夏の海
僕は出不精である。しかし毎年夏になるとどういうわけか、必ず海へ引っ張り出される仕組みになっている。一人では絶対に海へなど行かないが、誘われると断る理由もないし、なにより普段断ってばかりいるから、そのツケが溜まりに溜まって抵抗が不可能になってしまうのだ。誘いと受け手というのは案外、上手いこと出来ているようである。
僕は海が嫌いではない。それは初めて誘いに敗北したときようやく気がついたのだが、むしろ好きなくらいかもしれない。嫌々ひっついていったにしては、僕の心は晴れすぎていた。元来の肌の弱さから皮がバリバリになってはいたが、それよりも、いいものを見ていいところへ行った、という思いのほうがよほど強かった。なにがそんなによかったのか、と聞かれると難しいが、一つだけ確かなのは、僕は水着の姉さんとか砂浜のドンチャン騒ぎとか、そういうのに惹かれたのでは断じてない。水着の……や、砂浜の……などは波間に漂う海藻みたいなもので、あってもなくても別に構わないのである。
そのU海岸へ僕が初めて出かけたのは数年前のことだった。度重なる誘いの圧力にとうとう我慢が出来なくなり、口から出任せに行くと言ってしまった。言ってしまったからには行くしかないが、やはり行きたくないので、よし断ろうとした。ところがすでに宿を予約してしまったと言う。夏の下旬で空いているからいいと言う。朝夜ご飯付きでオーシャンビューだから眺めが最高だと言う。それで僕も逃げ場がなくなり、むっつり頷いてお礼の一つや二つ述べたような気がするが、記憶が定かではない。しかし、予定の日に熱でも出せばよいと思ったことは、はっきり覚えている。
予定と段取りのすべてを人任せにしておいて、冷静に考えると失礼極まりない話ではあるが、思ってしまったことは仕方ない。イヤなものはイヤである。洞穴のウツボは……と、また言い訳をしかけたが、もう止めにしておこう。
結局僕は、夏風邪にも罹らず熱中症にもならなかった。暑熱を睨みながら外へ出て、海岸へ向かう車の中にどっかり乗り込んだ。それからヤケクソに元気になって大笑いしたり、喋りまくったり、お菓子を食べまくったりして、自分自身に対する憂さ晴らしを敢行したが、絶対的な体力不足のせいで、最初のサービスエリアを後にする頃には疲れ果てて黙り込んでいた。「急に静かになったね」とからかわれても、「ウーン、ムム」と唸り返すのみである。
とはいえ、潮の香りが漂ってくればさしもの僕も再起動するもので、窓を開けてニョッキリ鼻を突き出すと、何時ぶりかの懐かしい海の匂いだった。前方を見るとだだっ広い大海原がどこまでも広がり、真昼の太陽を反射してチラチラと輝きつつ、その輝きのうちを巨大なタンカーがのっそり進んでいく。タンカーは地平線の上にあるので、まるで海の縁に乗っているかのような錯覚が起こる。大パノラマには違いないが、しかしそれもこれも、いかにも、といった光景である。
僕は芯からゲンナリした。チェックインまでにはまだ二時間以上あるが、そうするとその分だけ海でバシャつかなければならない。ところが二時間もバシャつくには体力が足りない。体力が足りないから気力が付いてこない。気力が付いてこないから気分も乗らず、気分が乗らないから楽しむこともできない。ようするに、海で楽しむための資格を何一つ持っていないのだった。
なんという場所に、来てしまったのだ! 僕は絶望した。しかし急かされるまま、ひとまず水着になって、麦わら帽子をかぶり、荷物を持って砂浜へ出た。
さっそく海へ飛び込む同行者を尻目に、僕はそこへは行かず、一目散に堤防へ向かった。そこで読書でもしようと思ったのである。海初心者の浅はかさから、波音を聞きながらの読書はさぞ心地良いだろうと考えていたのだが、これは大間違いだった。そこかしこから熱波が吹き付け、コンクリートは熱いし潮風は強いしで、とても読めたものではない。僕はさっさと諦めて文庫本をバッグに押し込み、堤防の隅に座って寄る辺なく足をぶらぶらさせていると、向かいの堤防に張り付く釣り人が目に入った。
僕は、尊敬と羨望の眼差しで彼らを見つめた。彼らは確固たる目的を持って海へ来たのだ。海の魚を釣る、その一心で、そのとおりに行動している。その充実たるや、僕などの想像の及ぶところではない。それに比べて我が身、我が精神の衰弱ときたら、これもまた、釣り人の想像の及ぶところではない。おそらく彼ら釣り人は、獲物が釣れようが釣れまいが、そんなことは問題にしていないのだろう。海釣りの瞬間そのものが釣り人の精神であり、その一瞬間に彼らの全存在が肯定され得るのである。
では、今この瞬間、不機嫌に唐揚げをむさぼり食う僕はいったいなんであろうか。僕と彼らの、さて、どちらが海の精神か……?
