赤いシミ*慇懃無礼従者はナイフを投げる
右頬を何かが掠めた。ぎぎぎ、と目線を右にやると、ナイフが深々と壁に刺さっている。それをやってのけた当の本人は、シレッとした顔でカップに紅茶を注いでいた。
「どうぞ」
慎み深そうな顔をにこりとさせながらカップを俺にしずしずと差し出しているが、騙されてはいけない。長年こいつに従者をやってもらっているから分かる。今コイツが考えていることは、「おら、茶ァ入れてやったぞ、感謝しな」である。大体、「紅茶入れてくれないか」と言っただけの俺に向かってナイフを放る男が慎み深い訳がないのだ。俺は渡された紅茶をすすりながらそう思う。うん、温度も紅茶の風味を損なわない程度で丁度いい。
「なんですか、殿下」
「……なんでもない」
ジロジロ見てんじゃねぇよ、と言わんばかりにイルミ――この男のことだ――は、俺に言う。いや、一応俺、お前の主人だからね? しかもただの主人じゃなくて一国の王子なんだけど。イルミにナイフを投げつけられたのは一回や二回ではないから今更なにも言わないけど。最近ではナイフが当たらないように計算された上でやられていることが分かってきたし。自分の従者の能力が高いことを喜ぶべきか悩むところだ。
飲み終えたカップをサイドテーブルに置くと、すかさずイルミが片付ける。もう次の執務の時間が迫っているのだろう、と俺は重い腰を上げた。今日は国の東の方の街を視察予定だ。
「馬車は表の方に待たせています」
さっさとしろよ、トンマ。言われていない言葉が聞こえてしまうのは俺が卑屈だからだろうか。
「ところでイルミさん」
「何でしょう、殿下」
にっこり、イルミが返事をする。うむ。それだけだったら主人と忠臣のやり取りだよね、ホント。俺はため息を押し殺しながら従者に問う。
「その、上着の内側に仕舞われた沢山のナイフは何に使うんでしょうか…?」
思わず敬語になってしまうのも無理はない。だって、ナイフって!! 武器なら他にも沢山あるだろうに、なぜ食器からセレクトするの!
「大丈夫ですよ、殿下」
「ぅん?」
「ちゃんとギリギリを狙って差し上げます」
「やっぱ俺に投げるんだ!?」
嬉しくない。嬉しくないぞ、その配慮。
イルミはそんな俺の心情を察しているだろうに、ふふふ、と嬉しそうに笑いながらその内の一本を天井に投げつけた。「ぐぎゃっ」という声がした気がするが…。
「イルミ」
「何でしょう、殿下」
「何かしたか」
「いいえ?」
「…そうか」
イルミが何かしたのは明らかなのだが、俺にはそれが何かよく分からない。イルミの顔を見ても、相変わらず笑っていたので、俺は何が起こったのか、結局よく分からないままだった。
「何してるんだ?」
「ナイフの試し切りです」
「…そうか」
お前がナイフ押し当ててるの、馬車の車輪なんだけどな、という言葉は呑みこむ。因みに木製の車輪だ。ナイフだったら傷をつけられる程度だろう、多分。でもイルミのことだからナイフを研ぎまくってすごく切れ味のいいものに改造している気もする。しゃっこしゃっことナイフを研石で研ぐイルミ。まずい、余裕で想像できる。
だがしかし、イルミは俺にとても忠実な部下だ。イルミは俺を殺したいのかと思うようなことを平然とやってのけるが、その一方で俺を多くの危機から救ってくれているのだ。でなければ、俺は今日まで生きていない。だから今だって、別に俺の乗る馬車だからと悪戯を仕掛けた訳ではないだろう。……ない筈だ。……違うよね?
