室を見つけたの。シャワーも使えるみたいだし……アタシたちはそこにいるから、危なくなったら教えてねお兄さん」
……は? 今この女、寝室って言ったよな?
寝室ってつまり――――おう。
「あ、あんたら状況がわかってるのか? ヤツはオレたちを見失ってるとはいえ、まだ森を探し回ってるんだぜ?」
「別にいいじゃない、さっきからこういうチャンスが来るのずっと待ってたんだから。それに、その方がドキドキしてずっと楽しいと思わない?」
カップルの片割れ、黒髪の女が興奮したように頬を染めながら唇を舐めた。
信じられない言い分にオレが言葉を失っていると、女は男の腕に抱きついてさっさと広間の出口まで向かい、
「ちゃんとあの怪物が近付いてきたら教えてちょうだいね。千里眼だっけ? お礼にそれでじっくり見ててもいいわ」
と、嫌な笑みを作って出ていった。
「イカれてるぜあいつら」
オッサンがわざとらしいリアクションで大きく肩をすくめた。
****** ****** ****** ****** ******
一時間ほどの時間が何事もなく穏やかに過ぎた。
誰からともなくぽつりぽつりと雑談をはじめ、色んな話を聞いた。
ガラの悪そうな赤髪が実は妻帯者で子どもまでいること、臆病な緑髪は洞窟の力お手に入れて冒険者になりたかったこと。
オッサンはあまり自分の事を話さなかったけど、みんなの話に愛想良く笑い、少なくとも悪い人ではなさそうだと思った。
幸い、食料庫にはまだ食べられそうなものが入っていて、腹ごしらえもバッチリだ。
このまま何事もなく朝になってほしい。心からそう思う。
……だがその思いとは裏腹に、ヤツは必ずまたオレたちを襲ってくるような、嫌な焦燥感は消えなかった。
これだけ一緒にいるのに誰も名前を聞き合おうとしないのは、みんなもそうした予感があるのか、変に情が生まれるのを避けているのか……
「ケイン、どうしたの? 考え事?」
「ん? いや……」
オレだけがヤツの居場所を把握している。途中で気付いた事があった。
ヤツは今、ばらけた他の五人を殺し回っているんだ。
もしかして、ヤツはオレたちを見失ったんじゃなくて、オレたちを最後の獲物として残しているんだとしたら……
いや、そんなことルーシーに言っても心配させるだけだ。
大丈夫。もしヤツが襲ってきても、不死身になったオレが絶対に守ってみせる。
「……あのカップル、やっぱりもう少し用心するよう言っておいた方が良いんじゃないかと思ってな」
千里眼で見ると、ヤツは四人目の男の頭を素手で貫いて殺したところだ。ビクッ、ビクッ、と小刻みに痙攣する男の体を乱雑に放り投げて、再び緩慢な動きで歩き出す。
……これから五人目を殺しに向かうと考えて、念のためすぐに動けるような態勢を作っておいたほうがいいだろう。
「……ケイン、もしかして千里眼を使うつもり?」
「ああ、あいつらがこの館のどこにいるかわからないからな。無駄に探し回るのは避けたい」
「…………やましい気持ちも少し?」
ルーシーが長いブロンドの髪をクルクルと指に絡めながら、顔を赤らめて言った。
オレは慌てて、
「ないない、ないって! そんな覗きたいとか、そんなのあるわけないだろ!? 安全確保のためだよ!! ほら、なるべくオレたちは固まっていたほうが良いだろ!?」
一通り弁解の言葉を並び立てると、ルーシーはクスクスと笑い出した。
「冗談だよじょーだん。そんな頑張って答えなくても大丈夫よ」
