7・世界は忄實の現実の中に浮かべながら
『今、この瞬間も、現実は過去になっている。その思い出すしかない記憶は、夢なのか、現実なのか。本当にあったことなのか。今、目が覚めたら、すべては夢の中かもしれない。人生の終わりに見る単なる走馬灯かもしれない。単なる憧憬かもしれない。人生は、まるで夢のように、あやふやと姿を変えていく』
身体は思うように動かない。もやもやした夢の空気。夢の重さ。夢の中にある重力。まどろみに束縛されている。
意識は、もうすっかり夢の中だ。誰の声も聞こえないはずの夢の中だ。しかし、船長は何か違和を感じていた。どこかでこれは夢の中であると感じていた。夢と分かりそうな意識の中、ぼんやりと瞼を開き、その違和感のするほうに視線だけ向けた。
そこに誰かがいた。自分に向かって、語りかける、誰かがいた。
「それは、記憶の見る夢。永遠に失う夢。朽ちていくはずだった有と無の集合体の願い。それは、歴史の標を複製し、世界の片隅に植え付けた。永遠に繰り返す情報。それは、歴史の記憶、大地の歴史……大地の見る夢。過去の傷跡は、母なるウナサカに消えた。しかし、ウナサカの記憶は、いまだ深く残されている……」
聞こえてくる言葉は、何か呪文のように、言葉を伝えてくる。
海の伝説、ウナサカの謎の話。神話のような話を聞きながら微睡んだので、それに引きずられた夢を見てしまったのだろうか。
「閉ざされた宇宙は、開かれた夢を見る。夢は変化を求め、旅路の行きつく先を見る。……求めるんだ。外の世界を、海を、忘れ去られたウナサカを」
声は何の法則性もない旋律に乗せて、誰に聞かせるでもないような独り言をつぶやいている。
ぼんやりする意識の中で、船長はその人物を認識しようとする。しかし、それはまだ人の形をしているだけで、まだそこに存在しないかのように、輪郭だけが白くゆれている。
もしも普通の精神状態だったのならば、この半透明な存在に背中がぞくっと寒くなったであろう。しかし、ぼんやりと微睡む意識のせいか、不思議と恐ろしさは感じない。あるいは、白い人影が、時折くるくる回って、拍子をとりながら、なんとも言えない言葉を詠っているせいもあっただろう。
船長は、この奇妙な動きをするものを凝視し続けた。意識が晴れるにつれ、その姿もはっきりとしてくる。
それは、どうにも形容しがたい、一言で言うならば「不可思議」という言葉が似合う。それは、一度見たら忘れられないだろう。その人物はなぜか逆さまなのだ。逆さまに浮いている。浮いていると言うよりも天に足をつけ、逆さまに立っている。
重力に逆らっていると言う感じではなく、違和感がない。もしかしたら、自分の方がさかさまなのかもしれないと錯覚を抱いてしまうほどに。
「気がついたかい……船長さん?」
それは、逆さまのままそう言葉を発した。淡い光沢を放つ白い毛皮付きの帽子の奥で、唇がにっと上がる。
「君は……一体?」
「名前は、しゅりるり。しゅりって気安く呼んで。それにしても、君、さかさまだね?」
目深に被る白い帽子の下から、栗色の短髪と少し青みがかった硝子のような灰色の瞳が見える。その瞳は、わざとらしく、もったいぶったように、くすりと笑う。
「そっちが、逆さまなんだよ!」
船長は、ついつい、つっこんでしまう。
「自分から見れば、君は逆さま。君から見れば、自分が逆さま。お互いに逆になるのは真実だね」
しゅりるりは言う。
「おっとと。気を抜くと、すぐ回っちゃう」
しゅりるりは、くるくる回って微笑んでいる。回転していても、目だけは合っている。その目はにやけている。絶対にわざと回っているに違いない。
そして、何回か回転した後、しゅりるりはくるりと地に足をつける。
「うん、やっぱり、地に足を付けたほうが話しやすい。何か質問があったら、受け付けるよ。ここはどこ、とか。私は誰とか」
しゅりるりの言葉を聞いて、船長は景色が見慣れない場所になっていることに気がついた。
「……ここはどこなんだ? 図書館にいたはずなのに」
