Dead or Alive
ツイッターの友人と『同じテーマで、それぞれの短編を書こう』となったもので……
「昨日の夕方、加賀崎 紫さんがお亡くなりになられました。おそらく、屋上から飛び降りての自殺だろう、ということです」
担任から告げられたその言葉に、私は世界から色が消えていく感覚を味わった。
思い描けばすぐに思い出せる。紫の綺麗な金色の髪。
母親がカナダ人だという紫の髪は、とっても綺麗で、儚くて。
そんな私と紫の初の出会いは、高校一年の入学式のこと。
緊張していた私は、周りのことなんて気にかける余裕はなくて、ただただ、早く入学式が始まって、早く終わってくれと願うばかりだった。
そんな私に声を掛けてくれたのが、加賀崎 紫だ。
『……だ、大丈夫……? えっと……木々さん、だよね?』
よっぽど酷かったのだろう。見るに耐えかね、恐る恐るといった感じです声を掛けてきたのを憶えている。
私はその綺麗な髪に目を奪われ、思わず呟いた。
『綺麗……』
ほぇ? と可愛らしい声をあげ、私の視線の先に自分の髪の毛があるのに気がつくと、
『ああ……あたし、母親がカナダ人で。その遺伝』
『え? 地毛なの?』
『そーよん』
その会話をきっかけに、私たちの会話は弾んだ。
緊張なんて消えてなくなり、無事入学式を迎え、終えることができた。
終わった後再会し、また再び会話に花を咲かせた。
それから私と紫の付き合いが始まり、つい昨日、明日の七夕のお願いを何にするかで盛り上がった。
『紫はどんなお願いにするのー?』
『んー……ひーちゃんは?』
ひーちゃんとは私のあだ名だ。私の名前を聞いた紫が即興でつけた。
『私はー……そだな、いつまでも紫と親友でいられますように!』
飛びっきりの笑顔でそう言ってやった私に、紫は、
『それじゃあたしは……ひーちゃんが独り立ちできますように、かな』
と言った。
『もー、なにそれ、どーゆー意味? 私別に一人暮らしできるよ? 今実質一人暮らしみたいなもんだし』
『えー、本当かね? ん?』
『うわっ、なんかムカっとするぞ!』
思えば、この時には既に死ぬことを決めていたのだろう。
既に私の願いは、聞き入れられない。
そして私は、生きる意味を無くし──
簡単に死ねる方法としては、飛び降り自殺しか思いつかなかった。
未練がないわけではない。やり残したこともたくさんある。
だけど、その大部分が、あいつがいないとできないことばかりで。
そう、私の人生はもう、あいつに縋りっぱなしになっていたのだ。
なのに、なぜ、私を置いて行ってしまうのか。
この世界にたった一人で、置いて行かないで……。
今、会いに行きます。加賀崎 紫の元へ。
もしかしたら飛べるかも、なんて思ってしまって、思い切り力を入れて屋上から飛び立つ。だけど重力には逆らえず、やはり私の身体は真っ逆さまに落ちて行く。
頬を撫でる風は如実に地面との距離を伝え、私が死に見舞われるまでのカウントダウンとなる。
上から見たらこれ、パンツ丸見えじゃん。などと考えながら、私の脳はすでに思考を拒否していた。
靄がかかったかのような感覚に、やがて手足もただそこにあるだけのオブジェクトとなる。
そして鈍い衝撃が身体全体を襲う。
視界に稲妻が走り、私は──死んだ。
衝撃が私を襲った、と認識してすぐ私は死んだ。
そう思っていたのだが、私が気を失ったのは一瞬だった。
もしかしたらもっと長い時間気を失っていたのかもしれないが、少なくとも私にとっての体感時間は一瞬だった。
気が付くと私は地べたに、いわゆる女の子座りと呼ばれる座り方をして、呆けていた。
視界にあるのは、どこまで続くのかわからない地平線。
真っ白な地面と、黒い空との境界線が、遠く果てしない彼方に存在している。
ここはどこだろうか。
衝撃に襲われたはずの私の体は、存外ピンピンとしていた。軽く腕を回したり腰を捻ったりしてみても、まったく問題は見られない。
ふと、その単調な空間に変化が現れた。
真っ黒な空に、ぽつ、ぽつ、と小さな光が疎らに灯り始め、その数はどんどん増していき、まるで星空のような幻想的な空間を作り出した。
「なに、これ……」
思わず見とれてしまった。月がない時を狙って己が存在を精一杯誇示する星のように、それらの光も持てる力すべてを出し、私のいるところまでその光を届かせるさまは脆く、だけど強靭で。
「──やぁ、気に入ってくれたかな? この景色を」
背後から声が聞こえた。星空のような景色に見とれていた私は思わず飛び上がってしまい腰が抜けた。
「あぁ、ごめんごめん。邪魔しちゃったかな?」
振り返ると、そこには燕尾服を着た少ね──少じ──がいた。性別がわからない。どっちとも取れるような端正な顔立ちで、体も細く中性的だ。
亜麻色の髪も短く揃えられていて、ぱっと見では性別を当てられそうもない。
「え、えと……」
あなたは誰ですか。そう問おうとしたのだが、上手く言葉にならない。頭は靄がかかったように思考を阻害している。
「喋らなくて良いよ。何が言いたいかはわかるから。ぼくが誰なのか、だよね?」
一人称は『ぼく』らしい。ますます性別が曖昧になった。
楽しそうな笑みを浮かべながら、左手に持ったステッキをクルクルと回して考えるように顔を斜め上に向ける。
そして何か良いアイディアを思いついた、とでも言うように白い手袋をはめた右手の人差し指を立てた。
「ぼくはね、カミサマ……かな?」
かみさま。
カミサマ? ……神様?
