18.月姫 かぐや姫は月に帰りました①
樋山さんはまるで眠りにつくように瞳を閉じると何かを思い出すように深く肯いた。
「あれはもう25年くらい前になるかしら……」
25年前。まだ平成が始まって何年も経っていなかった頃……。
私は絵本作家としてそれなりに仕事を熟せるようになってきていた。その当時は今よりもずっと出版物が売れていて、出した本はほとんどの場合増刷することが出来た。
まだ少子化なんて言葉もあまり聞かない時期だったし、児童書もそれなりの数が出ていたと思う。
当時の私はアシスタントを雇うことなく、外注と併せて自分なりに出版活動をしていた。今思えばまだ若かったんだと思う。今よりも創作欲求は強かったし、承認欲求もあった。
私は自宅を改装してアトリエを作り、そこで創作活動に打ち込んでいた。夫は外で働いていたし、息子が小学校に進学してから机に向かう時間もだいぶ確保できたのだ。
彼女が私のところを訪れたのはそんな頃だった……。
私は副業で水彩画教室を行っていた。教室といっても地元の主婦相手に簡単なデッサンの仕方を教えて写生会をする程度の物だったけれど副収入としては悪くなかった。
彼女はそんな水彩画教室の受講生の1人だった。
「高嶺さん! あなたの色使いすごく素敵ねー」
「あ、ありがとうございます!」
高嶺恵理香。当時の彼女は20歳に成り立てでまだ少女のように幼かったのを記憶している。童顔で艶やかな肌をしていて、着ている服はパステルカラーの可愛らしい物が多い……。そんな可愛らしい女の子だった。
「うんうん! デッサンもう少し勉強したら絵本描けるくらいのレベルよ……」
「そ、そんなー! お世辞でも嬉しいです!」
彼女は必要以上に謙虚な女の子だった。他の受講生と比べて歳が若かったせいもあるけれど、それを加味してもかなり控えめな女の子だったと思う。
高嶺さんの描く絵には不思議な魅力があった。デッサン力が追いついていないものの風景・静物問わず本物より美しく見える色を生み出せた。
今思い返しても、彼女の色使いは綺麗だとか上手い何て言葉では表現が出来ないほど……。それほどまでに彼女の描く色は美しかったのだ。
彼女は受講生同士の会話にあまり参加していなかった。そばに居ていつもニコニコ笑っては居たけれど、決して自分から積極的にコミュニケーションを取りには行かなかった。だから受講生の中には彼女を疎ましく思う人間がいたようにも思う。
それでも高嶺さんは自分のスタンスを変えようとはしなかった。いや……。変えられなかったと言うべきかもしれない……。
良くも悪くも彼女は純粋だったのだ。
純粋すぎる彼女には下世話な世間話をする主婦たちが上手く理解できないようだった。
私は主婦たちに絵を教えながらも高嶺さんだけは特別視していた。
彼女には才能があり、こんな下世話なお茶会と併用したようなカルチャー教室に埋もれさせるには惜しい……。
だから私は理由を付けて彼女と2人きりで話をすることにした……。
彼女が受講生になって半年ほど経った頃だ。私は他の受講生を先に帰して高嶺さんだけ残って貰った。
「ごめんなさいねー。高嶺さん忙しいのに……」
「いえいえ、大丈夫ですよ! 今日は仕事もお休みなので時間はたっぷりあります」
他の受講生がいない為か高嶺さんはいつもより饒舌なようだった。
「そう……。ならよかったわ。確か高嶺さん1人暮らしだったわね?」
「そうですよー。家に帰っても1人ぼっちなので今日はお誘い頂いてすごく嬉しいです」
「そうよねー。私も昼間は1人だからみんな来てくれて助かるのよ……。最近はうちの子も友達と遊ぶのに忙しくてすぐに帰ってこないしねー……」
