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第9話:意識しすぎのプロテインと、大人のモヒート

「……おかしい。絶対に、俺の脳みそがどうかしてしまったんだ」

 月曜日の朝。

 長谷川康太はせがわ こうたは、オフィスの自席でパソコンのモニター越しに、隣のデスクを盗み見ながら頭を抱えていた。

 視線の先には、出社するなりデスクにコンビニ袋をドンッと置き、朝食を貪り食っている近藤こんどうめぐみの姿がある。

 今日の彼女の朝食は、特大サイズのツナマヨおにぎり二個と、ジャンボフランクフルト、そして1リットルの紙パック入りフルーツオレという、成人男性の昼食すら凌駕するカロリーの暴力だった。

「んがっ、モグモグ……ぷっはぁ! やっぱ朝は炭水化物に限るわね!」

 めぐみは、リスのように(いや、どちらかといえばヒグマのように)頬をパンパンに膨らませ、豪快な音を立てて咀嚼している。

 いつもの康太なら、「お前、朝からどんだけ食うんだよ。見てるこっちが胃もたれするわ」と心の中でドン引きし、全力でツッコミを入れているところだ。

 しかし、今日の康太は違った。

(……やばい。あんなに大口開けて食ってるのに……なんだか、小動物みたいで可愛いと思ってしまった……!)

 康太は、自分の頬がカッと熱くなるのを感じて、慌てて両手で顔を覆った。

 あの週末、元カノの莉奈りなと遭遇し、めぐみが俺のためにガチギレしてくれたあの夜から。康太のめぐみに対する視界は、完全に「バグ」を起こしていた。

 蛍光イエローの派手なブラウスも、ダイナミックすぎる体躯も、鼓膜を破るほどの爆声も。すべてが、愛おしく、眩しく見えてしまうのだ。

 自他共に認める、重度の「面食い」だったはずの俺が。華奢でおしとやかな女の子しか愛せないと豪語していた俺が。

 まさか、この規格外の暴食モンスターに、胸をときめかせているなんて。

「……ちょっと長谷川。さっきから何、私のことジロジロ見てんのよ」

 不意に、めぐみがフランクフルトの串を康太の方へビシッと突きつけた。

「ひゃいっ!?」

「ひゃいって何よ、気持ち悪い。……アンタ、顔赤いじゃない。まさか熱でもあるの? それとも、また週末に莉奈ちゃんのSNS見て、落ち込んで知恵熱でも出してんじゃないでしょうね?」

「ち、違うよ!! 莉奈のSNSなんて、あの日から一回も見てないし!!」

 康太が裏返った声で全力否定すると、めぐみは怪訝そうな顔で康太の顔を覗き込んできた。

 ズイッ、と至近距離に迫ってくるめぐみの顔。肌ツヤが異様に良く、大きな瞳が康太を真っ直ぐに捉えている。ほんのりと、ココナッツのような甘い香りがした。

「うわっ、近っ……!」

 ドクン!! と、康太の心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。

「ふーん……熱はなさそうね。まぁいいわ、病み上がり(失恋の)なんだから、仕事でミスらないようにシャキッとしなさいよ! 今日の定時後も、もちろん中島公園でランニングだからね!」

 めぐみはガハハと笑い、再びおにぎりにかぶりついた。

 康太は、バクバクと鳴り止まない心臓を押さえながら、パソコンのモニターに視線を戻した。

(落ち着け、俺。相手はあのめぐみだぞ。気を抜いたら食い殺される猛獣だぞ。……でも、どうしよう。マジで、好きだ……)

