猫は恋よりケーキ
「あぁ、直にカノジョが出来た」
あっさりと兄に答えられたのは、卒業式から大分経ってからだ。
いや、聞いたのが今なだけで本当はずっと前に知っていた。
「…なんだ、そんなにショック受けてないな」
「余計なこといってないで、さっさと出掛けたら?いつも美織さんを待たせてるんだから、たまには迎えに行くぐらいしたらどうなんだ?」
「いってきます…」
しょげた背中に、哀愁は…大して漂ってはいない。
自業自得なので、珠稀がその背中に思うことはなかった。
卒業式後、予定されていた食事は父親が急な仕事の呼び出しを受けたことで呆気なく取り止めとなる。
食事自体は、後日日を改めて行ったものの、兄の友人の姿はなかった。
そこからケチが付いたのか、それとも珠稀の不純な気持ちを察したのか、兄の友人が犬江家にやってくることはなくなってしまったのだ。
兄が出掛けて一人きりになった珠稀は、脳裏にいつか見た光景を思い浮かべて萎れて項垂れる。
微笑んで相手を見詰める兄の友人と、親密な態度の女の人。
組んだ腕に、しな垂れ掛かるメリハリのある柔らかそうな身体。
珠稀は自分の身体を見下ろして溜息を吐いて…我に返って首を激しく振った。
気にする箇所が違う。
彼の視線も笑顔も甘くて、寄り添う距離の近さに親密さが現れていてー…その後の自分への態度との落差に泣きたくなる。
あれではまるで、近所の野良猫に声を掛けているようではないか。
肩を再度落とす珠稀の耳に、玄関のチャイムが鳴るのが聞こえてきた。
特に来客の予定は聞いてはいないが、母がハマっている通信販売かと思ってドアフォンを取って珠稀は硬直する。
「にゃー」
「……」
玄関を開けた第一声は、猫の鳴き声だった。
しかし、そこにいたのは成猫ではなく、珍しくニヤリと意地悪そうに笑う兄の友人である。
正常な人間ならば、久し振りに訪ねてきた兄の友人がいきなり猫の鳴き真似をはじめたら硬直してしまうだろうが、珠稀は戸惑いとほのかなよろこびくらいしか感じてなかった。
まぁ…猫の鳴き真似の含む意味もわかってはいる。
あの日の行動を揶揄するための鳴き真似だとわかり、珠稀は赤面した。
明くる日のこと、少ないお小遣いをやりくりして購入したケーキの箱を抱えてニヤニヤしているところ、やたらとイチャイチャしているカップルと遭遇したのだ。
気付いたのは珠稀だけで最初、兄の友人はまったく気付いてはいなかった。
たぶん、甘えた声でしな垂れ掛かって来るカノジョに視線は釘付けだったからという理由により、周囲は視界に入ってこなかったのだろう。
まさに“二人だけで世界は回っている”状態である。珠稀のニヤケ顔が消え、硬直したのはそれに引いたわけではないが、彼女の心には大きなダメージを与えたことは事実であった。
「…タマ?」
こちらに目を向けているのだから、自分を呼んだということは十分わかっていた。
しかし今、恋人の肩を抱きながらそのあだ名で呼んでほしくはなかったのだ。
「何、猫でもいたのー?」
受験勉強を見ていた頃、兄につられて『タマ』と呼んだのをきっかけに、彼があだ名で呼びはじめたのだが、知らないカノジョからしたら知り合いならぬ知り猫に声を掛けたようにしか思えないだろう。
くっきりしたアイメイクが主張するカノジョの大きな瞳が、いるはずの可愛らしい猫をキョロキョロと探していた。
「あぁ、生意気な仔猫がな」
しかし、残念なことに可愛らしい猫の代わりにいるのは可愛げのない珠稀のみ。
揶揄する声の軽さから、自分の立ち位置が透け見えるというものだ。
所詮は、│仔猫程度。
よくて、友人の妹。
そんなことわかり切っていたはずなのに、珠稀はひどく落ち込んでしまった。