高嶺さんはそんな他愛のない話にも「そうですよねー」と素直に返事しながら聞いてくれた。彼女は本当に素直で世間の垢がまるで付いていない。良い意味で世間知らずのようだ。
「じゃあちょっとお茶用意するわね」
私がお茶を入れようと立ち上がる彼女も「手伝います!」と言って私の後ろから付いてきた。
「そこのケトル使ってちょうだい。高嶺さんは紅茶? コーヒー?」
「えーと……。紅茶でお願いします」
高嶺さんは流しでケトルに水を入れるとガスコンロに置いて火に掛けた。
ティーポットとティーカップも慣れた調子で準備する。
彼女の所作は無駄がなく、普段きちんと炊事を行っていることが目に見えて分かる。
「慣れてるわねー」
私が感心するようにそう言うと高嶺さんは照れ笑いを浮かべた。
「実は実家が旅館やっていて、小さい頃からお手伝いしてきたんですよー。だから料理とか配膳は得意なんです」
「へー! そうだったのね。じゃあ高嶺さん将来は女将さんになるのね!」
何の気なしに掛けた私の言葉に彼女の手元が一瞬止まる。
「……。それは……。ないですね……」
彼女は苦笑いを浮かべて首をゆっくりと横に振った。
「あら? そうなのね……。まぁ旅館だからって後を継ぐとは限らないものね……」
高嶺さんは「ええ……」とだけ言ってその時はそれ以上何も言おうとはしなかった。
私もそれ以上何も聞かなかった。人間、立ち入られたくない領域は誰にでもある。
お湯が沸くと彼女はティーカップとティーポットに熱湯を注いで容器を温めてくれた。
「ありがとー。助かるわー
彼女は普段から紅茶を煎れているのだろう。茶葉の蒸らし方も良く知っているようだ。
「紅茶入れるのが趣味なんですよ……。コーヒーも飲みますけど、苦いのは苦手な方なのでミルクと砂糖をいっぱい入れちゃうんですよねー」
「フフフ、そうよねー。私も若い頃はコーヒー苦手だったのよ。今は眠気覚ましに飲むけれど、普段は紅茶が多いわね」
高嶺さんは自分の好きな物にはとことん打ち込む性格のようだ。その反面、嫌いなことは敬遠しがちらしいけど、それを差し引いても彼女の集中力と好奇心はすごいと思う。
それから私たちは紅茶を飲みながら再び談笑した。彼女は普段やっている仕事の話を楽しそうに話してくれた。
彼女は普段、輸入雑貨の店で販売員をしているようだ。確かに彼女の趣味を考えると合っている仕事だと思う。高嶺さんは可愛らしい物が好きで、普段から動物を象ったアクセサリをよく身につけていたのだ。
「ねえ高嶺さん? 来週の日曜日暇かしら?」
「えーと……。仕事の予定次第ですけど……。何か?」
「実は来週の日曜日、私の新刊のサイン会があるのよ。もし良かったら手伝って貰えないかしら……。担当編集さんは来てくれるんだけど、ちょっと不安なのよね……」
その当時、私は絵本を年に何冊か発行していた。担当編集の話だと売れ行きも良く、さらなる販促のためにサイン会を開きたかったらしい。
「え! 私なんかがお手伝いを?」
「そう! というよりもあなただからやって貰いたいのよ……。高嶺さん素直で良い子だし、あなただからお願いしたいの」
「とても光栄です……。でも私なんかに出来るんでしょうか……?」
高嶺さんは嬉しそうにしている反面、不安な表情を浮かべていた。
「大丈夫よ! ちゃんと日当は払うからお願い! あなたが来てくれたらすごく嬉しい」
高嶺さんはしばらく考えているようだったけれど最終的に「わかりました」と元気よく答えてくれた。
「ありがとう! 高嶺さんが来てくれたら百人力ね!」
私がそう言うと彼女はとても嬉しそうな笑顔を浮かべた――。