 康太は、人生で一番厄介で、一番予想外の初恋に直面した中学生のように、一人で勝手に悶え苦しんでいた。

 ***

 その日の定時後。

 いつものように、ジャージに着替えた二人は中島公園のジョギングコースを走っていた。

「ほら長谷川! ペース落ちてるわよ! もっと腕振って!!」

「ぜぇ……はぁ……お前、相変わらず無尽蔵の体力だな……っ」

 康太は、数メートル前を走るめぐみの大きな背中を見つめながら、必死に足を動かしていた。

 以前の康太なら、この蛍光ピンクのスポーツウェアに身を包んだ巨大な背中を見て、「南国フルーツの化け物」などと悪態をついていた。

 だが今は違う。

 康太の目に映るその背中は、自分が一番辛かった時に盾になって守ってくれた、世界で一番頼もしくて、温かくて、かっこいい背中だった。

「……よし! 今日はここまで!」

 五キロのコースを走り終え、めぐみがベンチにドカッと腰を下ろした。全く息を切らしていないのは相変わらずだ。

「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」

 康太もその隣にへたり込み、自販機で買ってきた冷たいスポーツドリンクをめぐみに差し出した。

「ほら、お疲れ」

「おっ、気が利くじゃない。ありがと」

 めぐみはキャップを開け、ゴクゴクと喉を鳴らして半分を一気に飲み干した。

 夕暮れ時の公園。オレンジ色の西日が、めぐみの汗ばんだ横顔を照らしている。康太は、無意識のうちにその横顔に見とれていた。

「……なに? まだ私の顔になんかついてる?」

 視線に気づいためぐみが、不思議そうに自分の頬を拭う。

「あ、いや……」

 康太は、ギュッと拳を握りしめ、一つ深呼吸をした。

 ここでウジウジするのは、それこそ女々しい男のやることだ。ちゃんと、自分の気持ちの第一歩を伝えなければならない。

「……なぁ、めぐみ」

「ん?」

「こないだの週末は……ごめん。そして、ありがとう」

 康太が真っ直ぐに目を見て言うと、めぐみは一瞬キョトンとした後、「ああ」と笑った。

「なんだ、莉奈ちゃんのこと? 気にしなくていいわよ。あんな薄っぺらい男連れてるの見て、私も我慢できなくなっちゃっただけだから」

「いや……お前があの時、俺のことを本気で肯定して怒ってくれたから。俺、本当に目が覚めたんだ。自分がどれだけ、見栄張って、相手の顔色ばっかり気にしてた薄っぺらい男だったか」

 康太は、自分の膝を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺、お前のおかげで、もう過去の自分には戻らないって決められたよ。……本当に、命の恩人だ」

 康太の真剣な言葉に、めぐみは珍しく、少しだけ口ごもった。

「……なによ、急に。気持ち悪いわね」

 めぐみは、ポッと顔を赤らめ、誤魔化すように康太の背中をバシィィンッ! と叩いた。

「痛っ!! だから、いい雰囲気の時に叩くなって!!」

「ガハハ! 命の恩人に感謝するなら、言葉より肉よ! 今度の週末、また奢らせるからね!」

「……ああ。奢ってやるよ。その代わり」

 康太は、ジンジン痛む背中を耐えながら、めぐみを真っ直ぐに見つめ返した。

「今度の土曜の夜。俺に、店を選ばせてくれないか」

「え?」

「今まで、ずっとお前に飯奢ったり、合コンセッティングしてもらったりして、おんぶに抱っこだっただろ。だから今度は、俺が……俺自身の力で、お前をエスコートしたいんだ」

 めぐみは、目をパチクリと瞬かせた。

「エスコートって……アンタが? また気取ったイタリアンとか予約して、メニュー読めなくて自爆するんじゃないでしょうね?」

「ち、違うって! ちゃんと俺の身の丈に合った、でも、お前に喜んでもらえるような場所を探すから! ……だから、土曜の夜、空けといてくれよ」

 康太の必死の表情に、めぐみはしばらくポカンとしていたが、やがて「ふっ」と吹き出した。

「……わかったわよ。そこまで言うなら、お手並み拝見といこうじゃない。変な店だったら、特大パフェ十個奢らせるからね!」

「ああ、約束する!」

 康太は、心の中で大きくガッツポーズをした。

 決めた。この週末、俺はめぐみに、ありのままの自分の気持ちを伝える。

 相手がどう思うか、嫌われるんじゃないか。そんな女々しい戸惑いは、もう全部捨ててやる。

 ***

 そして、運命の土曜日の夜。

 康太が待ち合わせの場所に指定したのは、すすきのの路地裏にある、落ち着いた雰囲気のオーセンティックバーだった。

 薄暗い照明、マホガニーの重厚なカウンター。客層も落ち着いた大人ばかりで、間違っても「メガジョッキと唐揚げタワー」を大声で注文するような居酒屋ではない。

 康太は、カウンターの端の席に座り、氷の入ったグラスを見つめながら、異常なまでの緊張で全身から嫌な汗を吹き出させていた。

(……やばい。やっぱりこの店、めぐみにはハードルが高すぎたか!?)