回転しない脳を無理やりはたらかせ脳内で変換させる。変換させた先に待ち受けた答えは何やら突飛な存在で。
「……神様?」
「そ。まあ、たぶん、だけど」
その言い方に少し引っかかった。まるで自分の存在を正しく認識できていないかのような。
「ぼくは生まれて日が浅いからね。まだまだ自分探しの途中さ。ドアとでも呼んでよ。……まぁ、そんなことは置いといて。──木々(きぎ)陽色ちゃん、で、合ってるよね?」
私がこく、と頷いたのを見て、また笑みを浮かべるカミサマ。
「陽色ちゃん。きみは死んじゃいました」
あまりにも分かり切ったこと。なぜなら、私は自ら死を選択したのだから。
それを告げる、カミサマを名乗る者。ドア。
その顔は実に楽しそうに、──醜悪に歪んでいた。
「きみがわざと死んだのも知ってる。その理由に、きみの親友があるのもね」
そう。
私が自殺したのには、たった一人しかいない親友が死んだことが理由にある。
「ショックだったろう? 親友が、理由もわからず自殺してしまって。親友だと思ってたきみに、理由も話さず自殺してしまって」
ステッキをクルクルと回す。なぜかは知らないが、そのステッキが、死神の鎌のように見えた。
「さて、ここできみに問おう」
「……な、にを……」
ようやく声に出せたその言葉は、とても声とは呼べないような掠れ掠れの声で。
「喋らなくても大丈夫。……なにを、か。それはね」
いちいちもったいぶるドアに、弄ばれているような感覚になる。
早く、早く言って……よ。
その声が届いたのかはわからない。が、ドアは心底意地悪な笑みを浮かべて、こう言った。
「きみは、巻き戻しと転生、どちらを望む?」
いつの間にかステッキは消え、両手を広げたその手のひらの中には二つの箱があった。
「このまま死にたくはないだろう? まだ後悔があるだろう? なら、間違ったところまで戻って、その間違いをなかったことにすればいい。──それならば巻き戻しを」
「このまま死にたくはないだろう? どことも知れぬ天国になんか行きたくないだろう? ならまた生まれ直せば良い。今の記憶を持ったまま赤ん坊として生まれ、人生を始めから、何もかも変えてしまえば良い。──それならば転生を」
「この魔法をきみに、与えよう」
時間を巻き戻すか、人生をやり直すか。
そう問われているのだと理解するまでに一分。
ようやく晴れた靄。一気に活性化した脳が、現状を素早く把握する。
私は死んだ。それは確かだ。ならばここは、あの世への入り口か。そこにいる神様、ドアという存在はなんだ? 門番か。はたまた、死神か。
音のない空間で、ただ私の心臓の音だけが鳴り響く。
死んだら終わり。それが世界のルールだ。
だが目の前にいるドアとやらは、その前提を覆す魔法をくれると言う。
「……それは、無条件で?」
元々深く考えるような性格ではないが、冴えた思考が次々と疑問を叫ぶ。
「条件、かぁ……特に無いんだけど」
困ったような顔で頬を掻く。その様子はまるで、イタズラに失敗した子どものようだ。
「詳しい使い方は?」
「ただ一言口にするだけ。『リセット』ってね。それが魔法の呪文」
最後に、重要な質問。
「リセットした先に、紫はいる?」
その問にカミサマは、困り顔から一転。心底楽しそうな笑みを浮かべる。
「……もちろん」
ならば決まりだ。
当たり前、私は死ぬ気などない。
死ななければまた、紫に会えると言うのだから。
私は選ぶ。最も早くに、紫に再会できる魔法を。
「────巻き戻し!」
その言葉を口にした途端。真っ黒な空に浮かんだ光が弾け、空間は真っ白に包まれた。
────それではッ! 陽色ちゃんの幸運を祈っているよ!
眩しくて目が開けない私の耳に、ドアの声が聞こえた。楽しくて楽しくてしょうがない、とでも言わんばかりの高らかな声が。
正直に言うと、今でもわかっていないことがたくさんある。
でも、それでもわかることは。
──また、紫と一緒に……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目を開けた先には、見慣れた天井があった。
背中に柔らかな感触。後頭部にも同様にふかふかしたものが。
どうやらここは自分の家の自分の部屋の、自分のベッドの上らしい。
姉のお下がりの、ゆったりしたパジャマがやけに重く感じる。
上半身だけを起こし、ぴょんぴょんと跳ねまくった髪の毛を抑えつける。……ダメだ、元通りにならない。水で濡らすか……。
そう思いベッドから下りる。
まだ朝早いのか、家の中からは物音が一切しない。
洗面台に向かい、自分の寝ぼけ眼と相対する。
……本当に、私は巻き戻ししたのだろうか。
それを確かめる術は……おそらく、ない。今までのがすべて夢だった可能性も捨てきれない。が、あんなリアルな夢は見たことがなかった。
いっそのこと、紫が死んだのも夢ならば……。
とにかく、日付けだけでも確かめてみよう。私の最後の記憶は七月八日。して今日は。
……その前に、寝癖直そ。
部屋に戻り、スマホを確認する。大きな数字が現在時刻を主張している。午前五時半。普段より一時間も早い起床となる。……本当に寝ていたのなら、の話だが。
日付けは……七月七日。確かに巻き戻っている。今日は……紫が自殺した日だ。
それにしてもまだ早い。
それを確認した私は、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ寝直そうと……またベッドに潜り込んだ。
気付いたら昼だった。
何を言ってるかわからないだろうが、それは私もだ。
寝坊フラグ回収……乙。
記憶が正しければ、母親は六日の夜から帰っていないし、姉は今頃東京で遊び歩いてるところだろう。父親は単身赴任で北海道。今現在この家には……私を起こす人はいなかった。
「oh……なんてこったい」
朝方せっかく直した寝癖も再発している。その寝癖をぴょこぴょこと弄りながらふと思いつく。
──リセット、してしまえば良いのでは?
