鏡よ、鏡
ダイアナは、真っ暗で寒々しい夫婦の寝室にいた。
夫であるハロルド・ウッドワード侯爵が、この寝室を使わなくなってもう何年経つだろうか。
ダイアナは深いため息を吐いた。
……カリ。
不意に、静かな寝室に聞き慣れない音がした。ダイアナは思わず、顔を上げた。
目だけを動かして音の原因を探る。暗闇に慣れてしまった目でも、何の異変も確認できない。
「気のせいかしら」
ダイアナは再び視線を落とした。
……カリ、カリカリ。
ハッと顔を上げる。相変わらず、目に見えるものは何ひとつ変わらない。ダイアナは音の原因を考えながら、寝室中をゆっくりと歩いて回った。
そして、ふと足を止めた。壁に掛けた、アンティークの鏡の前だった。
ダイアナはそっと鏡に触れる。指先からは冷たさが伝わり、鏡には青白い顔でこちらを見つめるダイアナが映るだけだった。
ダイアナがその鏡を見つけたのは、あるお茶会の帰りだった。
その日のお茶会は、夫ハロルドと未亡人との話題が中心だった。
お茶会では笑顔を貼りつけていたダイアナだが、自分が長年感じていた夫への違和感が他人によって暴かれる。さすがに落ち込んだダイアナは、真っ直ぐ屋敷に帰る気が起こらなかった。
ふらりと入った街の骨董品店で、衝動的に買ったのがこの鏡だ。
「あなたが……?」
言ってからダイアナは後悔した。自分があまりにも馬鹿なことを言ったと自覚したからだ。
ただ一瞬、ダイアナは鏡がキラリと光ったように見えた。
「あれは夢だったのかしら」
翌朝、ダイアナは昨夜の出来事を思い出していた。やはり、そんなことはあり得ない。
そう思っていたが、その夜、寝室の鏡はまた音を立てた。
まるで、ダイアナのひとりごとに相づちを打つかのように。
人付き合いが苦手なダイアナだが、お茶会の誘いは増える。皆、ハロルドの話を聞きたいのだ。困ったような笑みを浮かべ、ただ時間をやり過ごしていたダイアナの心労は重なっていく。
その夜。ダイアナはつい、鏡に向かって話し掛けてしまった。
「ハロルドにいい人がいるのはわかっていたわ」
「もう跡取りの息子も成人を迎えた。私は不要なのよ」
「どうして皆、私を責めるの」
つい零れた思いは止まらなくなってしまう。いつの間にかダイアナは、涙を零しながら鏡に向かって心の内を吐き出していた。
静かな寝室に聞こえるのは、ダイアナの声だけ……のはずだった。
……カリ、カリカリ。
またあの音。ダイアナが顔を上げたその時。
『それはつらかったね』
信じられないことに、鏡が返事をした。
ダイアナは目を見開いたまま、動けなくなった。男のものとも女のものともつかないその声は、幻聴などではない。
驚きのすぐ後に、恐怖が襲いかかる。ダイアナはゆっくりと後ずさりした。
『あなたは何も悪くない』
寝室から逃げようとしたダイアナの足が止まる。なぜならそれは、ダイアナが一番欲しかった言葉だったからだ。
鏡は一度だけキラリと光った。
次の日から、ダイアナは寝室に閉じこもる時間が増えた。居場所はあの鏡の前だ。
「今日のお茶会。公爵夫人にハロルドのことを聞かれたの。上手く返せなかったわ」
……カリ。
いつもの音と共に鏡が不気味に光る。
『答えなくていい。私ならこう言う……』
鏡はダイアナを責めないで寄り添った。ダイアナは鏡の言葉に涙し、そして鏡の言葉を信じた。
次のお茶会。疲弊していくダイアナを見て楽しんでいた婦人たちから、まだ意地悪な質問が投げかけられる。しかしダイアナは、笑顔を浮かべて鏡の言った言葉をそのまま返した。
何が正解なのかわからない。だが、次のお茶会からダイアナに対する扱いが変わった。
ダイアナは何かを質問された時、必ずこう返すようになった。
「そのお話は、後日改めて」
ダイアナは社交界に居場所ができた。
昼間は忙しくお茶会に参加し、夜は寝室に籠もり、いつの間にか付いている指紋を拭きながら鏡に話し掛ける。そんな毎日を送るようになった。
そんなダイアナの変化に、ハロルドは気づかなかった。いや、興味がなかった。
ハロルドの興味は、出世と愛人である未亡人のデイジーだけだった。
デイジーとの関係は、もう十年以上になる。
鈍いと思っていたダイアナの耳に、デイジーのことを吹き込んだお節介がいるのも知っていた。それでもハロルドはデイジーに夢中で、ダイアナに対して罪の意識は薄かった。
