第8話:邪竜
リースはマリマリの部屋を飛び出し、前につんのめりながら廊下を駆け抜ける。
巨大な魔剣を背負い、けたたましい勢いで走っていく幼女を見て、寮生たちが何事かと目を瞠るが、それどころではない。
そして、クソでかい大剣を背負いながら走っていたせいで、転がるようにどころか、実際に階段から転げ落ちた。
『大丈夫か? ていうか、何をそんなに慌ててるんだ?』
「私は大丈夫だが、世界が大丈夫ではない! 奴が生きていた!」
『奴?』
ヴィクトワールの問いかけに答えず、リースは寮を飛び出し、先ほどの存在を見つけた場所に駆け付けた。そして、『それ』はまだ、そこにいた。
「久しぶりだな! 邪竜ニーズヘッグ!」
リース的には怒号を発したつもりだろうが、可愛らしい外見なので迫力が全く無い。
それでも、リースは精一杯の気迫を込め、宿敵の名を呼んだ。
邪竜ニーズヘッグ。
山のような巨体は漆黒の鱗に覆われ、強大な力を持ち、人語を理解する知性を持った恐るべき竜。
竜種は何種類かいるが、ニーズヘッグの一族である黒竜は、飛びぬけて強力な種族だ。
性格は獰猛かつ自尊心が強く、多種を劣等種としか見ていない。
それゆえ、人々からは黒竜ではなく邪竜と呼ばれ、五百年前に死闘を繰り広げたのだ。
あの時、確かに相打ちに持ち込んだ邪竜の王ニーズヘッグが、なんと学園の裏庭にいたのだ。
「貴様も生きていたのか。いや、もしかして貴様も転生を使ったのか? 随分と小柄になったものだな」
リースは喋りかけて時間稼ぎをし、その隙にヴィクトワールを鞘から引き抜き、両手で構える。
縦に振りおろす事は出来ないが、少なくともハッタリには見えるだろう。
邪竜ニーズヘッグは、ゆっくりとした動作でリースの方を見た。
かつてのニーズヘッグは、山と見間違えるほどの巨体で、歩くだけで地響きが起こるほどだった。
だが、目の前の黒竜は、象より少し小さいくらいだ。
もっとも、リース自身も転生の影響で小柄になっているから、五分五分といったところか。
「に、ニーズヘッグ? お、オラの事か?」
邪竜は、数十秒沈黙した後、自分の事を指差しながらそう答えた。
ずいぶんとたどたどしく、朴訥な喋り方だ。
その様子に、リースは眉根を寄せる。
かつてのニーズヘッグは、仰々しく傲慢な言葉遣いだった。
「とぼけるな。私がお前の顔を忘れるわけがないだろう。あの時は相打ちだったが、またこうして会えるとは、貴様とはやはり縁があるようだな」
リースは剣を横に構え、大車輪の体勢を取る。
隙だらけ弱点だらけの技だが、現状、これしか繰り出せる技が無い。
ならば、可能な限りベストを尽くす。それだけだ。
『おい、ちょっと待てよ』
「黙れヴィクトワール。五百年で平和ボケしたか?」
『いや、そうじゃなくてよ……』
「あ! お、思い出したんだな!」
邪竜はリースの殺気にまるで気付いていない様子で、その巨大な手を人間のようにぽん、と叩く動作をした。手には鋭い爪があり、鋼鉄すら切り裂くが、微塵もその様子は感じ取れない。
「に、ニーズヘッグってのは、お、オラの爺さまの名前だったんだな。お、オラ、あんまり物覚えよくないから、思い出すのに時間が掛かったんだな。ご、ごめんなんだな」
そう言って、邪竜はリースに向かって謝罪した。
リースからすると、何が何だか分からない。
ただ、先ほどまでの緊張感が徐々にほぐれていくのが自分でも理解出来た。
「爺さま? という事は、お前はニーズヘッグではないのか?」
「お、オラ、名前はロアってんだな。めんこい娘さん、よ、よろしくなんだな」
「ロア? どこかで聞いた名前だな……」
『こいつが学園の寮に資材を運んでくれる運送業者だよ。マリマリも言ってただろ』
「な、なんだってー!?」
リースは素っ頓狂なおたけびを上げた。
あの世界を支配しようと目論んだ恐るべき邪竜の末裔が、こんな場所で食材だの薪だのを運んでいる。一体どういう事なのか。
『……だから止めろっていったんだよ。人の話はちゃんと聞こうな』
「い、いや、本当に貴様はニーズヘッグの孫なのか?」
「ほ、本当なんだな。で、でも、爺さまも、一族もほとんど皆死んじゃって、オラだけが生き残ったんだな」
ロアは、少し寂しげにそう言った。
リースはそこまで聞くと、ゆっくりと剣を下ろした。
敵意の無い相手に振るう剣を、リースは持ちあわせていないのだから。
◆ ◆ ◆
「お、オラの爺さまが世界征服をしようとした時、すごい人間の剣使いに倒されたんだな。そ、その後、父さんとか母さん、あと、オラの兄弟たちが、は、は……、そ、そうだ、ハケンアラソイとかいうのをしだしたんだな」
裏庭で、ロアはまるで人間のようにあぐらをかきながら語り出した。
その正面で、リースが真剣な表情でその言葉を聞いている。
ロアとリースが並ぶと、まるで人間と子猫のような体格差になる。
「覇権争いか……つまり、ニーズヘッグの後を誰が継ぐかという事か?」
「そ、そうなんだな。で、でも、オラは落ちこぼれだったし、ケンカ嫌いだったし、みんなから馬鹿にされてたんだな。そ、それに、お、オラは空も飛べないし、身体もちっこいし」