ただ一言、私が『リセット』と口にするだけで時間は巻き戻るとドアは言った。それが本当かどうか、試す良いチャンスではないか。
だがここで少し問題が。
「……どこまで、巻き戻るんだ?」
私が死んだのが七月八日の夕方。そこから七月七日の午前五時半に巻き戻った。単純計算だと三十六時間。一日半だ。ならば、七月七日昼の今から巻き戻ると七月六日の深夜まで巻き戻ることになるのではないか。ただしそれは、単純に一日半巻き戻るのなら、だ。
……そこら辺、ちゃんと聞いておけば良かったなぁ……。
今さらだが、あの時は妙に冴えてると思ったため、こんなことにも気づかなかった自分が不思議だ。
とりあえず、そんなものはやってみればわかる。
そして私は、魔法を起動するための呪文を唱える。
一番は、今日の朝七時頃まで巻き戻れたら良いなぁ、と思いながら。
「──巻き戻し」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目を覚ました始め、視界に飛び込んで来たのは見慣れた天井だった。
視界が霞む。はっきりとしない頭で、スマホを用いて日付けの確認を行う。……現在時刻、七月七日朝七時。
「……おぉ?」
リセットは成功。さらには、自分の思った通りの時間まで遡ることが可能であることもわかった。
ぴょんぴょんと跳ねる髪の毛を弄び、リセットが成功したことに歓喜する。
ふふふ、ふふ、ふふふふふ。
タイムリープ。タイムスリップ。タイムトラベル。
ありとあらゆる創作のネタになってきた超常現象を、今まさに自分が体験した。なんだか主人公にでもなった気分だ。
そんな気分では寝癖も気にならず、手早く学校に行く準備をする。家に人がいないのは知っているため、朝はどこかのコンビニででも買って行こうと決める。
自転車の鍵と家の鍵があることを確認し、紺のブレザーに身を包んだ姿を鏡で確認する。……こう見てみると、寝癖もどことなくファッションに見えてきた。短く揃えられた髪型に合っている気がしなくもない。
いつもより少し早い時間だが、家を出ることにする。
誰からの返事もないとわかっていながら、高揚した気分では言わずにいられなかった。
「いってきます!」
危うく鍵を閉め忘れそうになりながら、逸る気持ちで自転車を漕ぎ始めた。
コンビニで買ったアップルパイに舌鼓を打ちながら自転車を漕ぐ。パイ生地がポロポロと落ちていくが気にしない。あー、このりんごのしゃりしゃりが堪らんのよ……これだからアップルパイはやめられない。
パイ生地を溢しながら自転車を漕ぐその姿は、とても青春を謳歌する女子高生には見えないかもしれないが、名実ともにれっきとした女子高生です。あい、あむ、JK。……だっせ。
最後の一口を放り込み、一緒に買っておいたいちごオレを飲む。ストローからチューチューと。細い管を通ってせり上がってくる冷たく冷やされた極上のミルク。口いっぱいに広がる甘さに目を細め、思わず声が出てしまう。
「ん~……」
今、おそらく私の口は猫のようになっているに違いない。……いや、流石にあり得ないか。
ゆっくり進む自転車で、まだ静かな道を行く。これが昼になると車がぶーぶーと走り交うとても危険な道になる。
飲み終えたいちごオレのパックをビニル袋に入れカゴに放り込む。フリーになった両手でハンドルを掴み、少しスピードを上げる。
学校の門を通り駐輪場へと向かう。
その背中を、トントンと叩かれた。
「んぉ?」
何気なしに振り返ると、そこには──
「──おはよっす、ひーちゃん! その髪どったの? イメチェン?」
「……むら、さき……」
「およよ、はいはい。紫でっせ? かしこまってどした」
加賀崎 紫がいた。
「生きてる……よね?」
「な、なにさいきなり。幽霊モノの映画でも見たのかな」
私のただならぬ様子に紫が若干引いてる。
だがそんなことはどうでも良い。今、目の前に、生きている親友がいる。
その事実が、私の感情の堰を切った。
「むらさきぃぃー!」
「のわっ! 急に抱きついて来な……く、苦し」
「紫だ紫だ! 生きてるよ動いてるよ触れるよぉー!」
両の目から涙が溢れる。
「ちょ、ひーちゃんあたしより背ぇでっかいから、顔が、息が!」
なにやらモガモガと聞こえるが、私は紫を決して手放さないようにさらに力を入れた。
「あ、やば……」
と、急に紫の動きが止まる。
くてっと、まるで人形にでもなったかのような紫に私は──
「む、紫が死んだぁぁー!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……で、なんでいきなり人のことを生きてるとかなんとかって言ったんよ?」
二年二組の教室で私は紫に問い詰められていた。
うむ。あのね。うん。
「その、ですね……」