「ここは『夢』……いや、『記憶』の中と言ったほうがより正確か。君が眠った場所は、膨大な記録を記憶している場所。波長が合うと干渉して、意識を連れてくる。今、君は干渉を受けて、現実感あふれる夢の中にいる」
謎しか残さない要領を得ない発言に、船長は首をかしげるしかなかった。
「しゅりさんは、なぜここに?」
「昔から観察が好きで。ここは、色々と観察には困らないし、過ごしやすいから。けれども、記憶しかないから本当に繰り返しなんだ。で、久しぶりに、人が来る気配がしたから会いに来たんだ。暇つぶしに!」
「暇つぶしって……」
「それよりも、君はずいぶんと世界の見る夢まで、近づいてしまったね」
「世界?」
「世界と言っても、そんな大それたものではなくて、なんと言えばいいのか……過去の残骸とでも言うのか。懐かしいものが動き出している、というのか。……今はもう壊れかけた、古代の眼。古代の遺産の記録。故郷を捨て移ろう者たちのユメ、キオク、キボウ。それらの記録が、時々、現実の世界にちょっかい出すんだ。
そんな夢から覚めるには、この夢を生み出している存在を満足させなくてはいけない。つまり、この夢に巣食う破壊神『クロロフルオロカーボン』を倒さないといけないのだ!」
変な流れになりつつある。船長は、どう対応していいのかわからない。無言でいるしかなかった。
「ノリ悪いなぁ、つれないななぁ……この、無味無臭人間め!」
「?」
「味気のない人間ってこと!」
「……」
正直、しゅりるりの変なテンションには、正直ついていけない船長なのでした。
「いつまでも立ち話をしているのも何だし……話を進めようか。それじゃあ、まず、はじまりはこれ!」
しゅりるりが指を鳴らし合図すると、全ての色が失われた。古い写真のように、古い記憶のように、ゆっくりと世界が色あせていく。薄い褐色の色に置き換わっていく。
「な、なんだ、この色は!」
「雰囲気つくり。そういう風に見える魔法、みたいなものだよ。過去を語る時に、こういう手法がよく使用されたんだ。ほら、見てごらん。向こうから、文字がやってくるよ」
しゅりるりが指を指した先、さっそく、文字がやってきた。
”時と共に消え、刻と共に絶え、今はもう無い世界”
”かつて……”
”伝説の悪魔『クロロフルオロカーボン』が、大気に穴を開け”
”災厄の光『菫外線』が、大地に降り注いだ……”
”融ける大地に、あふれる海”
”死んだ土、死んだ空”
”母なる海を失い、父なる大地を失い”
”そして……”
”ひとつの尊い文明が消滅した”
「これが噂の、オープニングのスクロールメッセージ、と言うヤツさ」
しゅりるりは、意味のわからない単語を言う。
「オープニング? スクロールメッセージ?」
「大昔に流行っていた遊びは、こうやって始まったものなんだ」
しゅりるりは、目を細め懐かしむように、どこか上の方へ消えていく文字を見上げていた。
「そうなのか……。いやいや、そうじゃなくて。文字がやってくるなんて、いくら何でも、おかしいよ」
納得しかけたが、船長は我にかえる。しかし、船長がどう思おうと、文字はお構い無しに次から次にやってくる。
(最後まで、待つしかないのかな……)
船長は諦め、空を流れる文章を眺めていた。
「つまり簡単にまとめると、時は満ちたから旅立ちなさい、ってやつさ」
文字を最後まで見送った後、しゅりるりは身も蓋もないことを言う。
「さて、オープニングも見たことだし……」
しゅりるりは、くるりと方向転換。船長の方を見る。
「さぁ、今こそ、旅立つのだ。船の一族を統べる者よ!」
満面の笑みを浮かべ、おおげさに両手を挙げた。
「……しゅりさんは手伝ってくれないの?」
しゅりるりは、片目をつぶり、人差し指を左右に振った。
「『君が』この世界の主人公に選ばれたんだ。神の気まぐれ、暇つぶしに。自分は干渉できない、ただそれを鑑賞している傍観者なのだ!」
しゅりるりは、神の手のひらに転がされる様子を見て、楽しむつもりなのだ。
「でも、ただ観察しているだけは暇だし……。少しは手伝おうかな?」
しゅりるりは、そう言い、「うふふ」と笑う。
「船の一族を統べる者よ! これを与えよう! 受け取るが良い!」