そんなことを火照った頭でつらつら考えているうちに、見かねたらしい同行者から、ついにお呼びがかかった。「そんなところにいないで海へ入っておいで」ということだった。そう言われれば断る理由もないし、素直に従い、そのようにした。僕の麦わら帽子は大きかったので、堤防の段々に寝そべって顔の上に被せるには丁度よかった。足だけ海水に浸しているとひんやりして気持ちがよかった。
しかしそれも、堤防の固いのが徐々に耐えがたくなってきて、寝床の出来の悪さに苛立ちが募りはじめると、あっけなく霧散してしまった。わざわざ海へやって来たのに、これではあんまりな仕打ちではないか。すこしくらい朗らかな気持ちにさせてくれても支障ないだろうに、いったいこの海岸は僕を歓迎しないのだろうか。そういえば、さっきフナムシがいたが、あのような無害な奴でさえ、僕が近づいていくと散り散りになって逃走していった。
(ちぇ、お前も遠ざかっていくのか)
僕には逃げていったフナムシが癪であり、そこかしこに蠢く蟹が癪であり、堤防の人体に何ら配慮しないのが癪だった。癪だからこそ、意地になってしばらくは寝転がったままでいたが、いよいよ限界に達すると飛び起きて「チクショウ!」と叫びながら海へ飛び込んだ。
勢いよく跳躍し、着水すると同時に、全身が一気に冷え切った。僕は凍えた。しかし、海は優しかった。堤防も釣り人もフナムシも、僕のフラストレーションも、水着の姉さんと同じく波間に漂う海藻であった。体温と海の冷たさとが融和し、時間が経つにつれて、それが温かいまどろみの膜となって境界を溶かしていった。僕はすべてを忘却し、巨大な空洞に変転させられるような気がした。
「気持ちいいでしょ」
なにかニヤニヤしながら僕を見るその人を、僕は見るともなく眺めていた。それは取るに足らない存在だった。僕自身もそうであった。顎まで海に浸かって目を閉じると、海の鼓動が、この心拍を覆って抱きしめるようだった。
波は反復する。この無意味な運動は、誰もが消え去ったあとも継続するだろう。僕はその時間の流れに押し込まれ、波間を漂う海藻となり、訳もなく安心して脱力していた。
「ちょっと、危ないよ」
言われて目を開けると、なるほど、だいぶ奥まで流されていた。僕はカナヅチである。足が着かなくなれば、まず助からない。
海面に目を落とすと、まだ底が見えるくらいだった。砂粒の塊が絶えず形を変え、底をさらい、またどこかへ収まっていく。行ってみたいな、と僕は思った。ずんずん奥へ歩いて行った。後ろからなにか言われたような気がするが、たいしたことではなかった。そうして進んでいくと、突然、足が海中へ放り出された。僕は片足で海底を探り、蹴ると、奥へ行くか戻るか、すこし迷った。
(海の精神……?)
僕は軽度の熱射病かもしれなかった。視界がグラグラした。遙か先の地平線、到達不可能な海の向こう側は、言いようもなく魅力的だった。
「なにやってんの、馬鹿」
片腕を掴まれて引き戻されたのは、まだ片足でなんとかなる深さでのことだった。僕は引かれるままに砂浜に戻り、入水禁止命令を受けたので、波打ち際に寝転がってぼんやり空を眺めはじめた。
夏の空と、海と、雲とのドギツイ色彩が、僕に目眩を起こしたようである。それから砂浜で独自の堤防を建築したり、白波の飛沫にあらゆる色を幻視したりするうちに、チェックインの時間がきた。
最後に一度海を振り返ると、波は、やはりそのままだった。
どうやら僕は疲れていたらしい。宿の部屋に着くと、夜まで寝てしまった。そんなふうだから、他の人が寝ている時間に起きている羽目になった。
起こしてやろうかと思ったが、止めた。抜き足差し足でバッグまで行き着き、ヘッドホンを取り出すと、窓際の椅子に腰掛けた。音楽は熱っぽい体の気紛らわしだった。皮膚が焼けて痛かった。鼻を撫でると皮が剥がれたので、それ以上は触らずにそっとしておくことに決めた。
夜の海岸は昼のそれよりも綺麗だった。緑や白、赤に黄色といった港の灯りが点々と瞬き、暗黒の海面を静かに照らしていた。しかしなにより僕の気を引いたのは工業地帯だった。海水浴場から離れた左手に煌々と輝き、真昼の明るさを誇っているその一角が、僕には妙に物悲しかった。べたついた郷愁さえ感じた。それは到達不可能な地上の地平線だった。僕は一挙に開いたおびただしい光の氾濫に惹かれ、倦むことなく眺めていたが、やがてプレイリストが一巡し音楽が鳴り止むと、ヘッドホンを外して波音に耳を澄ませた。
行きし戻りしするリズムはやはり無意味だった。その揺りかごのなかで、昼間の出来事と夜の工業地帯とが一つの連関になり、僕はほっと胸をなで下ろした。
波は、僕の味方であった。あの永遠の反復は解体する結節点であり、この海が空虚な反復を抱いている限り、僕はそこへ帰ることもできれば出発することも可能なはずである。夏の海は限りなく優しかった。そのうえ、工業地帯が現にそこにあるという事実から精神的な安らぎをさえ得られたのだから、夏の海、万歳だった。
僕は満足し、かつ眠気が脳味噌に浸透するまでは、ずっと椅子に座っていた。そのうち体力の枯渇を自覚すると、いそいそと布団に潜り込み、全身の心地よい重苦しさに眠気を委ねた。そうして今、U海岸を離れて机に向き合っているときも、僕の耳にはあの海の波音が微かに聞こえるような気がするのである。




