17・そして神はいなくなった。
『北の空では織姫星が、南の空では水先案内人が、航海の女神となって、見守る時代。
星の位置を測り、方角を導く船乗りたちは、女神に航海の安全祈り、今日も海を帆走る音を聞いていた』
この湖唯一の帆船には、日々たくさんの人が訪れていた。
船の上で、魚を釣る人。
村と街を行き来する人。
何かを求め、旅する人。
そして、この船が行くところ、何かが起きていた。それが日常。それが普通の日常の風景であった。
しかし、もうすぐそれも見ることができなくなる。それが日常ではなくなってしまう。
移り住む人々と、動物の番たちが全て船に乗り込んだのを確認すると、テースキラとアラクは御神木の前に立つ。
この世界に根を張り、世界を支える御神木は、世界のすべてを司る。その機構を操作することで、船をこの小さな世界の外へ導くのだ。
「起動、」
テースキラは、導きを標す儀式を開始する。機械にしか出来ない正確性で、その操作は滞りなく行われていく。
テースキラが取り仕切る横で、アラクは己に宿る力を使う。
「私の左手には地の恵み、地の基、地の球。私の右手には天の恵み、天の礎、天の球。消滅と復元を繰り返す世界に、祝福を……」
言葉が文字となり、重なり逢う。開放された言霊は、閉ざされた世界を開き、新たな地に接続する呪文は、全てを解除する。
言葉は進む。
小さな世界は震える。
白銀の神鳴の稲妻が、龍のごとく晴天を翔ける。空が漆黒に裂け、空間は捻じ曲がる。
外と中。
天と地。
世界の境界が揺らぐ。
海の境、ウナサカの扉が開かれていく。
巨大な船は重力に反し、宙へ浮かび上がる。湖の飛沫に導かれ、歪んだ穴へと吸い込まれていった。
閉ざされた世界から、希望はあふれ出す。
現れた標に乗って、船は進む。船に乗った小さな世界に生まれた者たちが、無事に青い星の海に着水するのを見届ける。
世界の外と中を繋ぐ扉は、船が旅立つと共に閉じられた。世界の外へ出た彼らのことは、見守ることしかできない。直接、手を差し伸べることは、もうできないのだ。
「……彼らが過去を振り返ることのないよう願う、」
過去の膨大な記録を知るテースキラに、また一つ歴史が刻まれた。この世界のシステムが滅びぬ限り、その記録はテースキラの中で失われることはない。
「そうだな……」
今ではもう朧げな遠い昔の記憶がアラクの脳裏に浮かぶ。
「きっと大丈夫」
しゅりるりは、しんみりとした空気を壊すような明るい調子で言った。
船内には、食料を生み出す「畑」もある。新天地に降り立ち、生活の基盤を築くまでの間は船内の「畑」で食料は賄えるだろう。
そして、畑で賄えないほど人が増え、生活が安定し、世界が広がる時、本当の意味で彼らは、独り立ちしたとも言えるのだ。
「このまま潮に乗って航行すれば、大きな島に着く。そこが彼らが降り立つ新天地。始まりの場所になる」
しゅりるりは、まるで見てきたかのように言う。
「師匠はどこからその情報を得ているのか、いつも疑問、」
「君が知ることができることなら、大抵の事は知っている。君という個体は基本的に、この世界の中しか把握していないよね。たまには外の様子を記した情報にアクセス見てごらん」
「……外には外のがいる。ボクが、それらを知る必要性は感じない、」
「君は律儀というか、本当に硬いなぁ……」
しゅりるりは、笑顔を作る。
「しゅりは、もう行くのか?」
「そう。ここで見るべきものはもうないから。寂しい?」
「そんなことはない。静かになって良いくらいだ」
しゅりるりとアラクは軽口を叩きあう。
ここから分岐する未来は、 いくつもの次元と、ありとあらゆる時間軸が複雑に絡み合って存在している。
世界を観察する時、不確定の事象は確定し、世界はひとつの結果を顕現させる。
そして、結果を見届けた後は、再び『どこか』へ行くのだろう。
それを、アラクとテースキラはよく知っている。
「世界が『無と有』に移ろう限り、『何か』ある時は、また見に来る。……じゃあ、また」
しゅりるりは帽子を目深に被りなおすと、にっと笑う。そして、その姿は見えなくなった。
「……これだから、自由気ままな神出鬼没は」
しゅりるりの姿が消え、アラクとテースキラは言葉を交わすことなく、何事もなかったかのように、自然と自分の住処へそれぞれ戻っていく。
彼らはこれからもずっと、今までのように、あり続けるのだ。何一つ変わらぬ、しかし、孤独になっていく場所で、日々をずっと過ごしていくのだ。
それに対してどうこう思う感情、寂しさを感じる心は、すでにない。
人ならざる身体ではあるが、この日のためにずっと稼働し続けた。この身体は修復を求めている。
形だけ整えた、どこか無機質な部屋にて。来客があるとき以外にほとんど使うことがないソファーに腰掛けた。
役目を終えたこの小さな世界は、遠くに旅立つ運命にある。これは収集された情報を見ても明らかなことであった。毎年数cmずつ、目で見ても分からないほどの速さで、あの青い星から離れていく。
完全に、かの星の重力圏から開放されるのは、何万年、何億年後になるのか分からない。
その時、世界はどうなっているのだろうか? 再び星の環境が破壊され、宇宙の海に生命は逃れなくてはならなくなっているのか……
この宙のうみに浮かぶこの楽園が、再び利用される事がないよう祈りながら――その瞳を閉じた。
それは、久しぶりの休息であった。
★よんよんの秘密の日記「たびだちのとき」★
きょうも ふねは ゆらゆらゆれているよーん
はぐるまは くるくるまわって めがまわるよーん
そんな すてきな はぐるまは きょうも まわるよーん
うんめいってやつに みをかませて まわっているよーん
あちらこちら せかいを かけまくるよーん
おいらも おふねのなかを たんけん しているのよーん
いくら おふねのなかを さがしても
あの さんにんの かみさまたち みつからなかったよーん
どこか いっちゃったよーん
かみさまは もう とおい ところに いるらしいよーん
せかいには もう かみさまは いないけれど
みんなが いるから きっと うまくやっていけるよーん
★次回予告風おまけ★
「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」
- 創世記7章11節-
1つの湖と1つの島と1つの船。
それが、この世界の全て。
この世界は「箱の中」のようだった。
いや、本当に箱の中だった。
あらゆる獣、空を飛ぶもの、地を這うものを乗せて、
古代の遺産「ほしのうみの船」の着いた先。
そこに何があると言うのか?
広い世界を求めて、海を求めて……
少年は、今旅立つ!!
「みずうみのうみの船」最終海『湖の海の舟』
「見てくれないと、いやだよーん!」