しゅりるりが合図すると、銅の金具が美しい宝箱がふたつ足元に現れた。片手で持てるくらいの小さなサイズである。
「片方がほんの少しのお金。もう片方が、桧製の棒だよ」
箱を開ける前に、中身をばらしてしまう。
「……それは、役に立つの?」
「さぁ? でも、これも遊びのお約束なんだよ」
こうして、二人は旅立つことにしたのです。
「……どこへ?」
「さぁ?」
二人に、最初の試練、最初の難関が立ちはだかる。
どこへ向かえばいいのか、さっぱりわからない。
「しゅりさんは、よくここにいるんでしょ? 本当に知らないの?」
「はっはっは。自慢じゃないけれど、この世界については、まだ何にも知らないよ。この夢のすごいところは、まったく同一になることはないということなんだ。訪れるたびに変化する不思議な世界なんだ。だから、どこに何があるのかは、今の段階では、さっぱりなのさ。
でも、助言は可能だ。これは一応、君の夢でもある。君が念じれば、どこへでも行ける。破壊神ところへも、どこへでも」
色々と突っ込みたい気持ちは、心の片隅に置いておく。
「……そう簡単にいくものなの?」
「だって、これは夢。何でもありなのだ!」
「そう言われてもなぁ……」
夢とは分かっていても、常識と言う壁が、突拍子もないこの現実に対応できず、想像を阻む。
「そうだ! この木の棒で、進むほうを決めてみよう。ほら、船長さん。やってやって」
しゅりるりに促され、宝箱に入っていた棒を地面に立て、倒す。棒は、森の方を指している。
「あの森の中にきっと、破壊神のいる場所がある。絶対に」
しゅりるりは、確信を持っているかのように言う。
「いい加減だなぁ……」
「君がそう思うだけで、それは現れる。ここはそういう世界なのさ」
「本当かなぁ」
しかし、言われるまま、森の方角へ進むしかない。
森の木々は空を完全に覆い隠すことは無く、それほど広くもないようだ。いたって普通で、土の道もなんとなく整備されている。散歩するにならば、良い森かもしれない。
「空箱の使い道って、なかなか思い浮かばないよね……」
道中、しゅりるりは、ずっと後ろ向きで歩いている。前を見ずに歩いているにも関わらず、転んだりぶつかったりしない。しかも、ニ個の箱を宙に投げては受け取っている。箱の動きは不規則で、よくもまぁ、不安定な形のものを、器用に操れるものだと、船長は思う。
「おっ、いいところに……」
突然しゅりるりは、空箱を勢いよく草むらに投げつける。何かにぶつかるような鈍い音がして、爆発が起きた。煙の合間から魔物が吹っ飛んでいくのが見えた。
「君も気をつけるんだ。物陰に隠れて、襲う機会を狙っている魔物がいるから」
「え、あ、はい……」
しゅりるりがいる限り、魔物に気がつかないことはないように思えるのだが。
「さて……もう片方は、どうやって使おうか……」
しゅりるりは、残った空箱を片手でくるくる回している。いたずらっ子のような笑みを浮かべて。
「……あれ? 殺気ありありな、たくさんの魔物たち、いなくなった?」
待ち伏せが効かず、そして、なぜか爆発する恐怖に、魔物は逃げ出してしまったのだろうか。
「多分、もう役に立ってるじゃん、その空箱」
その箱がある限り、魔物は襲ってこない……そう思えてしまう。もはや、何を突っ込んだら良いのか、船長は分からなくなっていた。
「あはは。さてさて、こうしている間に、向こうに何か見えてきた」
緑に埋もれた石造りの巨大な建築物が、姿を現したのだ。
(あぁ、こお世界は本当に僕の夢なんだなぁ)
きっと、頭のどこかで、そう、思い浮かべてしまったのかもしれない。そこに船長が思い描く、いかにも神殿という感じの建築物が、そこにあった。
「道を示されれば、道は現れる。さ、入ろう。きっと、破壊神さまが奥でお待ちかねだ」
神殿の入り口の扉は、幾何学的な紋章が対称に描かれている。昔は魔術的な力で人を感じると勝手に開いたのだろうが、今は開かない。神殿は草木の浸食が激しい。ツタや木の根にも覆われていて、簡単には開けられそうにない。人が踏み入れることがほとんど無い場所にある神殿は、自然の手によって地に還るのを待っているだけであった。