とある日の昼間。
珍しく仕事を早めに切り上げたハロルドは、何年かぶりに夫婦の寝室に足を踏み入れた。
ダイアナが未練がましくこの寝室を使用しているのは知っていた。
変わらない寝室だが、壁に掛けられた鏡だけが異質さを放っている。ハロルドは、惹かれるように鏡の前に立った。
恐る恐る鏡を覗き込む。二重生活に疲れを感じているのだろうか。そこには、疲れた顔をした自分が映っていた。
「ひどいクマだな……」
……カリ。
鏡の中から耳障りな音がした。ハロルドは、さらに鏡を覗き込んだ。鏡がキラリと光る。慌てて一歩退いたハロルドに、鏡が話し掛けてきた。
『お疲れのようですね。話を聞かせてください』
ハロルドも鏡を頼るようになるまで、時間はかからなかった。
取引相手に無理難題を突きつけられた時、デイジーに高価なものをねだられた時。ハロルドは必ずこう答えた。
「その話は、後日改めて」
昼間はハロルドが、夜はダイアナが鏡と会話をする。異様な光景だが、それに反して二人の生活は穏やかに過ぎていった。
それから半年ほど経ったある夜。
久しぶりに浮かない顔をしたダイアナが、鏡に向かって話し掛けていた。
「やっぱり私、ハロルドの愛人が憎いわ……」
この日ダイアナは偶然、ハロルドとデイジーが寄り添って歩く姿を見かけた。ハロルドに対する気持ちなんてすっかり枯れてしまっていたダイアナだったが、目の当たりにするとやはり耐えがたい。
……カリカリカリカリ。
あの音が鳴る。ダイアナは、鏡の言葉をじっと待った。
『あなたは、どうしたい?』
「私は……」
鏡から質問されたのは初めてだ。ダイアナは言葉に詰まった。
しかし、考えてみる。あの女がいなくなれば解決するだろうか。ハロルドの心は戻らないかもしれないが、こんな惨めな思いをしなくて済むのはわかる。
……クスクス。
鏡が喜ぶように笑い声を上げたが、それに気づかないぐらいダイアナは思考の海に飲まれてしまっていた。
『その問題が消えたら、あなたは楽になる?』
「……なるわ。もちろん」
キィィィィ……。
鏡が嬉しそうに鳴った。ダイアナはもう鏡を見ていなかった。
数日後の昼間。
目の下のクマをより色濃くしたハロルドが、鏡に向かって話し掛けた。
「……デイジーが仕事にまで口を挟むようになった」
そう吐き捨てたハロルドは、不機嫌さを隠そうとしなかった。高価なものをねだるのが可愛く思えたのは初めのうちだけ。年齢の割に若くみえるデイジーだが、さすがに十年も経つと粗も目立つ。それを悟ったのか、デイジーは仕事や家庭にまで入り込もうと画策しているように見えた。
「分を弁えない愛人は、邪魔なだけだ」
……クスクスクス。
鏡が笑う。ハロルドは鏡を睨み付けた。
『あなたを困らせているのは、誰?』
鏡の言葉を聞いてハロルドは考え込んだ。
自分が悪いのはわかっているが、やはり調子に乗った相手が一番悪いのかもしれない。ハロルドは寝室中を、何かを考えながらウロウロと歩き回った。
何かの答えが出たのか、ハロルドは思い詰めた顔をして寝室を出て行った。
鏡は、キラリと嬉しそうに輝いた。
その日の夜遅く。二人はばらばらに、しかし同じ場所へと向かった。
ナイフを隠し持って。
ダイアナとハロルドが、目的の場所に到着した頃。
深夜の寝室に、一人の青年が入って来た。二人の息子であるミゲルだ。まもなく侯爵家を継ぐミゲルは、寝室をぐるりと見渡した。
父と母の様子がおかしいことにミゲルは気づいていた。
父が愛人を持とうが、母がお茶会で肩身の狭い思いをしようが、ミゲルにはどうでもいいことだった。
しかし自分が継ぐ、この侯爵家の価値を両親に下げられることだけは見逃せない。
ミゲルは鏡に近づいた。
……カリ。
「そうやって、いつも僕に話しかけてくる。お前は一体何者なんだ」
……クスクス。
「まあ、いい。一つ聞きたいことがある。侯爵家にとって、最も利益となる方法をね」
……キィィィィ。
「あの二人を消す方法は?」
……ピシッ。
音と共に、鏡に細かいヒビが走る。鏡は一層妖しく輝いて、ヒビの向こう側ではミゲルが薄く笑っていた。
……カリ。
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