『地球のビートで踊りながら』
『地球のビートで踊りながら』
ラーメンのスープから立ちのぼる湯気すら、どこか後ろめたかった。
あの恐ろしい新型感染症の波がようやく少し引いた、ある夜のことだ。
久しぶりに家族と外に出て、湯気が満ちる街中華の暖簾をくぐった。パリッと焼けた熱々の餃子と醤油ラーメン。本来なら「うまいね!」と顔を見合わせて笑い合うはずの食卓だった。
けれど、店内に漂うピンと張り詰めた空気と透明なアクリル板の仕切りが、私たちを無言にさせる。まるで悪いことでもしているかのように、麺をすする音だけを響かせ、会話も交わさず逃げるように会計を済ませてコソコソと帰宅した。息が詰まる日常は、まだどこにも去ってはいなかった。
自室に戻り、重たい沈黙を振り払うようにデスクのパソコンの電源を入れた。
YouTubeのタイムラインに流れてきたひとつの動画。
それは、巨大なスタジアムで開催されたアメリカの祭典だった。
外部接続したJBLの別付けスピーカーのボリュームのノブをひねる。
その瞬間、底冷えしていた部屋の空気が一変した。
サブウーファーが唸りを上げ、空気を、床を、そして私の胸の骨を物理的な衝撃波となって直撃する。腹の底を容赦なく揺さぶる分厚い重低音。
――、大歓声とともに現れた Dr. Dre。
彼が鳴らすビートは、ただの音じゃない。ストリートの冷たいアスファルトを煮えたぎらせてきた、剥き出しの生命の脈動そのものだ。シンプルでありながら極限まで研ぎ澄まされたスネアの硬質なアタック、地を這うようなベースライン。計算し尽くされた音の隙間すらもが、強烈なグルーヴとなって鼓膜を支配していく。
続いてステージを支配する Snoop Dogg のゆったりと煙をくゆらすようなステップ。
逆さ吊りでぶちかます 50 Cent の荒々しいタフネス。
魂を削り取って絞り出すような Mary J. Blige の圧倒的なシャウト。
次代の痛切な現実をリリックに込めて鋭く切り込む Kendrick Lamar。
そして、マシンガンのごとく爆発的なエネルギーで名曲を叩きつける Eminem。
屋根の上、白いセットが並ぶスタジアムは、何万人もの熱狂と狂おしいほどのベース音で埋め尽くされていた。誰も縮こまっていない。誰も他人の目を恐れて息を潜めてなんかいない。
「……あめりかすげー!!」
部屋の中で、思わず叫んでいた。
画面とJBLのウーファーから押し寄せる、狂気にも似た生のパワー。
ヒップホップの神たちが紡ぎ出す強烈なグルーヴに、私の縮こまっていた身体が勝手に動き出す。血沸き肉躍るとはまさにこのことだ。首を振り、肩を揺らし、部屋の真ん中でひとり、ウエーブに乗って踊った。この閉塞した世界を粉々にぶち破るような重低音が、全身の血液を熱く沸騰させていく。
世界は一気に変わったはずだった。
パンデミックを通じて地球規模のグローバル化は急激に加速し、ネット環境は張り巡らされ、誰もが瞬時に海の向こうの熱狂と繋がれるようになった。人類はこの未曾有の危機を経て、少しは賢くなり、手を取り合い、新しい平和な地球を築いていくのではないか――ノー天気な私は、本気でそんな未来を夢見ていたのだ。
だが、その直後に飛び込んできたニュースに、私はもっとおったまげた。
ウクライナへの軍事侵攻。画面に映し出される砲煙と瓦礫、泣き叫ぶ人々。
――ソ連の亡霊と戦争。
世界中が同じウイルスに怯え、痛みを分かち合ったはずなのに。
国境を越えてひとつのビートで熱狂できるインフラを手に入れたのに。
画面の中では、何十年も、何百年も前と同じ血の流し合いが繰り返されている。
「……どうやら地球人は、なにも学ばなかったようだ」
画面を見つめながら、ぽつりと零した。
危機が起きたとき、それをどう捉え、どう乗り越えていくのか。
地球という星に住む私たちは、互いに顔を突き合わせ「会う」ことすら恐れたパンデミックを経て、他者への不信と奪い合いを加速させただけだったのか。あまりにも残念で、やりきれない現実が横たわっている。
それでも、JBLのウーファーからは、重厚なビートがドスドスと鳴り響き続けている。
『Still D.R.E.』の、あの不穏で美しいピアノの単音リフレインが響き渡る。極限まで研ぎ澄まされたミニマルな音階の奥から、幾多の死線と荒波をくぐり抜けてきた男たちの不敵な誇りが立ちのぼり、巨大なスタジアムの地鳴りのような歓声と溶け合っていく。
愚かで、混沌としていて、どこまでも身勝手な地球。
けれど、この理不尽な世界で立ち止まっていても息が詰まるだけだ。
私はJBLのボリュームをさらに右へ回した。
ニュースの暗雲も、あのコソコソ食べた餃子の味も、全部このウエーブの中に溶かし込むように。
ウーファーが床を震わせる。身体の奥底が共鳴する。
私は今日も、鳴り止まないヒップホップの巨大なビートの中で、ひとり激しくステップを踏み続けている。
◇◇◇
セットリスト
The Next Episode – Dr. Dre & Snoop Dogg
California Love – Dr. Dre & Snoop Dogg
In Da Club – 50 Cent(サプライズ登場)
Family Affair – Mary J. Blige
No More Drama – Mary J. Blige
m.A.A.d city(イントロ部分)~ Alright – Kendrick Lamar
Forgot About Dre – Eminem & Kendrick Lamar
Lose Yourself – Eminem(アンダーソン・パークがドラムで参加)
I Ain't Mad at Cha(ピアノ演奏の短いトリビュート) – Dr. Dre
Still D.R.E. – Dr. Dre & Snoop Dogg(全員集結)
動画URL: [https://www.youtube.com/watch?v=gdsUKphmB3Y](https://www.youtube.com/watch?v=gdsUKphmB3Y)