「この植物たちを盛大に燃やして、扉を壊してもいいんだけれど?」
「こんな森で、火は危険だよ」
しゅりるりなら、やりかねない。
「じゃあ、さっき、ちらっと見えたんだけれど、あっちに盗掘した人による入り口があったんだ」
しゅりるりの、目ざとい視力のよさ。
「盗掘って……。もう、何も残っていないんじゃ?」
船長は、頭痛にも似た頭のくらくらを感じてきた。
「盗掘者の目的は眠る財宝だけれど、自分たちが求めるのは、眠る破壊神。彼らとは競合はしないから大丈夫。さあ、入ろうか」
盗掘の穴は、だいぶ昔のものらしい。木の根が崩落を防ぐかのようにしっかりと根付いている。
木の根に覆われた入り口をくぐり、梯子の変わりに根を伝い、石の床に降りる。
鏡のように姿が映る透明色の壁、黒い床、合間から覗く光の柱。凍りつきそうなほど透き通った空間。人工的な造り、彫刻、神殿の内部は、外とはまったく異なった雰囲気を醸し出している。
ニ人はしばらく誰も何も言わず歩く。気軽にしゃべれるような雰囲気ではないのだ。何年も何十年も動かない時の流れが、沈黙の音しか許さない。
その沈黙を破ったのは、しゅりるりだった。
「さて、一つ話をしよう。……勇者が現れる前に、散々破壊と殺戮を続けてきた魔王が死ぬんだ。それを、まだ、人間たちも魔王の手下たちも知らない」
しゅりるりは、突然言い出した。
「それは、物語としては成り立たないよ……」
「君がそう思えば、そうなってしまう可能性もゼロではない」
「いくらなんでも、そんな結末は嫌だなぁ」
船長は心からそう思う。
「冗談はさておき、こういう場所では、罠には気をつけないといけない」
しゅりるりが、そう言い終わらないうちに、何か音がした。そちらの方を見てみると船長が慌てている。
「い、今、何か踏んじゃった」
船長は、床に隠されていたスイッチを踏んでいた。
「それは間違いなく罠だね」
しかし、特に何も起きる様子がない。
「きっと歯車がさび付いているとか、仕掛けが腐ったとか? あるいは、もうすでに誰かがかかってしまった後で罠を仕掛け直す人がいなかったか。なにせ盗掘された後だし。夢とはいえ、ここはある程度は現実に忠実だから」
何せ古い神殿なのだ、罠が老化で動かないこともあろう。
「そんなところを、再現しなくても良いのに……」
そんなこんなあって、通路を進み行き着いた先は少し広めの部屋であった。上の方に入り口のようなものが見えるが、垂直の壁を登って行けるような場所ではない。部屋には階段のようなものも無い。何かあるとすれば部屋の中央で宙に浮かぶ菱形の岩。岩に刻まれている幾何学的な模様は、薄っすらと光を帯びている。
「これは、上階へ移動するための装置か。てい!」
こういう類のモノは触れると、その魔力が発動するのだ。しゅりるりは、ぺちっと右手で触れてみる。
空間が縦に伸び、横に伸び、そして渦を巻き、空間の歪みと共に浮遊感が襲って……こなかった。
触れてもまったく反応しなかったのだ。
「むぅ、昔のものぽいし、魔力切れ?」
こういう探索では、最初は仕掛けが動かないことは良くあることだった。
「まぁ、上に移動するだけだし」
しゅりるりは宙に浮き、当たり前のように飛んでいこうとする。
「待って、僕は飛べないよ」
船長は飛べない。
「これは夢なんだから、船長さんも飛べる飛べる」
「ええ! 急に言われても」
夢とは感じていても、人は飛べないという現実が、夢の力の邪魔をする。
「なら、岩壁登攀を、してみよう! 夢だから疲れ知らず!」
「こんなツルツルな壁は、誰だって無理だよ」
しゅりるりの無茶な注文に、思わず突っ込んでしまう。
「ん~困ったなぁ。自分以外のモノを『安全に』宙に浮かせる魔法は、苦手なんだよねぇ。……それでもいいなら」
笑みを浮かべながら、しゅりるりは、その魔法を唱えようとする。
「だめだめ、だめぇぇ」
船長は即座に断った。
「しょうがないな……。なら、あの岩を何とかするか」
しゅりるりは再び岩に触れる。
「ここの回線を切って、手動発動に切り替えてっと……」
