仔猫は虚空に猫パンチを繰り出していた
「いらっしゃ、いぃぃぃっ!?」
鼻歌混じりの挨拶が、絶叫に変わる。
恋人…いや、もうすぐ夫になる人に対しての反応ではない。
二時間サスペンスの被害者ばりの悲鳴である。
憮然とした表情をする珠稀だったが、ケーキ箱の位置をキープしたまま真っ直ぐ前を向き、決して斜め上を見上げたりはしない。
何だかコワいから。
よくわからないながらも、自身でもときどき買いに行くケーキ屋に寄ってもらってケーキを選んだのは少し前のこと。
何故か、彼と手を繋いでケーキ選びをすることになる。
「手で顔を拭いたら、赤くなるだろ?」
それが彼の主張だったが、片手に持たされた兄のハンカチで拭うのを確認したら手を離してしまうのだろうか。
決心が着いたつもりで、こんなにあっさりと揺らいでしまう珠稀は、この機会を逃したくないため指摘することなくそのまま手を繋いでいた。
まあ、顔馴染みの店員さんの生温かい笑顔が恥ずかしかったが、何とか選び終わって彼の運転で向かった先のは、やたらと大きな一軒家である。
兄だけを残して玄関に向かった先、チャイムを鳴らすと思いきやドアノッカーを使う彼。
なる程、こういう家ではチャイムなど無粋なものは使わないのだと感心していたら、遠くから走ってくるような音と、続いて開く重厚なドア、そしてそこから出て来たのはあの教育実習生だった女の人だ。
そして、絶叫。
「いやあぁぁっ!ヤられる!私、ヤられるっ!!」
『ヤられる』が、『殺られる』にしか聞こえない悲鳴である。
余計に顔を斜め上に上げられなくなった珠稀は、そのまま彼女を見続けるしか出来なかった。
感動の再会を再現しろとはいわない。
しかし、せめて殺人犯に追い詰められた被害者の反応はやめてほしい。
この一連のやり取りは、二人の仲を珠稀に見せ付けているためにしているのだろうか。
「時重さん、ときしげさーんっ!!」
「いい加減にしろ。近所迷惑だ」
騒ぎ続けている彼女と彼の方を見られない珠稀は、低い声に二人して飛び上がった。
怒鳴られたわけでもないのに、萎縮させるような何かが今、彼から発せられているのだ。
「あれ、どうしたんだい?こんなところで固まって」
そんな隣からの圧力に震える珠稀たちを救ったのは、やたらとのんびりした声だった。
「優愛君、中に入ってもらいなよ」
「ときしげさぁん…」
へにょんと下がった眉が情けない彼女は、やはり表情同様に情けない雰囲気で声の主を呼んだ。
その声に甘えのようなものが含まれているのを感じた珠稀は、彼女にとって声の主が親しくて頼りにしている男の人だと思った。
「うぅっ。直先輩が、直先輩がぁ」
「こんにちは、藤枝先生」
「こんにちは。結城君とは、久し振りだね」
「…えっ?」
嘘泣きではなく、本気で泣きベソをかいている彼女は、声の主の態度に驚いて固まった。
「あっ、会ったことあるの?」
唖然とする彼女の横に並んだのは、作務衣姿の男の人だった。
頭に手拭いを巻き、手には泥の着いた軍手をしているその人は、珠稀よりもずっと年上に見えるのに少年のように楽しげに笑った。
「うん?いってなかったっけ?志良君を通じて知り合ってね。途中から、君の話してくれた“直先輩”と同一人物だとわかったんだけど、黙ってたら面白いかと思ってたんだ」
まるでイタズラが成功したかのような笑顔のその人が、たった今話題に上げた人物が後から現れた。
「おっ?玄関先で待っててくれたのか?中にいてもよかったのに、寂しがり屋な二人だな~」
「………」
軽口にイラッとする珠稀だったが、泥まみれの軍手を外す兄はいつものことながらへらへらしてした。
まあ、もやしのことはともかく。
珠稀は三人のやり取りに耳を傾ける。
「“結城”が名前だと、しばらく勘違いしてたんだよね」
「あぁ、よく勘違いされますよ」
確かに名字か名前か判断に困るだろうが、そもそも先輩を名前呼びすることは少ないだろう。
彼は普通に流しているが、その当時から親しい間柄だったのだと、珠稀は察した。
先程の迫力はどこへやら、珠稀の隣に立つ彼は男の人と和やかに会話している。