ロアは自嘲するようにそう言った。
確かに、ロアは黒竜にしては飛びぬけて身体が小さい。
ニーズヘッグは別格だが、他の竜種と比べてもずっと小柄だ。
何より、背中に生えている巨大な翼が存在せず、申し訳程度にちょこっと生えているだけだ。
これでは空を飛ぶ事はままならないだろう。
「お、オラは末っ子だったから、あんまりご飯を食べさせて貰えなかったんだな。だ、だからチビで弱くて、き、気も弱いんだな。だ、だから、ハケンアラソイには参加出来なかったんだな」
『竜の社会ってのは基本は弱肉強食だからな。他の連中を押しのけて飯を食って、身体がでかくなる奴はどんどん強くなるし、そうでない奴はどんどん弱くなる』
「だが、お前だけが生き残った」
「そ、そうなんだな。みんな仲間一族なのに、ケンカでボロボロになって、死んじゃったんだな。オラだけケンカ出来なかったから、ケ、ケガをしなかったんだな」
「そういう事か……しかし、何故、こんな所で運送の仕事なんかしているんだ?」
「じ、実は……オラも他の人間達に狩られそうになったんだな。で、でもレーヌ様が、オラをこの学園の運送役として選んでくれたんだな。だ、だから、オラはこうして仕事にありつけて、生きさせてもらってるんだな。あ、ありがたいんだな」
ロアはそう言って、微笑んだ。
本当にレーヌに感謝している事が伝わってくる。そんな笑い方だ。
『お前が……つーか、俺達が邪竜ニーズヘッグを討伐した後、人間至上主義みたいなもんが出来ちまったのさ。なにせ、世界を支配する悪を倒したのは、人間のゴットフリートだからな』
「私は、別にそんなつもりじゃ……」
『お前のせいじゃねえよ。ただ、なんとなくそんな空気が出来ちまったんだ。それ以降、人間が一番、それ以外の種族は格下ってのがずっと続いてる。特に、戦犯である邪竜の末裔なんかはな』
リースはそれで合点がいった。
いくら弱い個体とはいえ、それでも邪竜は邪竜である。
ロアが本気で暴れ回れば、並の人間では相手にすらならないだろう。
恐らく、レーヌはロアの命の保護に加え、役割を与えてそうした被害を抑制しているのだろう。
「と、とにかく、オ、オラについてはこんな感じなんだな。こ、これでいいかな? オラ、これから持ってきた荷台を街の業者に返さないとならないんだ。お、遅れると、店長に怒られるんだな」
街の店長が邪竜を叱り、それにぺこぺこ頭を下げるロアを想像すると、リースの胸に不愉快な気持ちが去来する。
ロアは、馬ですら数頭で引くような巨大な荷車の所に戻ると、軽々とそれを引いていく。
今は空になっているが、寮の食材や薪などが乗っていた事を考えると、尋常な力ではない。
「ロアよ、一つだけ聞きたい」
去りゆく邪竜の末裔の背に、リースが声を掛けた。
ロアは、荷台を引くのを一度やめ、小柄なハーフエルフの少女の方に振り向いた。
「なぜ、お前はその力を使って暴れないのだ。その業者なぞ、お前の剛腕を持ってすれば従うどころか、従わせる事だって出来るだろう」
リースの疑問に対し、ロアは少し沈黙した後、ゆっくりと口を開く。
「お、オラ、思うんだな。オラの爺さまも、父さんも母さんも、兄さんも姉さんたちも、みんな、自分の事だけ考えて、悪い事したから罰を受けたんだな。で、でも、オラがこうして仕事をしてると、みんな喜んでくれるんだな。だ、だからオラは今まで生きてこられたんだなって」
「……そうか」
「そ、それが正しいかわかんないんだな。お、オラ、難しい事を考えるのって苦手なんだな。オラ、あ、あんまり頭よくないし」
「いや、お前は誰よりも賢く強い。あの邪竜ニーズヘッグよりもな」
リースがはっきりとした声でそう言うと、ロアは不思議そうな眼で彼女を見た。
「お前は、決して馬鹿でも弱者でもない。誰にも教わらず、自分でその答えを出したのだろう? そして、最後に生き残った。最後まで生き残ったものは強者であり、勝者だ」
リースが断言すると、ロアは目をぱちぱちと瞬かせたあと、嬉しそうに目を細めた。
「へ、へへ……ほ、褒められたんだな。こんな事、は、初めてなんだな。あ、ありがとう。めんこいハーフエルフのお嬢ちゃん」
「私はお嬢ちゃんではない!」
「……お、お姫様だっただか?」
「違う! 私は剣の道に生きるリースレットだ! リースと呼んで構わんぞ!」
「そ、そうかぁ、リース、リース、いい名前だぁ……お、オラ、週に一回はここに来るから、ま、また会えると嬉しいんだな」
「ああ、私も楽しみにしているぞ」
ロアは上機嫌で、口笛を吹きながら、荷台を引いて夕暮れの街へと帰っていった。
その背中をリースは、やるせない表情で見送っていく。
「かつての世界の王者の末裔が……今や人間の小間使いか」
リースはそう呟き、しばらくロアの去った方向を眺めていたが、やがて寮に戻った。
「ヴィクトワール、明日、少し付き合ってもらうぞ」
『別にいいけどよ。何をだ?』
「明日、ロアの所属する業者とやらに行ってみる。状況を確認したい」
また面倒な事になりそうだ、とヴィクトワールは嘆息した。
だが、こうなってしまったリースを止めるのは不可能だとも理解していたので、大人しく従う事にした。