光る文字を次々に。魔方陣に新たな模様を付け加えていく。
輝く美しい造形の文字を、どうでもいい落書のような速さで描き足していく。
――幾らかの時間がたって。
「回路を刻むなんて、久しぶりで楽しくなっちゃった。無駄に暗証番号機能つけちゃった。間違うと入り口に飛ばされるよ」
「うわぁ、極悪」
船長はつぶやいた。
「この夢が終われば、すべては初期化して、消えてなくなるから、大丈夫さ」
「暗証番号……必要あった?」
何はともあれ今度は魔方陣は正しく発動した。しかし、何事も無くというわけにはいかなかった。問題がひとつだけあった。船長がふらふらだった。転送酔いである。
転送酔いをした船長の回復を待って、出発したのでした。
神殿の終着点は開けた広場であった。白亜色に輝く柱が五本、円形に並んでおり、その中央に黒い靄が浮かんでいる。
「あの黒いもやもやな気体が破壊神クロロフルオロカーボンだよ。さ、行こう」
邪悪を前にしてしゅりるりは、緊張感のない調子で言う。
「これからどうなるんだろう……」
流されるまま来てしまった船長は、渋々しゅりるりに続いた。
二人が黒い靄の前に立つと、靄は眼を開いた。
「ここは過去の遺産、過去に囚われた記憶、過去の過ちの収集所。……現在に在り、未来へと至る異邦者よ、去れ」
靄の向こうで、黒く開いた瞳が見つめている。
「……返事は? 去りませんって」
しゅりるりは、小声で促す。
「……え」
本音は帰りたいのだが、それはしゅりるりが許さない。
「さ、去りません」
仕方なく船長はそう返事する。
「悪夢を目の前にして、それでも進むというのか……」
破壊神は靄の中で、笑んだように見えた。
「我が名は、破壊神クロロフルオロカーボン。異邦者よ、覚悟するが良い」
破壊神がそう名乗ったのが合図だった。天を蝕み大地を侵す神が悪夢の力を得て、具現化していく、だんだん形を創っていく。
「巡る廻る長い記憶……過去を紡ぐ夢、現在を創る者、未来を行く望。世界は黎明の見る夢。逢魔が時の幻。終焉の民は未だ箱の中。海に映る羊を数え、果て。狂々回る悪夢の終焉歌」
破壊神は文言を唱え、片手を挙げる。闇の底から顕現する魔力は床に魔方陣を描き出す。
大気が緊張に震える。湿気を含んだ生暖かく重たい風が吹きつけてきた。澱んだ黒い空は、獣のような嗤い声をあげる。何が起こるのか、脳に写る暇もなく、漆黒の塊が全てを覆った。飲み込まれる世界。それは、深淵の底にある。光の影、光の形。重々しい鼓動が響く。静寂の空間を破らぬように、闇が現れた。
全てを奪う悪夢。それは全てを飲み込む。そこは、破壊神の得意とする空間、歪んだ世界であった。
闇の光でできた破壊神の手から、いくつかの闇が放たれる。
闇が船長の側をかすめる。触れていないはずなのに、皮膚がひりひりと、焼けるような感覚を覚えた。
闇の被弾した大地。そこは何も残らない空間が残される。変色して何もない混沌だけが、存在している。
雷光が、空を駆け抜ける。時を刻む振動が重々しく、鋭く胸に響き突き刺さるようだった。船長は、その重苦しさに耐え切れず、ついに膝に手をついた。
一方でしゅりるりは、破壊神を前にしても平然としている。それどころか、破壊神の繰り出す魔法を受けても傷一つついていなかった。
「ど、どうして……しゅりさんは、平気なの?」
そう言っている間にも、また一つしゅりるりに闇の光が直撃した。爆発や爆風がその魔法の強力さを表している……はずなのだが。何も感じていないかのように、当たった瞬間には瞬きさえもしていない。風になびきやすそうな白いマントでさえも、ピクリとも反応しないのだ。
「……この世界には干渉していないから、干渉されないんだ。それに……(これは、夢だから。悪夢に飲まれないで)」
しゅりるりは、船長の耳元でささやく。
(そうだ、これは夢だった。すっかり忘れていた)
そう知ってしまうと、重圧も恐怖もほとんど感じないような気がした。
混沌が揺れて澱む濁った大気、溶ける大地、現れる赤い炎。これらは、幻。単なる恐ろしい夢。