しかし、穏やかなのは二人の男の人だけで、側にいる元教育実習生はオドオドとしながら作務衣姿の男の人の顔色を窺っていた。
「あの…時重さん。お、怒ってますか?」
「ん?何をだい?」
首を傾げる男の人は、本当に問い掛けられていることがわからないらしい。
それは彼女の方もわかったようで、しばらく│躊躇した後、つっかえつっかえ言葉にした。
「せ、先輩のこと」
たったこれだけいうのに躊躇した彼女だったが、男の人の方はあっさりと笑い飛ばす。
「あははっ!どこにも怒るところはないんじゃないかな?ねぇ、結城君」
「そうですね。強いていうなら、教育的指導で頭を鷲掴んだことを謝らなくてはなりませんね」
「ほどほどにしておいてくれると、ありがたい」
彼女の様子を見ていた珠稀は、不意にある考えが浮かぶ。
ところどころに白いものが混じるこの男の人は、彼女の身内なのだと珠稀は考えたのだ。
父親にしては若いようだし、いくらなんでも兄を名前呼びにはしないだろうから、従兄なのだと想像する。
そうすれば、彼女のあの絶叫やらオドオドした態度に説明が付くと思った。
仲の良い従兄が来ているときに、恋人がやって来る。
まだ従兄に結婚のことどころか、妊娠の報告をしていなかった彼女は慌てふためいているー…なんていうストーリーはどうだろうか。
無表情なのをいいことに、そんなことを考えていた珠稀は、隣にいながらも勝手に自分のことを観客扱いしつつ彼に小声で声を掛ける。
「直さん、直さん」
「ん?どうした?」
「挨拶はしなくてもいいのですか?」
意を決して斜め上をに顔を向ければ、先程男の人と話していたときの声に見合う穏やかそうな笑みを浮かべていた彼と目が合う。
「…何の」
「もちろん。結婚の、です」
彼の笑顔が引き攣った。
やっと彼の方を向けたというのに、そんなこと部外者にいわれなくても、タイミングを計っていたのかもしれない。
余計なことだったと気付くが、すでに口にしてしまった後だ。
遅すぎる自分の判断に青褪めた珠稀に、彼は頭を抱えて呻いた。
「誰の?」
「それは…」
彼を指差そうとして、出来ないことに気付く。
その拍子にケーキ箱が傾きそうになって、慌てて胸元に抱えた。
彼も手を伸ばしてくれ、何とかケーキ箱を死守した珠稀はホッとして顔を上げるが、横から視線を感じてそちらを向く。
何故か、男の人と彼女の目が珠稀と彼へと向けられていた。
「あっ、あぁ…。お、おめでとう、結城君」
顔を赤くした男の人の態度を不審に思った珠稀は、その視線を辿ってケーキ箱を死守するのとは反対側の自分の手と…繋いだままだった彼の手に辿り着いた。
「いやぁぁっ!私の生徒がろりこ…うぐぅっ!?」
「そのネタやめろ」
彼女の反応に珠稀が慌てて手を離すのと、ケーキ箱を支えてくれていた彼の手が彼女の小さな頭を掴むのとどちらが早かったのか。
とにかく、彼女の大げさなリアクションは持ちネタのようだ。
それについてはどうでもいいが、何故、珠稀たちが祝われている。
祝われるべきは…兄の友人とその恋人だろうに。
「珠稀」
低い声が、珠稀のことを呼ぶ。
初対面のときに“ちゃん”付けで呼ばれていた名前だけど、呼び捨てにされたのははじめてのことだった。
ゾクゾクとしたのは決して、恐怖を感じているからではないはず…だ。
「珠稀、俺たちは挨拶するんじゃなくて、お祝いをいいに来たんだ」
「そーそー。結婚のな」
「えっ?」
彼の言葉に、兄が相槌を打つ。
「ちなみに、結婚する彼女は、珠稀の学校に教育実習に行ってた俺の中学時代の部活の後輩」
「相手は、この人。んで、この時ちゃんはうちの大学の講義に来てくれてた先生で、俺の友だち」
兄と男の人を交互に見る。
のんびりした、いい方を変えれば、浮き世離れした雰囲気を持つ男の人は、どう見ても兄よりもずっと年上のように見えた。
さすがに犬江兄妹の父よりも年下だが、『友だち』の年齢層が広い兄である。
あと、どうすれば先生と友だちになれるのだ。
つくづく、不思議な兄である。
「志良君の単位には、まったく関係ない講義だったんだけどねぇ」