 康太は、めぐみが選んでくれた「体にジャストフィットしたネイビーのシャツ」を着ていた。背伸びしたホストのような服ではない。今の、等身大の自分に一番似合う服だ。

 この店を選んだのには、理由があった。

 大学時代、見栄を張って「モヒート」を知ったかぶりして注文し、めぐみに一生バカにされる黒歴史を作ってしまった康太。

 今日は、あの時の「カッコつけて自爆したダサい自分」を乗り越えるための、リベンジの舞台なのだ。

 だからこそ、あえてオシャレなお酒が出るバーを選んだ。ありのままの自分を見せるために。

 だが、現実は恐ろしい。

 もし、めぐみがいつものようなド派手なトラ柄の服で現れて、この静かなバーで「すいませーん!! とりあえず生メガジョッキ!!」と叫んだらどうしよう。店を追い出されるかもしれない。

 壁掛け時計の針が、約束の夜八時を指した。

 カラン、と。

 バーの重厚な木製のドアが、静かに開いた。

 康太は、ビクッとして入り口の方を振り返った。

 そして。

 そこから現れた人物を見て、康太は文字通り、呼吸をするのを忘れた。

「……えっ?」

 入り口に立っていたのは、一人の大人の女性だった。

 体にフィットした、シックで上品なブラックのミディ丈ドレス。普段のド派手な原色は一切なく、落ち着いた漆黒が、彼女のグラマラスな体型を美しく引き立てている。

 いつも無造作に結んでいる髪は、美容室でセットされたのか、艶やかな夜会巻きにアップされていた。メイクも、普段の派手なものではなく、洗練された大人の女性の雰囲気を醸し出している。

 ……めぐみだった。

「……待たせたわね、長谷川」

 めぐみは、少しだけ照れくさそうに頬を赤らめながら、小さなハンドバッグを手に、康太の隣の席へと静かに腰を下ろした。

「おま……えっ……めぐみ、なのか……?」

 康太は、カエルが潰れたような情けない声を出してしまった。

 誰だこの超絶イイ女は。俺の知っている、唐揚げに親の仇のようにマヨネーズをぶっかける妖怪・暴食モンスターはどこに行ったんだ。

「なによ、ジロジロ見て。変?」

 めぐみは、少し不安そうに自分のドレスの裾を触った。

「変じゃない……! いや、変じゃないどころか……めちゃくちゃ、綺麗だ……」

 康太の口から、無意識のうちに本音が漏れ出ていた。

 お世辞でもなんでもない。今のめぐみは、これまで康太が付き合ってきたどんな可愛い元カノたちよりも、圧倒的に美しく、そして魅力的だった。

「ばっ……バカじゃないの!? 急に変なこと言わないでよ!」

 めぐみは顔を真っ赤にして、康太の肩をバシッと叩こうとした。

 しかし、今日の彼女はドレスアップしているせいか、いつもの「鼓膜が破れるような爆声」も、「内臓が破裂しそうな張り手」も封印されているようだった。

「……アンタが、自分のお金でちゃんとした店をエスコートするって言うから。私だって、それなりにTPOくらいわきまえられるわよ」

 めぐみは、ツンと顔をそむけながら、グラスのコースターを指でなぞった。

 ドクン、ドクン。

 康太の心臓が、限界突破の警報を鳴らしている。

 やばい。今日のめぐみは、攻撃力が高すぎる。

「ご注文は、お決まりでしょうか」

 静かな足音で、バーテンダーが二人の前に立った。

 康太は、ゴクリと唾を飲み込み、メニュー表を開いた。

 以前の康太なら、ここで「お酒に詳しいフリ」をして、背伸びをして横文字のカクテルを頼み、自爆していただろう。

 だが、今日の康太は違う。

「……俺は、普通のレモンサワーを。あ、それと」

 康太は、隣に座るめぐみを、真っ直ぐに見つめた。

「彼女には……『モヒート』をお願いします」

「えっ……」

 めぐみが、驚いたように目を丸くして康太を見た。

「お前、モヒート好きだっただろ。大学の時、俺が知ったかぶりして飲んでリバースした時、お前『せっかくの美味しいモヒートが台無しじゃない!』って怒ってたからさ」

 康太は、照れくさそうに鼻の頭を掻きながら笑った。

「俺は、お酒のこと全然詳しくないし、カッコつけるのもやめた。だから、今日は……俺のダサい過去を全部知ってるお前に、一番美味しいモヒートを飲んでほしくてさ」

 康太の、等身大で、飾り気のない言葉。

 めぐみは、しばらく呆然と康太を見つめていたが、やがて。

 フッと、ドレス姿に似合わない、いつもの豪快で、でもひどく優しい笑顔を浮かべた。

「……ふふっ。アンタ、本当に……少しはマシな男になったじゃない」

 バーテンダーがシェイカーを振る心地よい音が、静かな店内に響き始める。

 オシャレな雰囲気。緊張で眩暈がしそうなほど高鳴る心臓。

 すべてが、康太の人生最大の「告白」に向けて、完璧な舞台を整えていた。

 女々しくてカッコ悪かった男の、一世一代の大勝負が、今、始まろうとしていた。

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