なんと言ったものか。
実は私一度死んでしまって、その原因があんたの自殺なんです。だなんて言えようはずもない。
とりあえず、これだけは聞いておこう。
「ねえ、紫。ここ最近なんか悩んでることとかない?」
「悩み……?」
怪訝そうな表情を見せる紫。
紫が自殺した理由に、何があるのか。それを知るため、そして自殺を止めるために私は時間を巻き戻して、今ここにいる。
「急に変なこと聞くんだねぇ。悩み……かぁ……。特にはないけど。それが何か、朝の件に関係あるのん?」
「あ、いや……まああるっちゃある、けど」
悩みはない。そこにどれほどの嘘が含まれているのだろうか。
七月七日の夕方。紫は私に死ぬ理由も告げずに自殺した。
それが私を想ってのことなのか。それとも、私には打ち明けられないことなのか。
自殺するほど思い悩むことがあったなら、ちょっとくらい、親友を頼って欲しかった。
「……ひーちゃん?」
「んっ? なに?」
「だいじょぶ? ボーッとしてるみたいだけど。朝のことといい、少し疲れてるんじゃない?」
「やー、確かに疲れてるかもなー」
実際、私も後を追うように自殺するくらいに追い詰められたわけだし。
「最近暑いもんねぇ。夏だから当たり前だけどさ」
窓の外に広がる青空を眺めながら物憂げな顔をする紫。理由は暑いからではないのだが、ここは話を合わせておこう。
「そだなー、暑い暑い」
「嘘つけ」
話を合わせたら嘘だと言われた。なにゆえ。
「ひーちゃん、汗ひとっつかいてないじゃん。言うほど暑いとも思ってないんしょ?」
「え、汗かいてない?」
言われて自分の状態を確認してみる。……うわぉ、確かに汗かいてない。
なに、つまり私、紫に嵌められたと?
「何か言えないことがあるのはわかったよ。でもまぁ、それを言ってもらえないのはすこーし悲しいかなぁ。なんつて」
そう言う紫は、少し頬を膨らませて怒っているようだった。
ああ……私は、紫にされて悲しかったことと同じことを、今目の前にいる紫にしているのか。
そのことに気づかされ、口を閉ざしてしまった。
「なんか悩みがあるなら、ひーちゃんこそあたしに言いなよー!」
そう元気に言って、紫は自分の席に戻って行った。
私は……私は、どうしたいのだろう。
もちろん、一番は紫の自殺を止めたい。
でもそれには理由を知らねばならない。何も知らずに、死ぬほどの決意をした人間を止めることなど不可能だ。
なのに私は紫に隠し事をしている。
だけど、言っても良いのだろうか。信じてもらえるのだろうか。
私には……わからない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
何事もないまま昼休みになった。
段々と気持ちが焦る。早くなんとかしないと、夕方には紫は自殺してしまう。
その焦りが顔に出ていたのだろうか。
「……やっぱひーちゃん、どっか変だよ?」
同じ机で弁当を広げる紫にそう言われてしまった。
「そ、そんなことない……よ?」
慌てて取り繕うも、上手く言葉にできない。
「加賀崎の言うことわかるなー。なんか今日変だぞ木々(きぎ)。授業中もずっと上の空だし」
そう言って私の隣の席に座るのは確か、同じクラスの久々津 朱子。髪をちょっとだけ茶色に染め、良い感じに制服を着崩した……たぶん、かっこ良い男子。たぶんっていうのはですね、周りの女子たちがかっこ良いかっこ良い言うからです。私自身はそんなかっこ良いとも思わないというか……ぶっちゃけ興味ありません。
ちなみにお忘れでしょうか。加賀崎とは紫のことで、木々とは私のことです。
んで、その久々津さんがなぜ私の隣に座るんで? と思いながら返す。
「そ、そんなに変かな」
「おお。この俺が言うんだから間違いない」
なぜそう断言できるのか。普段から私のことを見てるとでも言うのだろうか。ストーカーかよ。
一応言っておくが、私と久々津は別にそこまで仲が良いわけでもない。精々同じクラスの男女、的な感じの仲だ。
そんな久々津にまで普段の私との違いを指摘されるほどに、今の私はおかしいのだろうか。
「なんか悩みでもあんの?」
「い、いや? ないよ?」
「ふぅん……」
上手く誤魔化せただろうか。
「ま、良いや。何かあったら俺に言えよ! 相談くらい乗ってやるからさ。俺たち親友だろ?」
私はそんなに深刻そうな顔をしているのだろうか。
だが、そうだとしても……この悩みは、言えそうにない。
……って、ん?
「待って。私と、久々津、あんたが、親友だって?」
「ん? そうだけど?」
なんでこんなに私たちと一緒にいるのかなー、とか。やけに馴れ馴れしいなー、とか。思っていた。だって、普段はこっちから近づくことはもちろん、久々津の方から近づいてくることもなかった。
この違いは、なんだ?