そう、破壊神の言うとおりこれらは悪夢なのだろう。しかし、悪夢は夢でしかなく、現実ではない。希望を取り戻した船長は、立ち上がった。
しかし、そうと分かったところで、どうしたらよいのか分からない。対抗できそうな武器を何一つ持っていないのだ。
「困っているようだね。ならば、あれを使うんだ!」
船長の心を察したのか、しゅりるりは助言する。
「あれって、何?」
「あれと言えばあれさ。宝箱に入っていた硬貨だよ」
「そんなの何に使うんだよ……」
船長は、ため息混じりにつぶやいた。
「ふっふふ、何を隠そうその硬貨は、神殺しの英雄の血と骨粉と多孔性金属錯体を材料にして、ギュッと『硬化』して造られているから、有害な気体ぽい破壊的な神の属性を持つモノには『効果』抜群。『高価』な『硬貨』だけに! そう思うと、なんて強そうに思える硬貨!」
なんて都合が良い設定。取って付けたようなご都合主義的な……寒いギャグの。
「この世界では、お金なんて必要なかったから、この硬貨の使い道ずっと考えていたんだけれど、これで無事に解決、解決」
しゅりるりは、硬貨の使い道を見いだせて非常に満足しているようだった。
「使いみちがなかったのならなんで、硬貨をあの宝箱に入れたんだよ……」
「宝箱の中身には、少しのお金と、木の棒を入れておけば間違いないと、大昔の王様が言っていたから」
「どこの王様だよ、それ」
よくわからないが、船長は硬貨を握り締めた。しかし、船長の動きがそこで止まる。
「これ……どうやって、使うんだよ……」
普通、硬貨は戦闘の武器としては使わないのだ。
「掲げてみたり、口にくわえてみたり……あとは、投げてみる?」
しゅりるりは、本気か冗談か分からないような提案をする。
「……ええい、もう、どうにでもなれ!」
船長は、硬貨を破壊神に力いっぱい投げた。弧を描きながら硬貨は、破壊神の元へ煌く。いくつもの眩い光の矢となり、破壊神に突き刺さる。穢れたモノを浄化するように、矢が刺さったところから、白い煙を上げ、破壊神は小さくなっていく。
「切れない思惑、切ない思い。……悪夢の中のひとつの希望……」
最期の言葉を発し、破壊神は安らかに消えていく。
それと同時に、世界が揺らぎ始めた。目が覚めていく、夢が終わるような、そのような白くとけゆく世界。
「ああ。もうそろそろ、お別れだね」
しゅりるりは、言った。
「悪夢は倒しても、完全には消えない。これは、何回も攻略されるゲームのようなもの。再び、はじめに戻って、悪夢は復活してしまう。でも……」
しゅりるりの姿もついに風景に溶けはじめる。
「……それでも君は、一時の安息をこの世界に与えてくれた」
微かに残る感謝の気持ち、救われた夢の記憶が、確かにそこにはあった。
「ふふふ。また会おうね」
その言葉が言い終わるか終わらぬうち、その姿は、世界は、すべて消えさった。
机に乗せていたひじがずれて、上半身が一瞬、重力に逆らうことなく落ちる衝撃に、船長は、はっとして眼を覚ました。
部屋を見渡してみれば、そこは変わらぬ図書館の薄暗く変化のない空間があった。
静寂の反響する閉ざされた気配、古い本の匂いで満たされる空気。ここは、管理された記憶が集まる小さな世界……妙な気分が、感覚が、完全な覚醒を妨げている。
「変な夢を見てしまった……」
視界の端では、シルルの講義が、まだ続いていたのが見えた。さほど時間は経っていないようようだ。
夢は終わっても、シルルの話は終わりそうにない。船長に、再び試練が訪れるのでした。
★よんよんの秘密の日記「ゆめみて ゆらゆら ゆかいそう」★
ゆらゆらゆれて さまよう かいそうに なったゆめ みたよーん
うみのうえには すばらしい なみがあって もっとゆらゆら ゆられていたいよーん
すいめんを ぼうけんする にんげんさんは
あかくて かっこうよくて けむりをはく ふねのうえで
ゆらゆらしすぎて くらくらしていたよーん
おいら くらくらするのは いやだよーん
そういえば おいらは もともと さかなだから みずが ゆらゆらしても へいきだよーん
おいら さかなに うまれて よかったよーん