「いやいや~時ちゃんの講義は面白いからさ~」
「そういってくれるのは、志良君と優愛君ぐらいだよ」
ほのぼのする兄と男の人。
しかし、彼女はたぶん教育学部だったと思うのだが、どういう経緯でこの男の人の講義を受けることになったのだ。
兄と同じく、単位に必要ないのにわざわざ受けたのだろうか。
そもそも、この男の人は何を教えているのだろうか、よくわからないながらも兄の友人に促されて取り敢えずお祝いの言葉を口にした。
「ほら、珠稀」
「け、結婚、おめでとうございます。柳先生、藤枝先生?」
自己紹介もしていないのに、どこの誰だかわからない女子高生に祝われてもあまり嬉しくないだろうと思いきや、男の人はにこにこしながら礼をいう。
「ありがとう」
いいのだろうか。
若干、突っ込みたい気持ちに駆られる珠稀だったが、礼をいった男の人を見詰める教育実習生だった彼女がとても幸せそうに笑っていたので、しっかりと口を閉ざしておく。
そして、生徒たちにノロケていたときの表情と、たった今彼女が浮かべる表情が同じということに気が付いた。
彼女の表情はあのとき見たときよりもとてもキレイで、『この人が好き』なのだと全身で伝えてくれるようだった。
「わかったか?勘違いだって」
「えぇ…」
しかし…それだったら彼は、またフラれてしまったということなのか。
珠稀は、隣に立つ人を見上げながら悲しく思った。
「…まだ、何か勘違いしてないか?」
彼に恋人がいなくなったことを喜ぶことも、それはそれで出来ない珠稀は苦い顔をした彼を黙って見詰めるのだった。
「あっ、そうそう。直、俺たちからのブルーベリーの苗木、運び出したから」
「あぁ、そうか。で、場所は?」
「結城君もありがとう。いただいた苗木は庭の…」
男三人は話しつつ、苗木を見に庭へと向かう。
庭があるなんて、どれだけすごい家かと思いきや、元々、男の人の親戚の家らしい。
『不便でも構わないなら』ということで、管理を兼ねて借りているのだが、どうも修繕しないといけない箇所も多く、チャイムも本来なら直さなくてはいけないのだが、仕方なく飾りのはずのノッカーを使って当座を凌いでいるらしい。
…大丈夫か、結婚して。
他人のことながら心配していると、珠稀とこの場に残っていた元教育実習生が側へと寄って来る。
近くに寄ってきた彼女は、珠稀の耳元にわざわざ唇を寄せナイショ話でもするかのように囁いてきた。
「あの日のあれ、嘘だったんだ~。ごめんねぇ?」
甘くて良い匂いがする彼女は、そう囁いてパッと離れた。
『あの日』。
彼女がそう示すのは、珠稀が階段から落ちた日のことだ。
そう、珠稀を気遣って迎えに来てくれた彼と、この元教育実習生の彼女が付き合っていると思い込んだきっかけの日である。
あの日の腕を組む二人を思い出せば、未だに珠稀の胸はじくじく痛むのに、彼女はあれは嘘だったという。
「いや~。だって久し振りに会った先輩が、女子高生を毒牙に掛けようとしていたからね。咄嗟に」
咄嗟に出た解決策が、何で腕を組んで付き合っているという嘘になったのかは謎だ。
謎の思考回路に翻弄される珠稀は、彼に恋人がいないことは自分にとっては嬉しいことなのに疑いの眼差しを向ける。
「嘘って…でも、赤ちゃんは?」
偶然会ったときのことを引き合いに出せば、彼女はバツの悪そうな表情で顔を背ける。
出来ることなら、珠稀にいいたくないような雰囲気だった。
しかし、ここで黙ってしまったら珠稀が勘違いしたままだと思ったらしい。
「…元生徒に、恥ずかしくていいにくいことなの。出来れば、笑って誤魔化しちゃいたいくらいなんだけどね~」
ここまでいって、息を吐き出した彼女は、開き直って勢い良く、その『いいにくいこと』を吐き出した。
「具合が悪かったのは…ケーキバイキングで食べ過ぎちゃって、ね?」
『テヘッ』と笑う彼女はとても可愛かったが、頭が真っ白になっている珠稀はそんなこと感じる余裕はない。
実は恋敵なんて、最初からいなかった。
今、珠稀は自分が何もない空間に猫パンチを繰り出している猫と同じだったのだと、ここでやっと気が付いたのである。