「え、なに。もしかして俺、友達として認識されてなかったパターン?」
「だ、だって、今までそんなに話したことなかったし……」
「ひーちゃん……流石にそれは惨いと思うよ……」
苦笑しながら紫が言う。
「あるぇ!? 俺ら一年の頃から仲良かったじゃん!?」
オーバーなリアクションで涙目になる久々津。
だがそんなこと言われても、事実話しかけられたことなんてほとんどないし……っていうか一年の頃なんて別クラスだったから、久々津のことなんて知らなかった。二年になってようやくその存在を認識したくらいだ。
「えっと……どゆこと? 私たちは友達なの?」
「木々ぃ!?」
久々津のリアクションには嘘は見られない。
何かが食い違っている。
私の記憶と、紫、久々津の記憶。
その差異はなんだ。
「む、紫。昨日……七月六日の昼休みは誰と食べたっけ?」
「んぇ? ……いや、このメンツでしょ? あたし、ひーちゃん、久々津くん」
…………どういうことだ。
私の記憶では、六日……紫が自殺する前の日、昼食を共にしたのは私と紫の二人だけのはず。そこに久々津の姿はなかった。
本気で戸惑う私の様子に、紫と久々津の顔も段々と曇っていく。
「……ひーちゃん。保健室行く?」
「……だな。その方が良い。俺が連れてってやろうか?」
まるで、私一人が世界から切り離されたような感覚に意識が遠くなる。
「ひ、一人で大丈夫……」
ようやく、その一言だけ吐き出すことができ、私は購買で買った弁当を半分以上残したまま教室を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
保健室の先生に、具合が悪いから休みたいと言ってベッドに横になる。
余程私の顔色が悪かったのか、先生は特に聞くことをせずベッドへと通してくれた。
……何が起きてるの。
突如として私たちの日常へと介入してきた久々津。
今まで関わりがなかった久々津が、なぜ今、私と紫と共にいる?
別に久々津は嫌いではない。どころか、ほとんどその存在を知らないまである。
私が不思議に思っているのは、なぜ今までの日常にはなかった久々津がいるのか、ということだ。
もしかしたらこれは……巻き戻しのせいなのか。
こんな時、普段からラノベなんかで鍛えている妄想力が役に立つ。
もし、巻き戻しというのが、ただ時間を巻き戻すのではなく別世界……パラレルワールドへの移動だとしたら。
ここは、一年の時から久々津と友達だった世界、となるのか。
久々津と関わりがなかった世界から巻き戻しした私は、その過去の記憶がないため、そこに差異が生じているのだとしたら。
我ながら突飛な理論だが、辻褄は合う。
元々、死んだはずの私がこうして生きていることからして異常なのだ。今さらパラレルワールドだなんだと言われたところでなんの不思議もない。
だが、パラレルワールドにしては規模が小さい。ただ単に久々津と友達か、そうでないかの違いしかないパラレルワールドなど……。
段々と意識が掠れていく。
どうやらベッドに入ったことで睡魔さんがやってきたらしい。
心地よい感覚に身を踊らせながら、私は……眠りに落ちた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「────それじゃ、お願いします」
「はい。気をつけて帰りなさいね」
はっきりとしない意識の中、そんな声が私の耳に届いた。
前者の声はうっすらとした聞こえなかったが……後者の方は保健室の先生だろう。
扉を閉める音が聞こえる。
今……何時だろうか。
怠い身体を起こす。その音が聞こえたのだろうか。仕切りのカーテンがシャーっと音を立てて開かれる。
「あら、起きたの」
「……今、何時ですか?」
「えっと……四時、ね。今加賀崎さんが来てたわよ」
ああ、さっきの声は紫だったのか。
私の様子を聞きに来たのだろうか。四時……ってことは、今日の授業は終わった後か。
なら私も帰る準備をしに教室へ──
「──今、四時なんですか?」
「え? そうよ? もう授業はないから、帰るなら気をつけ……って、ちょっと!? 急に走ったら危ないわよ!?」
私はベッドから跳ね起き、そのまま走り出した。
くそ……っ、何をしてんだ私は!
四時。空はまだ青色が大部分を占めているが、夕方であることは間違いない。
紫が自殺したのは七日の夕方。つまり今日の夕方だ。
正確な時間を私は知らない。だから早く。早く紫の元へ──!
なんの手がかりもなく、ただ探し回っていた。
時々残っている生徒に尋ねるも、その姿を見た者はいないと言う。
どこだ。どこにいる。紫!
気付けば私は上靴を履いたまま校庭にいた。校庭では、陸上部がトラックを走っていたり、野球部やサッカー部がボールを追ったりしていた。
野球部のボールが高く打ち上がる。それを見ながら、ふと視線を校舎の方に移す。
自然、視界は高い位置を向き──そこに、いた。
「紫ッ!!」
屋上に、特徴的な金髪が見えた。
私の声が聞こえた様子はない。今はまだ柵の向こうにいるが、いつ柵の外に身を乗り出すかわかったもんじゃない。
私は悲鳴を上げる足に鞭を打ち、校舎の外側に取り付けられた非常階段を駆け上がる。非常階段が続いているのは四階までで、そこから四階に入り、屋上への階段を二段飛ばしでまた駆け上がる。
屋上の扉は鍵がかかっていなかった。ほぼ体当たりに近い形で扉を開き、屋上へと足を踏み入れる。
「……木々?」
なぜかそこには、紫と……久々津がいた。
「木々、おまえどうしてここに……」
「久々津こそ、どうして……」
夏特有の分厚い雲がまるで白い絵の具のように、青いキャンバスに広がる。
屋上に吹く風は、校庭で感じた風よりも強く、冷んやりとしていた。
「ひーちゃん……保健室で寝てたんじゃなかったの?」
「紫が保健室に来た後、すぐ起きて……んで、その後必死で探したのになぜか見つからなくて、そしたら屋上にいたから……ここまで、走って来た」
肩を上下させながら、息も切れ切れに言う。
なぜここに久々津がいるのか。なぜ紫は保健室を訪れた後、屋上に足を運んだのか。問い詰めたいことはたくさんある。だが、今はそんなことより──
「────死ぬな、紫ッ!」
「……え」
「死んだらダメだ! 何を死ぬほど悩んでんのか、私は知らない! 言ってくれないとわかんない! もしかしたら言ってもらってもわかんないかもしれない! それでも!」
────私たちは、親友だろ!
