65.月姫 大江山ワンダーランド⑤
葵と会った翌日。私は自室で絵を描いていた。
今日は日曜日に出勤した代休。でも出かける用事は特になかった。用事があるとすれば、泉さんに連絡するぐらいだろう。
だから自室で作業に没頭した。朝食はバナナとヨーグルトで手を抜いたし、家事もだいたい終わっている。怠惰なるルーティンワーク。家事は空気を吸うのと同じだ。
絵を描いていると時間は11時を回った。そして……。ケイタイに着信が入る。
『京極さんお久しぶりです。アトリエ樋山の青井です。先日はありがとうございました』
「こんにちは。こちらこそありがとうございました」
電話越しに聞こえる青井さんの声はどことなく嬉しそうだった。電話の奥から樋山さんと黒田さんの声も聞こえる。
『急な連絡ごめんなさい。実は今度、ウチの工房で新しい絵本出すことになったので京極さんに献本しようかと思いまして』
「え!? いいんですか? すごく嬉しいです」
予期せぬ申し出だ。樋山さんの工房の絵本が貰えるらしい。
『ええ、実は樋山がどうしても送りたいって申しておりまして。それで、差し支えなければ送り先教えてほしいんです』
「わかりました……。ではメールで送らせていただきますね」
『ありがとうございます。では、そちらに送付させていただきます』
青井さんのしゃべり方はほんの少しだけフランクなったように感じた。以前より、声に丸みがあるように聞こえる。
新作の絵本のタイトルは『大江山ワンダーランド』というらしい。ストーリーは黒田さん。絵は樋山さんが描いたらしい。
「あの……。お聞きしたいことがあるんですが大丈夫ですか?」
『はい! 大丈夫ですよー。お答えできることなら何でも』
私は抱えている問題のうち、解決しやすそうなことを彼女に聞いてみることにした。
「実は最近、イラストを描き始めんたんです。それで、ラフとペン入れはたくさんしたんですが、コピックで塗るには量が多くて……。青井さんってたしかパソコンで描いてたと思うんですが……。いいソフトってありますか? お絵かきソフトってよく知らなくって」
とても素朴な質問だと思う。だけど、グーグルで調べるよりは生の声が聞きたかった。『へー。すごいですね。やっぱりお母様の血筋かな……。私が使ってるソフトは主に2種類です。絵を描くのは主にペインター。色合いの調整や加工はフォトショップを使っています。でも……。どちらも個人で使いにはちょっと割高なので……。そうですね。京極さんが使うならクリップスタジオがいいんじゃないかな? あのソフトは使い勝手もいいし、値段も良心的なので』
模範的な回答だ。思ったよりはるかに的確だと思う。
「ありがとうございます。クリップスタジオですね! 今度調べてみます」
『ええ、是非! あ! もしよければペンタブレットお送りしましょうか? 樋山の以前使っていたものが余ってるんです。ちょっと型は古いですがまだまだ使えると思うので』
「え!? でも……。ただでもらうのは悪いです……」
さすがに無料でもらいわけにもいかない。もしもらってしまったら、それはただのタカリだろう。
『ウフフ、気にしないでいいんですよ。どちらにしても来週には廃品回収に出す予定だったものですから。じゃあ……。その代わりに1つだけお願いしてもいいですか? 樋山も喜ぶと思うので』
「お願い? ですか」
『ええ、もし京極さんさえ良ければですが。描いたイラスト1枚こちらに送って下さい。ちょっと私も気になるので』
おかしな願いだ。私の描いた絵なんてもらってどうするつもりなのだろう?
「それは……。いいですが。でも、私の絵なんて」
『京極さん……。私もイラストを生業する者です。だからこれは個人的な気持ちもあるんですよ。京極さんのお母様の絵を私は見たことがあります。だから娘さんの絵も見てみたい。まぁ、簡単に言うとこれは好奇心ですね。どうでしょうか? 私と樋山の好奇心のためにイラストとペンタブを交換というのは』
好奇心。不思議なことを言う。でも……。少しだけ気持ちが分かる気もする。
もし、私が同じ立場だったら見てみたいかもしれない。自分の先輩の娘が描いた絵ならなおさらだろう。
「わかりました……。ではお言葉に甘えて……」
『ありがとうございます。では、楽しみにお待ちしております。あ、献本とペンタブは今日送らせていただきますね』
私は青井さんにお礼を言うとそのまま電話を切った。
変なところに足を踏み入れてしまった気分だ。昨日の葵の一件といい、今日のこの件といい。もしかしたら『アオイ』という名前に私は縁があるのかもしれない。
それから私は簡単に昼食の準備をした。昨日、職場の先輩からもらったナスがあるし、煮浸しにでもしよう。
昼食を1人で食べながら、私は泉さんに連絡することを考えていた。いったい何て言えばいいのだろう?
テレビから流れるワイドショーは河川で発見された身元不明の遺体について報道していた。身元不明。UNKNOWNな亡骸。
ふと、父のことを思い出す。父はいったいどういうつもりで、愛人との間に弟を作ったのだろう……。
食事を終えると、心音が早くなった。
私は諦めとも決心ともとれない気持ちを抱えながら泉さんに電話を掛けた。




