58.裏月 ヘカテーブレイク③
泉さんが帰った直後、高橋さんがやってきた。おそらく仕事の打ち合わせだろう。
しかし、私はどうしても彼と打ち合わせする気分になれなかった。
本来なら社会人としてそれはまずいと思う。
でも高橋さんは普段から、そんな私をある程度容認してくれた。
『失礼します! 新栄堂の高橋です! 資料お持ちしました』
彼はインターフォン越しにそう言った。
「すいません。今居留守です! ポストに入れといてもらってもいいっすか?」
私は平然と居留守と答える。
これだけ伝えれば高橋さんは大体のことは察してくれるはずだ。
『はいはい。じゃあ入れとくんで書類に目を通しておいて下さいね! 捺印もお願いします』
高橋さんはそれだけ言うとドアポストに書類を突っ込んで帰って行った。
私はこんな風に融通を利かせてくれる高橋さんが気に入っている。
さすがに急用ならそうも行かないだろうけれど。
初対面のときはうだつの上がらない人かと思った。でも一緒に仕事をしてみると切れ者なのだ。
泉さんと高橋さんが帰ってから私はしばらくボーッとしていた。
洗濯も終わったし、買い出しも行った。考えてみれば今日はそれほどやることはない。
私はキッチンシンクに置いてあるマルボロを口にくわえるとスマホを手に取った。
さて、妹に連絡しなければいけない。
でもいったい何て言ったら良いのだろうか?
そんなことを考えているとタバコの灰が灰皿に落ちた。
私は諦めてスマホをシンクに置くとマルボロをふかした。
12ミリのマルボロ。大志と同じタバコだ。
こうやって喫煙ばかりしている私はヴォーカルとして最低だと思う。
まだ『アフロディーテ』に居た頃は月子さんにそれで散々文句を言われた。
今思い返すと月子さんはプロに徹していと思う。常に体調管理に気を使っていたし、毎日ヴォイストレーニングと楽器の練習をしていた。
もしもう少し違う形で出会っていたら、私と月子さんはもう少しマシな関係を気づけてきたのかもしれない。そんな思いが浮かんだ。
もし……。そんな仮定を私は今まで何回繰り返してきたのだろう。
もし……。母さんが出て行かなかったら。
もし……。父さんを満足させられる娘だったら。
もし……。妹ともっと早く和解できていたら。
もし……。大志にもっと早く気持ちを伝えていたら……。
そんなどうしようもない過去が私にのし掛かっていた。
きっとこれを後悔というのだろう。私はそう思う。
私たち姉妹がまだ中学生の頃、妹からある慣用句を教えてもらったことを思い出した。
苦く、どうしようもなく、取り返しがつかないことの慣用句。
『覆水盆に返らず』
ずっとこの言葉が私の頭には残っていた……。
それから私は簡単な夕食の準備をした。ちょうどほうれん草と特売で買ったベーコンがある。
ほうれん草を刻み、フライパンでベーコンと一緒に軽く炒めた。買いだめしたカップスープもあるし、これを今晩の夕食にしよう。
実に健康的で質素な夕食だ。まぁ、最近は仕事の打ち合わせで外食が多かったしたまには悪くない。
私は夕食を作った時間の半分の時間で完食すると、またマルボロに火をつけた。
完全にニコチン中毒者だ。残念ながらやめられそうにはない。
そしてパブロフの犬のようにまたスマホに手を伸ばした。
画面には何も表示されていない。
通知がないスマホはまるで死んでいるように見えた。このまま放っておいたらただ充電がなくなるだけ。ただそれだけの板。
そういえば妹は仕事が終わっているかもしれない。
私は意を決して彼女にLINEを送ることにした。
『お疲れ! ちょっと話せる?』
それだけ打ち込む。
打ち込んでほどなくLINEに既読がつくと私はいよいよ言葉を選ばなければいけなくなった。
酷い話をしなければいけない……。