シレッと何事もなかったかのように御者のところに乗り込むイルミを、俺は「違うと言ってよイルミ」の気持ちで見つめた。イルミはまたにっこりと俺に向けて笑う。笑っているのに、「ぺっ」と地面に唾を吐きかける幻覚が見えた。疲れてるのかな、俺。
「昔はかわいかったのに」
出会って早々に俺から金目のものを掏ろうとしてきたり、それが失敗と分かるや否や「俺を雇え」とふっかけてきたり。……あれ。かわいくないぞ。ていうか俺、散々だな。俺、王子なのに。
「私は昔も今も変わりませんよ」
イルミは、にっこりと笑って、懐から手榴弾を取り出した。そして、街道沿いにある路地にそれを躊躇うことなく放り込んだ。馬車を止める素振りすら見せない。後ろの方で、爆発音が聞こえた。どうやら手榴弾自体は大した威力を持っていないようで、周囲に被害は出ていないようだ。イルミはそれすら見透かしていたのか、相変わらず東の方に馬車を進めている。
「ふふふ、自らの策に溺れるなど滑稽極まりないですね」
イルミは一人笑いながら何かを街道に投げ捨てた。手榴弾ではない。ゴムの切れ端だ。なぜイルミがそんなものを、と目で問うが、相変わらずイルミは教えてくれない。そんなに俺は役に立たないだろうか。彼の持つ情報を知ることで俺は役に立つことが出来ないだろうか。結局俺は――…
「殿下。私は、ちゃんと救われていますよ」
イルミは、にこりと目尻を和らげる。
「あの日の約束。忘れたことはありません」
今一度、とイルミは呟き、胸元からナイフを取り出した。なにかをそれで弾くような、甲高い音をさせた後、彼は俺の目をまっすぐ見ながら自身の髪を一房切った。
「この命、貴方のために」
騎士の礼を取り言う彼はの姿が、あの日の姿とダブる。
「あぁ。俺もお前を信じ抜くと誓おう」
右手で握りこぶしを作り、イルミの左胸をトン、と叩く。イルミは珍しく心底うれしそうな顔をした。副音声なしの笑顔なんて久しぶりだ。
「ところで、イルミさんや」
「何でしょう、殿下」
「馬車は前を向いて御してくれると安心できるんだが」
イルミは不満そうな顔をしてから、トン、と俺の足元にナイフを突き刺した。「ぅべらっ」という悲鳴が……いや。聞こえてない、聞こえてない。例え足元に赤いシミが広がり始めたとしても、それは気のせいだ。
イルミは前を向いて馬車を御している。本人だけが、何事もなかったかもような反応だ。あれ…。この赤いシミは俺の気のせいなのか? そうなのか?
「イルミ」
「何でしょう、殿下」
「床板が赤く」
「オシャレですね、殿下」
「でも生温かくて」
「そうですか」
イルミがにっこり笑い、馬に向かって鞭をしならせた。馬が甲高い声を上げ、馬車のスピードが上がる。さっき通りかかったところに矢がささっているような……?
「イルミ」
「何でしょう、殿下」
「今、矢が」
「殿下」
珍しく、言葉を遮られた。馬を御すイルミの顔は、前を向いていて、どんな表情をしているのかはこちらからは分からない。
「あなたは、何も知らないままでいなければならないんです」
俺のあり方を勝手に結論付けるような言葉に、俺は意外なほどにすんなりと納得した。
「そうか」
「そうなのです」
この、なんだかんだで誰よりも信頼できる彼が言うのだ。ならば知らない方がいいだろう。俺と彼の関係はあの日にこうであれと決められたのだから。
俺は黙って馬車の外を見た。周りの景色は時間と共に変わったが、足元の赤いシミだけは変わることがなかった。
ナイフで戦うとか“あくまで○○○”な某執事さんみたい…とか、右拳で胸トンとか駆逐したい少年たちみたいじゃないですか…とかふざけたこと思ってました、スミマセン。
イルミ視点で“あの日”について詳しく語るかは検討中。要望があったらやる気が出るんだけどなぁ┃電柱┃_・)ジー