「兄ちゃん、必死になりすぎると余計に怪しく見えるぜ」
雰囲気につられたのか、オッサンたちまで笑い出しやがる。
「でもわたしは嬉しかったわよ。ありがとうねケイン」
「――っ! ……場所を確認するから、ちょっと待ってくれ」
屈託なく微笑むルーシーに見蕩れそうになって、オレは思わず背を向けた。
くそ、真面目に考えていたのに、変にからかってくるものだから妙に意識してしまう。
……そういやあの黒髪の人も、ルーシーに負けないくらい胸はデカかったなあ……
「どうしたのケイン? 顔が赤いような……?」
「何もないって!」
覗きむように顔を近づけてきたルーシーの肩に手を置いて距離を取りつつ、オレはささっと千里眼を発動させて――
「なんだこれ!?」
「どうした兄ちゃん!」
寝室の仄かな明かりが照らすのは、壁どころか天井にまで飛び散った赤黒い血液。
四肢と頭部をもがれ、残った胴体にも抉ったような傷跡がおびただしく付けられた裸の女の体。
息も絶え絶えな瀕死の男がベッドに押さえつけられている。黒髪の女の頭部が、男の頭を叩き潰した。
だがそれだけでは終わらない。ヤツは淡々と、執念深く、カップル二人の死体を細かく引きちぎりだす。
寝室は、さながら地獄のような光景だった。
「ありえない! ヤツがいる、あの二人がいた寝室にヤツが来ている!」
「テメエ、見張ってたんじゃねぇのかよ!?」
赤髪がオレを怒鳴りつけてくる。オレは苛立ちをぶつけるように「もちろんだ!」と床を踏みつけた。
ヤツがついさっきまで森にいたことは間違いない。オレは千里眼でヤツの位置を確実に捉えていた。
目を離したのはルーシーたちにからかわれた、ほんのわずかな時間だ。そんな一瞬で館の中に入る方法なんてあるわけがない。
「……いや、そんなこと考えてる場合じゃない、早く逃げないと! あの二人はもう殺されてしまったが、ヤツはまだ死体を痛めつけるのに必死だ。今なら逃げられる!」
オレが叫ぶと、オッサンも窓を指して叫んだ。
「あそこから出るぞ!」
その言葉に、オレたちは弾かれように窓に向かって走り出す。ふと赤髪が老婆を背負っていることに気付いた。
「ババア、テメエを囮にしてやるから覚悟しとけよ」
「お前、それ……」
思わず口から出たオレの言葉に、赤髪は眉をひそめた。
「なんだよ、まだ手荒な真似はするなとか甘いこと言ってんのかよ?」
「いや、そうじゃなくて。そのばあさん、何か言ってないか?」
ブツブツと何かが老婆から聞こえてくる。オレと赤紙は足を止めた。やはり何かを呟いている。
咎めてくるオッサンに手を向けて、耳を澄ませてみると、ハッキリと言葉が聞き取れた。
「おいでえ、私の可愛い可愛いノーマンや……早くおいでえ」
「――――」
ゆっくりと唇を歪ませて同じ言葉を繰り返す姿に、とても不気味なものを感じて寒気を覚えた。
「……なあ、このババアがあの化物を呼び寄せる、なんてことはないよな?」
「…………」
赤髪の疑問に答えられる奴は、ここにはいない。
普通に考えればありえない事だが、こいつらに普通の考えてなんて通じるとは思えなかった。
「……わからん、わからんがそいつはもう置いていった方がいいだろう。早く行くぞ――」
オッサンがそこで言葉を止めて、廊下に通じるドアがある方角を見つめて固まった。
強烈に嫌な予感を覚えながら、オレたちはオッサンの視線を追うために振り返り、
「――――」
ヤツが、そこに立っていた。