言い切って、そこで肺が悲鳴を上げる。
ずっと走りっぱなしだった私の身体はあちこちがボロボロで、すでに微塵も体力は残っていない。
だが、それでも、告げることは告げた。自殺する理由がわからなかった以上、何をしてでも自殺なんて真似を止めなければ。
目尻に薄っすらと涙を浮かべる私を見て、紫は……。
「……何言ってるのん? ひーちゃん。あたし、別に死ぬつもりなんて無いよ?」
………………………………へ?
「木々……まだ寝ぼけてんじゃねえか?」
久々津にまでそんなことを言われる。
へ? え? どういうことだ?
「あたしはただ、柵の向こうにいる猫を助けようと……」
そう言って紫が指差す先には、確かに猫がいた。風に煽られ危なっかしい。
「俺が見つけたんだけどさ……俺、高所恐怖症で手が出せないんだよ。だから電話で加賀崎呼んで、どうにかしてもらおうと」
「……もしかして、自殺しようとしてる風に見えた? 下からだとそう見えちゃう?」
なん、だ……それ……。
じゃあ、自殺っていうのは……。
「と、とにかく猫を助けなきゃだから!」
そう言って紫が柵のこちら側から猫に向かって手を伸ばす。しかし、柵からでは猫まで手が届かない。
それを知った紫が柵を乗り越え、柵のあちら側に降り立つ。
なぜか、その瞬間。猫の目が私を見ている気がした。
「んしょ、っと。よし、確保かんりょー!」
「あ、紫──」
嫌な予感がして、声を掛ける。
猫が紫の手の内から逃げ、それに驚いた紫がバランスを崩す。
そのタイミングを狙ったかのように強い風が吹き、紫を煽る。
そして、紫は──
「むらさきぃぃぃぃぃいいい!!!!」
呆気なく、その姿を屋上から消した。
柵の向こうで、何事もなかったかのようにあくびをする猫が、まるで死神の遣いのように見えて。
「加賀崎ッ、加賀崎ッ!」
いち早く立ち直った久々津が柵まで走り、そこから下を見下ろす。
私は、動くことができなかった。
紫が、死んだ。
この高さだ。まず助かりはすまい。
喉がカラカラに渇く。全身から水という水が噴き出て、風でそれらが急激に冷やされる。
そしてほぼ反射的に呟いた。
「…………巻き戻し」
七月七日の、昼休みまで。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「──ちゃん、──ひーちゃん!」
聞き慣れた声が耳に響く。
ぼんやりとした視界がやがてはっきりとなり、目の前にいるのが紫だと理解するまでになった。
「だいじょぶ? ひーちゃん。突然ボーッとしちゃったけど」
「え? あ、あぁ。大丈夫」
生きてる。紫は生きてる。
教室に掛けられた時計を確認する。時計の針は十二時半を指しており、今が昼休みであることを知らせてくれた。
「なんか今日変だよひーちゃん」
「だよなぁ。なんか今日変だぞ木々。授業中ずっと上の空だったし」
隣からの声は予想通り久々津。
はっきりとしない頭で、この後の展開を思い出す。
今まで関わりがなかった久々津に私は混乱して、保健室に行くことになるのだ。
そしてそこで寝過ごし、あっという間に夕方に。そこで紫が……。
「ほ、保健室なら行かないから!」
私は咄嗟に口走っていた。
ここで保健室に行かなければ。ずっと紫の側にいれば、紫は死なずに済むかもしれない。
そう考えたら、自然と口から溢れていた。
「そ、そう? あたしまだ保健室なんて言ってないけど……まあいいや」
「べ、弁当まだ食べ終わってないしね! どーせ授業サボるなら弁当全部食べてからだよ!」
必死に明るく振る舞う私に、紫と久々津はハテナを浮かべるが私は気にせず購買で買った弁当をかき込む。
昼休みは、私一人が微妙なテンションを保ったまま終わった。
午後の授業はずっと考えていた。
紫は自殺なんて考えていなかった。ただ猫を助けようとした結果、バランスを崩して落ちてしまった。
最初はどうだったのだろう。巻き戻しする前、紫はやはり猫を助けようとしたのだろうか。そこに久々津の姿はあったのだろうか。
ただ確かなことは。
──紫は二度も死んだ。
「……くそっ」
どうすれば良いんだ……このままだとまた同じことだ。
ふと、紫の席を見やる。紫は何事もなかったかのように寝ている。……って、授業中に寝るなよ。思わず呆れてしまう。
……紫を、守る。この日常を。
放課後になり、教室にいる生徒たちは部活に行く準備や帰る準備を始める。
「紫! 一緒に帰ろう!」
私は一目散に紫の席に駆け寄り、開口一番にそう告げた。
「お、おう。どした急に」
私の態度に戸惑いながらも頷く紫。それに満足しながら、紫の手を引き教室を飛び出す。
「久々にマックにでも寄ろう!」
「な、なんかよーわかんないけど……マック行くならひーちゃんの奢りで!」
「え、なんで」
そんな会話をしながら駐輪場へと行く。
