第8話:元カノの冷ややかさと、面食いの陥落
大豪寺社長との「焼肉接待ブルドーザー計画」が大成功に終わり、週末が明けた月曜日。
長谷川康太は、会社のデスクで、週末の疲れを隠しきれない顔で、栄養ドリンクをあおっていた。
「……なぁ、めぐみ。お前、本当に向こう一ヶ月、土日のランチ全部奢らせる気?」
康太が、隣のデスクで、朝からコンビニの特大おにぎりを貪り食っている近藤めぐみに恨めしそうに尋ねた。
「当たり前でしょ! アンタのクビとサラリーマン人生を救ってやったんだから、安いもんじゃない! ガハハ! 昨日の食べ放題バイキングも美味かったわねー! 特に、ローストビーフを一人で五十枚平らげた時の、店長の顔が傑作だったわ!」
めぐみは口の周りにご飯粒をつけながら、豪快に大笑いした。
昨日日曜日。康太は約束通り、めぐみを駅前の高級食べ放題バイキングへと連れて行った。そこでのめぐみの食欲は、第7話での焼肉接待をさらに上回る、まさに「天災」レベルだった。
「お前の食欲で一ヶ月奢ったら、俺のボーナスどころか、家賃まで飛ぶぞ……」
「文句言わない! 女々しいこと言ってんじゃないわよ! ほら、仕事! 今日の定時後は、先週サボったランニングだからね! 莉奈ちゃんのSNS見て落ち込んでる暇なんか、一秒も与えないから!」
めぐみは、康太の背中を、バシィィィンッ!! と凄まじい力で張り飛ばした。
「痛っ!! お前、ほんっと手加減しろって……っ」
康太はジンジンと痺れる背中をさすりながら、心の中で悪態をついた。
(妖怪・黒歴史暴露暴食モンスター……。絶対にあり得ない。こいつを女として意識するなんて、宇宙が爆発しても存在しない)
康太の心に、めぐみに対する恋愛感情など、依然として砂粒一つ分も存在していなかった。
ただ、彼女の圧倒的なパワーの前では、莉奈への未練や失恋の痛みなど、本当にちっぽけなものに思えてくる。それは、確固たる事実だった。
康太は、めぐみに「女々しい」と怒鳴られないよう、必死にパソコンに向かった。
***
その日の夜。
地獄のランニングを終え、康太とめぐみは、汗だくのジャージ姿で、駅前のドラッグストアに立ち寄っていた。
「あー、喉渇いた! プロテイン飲料買うわよ、プロテイン! 筋肉が叫んでるわ!」
めぐみは、カゴに大量のプロテインバーとドリンクを放り込みながら、上機嫌で歩いている。
「お前さ……さっき走ってる時、通り過ぎるカップル全員に『ガハハ! 幸せそうねぇ! 末長くお幸せにー!』って大声で叫ぶの、マジでやめてくれない? 恥ずかしすぎて死ぬかと思った……」
「いいじゃないの! 幸せなやつは、もっと幸せになればいいのよ! アンタみたいに一人でコソコソ嫉妬してる方が、よっぽど恥ずかしいわよ!」
めぐみはガハハと大笑いし、康太の肩をバシッと叩いた。
「いてっ! だから叩くな!」
ドタバタと買い物を済ませ、ドラッグストアの自動ドアから出た、その瞬間だった。
「……あっ」
康太の動きが、ピタリと止まった。
ドラッグストアの前を、手を繋いで楽しげに歩いてくる、一組のカップル。
莉奈だった。
巻き髪に、華奢なスタイル。康太が一年間、背伸びをして、無理をして、愛し続けた、自慢の元カノ。
そして、その隣には。あのカフェでフラれた時に莉奈が言っていた「新しい好きな人」らしき、背が高くてオシャレな男が、莉奈の手をしっかりと握っていた。
(……マジか。こんなところで……)
康太の心臓が、ヒュッと縮み上がった。
別れてから一ヶ月以上。めぐみの特訓のおかげで、未練はだいぶ薄れていたはずだった。でも、こうして実際に、新しい男と幸せそうに笑っている莉奈の姿を見ると、胸の奥がチクリと痛むのを、康太は否定できなかった。
莉奈も、康太に気づいた。
彼女は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに冷ややかな、侮蔑を含んだような瞳で康太を見つめた。
「……康太」
莉奈の口から、冷たい氷のような声が漏れた。
「こんなところで、何してるの」
「あ、いや……ちょっと、ドラッグストアに……」
康太は、声が震えるのを必死に抑えて、何とか答えた。
「へぇ。……相変わらず、冴えない顔してるね。まだ私のこと、引きずってるの?」
莉奈の言葉は、切れ味鋭い刃物のように康太の胸をグサグサと刺した。
「もう、いい加減にしてよ。ストーカーみたいにSNS監視するのも、私の友達に俺の悪いところ直すからとか電話するのも、マジでキモいから」