大好きで、吟味に吟味を重ねたはずのケーキが急に美味しそうに見えなくなってしまった気がして、その思いを振り払うために彼が望むように振る舞ってやる。
「にゃー!!」
人はそれを、ヤケクソという。
軽快な笑い声が、真っ赤な顔で走り去る珠稀の耳に聞こえるのであった。
…と、いうやり取りがあって今に至る。
玄関を閉めたという同時に差し出され、手を引っ込める間もなく彼が持っていたケーキ箱を乗せられた珠稀は戸惑った。
「直さんに、ご馳走してもらう理由なんてないです!」
偶然会ったときもそうだが、今日は何か特別な日ではない。
あのときのケーキだって悩みつつもご褒美として自分のおこづかいで買ったものだが、謂われのない贈り物は受け取りづらいのだ。
特に今回は、兄とは何の関係もなく、ここに来ているようだから余計にそう思う。
しかし贈った側としては、今日が特別な日とかそういうものが重要なわけではないようだ。
だから、妙な遠慮は必要がないとばかりに珠稀が返そうとするケーキ箱を押し返す。
「にゃーにゃーうるさい。子どもは素直に受け取っておけ」
「にゃっ、にゃーにゃー?」
何故に猫の鳴きマネ。
文字面だけ見れば彼らしくない程に雑な口調で、まだ続きそうな辞退の言葉をぶった切った。
しかしそこに、厚意を無下にされたときに浮かべるちょっとした哀しみや怒りじみたものや、説得しなければならないという面倒くささ感じることはない。
ただ言葉はからかう色の濃い調子で口にしていて、目を白黒させている珠稀を見る目は愉快そうに細められていた。
「かっ、からかってますね」
珠稀が真っ赤な顔で憤慨するのも無理はないが、彼はそれには答えない。
強いていうなら、ニヤニヤ笑うのが答えである。
心の底から、からかって楽しんでいるようだ。
「ところでタマ、パフェはケーキに入るのか?」
「入りませんよ」
からかわれていると相手の表情からわかった珠稀は、努めて冷静に見えるように感情を抑えながら答える。
「ケーキは小麦粉、バター、砂糖、卵を主原料にしたものを指します。つまり、スポンジやタルト台を使ったものをケーキと呼んで、ゼリーなどは本来は含まれないはずです。パフェは生クリームやアイス、フルーツをグラスに入れたものですから、ケーキという分類から外れています」
珍しく長舌になるのも無理はない。
好きな食べ物の話であるし、からかっているものの聞いてきた相手に何とか応えたいという思いからのことだからだ。
これが友人の方ではなく、兄であるのなら…また結果は知れているだろう。
「ゼリーもか」
甘いものに興味がないらしい男の人にとっては、全てが“甘いもの”に分類されて一緒らしい。
姿形だけでなく、食感が違うのに一括りでゼリーも“ケーキ”のようだ。
まあ、彼が勘違いするように、甘いから砂糖は使われているはずではあるが。
尤も、この質問納得する部分もあったので珠稀も何ともいえずに困って眉を下げた。
「専門家ではないので、何とも…。理屈でいえば、アップルパイもケーキですよ」
「アップルパイは、形からしてもケーキだろ?」
そうではあるのだが…。
「……ええ、まあそうですが、気持ちの問題です」
何というべきか、珠稀にとってはこだわりのようなものだ。
特別な理由もないので、さっさと話題を変えることにする。
「それで、パフェがどうしました?」
「いや?どう違うのかと思ってな」
関心のない人にいわせてみれば、両方とも同じように甘くて生クリームとフルーツを使っているものだ。
確かに、疑問に思っても仕方がないのかもしれない。
珠稀は素直に信じて、ケーキの箱を両手で大事そうに掲げてお辞儀した。
「ありがとうございます。いただきますね」
自然とニヤケてしまう珠稀に、兄の友人はやっと見慣れた優しそうな笑顔に戻った。
あれか、ニヤケ顔がおもしろいのか。