「逃げろぉおおっ!!」
赤髪が叫び声と共に、老婆をヤツに向かって投げつける。オレたちは必死に振り返って走り出した。
まずはオッサンが窓を突き破って庭に出る。次いでルーシーが窓枠をまたぎ、緑髪がそれに続いた。
そして赤髪が飛び込むように窓を抜けたのを見て、オレはファイアーボールを唱えながらヤツへと振り向く。
――親子じゃなかったのか。
そんな疑問が一瞬生まれて、一瞬で掻き消えた。そんなまともな情がヤツにあるわけがない。
ヤツは投げられて自分に向かってきた老婆を助けようとはせず……それどころか邪魔そうにウォーハンマーで叩き落していた。
目も口もない黒い塊がオレに視線を合わせた気がして、背中に嫌な汗が流れる。
オレは唱え終わったファイアーボールをすぐに放って、窓を飛び出た。
****** ****** ****** ****** ******
「……はぁ、はぁ、撒けたか……?」
「あ、ああ……多分な」
肩で大きく息をするオッサンに、赤髪も息を切らしながら答える。
オレたちは闇雲に走って、気づけば湖のほとりにいた。相当に広い湖だ。
魚でも獲れるのだろうか。周りはそれなりに整えられており、ご丁寧に小型の木舟が二隻と、火の灯っているたいまつまである。
「ハ、ハッ、ハァ……少し休みましょう、体がもう動きません……」
緑髪が近くにあった大きな岩にもたれこむ。
炎に紅く照らされていても、顔色が非常に悪いことがわかる。確かにこれ以上は走れそうにないようだ。
ルーシーも緑髪ほどでないが、かなり苦しそうで息が荒い。
元気なのはオレ一人だけだ。不死身になったことで呼吸も必要なくなったのか、いくら走ろうが疲れないし息も切れない。
「よし休もう。だけどみんな、油断だけはしないでくれ。オレも警戒するが、ヤツは突然現われたりするからな」
オレの言葉に、みんなが地面に座り込んで息を整えはじめる。
……状況はかなり悪い。もうさっきみたいな館はないだろうし、あったとしてもやり過ごせるとは思えない。
やはり町まで逃げるしかないが、みんなのこの状態ではとても……
オレがどうやって逃げるかを必死に考えていると、オッサンが悔しそうに地面を叩いた。
「俺はもう逃げんぞ。ここであのバケモノをなんとしてでも倒す」
「……ヤツを殺すなんて不可能だ。千里眼で見てたが、胸に剣が突き刺さってもピンピンしてるんだぜ……?」
「ふん、攻撃が効かんのは単純に力不足なだけだ。俺の能力ならもしかしたら通じるかもしれん」
「だが――」
「乗ったぜオッサン」
説得しようとするオレの言葉を遮り、赤髪がオッサンの肩を叩いた。
「俺はあのヤロウの動きを止める。その間に殺ってくれ」
「ああ、頼んだぞ」
ガシりと手を組む二人。
……あの怪物に挑む。千里眼でヤツの異常な強さを見てきたオレには、とても考えられないことだった。
オッサンがオレを見て、自信満々という具合に歯を見せて笑う。
「お前さんも戦えなんて無茶は言わん。俺たちに任せておけ。兄ちゃんは彼女と、ついでにそこの虚弱なガキを守ってやってくれ。なあに、朝には俺たち五人とも、町のベッドで気持ちよく眠ってるさ」
岩が砕ける音が聞こえたのはその時だった。
反射的にオレたちが振り向くと、顔に何か生暖かいものが飛んできた――血だ。
狙われたのは緑髪だ。頭のてっぺんからウォーハンマーを振り下ろされ、縦に割れた体の断面がグチャグチャに潰れている事がわかった。