康太は何も言い返せず、黙って俯いた。
莉奈の隣の男が、康太を見て、フッと馬鹿にしたように笑った。
「あー、こいつが莉奈の元カレ? 莉奈が『ウジウジしてて疲れる』って言ってた、あの女々しい男か。……ふーん。今の莉奈には、君みたいな平凡な男、釣り合わないからさ。もう、近づかないでくれる?」
康太のライフは、もうゼロである。
元カノからの冷酷な拒絶。新しい彼氏からの、男としてのプライドを粉々に打ち砕く言葉。
康太は、地面に突っ伏して泣き出したい衝動に駆られた。やっぱり俺はダメだ。何をやっても空回りして、カッコ悪くて、誰からも愛されない、平凡な男なんだ。
「……あらあら、莉奈ちゃん」
背後から、ひどく穏やかな、そしてドスが効いている声が響いた。
「随分と、お熱いお二人ねぇ」
見上げると、そこには、康太の隣に立っていためぐみが、カゴからプロテイン飲料を取り出し、ゴクゴクと一気飲みしながら、仁王立ちしていた。
汗だくのジャージ姿。口の周りにプロテインの粉がついている。その巨大な体躯は、ドラッグストアの照明を完全に遮り、莉奈たちの上に不気味なシルエットを描いていた。
「……近藤、さん」
莉奈が、めぐみを見て、顔をしかめた。
「なんで、康太と一緒に……」
「アンタに関係ないでしょ!!」
めぐみは、突然、メガジョッキをドンッ! とテーブルに叩きつける(ような勢いで、空のプロテインドリンクのボトルをゴミ箱に叩きつけた)。
「莉奈ちゃん、アンタねぇ……」
めぐみは、莉奈に向かって指を突きつけた。
「ガハハハハッ!! アンタ、ほんっとーーーーーに『見る目』がないわね!!」
店前に響き渡るほどの豪快な笑い声。
莉奈と新しい彼氏が、ドン引きしたように後ずさりした。
「な、何がおかしいのよ!」
「おかしいでしょーが! アンタさ、康太の悪いところは全部直すからっていう、あの女々しくてカッコ悪い言葉。あれが、こいつの『精一杯の愛の告白』だって、なんで分かんないのよ!!」
「はあ!?」
「嫌われるのを恐れて、傷つくのを恐れて、頭の中でゴチャゴチャ無駄に分析してさ! で、ボロが出てフラれるとこの世の終わりみたいにウジウジ引きずる! それが、こいつのダサい本性よ!!」
めぐみは、康太の背中を、バシィィンッ! と凄まじい力で張り飛ばした。
「痛っ!! だから叩くな!!」
「でもね!! アンタにフラれて、カッコ悪い過去を大声で笑い飛ばされて、酒のツマミにして消化して! そうやって泥臭く汗かいて、自信なんてこれっぽっちもないのに、それでも前向いて走ろうとしてる! 今の康太はね!! アンタと付き合ってた時の、背伸びして見栄張ってた偽物なんかじゃないわよ!!」
めぐみは、康太の首根っこを掴んで、強引に莉奈の前に突き出した。
「いい!? 莉奈ちゃん!! アンタが捨てた康太はね!! これから誰にも邪魔されない場所で、ありのままの自分を見せられるような、素敵な女性を見つけるのよ!! アンタのその薄っぺらいオシャレな彼氏なんかより、よっぽどいい男になるんだから!! 四の五の言わずに、アンタはさっさとそのチェック柄の野暮ったい彼氏と、みなとみらいで夜景でも見てろ!! ギャハハハハ!!」
めぐみの、ドスが効いているが、康太のすべてを肯定する、温かい叱咤激励。
康太は、呆然としながらも、彼女の圧倒的なエネルギーと迫力に、完全に気圧されていた。
「……なに、お前。長谷川、お前こういう……妖怪みたいなのが好みだったの? ギャハハ! お似合いね。……みなとみらい、莉奈。行こう」
新しい彼氏が、めぐみを馬鹿にしたように笑い、莉奈を連れて足早に去っていった。
莉奈は、最後まで康太を見ることなく、めぐみに対するドン引きの表情を浮かべたまま、夜の繁華街へと消えていった。
***
夜の十時。
康太とめぐみは、駅前の公園のベンチに座っていた。
周囲は静まり返り、冷たい夜風が汗ばんだ体に心地よかった。
「……あーあ。莉奈ちゃん、また変な男に引っかかって。あのチェックのシャツ、絶対にファッションセンスないわよ」
めぐみは、プロテインバーをバキバキと齧りながら、呆れたように呟いた。
「……なぁ、めぐみ」
「ん? なに? プロテインバー食べる?」
「お前……なんで俺のために、あそこまで怒ってくれたんだよ」
康太は、地面のアスファルトを見つめながら、自嘲気味にポツリとこぼした。
「俺、莉奈にまたキモいって言われたよ。やっぱり、カッコ悪い男なんだよ……」
「バッカじゃないの!!」
バシィィィンッ!!
