お久
黴の生えた人生を送っております。Twitterはやはり粗悪な享楽であります。親指で2、3センチ往復してなぞるだけで、露悪な情報が眼球から脳髄へぴちゃりピちゃりと染み込む様は、アヘンによって骨抜きにされた人々や、安酒のジンやアプサンに溺れた人々と同様でありましょう。現代は過去よりも生活環境は多少マシになりましたでしょうが、煙草とせんべろの時代を経て、今やアルコール度数の高い安酒とエナジードリンクが幅を利かせている時代であります。さらにそこへ粗悪な情報蒐集装置が手元にあるのでございますから、人々はどんどん粗悪なモノを摂取し続けているのであります。そんな體に悪いモノを摂り続ければ、そのうち身も心も粗悪になりますでしょう。ワテクシもその一人となりつつあるのであります。「なりつつある」と書いたのは、即ちそんな粗悪で陳腐なワテクシにも、見窄らしく不要な“自尊心”というものが、今も微かに毛細血管や神経を巡っておるからでしょう。それでも粗悪な情報と粗悪な現実物質によって、着実にカラダは重要な機能を毀損していき、壊死と腐敗を起こしているのです。そのグロテスクな箇所には黴が生え、さらに事態を悪化の一途へと誘うのが常であります。
なぜ今になって、こんな埃を被った我が思考の廃棄場へ再び滴り落ちてきたかというと、実に不意なのであります。偶々暇になって、「そういえば全くあの場所へ入ってないわな、参るか」という思いつきが突如として強まり、我が脳内を満たしたからに他なりませぬ。実は他のサイトでこれまた不定期にブログを投稿していたり、ツイキャスなどというものを使用して700平方センチメートルにも満たない区画を晒したりしていたりしていたのです。ですが天性の飽き性により、これも長続きはしておりませぬ。なんと成長しないことか!
こんなワテクシにも薄々気付いていてはいましたが、確信せざるを得ない大きく聳え立った──────というよりも大昔からあったのを遂に直視するに至ったのでありますが──────一つの事実。それを今ここで証明している最中なのであります。それは“思い立ったら即実行せよ”というなんとも陳腐な言い回しで表現できる事実なのであります。つまりは一夜漬けからの試験本番であり、ノープランで行うプレゼンであり、その場かぎりの言動であります。ブログにしろここの吐き落としにしろ、そのほとんどがいっときのテンションで書き上げられているのであります。そのため何かカタチにして残したいのであれば、もうその瞬間に残すしかないのです。陰気で黴だらけの人生を送っておりますが、こと“書く”際には花火のようにその大輪を咲かせるまでは止まってはならない性分なのであります。でなければ、たちまちついた火花は霧散し、いつものカビた體をのそのそ動かすのみとなってしまうのです。
いつもは怠惰に愚鈍に無産に生きているのに、いざ残したいものが出てくると立ち止まらず延々と奔り続けなければならないのです。そうでなければアッという間に頓挫しその思考や熱意が埋もれ流され沈んで砕け、遂には雲散霧消に帰すのです。これは大変辛いものです。いつもは完全たる文化系で反運動を掲げる者が、いざ内にある情報群からひとまとまりの思考を汲み取るために、しかもその思考を文章にして自分自身が深い納得を得たいという強い意思が働いてしまい、長い長い凸凹道を持久走の如くひたすら止まることなく走り続けなければならないのです。
つまるところ、これは全くもって自慰の代替でもあるのです。より高尚な言い方をすれば、昇華なのです。徹頭徹尾ワテクシは競争というものが厭でありまして、ブロガーやライターのような文化系の人々でさえ競争に駆られるこの世は大変生きにくいものであります。なのでこの文章たちも、本来は他者に認められたり、誰かの心を穿ちたいがために書かれているべきなのでしょう。誰かに評価され、自己実現に向けられるべきなのでしょう。ですが、そういった社会態度にワテクシは厭悪があるのであります。この理由はおそらくいくつかの実体験によるのですが、これ以上は果がさらに遠のくのでここでは置いておきましょう。兎にも角にもワテクシは競争が厭で、ではこの文章たちは一体なんなのかというと、己の思考を脳内から取り出し、言語化して脳からではなく眼球から見てみようとしているのであります。つまりは自己満足であります。「ほうほう、ワテクシの脳内で動いていた思考は、言葉にするとこういうことになるのか」とか、「この思いは言葉にしてみたが、微妙に脳内にあったものとは違う印象を受けるなあ」とか。全くもって自己完結した閉じた空間にあるであります。そのため自慰的な側面が強いと考えております。
それでもなぜ誰もが見ることができる場所に置いておくかというと、それは己の醜態を晒すことで、社会に一種のカウンターを仕掛けたいという幾許かの未だ止まぬ社会への反抗心や革新的思考がおそらくあるのでしょう。曖昧な言い方なのは、その自覚が今は足らないからであります。チラシの裏に書いて捨て置けばいいのに、その裏に書き殴られたチラシを外へ放り投げているのは、やはり社会に訴えたいという模糊な感情が、私の脳内にぐるぐると蠢いている気がします。ですがその気持ちよりも、言語化して目で見たい気持ちが強いので、あやふやにさせている節があります。
ということで、暴走列車の如く止まらぬ書き綴りをしてみました。およそ原稿用紙5、6枚分であります。なぜこれが継続してできないのか。自分の刹那性・飽き性に対してイヤになっちゃいますね。それでも何か残していきたいとは思っとりますので、また投稿するかもです。