「残念だったなオッサン……四人だ!」
赤髪が吼える。どこに隠し持っていたのか、荒縄をヤツに投げつけて器用に両足に絡ませ、
「オラよっ!」
掛け声一つで力いっぱいに縄を引っ張ると、ヤツはバランスを崩して地面に転がった。
「今だオッサン!」
「俺はまだ二十歳だあああ!」
ウソ丸出しの掛け声を上げながら、オッサンが手斧に魔力を込めていく。
すると手斧はみるみると巨大化していき、ついにはそこらにある木の倍ほどの大きさまで増した。
「ぬりゃあっ!!」
巨人の持つ武器よりはるかに巨大なそれが、猛烈な勢いでヤツに墜ちていく。
これなら、オッサンの言うとおりヤツを倒せるかもしれない。そう思えるだけの迫力があった。
そして斧はヤツの体のど真ん中に命中し、さながら隕石の衝突のように地面を砕いてクレーターを生んだ。
抉られた地面の一部は湖にまで達し、大量の水が大穴へと吸い込まれていく。
「や、殺ったか……?」
赤髪が呟く。次の瞬間、たるんでいた縄が一気に緊張し、赤髪が湖への中へと引きずり込まれた。
「――――な」
声をかける間すらなく、オレたちは呆然と湖の底を見つめるしかできなかった。
徐々に落ち着きを取り戻しはじめる水の流れに、赤いものが混じっていく。しんと、嫌な静寂がオレたちを包んだ。
誰もが言葉を発せない時間がしばらく続き、やがて水面にボコボコと空気の塊が現われて――
「――――」
ヤツが、先ほどと何も変わらない姿でオレたちの前に立った。
「チクショウ……そんなバカな」
「オッサン、大丈夫か!?」
オッサンは地面に片膝と片手を付き、声にも力がない。斧のサイズも普通の手斧のそれに戻っている。
さっきの一撃で、全ての力を出し切ってしまったんだ。
「――くっ、ファイアーボール!!」
叩きつけるように放ったオレの火球が、ヤツの胸で炸裂して紅蓮の爆炎を撒き散らす。
効かないことはわかっている。だから火力よりも持続時間の長さを優先した炎だ。目くらまし程度になってくれればそれでいい。
この隙に体当たりして、怯んだ隙に走ればまた逃げられる。
そうさ、こいつはなぜか急に近くに現われるけど、動き自体はたいして速くないんだ。
なんだったら、死なないオレが一回殺されて、その間にルーシーが逃げる時間を作ってもいい。
それで町まで行けば、きっとなんとかなる。
「……ケイン」
今まさにヤツに向かって突進を仕掛けようとしたとき、ルーシーがオレの腕を掴んだ。
「やめて、ケイン……捨て身で足止めしようなんて考えてるんでしょ?」
「……ああ。オレがヤツを怯ませるからその隙に逃げてくれ。体力はキツイだろうが、もうそれしか方法はない」
「そんなの嫌よ……!」
ルーシーがオレの腕を強く引っ張る。
心底疲れ切っているはずなのに、普段よりもずっと力がこもっていて、オレはルーシーの気落ちの大きさを知った。
「だって不死身の体になったっていっても、まだどんな力が全然わからないのよ? 何回も死んだら目が覚めなくなるかもしれない、体が潰れたら元には戻らないかもしれない。ハッキリ言って無謀だわ」
「…………」
「それにいくら不死身だからって、わたしはケインが死ぬところなんて見たくないわ!」
……ルーシーが叫んだ。今日は何回も何回も悲鳴を上げていたが、そのどれよりも大きな声で叫んだ。
そして、ハァ、ハァと息をつくルーシーを見て、オレはある事に気付いた。
「……やっぱりオレは、ルーシーが好きだ」
「ケイン……?」