康太の背中に、今日一番の、淒まじい衝撃が走った。
「痛あああっ!! だから、叩くなっつってんだろ!!」
康太が涙目で怒鳴ると、めぐみはニヤリと豪快に笑った。
「叩かれるのが嫌なら、シャキッとしなさいよ! 命の恩人がアンタのために怒ってやったんだから、感謝しなさい! ガハハ! ほら、背筋伸ばして walk する! 失恋してウジウジ引きずる暇があったら、前向いて走んなさい!!」
めぐみは立ち上がり、巨大な体躯を揺らしながら、夜の公園のランニングコースへとズンズンと歩き出した。
「ほら、長谷川!! 悩んでる暇があったら体を動かす!! 悩んでる暇があったら体を動かす!!」
夜空に、めぐみの豪快な声が響き渡る。
康太は、ジンジンと痺れる背中をさすりながら、彼女の大きな背中を見つめた。
オシャレさゼロ。上品さゼロ。デリカシー、当然ゼロ。
ただの「食欲とエネルギーの権化」のようなブルドーザー女だ。
だが、そのブルドーザーは、莉奈と新しい彼氏に傷つけられ、粉々に砕け散ろうとしていた康太の「心」を、強引に、でも温かく、包み込んでくれたのだ。
『アンタが捨てた康太はね!! これから……素敵な女性を見つけるのよ!!』
めぐみの言葉が、康太の胸にじんわりと蘇る。
ふと、康太は気がついた。
今、莉奈が去っていったことに対する、絶望や未練は、不思議と薄れていた。
代わりに、胸の中に渦巻いているのは。
……ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、異常な早さで打ち鳴らされていた。
それは、地獄のランニングのせいではない。
康太の視線が、ランニングコースの先で、巨大な体躯を躍動させて走るめぐみの背中に、絡め取られていた。
面食いの俺が。
莉奈みたいな華奢で可愛い女の子しか、恋愛対象になんてならないと思っていた俺が。
(……なんで俺。こいつを、女として意識しちゃってんだよ……っ)
天地がひっくり返っても絶対にない、ただの妖怪・黒歴史暴露暴食モンスター。
そう思っていたはずなのに。
あの日、可愛い絆創膏を貼ってくれた時の、手当てをしてくれた時の、温かい指先。
あの日、タピオカミルクティーを渡してくれた時の、自分を認めてくれた言葉。
そして今。俺のために怒ってくれた、あの大声。
それらが一つに繋がった瞬間、康太の強固な「面食い」の城は、めぐみというブルドーザーによって、音を立てて崩れ去った。
「長谷川ーーッ!! 早く来なさいよーーッ!! 筋肉が待ってるわよーーッ!!」
ランニングコースの先で、めぐみがガハハと大笑いしながら、康太を手招きしている。
その笑顔が。
店のどの照明よりも明るく輝く、最高に豪快で、最高に温かい笑顔が。
(……マジか。俺、こいつのこと……好きになっちゃったのかよ……っ!)
康太は顔を真っ赤にして、両手で顔を覆い、ベンチに突っ伏した。
面食いの俺が、まさか。こいつを。こいつを……ドキドキしてしまうなんて。
失恋の痛みは、完全に雪と血の色に染め上げられようとしていた。
自意識過剰で女々しくてカッコ悪い男の失恋は、唐揚げとプロテインの匂いを漂わせた規格外の女神によって、強制的に「新たな恋」のスタートラインへと引きずり出されたのである。