そう。放課後学校に残っていなければ屋上から飛び降りるなんてことはなくなる。簡単なことだ。
有料駐輪場に自転車を停め、マックに入る。
てきとーに注文し、二人用の席につくと紫が切り出した。
「んで、急にどったのよ」
どうやら私の態度にどこか思うところがあったらしい。問い詰めるような口調に思わず詰まってしまう。
「い、いや……別に」
「うそつけ。あっきらかにおかしい」
ジト目を向ける紫に、私は冷や汗を一筋。
なに、もう紫が屋上から落ちる心配はない。ならば……少しだけなら、話しても良いのではないだろうか。
そう思って、私は切り出した。
「……ちょっと、変な夢を見ちゃって、さ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
少しだけ、と思っていたのに、気付けば私はほとんど話してしまっていた。
自分が死ぬような夢の話なんて聞かされて紫はどう思っただろう。だけど、一度吐き出し始めた私は止まらなかった。
「……それで、あたしが死ぬんじゃないか、と」
「……そういうこと。マック行こうって言ったのも、そういうこと」
紫は口を挟むことなく聞いていた。
そして、私が話し終えた後に言った。
「……あたし、近々自殺しようかと、思ってたんだよね」
「…………え?」
「特に理由はないけどねん。……なんとなく、色褪せちゃった感じがして」
唐突に語られた自殺願望。
「あたし、友達と呼べるのって実はひーちゃんと久々津くんだけなんだけどさ。二人といた時間はとーっても楽しくて。
でも、時折その時間がすんごく色褪せてる感じがするの。新鮮さがどんどん無くなって、楽しいはずなのにどこか物足りなくて。……だから、なんとなく、死のうかなーって」
あっさりとした言葉で言われると、途端に薄っぺらくなる。
死ぬとは、そんな軽々しいものなのか。
「あたし、死んだことないからさ。死ねば何かが変わるかもって。……ま、死んだ後のことなんてもちろん知らないから少し怖くて、躊躇ってた」
違う。紫はすでに死んだことがある。それも二度。
「でもまあ、そんな話をされた後じゃあそんなこともできないわ。まったく、やられたやられた」
両手を上げて肩を竦める。そんな仕草で降参と表する。
「ってわけで、あたし加賀崎 紫は自殺、やめます!」
死ぬつもりだったと言われて、びっくりした。
だけどそれ以上に、その言葉を聞けて、ホッとした。
「……よかっ、たぁ……」
「うわ、ちょ、泣かないでよひーちゃん」
泣かずにいられるものか。
私は静かに、涙を流し続けた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「あー! 泣いた泣いた!」
「ほんともー……泣き虫なんだから」
「待って、泣く要因作ったの紫でしょ!?」
マックを後にし、すっかり朱色に染まった空を眺めながら駐輪場まで歩く。
途中信号を挟み、駐輪場へと辿り着いた。
「あれ? 自転車の鍵がない。……落としたかな」
右ポケットに入れていたはずの鍵がない。
「じゃあ探しに戻ってみよか」
紫の言う通りに、元来た道を引き返す。
暗くなって来た今じゃ、少し探すのは困難──
「あ、あった!」
鍵は横断歩道のところに落ちていた。さっさと拾ってこようと飛び出す。
「あ、ちょ、……ひーちゃん!」
「ん?」
既に私は鍵を拾い、今から戻ろうと──
──音が消えた。
顔を上げた先にはトラックがあって。その距離はドンドンと迫っている。今さら逃げたところで間に合わない。
それ以前に、膠着した身体が動こうとしない。まるでその場に縫い付けられたかのように足の裏が横断歩道の白い部分を踏んでいる。
その足が、外からの強制的な力によって引き剥がされる。
右手を誰かが引く感触。
同時に右手に身体も引っ張られて、視界がブレる。その視界の先にあるのは赤信号。
そうして、やっと状況を理解した時には遅かった。
紫はその小さな体躯を、不釣り合いに大きいトラックの眼前に差し出し──
私の目の前で、吹き飛ばされた。
「あ、あぁ……」
「あぁぁぁぁぁああああああ!!!!」
──巻き戻し。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
視界の先には見慣れた天井があった。
気怠い身体を起こし、半ば習慣のようにスマホに手を伸ばし、現在時刻を確認する。
七月七日、午前七時。
七ばかりが並ぶその画面から、どうやらリセットの時間を明確にしなかったため、朝まで巻き戻ったらしいと理解した。
……三度目だ。
しかも今度は、私の不注意のせいで。
溢れ出る涙が止まらない。
「……むらさき……むらさきぃ……!」
なぜ紫は死ぬ?
一度目は自殺だったのだろう。
二度目は猫を助けようとしての事故。
三度目は私の代わりにトラックに轢かれて。
なんで、紫がこんなにも死ななきゃならない?