オレは決心した。吹っ切れたと言ってもいい。
「オッサン、名前は?」
「……ジョセフだ」
「オレはケインだ。ジョセフ、歩けるくらいには回復したか?」
「ああ……」
ゆっくりとだが立ち上がるジョセフを見て、オレは頷いた。
「ルーシーはジョゼフを連れて町に行ってくれ」
「え?」
「ジョセフ、ヤツを倒すのにどれくらいの時間が必要かわからない。体力が回復したらオレが戻るまでルーシーを守ってくれ。できれば、故郷の国に連れて行ってくれると助かる」
「……わかった」
「待ってよケイン! 勝手に決めないでよ!」
ルーシーが俺の前に立って、両手を広げた。
その後ろでは、燃え立つ炎の中にヤツの影が見える。
「ルーシー。安心してくれ、ヤツを倒す方法を思いついたんだ」
「倒す方法?」
「ああ、湖に沈めてやるんだ」
「湖に……」
ルーシーの碧い瞳に、迷いの色が映る。
オレは努めて明るく笑って親指を立てた。
「大丈夫。詳しく説明している時間はないが、捨て身で道連れなんて真似もしない。オレは生き残って、ヤツは死ぬ。そんなナイスな作戦だ」
「…………」
「……オレはルーシーに嘘なんてつかない。信じてくれ」
「…………」
「必ず、帰るから――」
動かしていた口は、最後まで言葉を紡げず。不意に迫ったルーシーの唇を、自分でも驚くほど自然に受け入れていた。
熱く柔らかい感触。初めてのキス。
本当に短い、この一瞬の時間を、オレは一生忘れないだろうと思った。
「……待ってるから。絶対に待ってるからね!」
「……ああ、元気出た! 行ってくる! ジョセフ、ルーシーを頼んだぜ!」
二人にそう言い残して、オレはヤツに向かって走り出した。
****** ****** ****** ****** ******
「よお。ここからは、バケモノ同士の戦いだ」
「――――」
炎の海から出てきたヤツに向かって、再びファイアボールを放つ。最大火力だ。
少しでも怯んでくれれば――そう願って、オレはファイアーボールを追うようにヤツへと突進を仕掛けた。
着弾し、ヤツを中心に炎の柱が吹き上がる。
オレは燃える気配のないヤツの胴体を掴んで、思い切り押した。
ヤツは一歩、二歩、三歩とたたらを踏むよう後退するが、あるところで足に根が生えたように動かなくなってしまう。
「くっ、動けよ――ガッ!」
ヤツの拳がオレの腹に文字通り突き刺さる。全身に激痛が走り、口から多量の血が零れだす。
次いでヤツはオレの頭を両手で掴んで、邪魔だと言わんばかりに放り投げた。
ふわっと浮遊感を覚えたすぐ後に、衝撃が襲う。全身に痛みがあり、掴まれた頭は軽く潰れたが、問題なく起き上がる。
腹に空いた穴も、いつの間にか塞がっていた。
よし、まだまだ余裕で戦える。
この不死身の体は痛覚こそあるが、体の機能に支障が出ないようになっているようだ。
「……チッ、やはり単純な力比べだと敵わないか」
オレは口に残った血を吐き出して、ヤツを睨む。
見た目は確かに筋肉質な体をしているが、その力は明らかにそんな言葉では説明がつかないほど、常軌を逸している。
だが、力でなんて勝つ必要はない。ヤツはオレを殺そうと追ってくるのだから。
オレの考えが正しければ、負けることは――
「――ッ! オイ、どこに行くんだよ!?」
突然、ヤツはなぜかオレに背を向けて、まったく関係のない方向へと歩きだした。
なんだ、なぜオレを狙わない。
どうやってもオレは死なないと、諦めたのか?
