恋はきっと、冷静では出来ないものだ
過去。『仔猫は無様に転げ落ちた』の後半のその後。
「いいのか、俺と飲んでて」
直としては、気を遣って聞いたつもりだった。
大学を卒業し、それぞれ別の道を進んで忙しくしている。
それは志良も同じはずで、恋人の美織と過ごした方が良いんじゃないかといいたかったのだ。
しかし、“誰”という部分を省いた結果、想像しなかった言葉が返ってくる。
「大丈夫だろ。今日はお袋が付き添ってるから」
グレープフルーツサワーをちびちびと飲みながら志良がいう言葉に、何やら不穏なものを感じた直は恐る恐る尋ねる。
何故、志良の言葉を不穏に感じて、何故、恐る恐る聞いたか直自身わからない。
しかし、直感としかいえない何かが予知していたとしか思えなかった。
「……どこへ、誰の付き添いをしに行ったんだ?」
「病院へ、タマの付き添いをしに行ったんだ。痴漢に階段から突き落とされてな」
志良は相変わらず、サワーのコップから手を離さなかった。
顔色も口調にも変化はなくて、わざと平坦な態度を取ったわけでもないと彼を知っていればわかるはずだった。
普段の直であれば、気付いたはずの態度だ。
しかし、身を乗り出して向かいに座る志良の胸倉を掴んだ直は、完全に普段の冷静さを欠いていた。
「…いつ」
「いつって、確か」
胸倉を掴まれて、自分のコップを倒しても志良の態度は変わらない。
ごく普通の表情で、先程と変わらない顔で日にちを告げた。
その日は、変質者が出るという話を聞いて、心配して高校まで直が行った日であり、怒った少女の遠離る背中を見送った日だった。
それを知った瞬間に沸き上がった感情を、直は今も…これから先の未来においても、いい表す言葉を思い浮かべることが出来ない。
恐怖だったのか、怒りだったのか、悲しみだったのか、痛みだったのか、苦しみだったのか、後悔だったのか、自分に対してなのか彼女を突き落とした相手に対してなのか…もしくは被害者である少女に対してなのか、或いは全てか。
それすら、直にはわからなかった。
唯一、後々わかることは、この感情をもし、直を少女の兄だと勘違いした少年が同じように抱いたのなら、きっとその恋を応援してやれたということだけだ。
…尤も、そんな機会は今後、訪れることはないのだが。
「オイオイ、どうしたんだ?」
「なんで、教えてくれなかったんだ?」
「は?」
胸倉を掴まれたまま首を傾げた志良は、しばらく考えて理解出来たのか晴れやかに笑った。
相手がどん底まで落ち込むとは思いもせず、笑いながら直に答える。
「あぁ!いやだって、お前には関係ないことだろ?」
『あなたに関係ないですよね?』
こんなときに、犬江家の二人が兄妹だと改めて認識したくはなかった。
そんな突き放したいい方など、聞きたくもなかった直は衝撃を受けて固まる。
志良のいい分は、正しい。
直はあくまで志良の友人で、その妹との関係はそれ以下ではないが以上でもないのだ。
水臭いとは思えるが、わざわざ何があったかを直に報告する義務は、志良にはない。
わかっている、わかり切っているのに。
直の手から力が抜けて、ストンと力尽きたかのように元のイスへと腰を下ろした。
頭ではわかり切っているのはずなのに、感情は混乱していて『わかりたくない』と否定する。
独りでに震える両手で顔を覆って視界を閉ざせば、あの日のツンとした仔猫のような少女の姿が浮かんだ。
彼女は無表情ながらも怒ったようなオーラを出しながら、直に背を向けて遠離る。
両手を外し、顔を上げてもそこに彼女の姿はない。
手を伸ばしたとしても、その姿に触れることは出来ないのだ。
そもそも、彼女自身となんの関係性のない直が、少女に関することを知ることはほぼ不可能だろう。
今回のことも、志良が口を滑らせなければ知ることはなく、きっと直は知らないままだった。
そう頭と感情が同じ結論に達したとき、直はゾッとする。
何も知らされることもないということを突き付けられて、はじめてそれがこんなにも恐ろしいことだと思い知ったのだ。
無関心であれば、良かったのだろう。
『友人の妹』として、上辺だけでの付き合いであれば、少し同情心が沸いてもそれだけだった。
しかし対象が『犬江珠稀』という、黒い仔猫のような少女であれば別だ。
だが何故、あの少女が別なのだろうかという疑問が沸き出して、次第に直の思考を占領する。
自分の妹であれば確かに心配するし、加害者に対する怒りも沸くがここまで切羽詰まったあげくに混乱はしないだろう。
志良であれば、心配はするが男同士であるからここまで重く受け止めない。
美織であればやはり心配はするが、それは彼女の家族と志良の役目だと割り切れる。
だが、あの仔猫であれば混乱はするし、重く受け止めて苦しい思いはするし、割り切れはしない。
関係のない他人だと線引きされて、あの日のように背中を向けられることを考えるだけで胸が締め付けられて軋んだ。
そして、自分の根本にある感情に、そのとき直はやっと気付く。
はっきりいえば、このときの直は冷静さに欠けていた。
しかし、自覚したのも珠稀に対する感情に気付いたのも、確かにこのときのことだったのだ。
次回、友人たちのツッコミ。