美織と志良
時は遡って出逢う前。
「浮気するなお君なんて、キライっ!」
舌足らずに自分の名前を呼ぶ恋人が振り下ろした手を、直は止めなかった。
高い音を立てて頬を打った彼女の手の方が心配であったから、誤解を解くのが若干後回しになる。
「手、大丈夫?」
「…っ!」
平手打ちをした相手を心配する直に、彼女の方はバカにされたと勘違いしたらしい。
美織と歩いていたのを見たときから赤かった顔が更に赤くなり、涙を浮かべて潤んだ目は怒りを孕んで剣呑さを増す。
「…俺の説明が下手だったかもしれないけど、あいつはただの友だちで、別に浮気じゃないよ」
離れた場所にいる美織を指すため肩越しに振り返れば、その友人の口がゆっくり動いて声を発さないながらも言葉を形作る。
『バカか』
完全に、浮気男のいいわけである。
客観的に見ればそうだろうが、直に限っていえば無実であった。
「なお君なんて…いらないもん!あたしのこと、なお君以上に大事にしてくれる人、もういるし!別れる!」
『バイバイ!』と、怒りも顕わな様子で叫び、直の弁解どころか返事を聞くことなく彼女は去って行った。
そもそも、彼女が直の話しを聞かないのは今にはじまったことではないが、あまりにも一方的な別れ方であった。
「あははっ、すごい視野が狭い子だな!始終、俺が見えなかったみたいだ」
心なしか楽しそうに、恋人だった人を見送る直の肩に腕を回した志良がいう。
彼女はまったく視界に入ってなかったようだが、美織と直の間に志良がいたのだ。
しかも、美織が話していたのも、視線を向けていたのも志良であり、直は一緒に歩いてて話すどころか相槌ぐらいしか打っていなかった。
これを見て浮気だと騒ぐ方が、むしろどうかしている。
「なんだあの、悲劇のヒロインぶった女。白昼堂々、他の大学の目立つところで『浮気されたあたし、可哀想っ』モード全開で別れ話するなんて考えが足りないな」
勝手に浮気相手にされた美織も、修羅場が終わったのを確認して志良の横へと並ぶ。
ベリーショートがその美しいと称される顔立ちをより一層冷たく引き立て、辛辣な言葉はきっと先程の元恋人の心を鋭利な刃物のように抉っていただろう。
怪我をさせないために遠ざけてはいたが、別の意味でも良い判断だったようだ。
「『なお君以上に大事にしてくれる人、もういるし!』って、もうすでに確定してること?それって、そっちの方が浮気じゃねぇの?」
「…いい寄られるだけなら、浮気じゃないだろ。可愛いんだから」
美織と志良が同時に、呆れた顔をして直を見た。
「そう思うなら、追い掛ければいいだろ?」
「いや…、しょうがないさ」
微かに笑ってみせれば、二人からはそれ以上言葉は出てこない。
相変わらず視線だけが、雄弁に二人の心中を語っていたが、直は気付かないフリをした。
「時間をムダにした。もう行く」
呆れ果てた様子の美織は、さっさと背を向けて歩き出す。
もともと早足の彼女だが、本当に急いでいるらしい。
もしかしたら、勝手に舞台に上げられただけの修羅場に付き合ってくれていたのかもしれないが、颯爽と歩くその背中からは何も読み取れなかった。
だから直は、感謝でも謝罪でもなく、ごく普通にその背中に声を掛ける。
「姉崎、シロにお前のアドレス聞いてもいいか?不便で困る」
美織は溜息を吐いて、片手を振る。
了承は得られたようだ。
「そう思うなら、カノジョにいえよ。人を介すのは面倒だってさ」
早速、携帯を取り出して志良に頼めばそんなことにいう。
確かに、直も面倒であったし、仲介役だった志良もまた面倒だっただろう。
しかし、どうしようとない事情があったのだ。
「んー…、でも嫌がられるからなぁ」
美織との連絡手段を絶つようにいったのは、先程の元恋人だった。
理由は所謂、嫉妬である。
「だってカノジョだろ?優しくしてやりたいし、何でもワガママきいてやりたい」
「そうかぁ?まっ、お前がいいならいいけど」
ここにいるのが美織ならば、一言二言キツいことをいっただろう。
『優しさとはいえない』やら『それはワガママじゃない、ただの束縛だ』やら、それぐらいならまだ優しいいい方だろうが。
志良は携帯から美織のデータを出すことに集中しているのか、気のない返事しかしなかった。
「そうだ。今日、俺んとこで飲まないか?」
アドレスを移し終えれば、後は大学にいても特別な用はない。
帰ろうと思って踵を返せば、志良が珍しく宅飲みに誘ってきた。
「それは構わないが…えらく急だな。どうした?」
バイトのシフトを思い出し、大丈夫だとは思ったがあまりにも急だ。
休みじゃなかったら、どうするつもりだったのか謎だが、相手は志良である。
『どうした』もこうしたもなく、ただ単純な動機だった。
「酒飲みたいけど、あまり金がなくてな!」
どうやら、懐具合が寒いらしい。
「おいおい…俺はお前の財布か?」
『これがカノジョだったら、財布も吝かではない』といおうとして、やめた。
直自身、未練がましいと思ったからだ。
「そーいや、久し振りだな、シロと二人で飲むの」
「そりゃそうだ!だいたい、お前は俺だけじゃなくて最近は他の奴とも飲んでないだろ~」
痛いとこを突いてきた志良だったが、本人に悪気はない。
事実を述べただけで、“痛い”と直が感じるのは恋人に請われるまま友人たちと飲みに行かなかったことがわかっているからだ。
『バイトのない時間は、一緒にいたいの』という恋人の可愛いワガママを聞いた結果だが、少し友人に対して失礼だったかもしれない。
「じゃあ、コンビニ寄って帰ろうぜ!」
上機嫌な志良は気にも止めてないが、悪い気がして頷くだけに留めた。
ただし、高いビールを買ってやるのとは話しは別で、コンビニでの攻防戦の末に今回の会費は割り勘ということで落ち着くのはもう少し後の出来事である。




