16.月姫 ウサギとカメのデットヒート⑧
控え室に入るとそこには樋山涼花と数名の男女がテーブルを囲むように座っていた。
「あの先生……。京極さんお連れしました……」
「ありがとう白石君……。京極さん……。急に呼んだりしてごめんなさいね。大丈夫だったかしら?」
樋山さんはほっこりとした笑顔を浮かべている。彼女は正真正銘の貴婦人のようだ。笑顔の作り方、所作、言葉使い、どれをとっても上品に見えた。
「はい! 大丈夫です! さっきはありがとうございました……」
「こちらこそありがとうございました。絵本2冊も買って貰えて嬉しいわぁ。『ウサギとカメのデットヒート』は白石君が描いた本だから彼も喜んでたわ」
私が白石さんの方を向くと、彼はうなじを掻きながら「どうもです」と中途半端に笑いを浮かべていた。
私はカフェで里奈さんと話ながら『ウサギとカメのデットヒート』は1回読んでいた。
内容としては童謡『ウサギとカメ』のオマージュで、トムとジェリーのような感じでウサギとカメがレースをするような話で面白かった。
「とても面白かったです! 絵も可愛いし、何回も読みたくなる絵本でしたよ!」
「あ、あああ、ありがとうございますー。すごく嬉しいです」
語彙力がなさ過ぎる。白石さんは絵本を描く才能はあるようだけれどかなり要領が悪い。
樋山さんの周りに居るスタッフたちは白石さんのことがあまり好きではないようで、彼のことを馬鹿にしたような目で見ていた。
「それと……。『月の女神と夜の女王』もありがとう。あれは私がまだ駆け出しの頃に描いたお話なの……。手に取って貰えてすごく嬉しい」
彼女は本当に嬉しそうにしていた。営業的な言葉ではなく本当に嬉しいというのが伝わってくる。
「実は『月の女神と夜の女王』はウチに1冊あるんですよ! 母の本らしいんですけれど、私もお気に入りの1冊なんです」
「そう……。失礼だけど、お母様のお名前伺って良いかしら?」
「……。母の名前は恵理香です。あの……。もしかして母のことご存じなんですか?」
樋山さんの顔を見ると彼女が震えているのが分かった。震えている彼女を見て、周りのスタッフが心配そうに声を掛ける。
「あの、先生? 大丈夫ですか?」
白石さんとは別の男性スタッフが心配そうに彼女のに声を掛けた。彼は見るからにしっかり者で口調も力強い。
「大丈夫よ……。黒田君ありがとう……」
白石さんと黒田さん。かなり対照的な2人だ。
樋山さんは何かを振り払うように首を何回か振ると私の方に向き直った。
「ごめんなさい……。ちょっと驚いただけだから気にしないで……。そう……、やっぱりエリちゃんの娘さんだったの……」
「あの……。母とはどういったご関係なんですか?」
「エリちゃん……。あなたのお母さんとは昔一緒に仕事してたの……。もう何年前になるかしらね……」
意外な話だったけれど、私はそれを聞いて妙に納得した。
叔父の話だと私はかなり母親に似ているらしい。だから樋口さんは私を見たとき酷く驚いたのだろうと思う。
「そう……だったんですね……。ということは母も絵本描いてたんですか?」
「ええ、そうよ! あなたのお母さんは昔私のアシスタントしてくれてたの! とにかく色を作るのが上手い子でね。彼女が塗った空の色はすごく綺麗だった……。本当に懐かしいわぁ……。お母さん元気してるかしら?」
そう聞かれて私は言葉に詰まった。
「母は……」
私は言葉を選びながら彼女の母について話をした。話をしたと言っても、私自身、母のことを何も知らない……。
幼い頃母が家を出たこと、そして今現在行方不明であること以外何も言えなかった……。
私の話を聞くと樋山さんはとても悲しい表情を浮かべた。
「そんなことになってたの……」
「ええ、ごめんなさい。私も母のことよく覚えていないんです……」
「そう……。こっちこそごめんなさい。嫌なこと思い出させちゃったみたいで……」
樋山さんは私にゆっくりと頭を下げた。
「大丈夫です! 頭を上げてください! 小さい頃から母が居ないのは当たり前だったので今更気にしてませんから!」
これは本当のことだ。
私には母親との思い出が驚くほど残っていない。居ないのが当たり前すぎて、逆に居ると言う感覚が理解できないほどだ。
「そう……」
「あの樋山さん? もし宜しければ母の話聞かせていただけませんか? 覚えていないけどそういう話はちゃんと知っておきたいんです!」
私は知りたかった。
記憶にはない母親の姿を少しでも知りたいと思ったのだ。
私は父が亡くなってから母親のことをよく考えるようになっていた。記憶にないはずなのに彼女は夢に現れては私に優しく語りかけてくれたのだ……。
樋山さんは顔を伏せて何やら思い返しているようだ。
「エリちゃんはすごく良い子だったわ……。絵の才能もあったし、優しくて気立てが良くて……。少し慌てんぼさんだったけど、それも可愛かった……」
彼女は甘美な過去を再び味わうように母の話を話し始めた……。




