仔猫とモヤモヤと胸の痛み
「あの…直さん」
「…ん?」
とろんとした目が、珠稀に向けられる。
少し擦れてのんびりした声で彼は先を促すが、珠稀は言葉に出来なかった。
だいたい、『大丈夫』かと聞いたところで、答えなどわかり切っているのだから。
赤い顔とゆるやかな口調、支えきれずに揺れる身体に潤んだ血走った目、熱を持って腫れぼったい目元。
彼はいま、十分過ぎるほど傷心の状態でいた。
珠稀にとって事のはじまりは、兄の一言からだった。
「今晩は、直の失恋慰め会だからな」
「はぁ……はぁっ!?」
適当に聞き流していた珠稀は、意味を理解した途端に
ひっくり返った声を出す。
それを聞いた兄は、おかしそうにゲラゲラ笑う。
「お前、人の不幸を笑う何て性格悪…いてっ!」
「笑ってんのは、お・ま・え・だっ!!」
平手で、バカなことをいう兄の頭を叩いて制裁を加えておく。
「いってぇな。でも、まったくなかったわけでもないだろ?」
「…料理多めで作るから、材料買ってきて」
複雑な妹の心境など繊細さに欠ける兄はわかるはずなく、肩を竦めて家を後にした。
「………」
珠稀は冷蔵庫を開けて、そして閉めた。
中身が足りないのはわかっているし、まだ準備をするには時間が早いため、無駄な動きである。
そう、無駄な動き。
もっとはっきりいえば、兄の言葉に動揺していたのだ。
兄の友人がまた犬江家に来るようになり、そこに兄の恋人も加わって四人でクッキーを作っているときにやってきた“カノジョ”。
彼女は、ただの“野良猫”程度ですら排除しようとしていたのに、どういう経緯で別れたのか珠稀にはまったく理解出来なかった。
まさか、自分の存在に脅威を感じてー…などと冗談でも思えない。
むしろ、何かの拍子にあの日に兄の恋人が犬江家にいたと勘付いて喧嘩して売り言葉に買い言葉で…というのならばわかる。
どうもあのカノジョは、少々攻撃的なタイプらしいからつい一言余計に出てしまったのだと、だいぶ兄の友人のカノジョに対してきつめの評価を下す。
惚れた欲目だろうか、珠稀には彼が別れる要因を作ったようには思えなかったのだ。
珠稀は、偶然見てしまった彼とカノジョのデートしている姿を思い出す。
あんなに甘くて優しい目をして、カノジョを大事にしていた彼がどれほど落ち込んでいるか。
所詮は友人の妹でしかない珠稀だが、落ち込む彼を慰めたいようでいて、別れた恋人を想う姿なんて見たくないとも自分勝手にも感じてしまう。
溜まったモヤモヤしたものに胸が圧迫されて、珠稀は無意識に心臓の辺りを押さえる。
そんなことでモヤモヤが晴れるわけでもなく、珍しく兄の友人が来ることに対して深い溜息を吐くのだった。
珠稀の兄は酒が好きというよりも、仲間と集まることに重きを置くタイプなのだろう。
だからいつも、主催側のくせに真っ先に潰れるのだ。
「あはまかうな」
「あ~、そうだな」
むにゃむにゃとどこかの星の言葉をしゃべる兄に対し、ビール片手にその友人はまともに返している。
そのほんの数分前の兄から「のおかにあおさは?」に対して「自分の星に帰れ」と返した珠稀とは雲泥の差だ。
シラフであり、かつ飲酒の経験がない人間にとってはとんでもない醜態であるのだが、この状態が普通なのか。
唾を飲み込む珠稀は、飲酒に対していまから恐怖に戦いていた。
「かあとたさのな」
「わかった、わかった。後は任せてもう休め」
「なはあ…」
何を気にして何に安堵したのかは不明だが、安心したように頷いた兄は感謝の言葉らしきことを呟いてそのまま崩れ落ちた。
どうやら寝落ちしたようだ。
ソファに掛かっているブランケットを兄に被せてくれた兄の友人は、何てこともないようにビールを飲み干して新たな缶を開けて手酌する。
「あの…直さん」
「…ん?」
振り返った彼の目はとろんとしていて、焦点が合っていない。
彼は傷心していた。