「……いや。そっちは――」
オレは愕然とした。ヤツが向かう方向は、ルーシーたちが逃げた方向だ。
「……オレを無視して、ルーシーを狙うつもりなのか!」
オレは走った。
そんなふざけた真似は、絶対にさせない。
何発ものファイアーボールをぶつけ、剣を突き刺し、何発も何発も殴りつけた。
攻撃を仕掛けるたびに、ヤツは邪魔そうに拳を振るい、ウォーハンマーを薙ぎ、オレの体を何回も何回も潰した。
ヤツは攻撃が効かないわけじゃない。刺せば血が出るし、押せば倒れる。
だがいつの間にか傷は治っているし、オレと違って痛みなんて概念は持ち合わせてないようだから、歩みが止まらない。
じわりじわりとだが、オレたちは湖から離れていっていた。まずい、このままじゃ作戦が失敗する。
焦りを隠せずに、オレが急いでファイアーボールを唱えていると、背後から巨大な生物の雄叫びが耳をつんざいた。
「ドラゴン……水竜。こんな湖に水竜がいるのか」
水竜は最強クラスの魔物だ。巨大な蛇のような見た目だが、竜を名乗るのに相応しい強大な力を持っている。
滅多にいない魔物ではあるが今はそれに驚いている余裕も、ビビッてるヒマもない。
「邪魔だ!」
オレの放ったファイアーボールが、鎌首をもたげた水竜を呑みこむ。抗う素振りすら見せられずに、水竜は丸焦げになって湖の奥から岸に向かって倒れ込んだ。
オレは驚いて自分の手をじっと見つめた。前はオーク程度に防がれていたオレのファイアーボールが、まさか水竜を一撃で倒せるなんて。
ここまで魔力が強くなっていたとは――
「じゃあなんでヤツはピンピンしてるんだよ!?」
最強の力を持った自覚が一転して怒りへと変わり、慌てて意識をヤツに戻した。
水竜のせいでまた少し距離が開いている。
ファイアーボールを数発放ち、まるで堪えないヤツの後頭部に飛びかかって首を絞める。
目も鼻も口も無い黒い塊では、効いているのかすらわからないが、ヤツは突然足を止めてオレの腕を掴んだ。
「――ウオッ」
首から引き剥がされて、力任せに地面へと叩きつけられる。急いで起き上がろうとすると、今度はヤツがオレの首を絞めてきた。
「フ、フン。オレにそんなものが効くかよ……!」
バキバキと首の骨が砕ける音が体の奥で響き、脳が灼き切れそうな痛みが全身を駆け抜ける。だが、不死身のオレにとってそれは致命傷になりえない。
オレは心の中で拳を握った。こうやっている間に、少しでもルーシーが町に近付いてくれれば――
「ノーマン!」
――ヤツの名前を呼ぶその声は、いつもオレの隣から聞こえていた声だ。
「あなたの敵はケインだけじゃないわよ!」
目線を横に、声が聞こえてくる方へ向ける。
松明を持ったルーシーが、木舟に乗って湖の奥へと向かうところだった。
「――――」
ヤツがオレの首から手を離して、湖へと体を向ける。
――まずい。
そう思ったときには手遅れだった。
現われてから初めて、ウォーハンマーを両手で持つ。そしてヤツは、今までに見せたことのない恐ろしい事をした。
「――な、走れるのかよ!」
ものすごいスピードで土を蹴り、みるみるうちに木舟へと迫っていく。
信じ難い速さだった。
ルーシーの木舟も、風の魔法で動かしているのでかなりの速度で湖を走っているが、ヤツの方が圧倒的に速い。
オレは確信した――ヤツは木舟まで跳ぶ気だ。
オレは急いで立ち上がり、ヤツを追いかける。
必死で走るが、ヤツとの距離はまったく縮まらない。
ダメだ、このままではルーシーが殺される。
「――――」
ヤツが湖の端に辿り着き、オレが絶望しかけた時だった。突然、ヤツは何もないところで転んだのだ。
――いや、よく見ればヤツの足元に、縄で作った簡易な罠が張ってある。あれに引っ掛かったのか。
かなりの速さで走っていた分、転がる勢いも相当だ。
ヤツは飛び込むような形で湖に入り、水の中をしばらく突き進んでようやく止まった。