若干、恋する乙女としては複雑ではあるが、明らかに足取りが軽くなる珠稀とその後に続いてもう案内の必要もない彼は犬江家のリビングへと入った。
鼻歌交じりでいそいそとダイニングでコーヒーの準備をしてから、リビングに戻って提供者の前で箱を開ける。
正式なマナーとしてはどうかと思うことだが明らかに一人分ではないし、短い時間でも一緒にいたい…あと、食い意地が張っていると思われるのも嫌なのでこうして彼の前で箱を開いて珠稀はつり上がり気味の目を見開いた。
「これ」
珠稀の目には、この間のケーキと同じように…いや、それに付属するものも加わって更に輝きが増して見える。
きっと、あの日にケーキ屋にいたお客さんからケーキをもらった人も同じようにな気持ちなのかもしれないと珠稀は頭の片隅でそう思った。
「嫌いなものでもあったか?」
「いいえ!」
あんまりにも珠稀が黙っているからか、彼は心配そうに聞いてくるが杞憂である。
ハッと我に返った珠稀は、慌ててその心配を否定した。
「迷ってたんです、イチゴタルト!期間限定商品なんですよね!ミルフィーユは、休み限定、個数限定でなかなか見掛けませんし。うれしいです、ありがとうございます!!」
むしろ先程よりも気持ちの入った礼に…彼が引いていないか心配である。
「直さんは、どちらにします?」
珠稀は気を取り直して、ケーキを見やすいように箱の開いた面を向けながら、まず彼に選んでもらうことにする。
彼は少し考えて、ミルフィーユを選んだ。
どうやら、パイとカスタードクリームと生クリームの層と、てっぺんを飾るきらめくイチゴに心引かれたらしい。
同感の珠稀はニコニコしながら頷きつつ、手を合わせる。
「では、いただきます!」
「どうぞ」
部屋の照明に照らされて輝くイチゴの上のナパージュよりも、珠稀は目を輝かせた。
緩んだ口元は笑みを│湛え、高揚した頬は赤い。
まるで恋する乙女…であるのなら、せめて向かいに座る彼に少しでも目を向けるべきだろうが、│紅い宝石に釘付けで相手が自分を見て微笑んでいることすら気付かずにいた。
珠稀は一緒に入っていたプラスチックのフォークで上からゆっくりとイチゴタルトを切っていく。
イチゴを潰さないよう、細心の注意を払い上部を切り分け、続いてはタルト台を攻略していった。
少しずつフォークがタルト台へと沈んでいき、その部分はほろほろと崩れていく。
一口分、フォークに指した彼女はタルトの生クリームとカスタードクリームの層が直にも見えるぐらいゆっくりと口に運んでいった。
味わうためゆっくりと│咀嚼する彼女の目は、うっとりと細められている。
見るからにうれしそうでいて、幸せそうな表情であった。
「これが見たかったんだな、俺は」
「……?」
彼の呟きは、タルトに熱中する珠稀には聞き取ることは出来なかった。
ただ、彼がずっと機嫌良さそうに笑っていたことは途中で気が付いて真っ赤になって俯くはめになったがそれ以外は穏やかな時間が流れる。
ちなみに、ミルフィーユは結局、バイト先から帰宅した兄の腹に収まった。
「兄貴、それは直さんのだーっ!!」
「まあまあ。また、買ってくるよ」
猫であれば『シャーッ!!』とでも威嚇体勢を取りそうな珠稀に、兄の友人は取り成すように兄妹の間に入った。
しかしどう聞いても、珠稀がミルフィーユを狙っていたかのような解釈のされ方をしている。
「いっ、いえ!私が食べたいわけじゃなくて…あのその」
しどろもどろに、一番誤解されたくない人に弁解しようとするが、相手は笑って取り合ってはくれなかった。
尤も、この誤解のせいか、彼が何度もケーキを持って家にやって来るようになったから結果は上々…なのかもしれない。
「よかったな!ここぞとばかりに、高いのばっかり強請るなよ?」
「強請るかっ、バカ兄貴-!!」