それは、今の彼を見ればよくわかるはすだ。
何せ…。
「飲み過ぎです」
どう見てもシラフではなかった。
彼の前に並ぶ、空の缶を回収する珠稀は顔を顰める。
アルコール類は兄とその友人が持ち込んだもので珠稀は内容を知らなかったのだが、ビールの他に酎ハイが混じっているのだが、可愛らしいパッケージの割にアルコール度は高かったのだ。
今はビールを飲んでいるが、それらをチャンポンでバカスカ飲んでいたら酔うのは当たり前だろう。
そんなこと、飲酒経験のない珠稀でもわかる。
空き缶は後で水ですすぐとして、更に彼が持っているビールの缶と中身が残っているグラスを奪い取った。
「たま…」
彼の少しムッとした顔は、見たことがないものであったが、決して怖いものではない。
何となく、小さな子どもが頬を膨らましているような微笑ましさがそこに感じられた。
珠稀は真面目な未成年のため酔っ払っていないはずなのだが、身体の大きい男に対して妙な感想を抱いている。
「まだのめる」
「こんなに酔っているんですから、もう十分ですよ。お水持って来ますから」
「…よってない」
「酔ってますよ」
酔っ払いにとの「酔ってる」「酔ってない」という、不毛なやり取りを繰り返す羽目になる。
「飲み過ぎですって。これで、直さんが倒れたりしたらと思うと心配なんですよ。だから、もう飲むのやめましょう?」
別に埒が明かなくて、泣き落としに走ったわけではない。
タイミングはどうであれ、この言葉は珠稀の本心である。
まあ、珠稀が心配するのも無理はないのだ。
通常であれば、兄を介抱するのは腕力的な関係もあって彼が行ってくれているのだが、そのためかここまでわかりやすく酔うほど飲むことはなかった。
元々、酔いが出にくい体質なのかもしれないが、顔が赤くなることもなければろれつが回らなくなることも、寝落ちすることもなかったのだ。
「それって」
「はい?」
「おれがおもっていたのと、ちがうからか?」
「…どういう意味ですか、それ」
「げんめつしたかって、きいてるんだ」
『幻滅』…誰が、誰にいった言葉か。
部外者でしかない珠稀は想像するしかないが、彼のつらそうな表情から察するに、それは正解なのだろう。
「幻滅って、何様のつもりですかっ!」
ここではきっと、激昂してはいけない場面だったはずだ。
大人しく、せいぜい『そんなことないです』ぐらいに留めれば良かったと冷静になったときにはいいたいことはいい終えてしまっていた。
「そりゃ、好きな人にいいところは見せたいでしょ!逆に見せたくないところは隠したいし!それを見たからって、幻滅だなんてっ!」
珠稀はまったく関係ない立場である。
彼が恋人にいわれた『思っていたのと違う』場所も、別れた原因がそこにあるのかどうかも、だとしても別れるほどのことなのかも、そもそも珠稀の返答が彼の質問の答えになっていたのかもわからない。
ただ…そんな言葉を、自分を擁護して別れた恋人を責める言葉を望んでいたわけではないというだけは、珠稀にはわかった。
「たま…」
緩く首を振った彼は、愛称で呼んだっきり何もいわない。
しかし、その悲しそうな表情だけで珠稀の胸を容易に抉ってみせた。
彼はまだ、別れたとしても恋人を大切に思っているのだと、ありありと見せ付けてくれたのだ。
首を振ったことで頭がぐらついたのか、彼は額を押さえながらテーブルに伏せ、呻き声を出していたがしばらくしたらくったりと身体から力が抜けた。
微かな寝息が聞こえるところをみれば、兄同様に寝落ちしたようだ。
客間から毛布を持って来た珠稀は、それを掛けてやりながら普段とは違う彼に対して複雑な思いを抱く。
そして、そこまで想われていたカノジョが羨ましくて、妬ましくて…そして恨めしい。
別れ話だけで、ここまで普段穏やかで理性的な彼が変わってしまうのかと不自然に思うのは、珠稀が付き合ったことも別れたこともないからだろうか。