「上手くいったわ! 今のうちよ、ケイン!」
オレはルーシーの機転に心底感心した。まさか、オレがヤツと戦っている間にこんな細工をしていたなんて。
だが、やはりヤツはそう簡単に倒せない。すぐに立ち上がって岸へと戻り、向かう先は桟橋だ。
走る速さは落ちるどころかますます上がっていき――ついにヤツは木舟に向かって大きく跳んでしまった。
「――ヒッ」
狙いは違わず。ヤツは木舟を大きく揺らして、ルーシーの前に立った。
「クソ、クソ……だがそれは読んでたぞ!」
ヤツが転んだ時から、オレはヤツを追っていない。オレが向かっていたのは、湖の奥まで橋のように横たわっていた水竜の死体。
その先にある、ルーシーがいる木舟だ。
「ルーシーに近付くんじゃねえ!」
水竜の体を足場に、オレもヤツのように木舟へと飛んだ。
ウォーハンマーを振り上げるヤツの横腹目がけて、飛び蹴りを放つ。
「――――」
オレの蹴りは見事にヤツを捉え、湖へと叩き落した。
木舟が波立つ水面に煽られて激しく揺れる。
オレはヤツが浮かび上がって来ないのを確認して、ルーシーを抱きしめた。
「ルーシー、なんでこんな無茶を!?」
「……ごめんなさい。離れながら様子を見ていたんだけど、水竜が現われたから……わたし、水竜だけでもなんとかしようと思って。そうしたら……」
「……そうか、ありがとう」
湖に沈めるなんて自信満々に言っておいて、ヤツが湖から離れていったのを見て不安になったんだろう。
仕方ない。結果論だが、ヤツを湖の中に引き込むまではできたんだ。
助かったと、オレは素直に感謝した。
「ジョセフはどうしたんだ?」
「少し離れた場所の岩場で休ませてるわ」
「そうか……ルーシー、オレは――」
不意に、木舟が再び大きく揺れはじめた。見ると、ヤツの手が舟のへりを掴んでいる。
のんきに話している暇はない。このままでは沈没だ。
上がってこようともがくヤツの動きで、舟は弾むように上下していた。
「……ルーシー。待っていてくれよな……必ず戻るから!」
「ケイン!」
ルーシーの声を背に、オレは上半身が見えるまでに登ってきたヤツに飛び掛った。
全体重を乗せた突進に、不安定な舟と体勢。
さすがの馬鹿力でも受け切れなかったのか、単純に反応できなかったのかは定かでないが、ヤツはオレと共に湖へと落ちていった。
「おい、バケモノ。知っているか?」
「――――」
「生物はな、呼吸をしないと生きていけないんだぜ」
****** ****** ****** ****** ******
湖の底。剣でヤツの腹を貫いて、そのまま押し付けるように水竜の死体へ突き刺す。
元々ヤツの動きは鈍い。水中では、自慢の怪力もウォーハンマーも、焦らなければ見切る事は可能だ。
フック気味に放たれた拳をファイアーボールで弾き、二本目の剣をヤツの胸に突き刺して、オマケで柄に蹴りを入れて押し込む。
効いているかはわからない。いや、水の中だろうが耐久性に変化が起きるわけじゃない。きっとたいしてダメージは与えられていないだろう。
だが、口も鼻もない黒い球体の表面から、ボコボコといくつもの泡が出ているのを見て、オレは自分の考えが正しかったのだと確信した。
息を切らして頑張ったみんなと、ジョセフと赤髪が決死の攻撃を仕掛けてくれたおかげだ。
赤髪を殺して湖から出てくる直前、確かに空気の泡が生まれていた。
いくら無敵に近い力を持っていても……たぶんオレと違って不死身ではない。息をしなければ生きられないという、枷を持っている。だったら話は簡単だ。
「――――」
ヤツが暴れて、刺さった剣を引き抜こうとする。
そうはさせまいと、オレはヤツの黒い頭部を蹴りつけ、剣を掴みにかかる。
するとヤツは目標を変えて、オレにウォーハンマーを繰り出してきた。
