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76.月姫 やんちゃな一寸法師①

 雨が降っている。もうすぐ七月だというのに梅雨の気配はまだ濃厚なままだ。雨は野山を濡らし、植物たちは一気にその丈を伸ばしている。私の家の近くの高台もすっかりセイタカアワダチソウに侵食されていた。鬱々とした日々だ。野生の生き物には恵みの雨でも人間にとっては辛い時期かもしれない――。


「お久しぶり!」

 電話口から聞こえる声に少しの懐かしさを覚えた。青井さんの声。数週間ぶりだ。

「どう? ペンタブの調子は?」

「はい、お陰様でだいぶ慣れました」

「それはよかった」

 青井さんの声の裏で黒田さんの嫌みっぽい声が聞こえた。どうやら樋山さんの工房は相変わらずらしい。

「ねえ、もしよかったらまたこっち出て来ない? 実は先生も会いたがっててね」

「あー、そうですね。行きたいのは山々なんですが……」

「忙しい感じ?」

「実は……」

 私は今現在私が置かれている状況について彼女に説明した。簡潔に。結起承に。

 言葉にすればそれは酷く簡素でつまらない内容だった。蒸発した先で亡くなった父の隠し子を引き取ることになった。ただそれだけ。もちろんそこには様々な事情がある。でも詳しい話はしなかった。青井さんだって内情を知りたいわけではないと思う。

「そっかぁ。大変だったわね」

「ええ、まぁ……。ちょっとずつこの生活にも慣れ始めたんですけどね」

「そっかそっか。じゃあこっち来るのは落ちついてからだねぇ」

「そうですね。せめてこの子が保育園に行くようになってからですねぇ」

 せめて保育園に。それは切なる願いだ。今の状況は正直あまり芳しくない。

「ねぇ京極さん? もし困ったことあったら言ってね? 私も先生も協力したいのよ」

「ありがとうございます。もし何かあったらご相談させて頂くかも知れません」

 私はそんな定型文のような言葉しか言えなかった。仕方ない。これは家族間の問題なのだ。気持ちは嬉しいけれど、この件で頼れる相手は二人しかない……。

「ルナちゃん……」

 青井さんとの電話終えるとヒカリが起き出してきた。

「起きちゃった?」

「うん。お腹空いた」

「そっかぁ。じゃあおやつにしよっか」

「うん!」

 ヒカリは嬉しそうに頷いた。どことなく父さんに似ている。そんな笑顔で――。


 ヒカリが私の家に来てから数週間の間、叔父と茉奈美がヒカリの面倒を見てくれた。叔父はともかく茉奈美には感謝せずにはいられなかった。せっかくの休みの日に子守をさせて申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。

 それにしても酷い話だ。姉のコイントスで選ばれた運命。神様の選んだ運命なのだ。

 きっと私たちよりヒカリの方が数倍辛いと思う。彼はまだ幼くて、前途がまったく分からないのだ。彼の未来が無限大に広がって欲しいけれど、現実的には難しいかもしれない。

 きっと未来は明るいだろう。そう楽観的に言えたらどれほど気楽だろう。一寸先が光だったら良かったのに……。

 父はなぜ彼にヒカリなんて名前を付けたのだろう? ふと、そんな疑問が浮かんだ。月の名を持った私たち姉妹とは対極的な名前だと思う。それはまるで太陽のような名前だ。

 月のように反射で光る星ではない。自ら輝く。そんな星の名だと思う。

 もしそうならきっと未来は明るいかも知れない。そう思った。一寸先は本当に光かもしれない。そう思い込んだ。

 この思い込みが現実になることを切に願う。彼の未来が明るく。可能なら私の未来も少しだけ明るくなって欲しい。心からそう願った――。


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