紫が死ぬくらいなら、私が──
「……一先ず、学校に行って……紫の顔を見たい」
生きている紫を見ないと私は、壊れそうだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
学校に着き、私は紫を待ち続けた。
やがて、教室の扉をガラガラと音を立て開け放ち、おはよーと気の抜けた声であいさつをする紫がやってきた。
「む、紫! おはよー!」
生きている紫を見ることができて私の心は幾分か軽くなった。
そして次に訪れるであろう、紫の笑顔に乗せたあいさつを──
「お、おおぅ。おはよー……〝木々さん〟」
「…………へ?」
「珍しいね、木々さんがあたしにあいさつするなんて」
引きつった笑みを浮かべながら、やけに他人行儀に言う紫。
「え、ちょ……なんで〝木々さん〟だなんて余所余所しい呼び方……」
「なんでって……今までもそうだったじゃん?」
どういう、こと……?
少なくとも、私の記憶の中では、紫が私のことを木々さんなんて呼んだのは一年の頃、初めて会った時くらいだ。
その呼び方を、目の前にいる紫はしている。
引きつった笑みから怪訝な顔へと表情を変える紫は、明らかに私のことを一クラスメイトとして見ている。
また何か、世界が微妙に変わった……?
それも、最悪な世界に。
急に呆けた私を横目に、紫は自分の席に着いてしまう。
もう、わけがわからない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一度リセットする度に少しずつ変化していく世界。
紫が死ぬ度にそれをなかったことにしようと世界を巻き戻し、そして紫が死ぬのを阻止しようとした。そこには、たった一人の親友だから、というのがあった。
だが現在、紫の方は私を親友だとは思っていない。
なんて融通が効かない魔法。
あっという間に放課後を迎え、私は一人屋上に来ていた。
高いところに吹く風は、やはり強く冷たい。
柵の向こうには、お約束のようにあの猫がいて。
「……わけ、わかんないよ」
この魔法を手にいれてから私は、何度泣いただろう。どれほどの涙を流しただろう。
巻き戻す度に少しずつ世界は変化し、それでも紫の死だけは覆らない。
だがそれでも、何度でもやり直そうとしたのは、たった一人の親友を失いたくなかったから。どうにかして、紫が生き残る道を作りたかったから。
なのに、その紫は私のことを親友だと思ってなくて。
ニャー。
猫が鳴き声を上げる。
私の足は自然とそちらに向かい、猫と柵を挟んで対峙する。
「ねぇ……私、一人になっちゃったよ」
柵を乗り越え、向こう側へと降り立つ。そんな私の足元に、猫はすり寄って来てまたニャーと鳴いた。
猫を抱きかかえ、まだ赤く染まらない空を眺める。
分厚い雲が青空を彩り、夏を演出する。
時にあの雲は街に涙を落とし、時に影を落とす。
「……七月七日。今日は、七夕だったんだよね」
すっかり忘れていた。
もし、短冊に願いを書くとしたら、私はどんな願いを書くのだろう。
死ぬ前の私は『いつまでも紫と親友でいられますように!』と書いた。
今の私なら……きっと。
バンッ!と屋上の扉が開かれる。
そこから現れたのは──久々津だった。
「……死ぬなよ、木々」
その顔は苦痛に歪んでいる。
その苦痛の原因はなんだろうか。
屋上まで走って来たことによる疲れか。
それとも、私が今浮かべている、愛想笑いか。
「死ぬなよッ! 好きなんだよッ! 俺はお前が好きだ! ずっとずっと、昔からずっと!」
昔から……ということは、この世界では私は久々津と幼馴染か何かなのだろうか。
私と久々津が幼馴染で、紫とはクラスメイト止まり。
違和感ばかりだ。つい先日──リセットする前までは、久々津のことなんてほとんど知らなかったのに。逆に、紫のことはなんだって知っているのに。
「なぁ……! 俺はもっと、もっと……」
もっと。その続きは何だろうか。
たとえどんな言葉が来たところで、私が返す言葉はもう決まっている。
「もっと……おまえの笑う顔が見たいんだよ……ッ」
ありがとう。せめて、その言葉に応えられるよう、精一杯の笑顔を見せよう。
私は、これ以上にないという笑顔で──紫の前でしか、見せたことのない笑顔で。
告げた。
「ありがとう。でもごめん。私、あんたのこと全然知らないから」
それを最期の言葉とし、私は屋上から飛んだ。
猫を抱きかかえたまま。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
右手に箱が戻ってきたのを見て、燕尾服に身を包んだ少年とも少女とも言える、中性的なその存在は笑みを浮かべた。
「ああ、陽色ちゃんは諦めちゃったか」
彼女に与えた魔法は──巻き戻し。その能力は、過去への時間旅行と、周囲の運命改変。
己が望む時間まで自由に遡ることができる代わりに、自分の周囲の運命を捻じ曲げ、どんどん己の望まぬ形へと変えていく。
その能力で彼女は、加賀崎 紫との二人の空間に久々津 朱子の介入を招き、紫を何度も失った。二度目は自分の目の前で。三度目は自分を庇っての死。
それに耐えられなくなった木々 陽色は、死を選んだ。
結局は、フリダシに戻っただけだ。
「まぁ、それなりに頑張ったかな? 暇つぶしにはなったし……っと。それじゃ、次に行こうか」
燕尾服を着た神様──ドアは、また一人、白と黒の境界線に見惚れる存在を見やる。
彼女の名前は──加賀崎 紫。
「──やぁ、気に入ってくれたかな。この景色を」
「ぼくはカミサマ……かな。ドアとでも呼んでよ」
「紫ちゃん。きみは死んじゃいました」
「さて、そんなきみに問おう」
「きみは、巻き戻しと転生、どちらを望む?」