その鋭い尖端がオレの横腹を捕らえ、大質量の圧力がそのまま胴体を半ばから叩きちぎる。それがどうした。
もはや痛みも薄くなっている。ちぎれた体なんて、すぐ元に戻る。
オレは剣を掴む手を緩めなかった。
次第に、ヤツの動きが変わる。冷静にオレを排除しようとするものから、苦しみもがくものへと。
……お前はそれで、生き物なんだな。
オレはともすれば、こいつ以上のバケモノになったのかもしれない。
だが、それでいい。
それでお前を殺せるなら、ルーシーにまた会えるなら、オレはそれで構わない。
「――――」
二人共が必死になっていた。
ヤツは空気を求めてあがき、オレはこの湖底から逃さまいと、死に物狂いだった。
ヤツに体を潰されながら、オレは突き刺した剣の傷口からファイアーボールを放ち、腕にしがみついて骨をへし折り、渾身の力で首を絞め。
足止めにできると思う事は、全部やってみせた。
「――――」
……そして気付いた時には、ヤツはまるで死体のように動かなくなっていた。
****** ****** ****** ****** ******
「ケイン、今日はどこに行く?」
「そうだな……北の山に火竜が棲みついたって噂を聞いたから、確かめに行くか」
「そうね、いいと思うわ」
とある宿で一晩過ごした朝、オレとルーシーは部屋で軽食をとっていた。
手軽なサンドイッチだが、パンにこだわっていていい味を出している。
「美味しいね」
「……ああ」
スカイエデン・シティの事件から、もう三週間ほど経った。
水死体となったあの怪物は、あのままオレが湖底の土を掘って深く埋葬した。
あれ以来、オレたちの周りは静かだ。もうオレのファイアーボールで倒せない魔物はいないし、怖ろしい体験をすることもなくなった。
魔王の居場所さえ突き止めたら、オレたちの旅は終わるだろう。
「……ジョセフは元気でやってるかな」
「ジョセフ? ジョセフって……あの?」
オレたちと一緒に生き残ったオッサン――ジョセフとは翌日に町で別れてそれっきりだ。故郷に帰って静かに暮らすと言っていたから、もう会うこともないだろう。
「元気だとは思うけど……どうして急に?」
「……ほら、あの時も竜を倒したから、ちょっと思い出したんだ」
「……そっか」
オレの言葉に、ルーシーは綺麗なブロンドの髪の先を撫でながら遠い目をした。
あの事件の事は思い出したくないのだろう。オレだってそうだ。
……後日、町で聞いた話だが、森を管理していたのは確かにあの老婆で間違いないらしい。
ただ、相当な変わり者で人との交流はほとんどなく、息子どころか夫と呼べる人物すらいなかったとの事だ。
ノーマンと呼ばれたあの怪物がなんだったのかは、もうわからない。
……町の人たちが知らないだけで、実は結婚して家庭があったと考えるのは、都合のいい望みだろうか。
「ケイン? どうしたの?」
「……いや。竜は強いから、気合を入れないとな」
「そうだね。たいしたサポートはできないかもしれないけど、わたしも頑張るわ」
「ああ……それじゃあ行こうか」
……あれ以来、オレたちの周りは静かだ。もう謎の怪物に追われることはなく、怖ろしい体験をすることもない――本当にそうだろうか。
「…………」
ルーシーには言えないことがある。
昨日、夢を見たんだ。
オレは千里眼を使って、ある湖を覗いてた。名前もわからない深い森にある湖。
生き物の気配がない、その静かな湖の桟橋を掴む、大きな手。這い上がってくるのは大男だ。
その顔の部分にある目も鼻も口も無い黒い球体と、なぜか視線が合った気がした。
そんな、ただの悪夢とは思えない生々しい夢。
……もしかしたら、まだ終わってないのかもしれない。奇妙な焦燥感は、まだオレの心の底にへばり付いてる。
廊下に出るドアのノブを掴み、不意に頭をよぎるのはあの黒い球体だ。
もしかしてこのドアを開けたら、そこには何も変わらない姿でヤツが――――