第3話:未練のタイムラインと、暴走するマラカス
平日の午後三時。
長谷川康太は、オフィスの男子トイレの個室にこもり、便座に座ったままスマートフォンの画面を血走った目で見つめていた。
「……なんだよ、この男。全然たいしたことないじゃないか」
画面に表示されているのは、元カノ・莉奈の最新のSNS投稿だった。
『今日は新しい彼と、みなとみらいでデート♡ 夜景がすっごく綺麗だった!』という、見る者の(特に元カレの)精神を確実に削り取ってくるポエムのような文章と共に、オシャレなディナーの写真がアップされている。
問題は、写真の端に見切れている「新しい男」の腕だった。
康太は親指と人差し指を使って、画面を限界までピンチアウト(拡大)した。
写っているのは、男の腕時計と、チェック柄のシャツの袖口だけだ。しかし、面食いでプライドだけは高い康太の「女々しい分析モード」は、これだけでフル回転していた。
「この時計、よく見たら量販店で売ってる安物だろ。しかもこのチェックの柄……絶対ファッションセンスない。なんでだよ。俺の方が絶対マシだろ! あんなに好きだって言ってたくせに、なんでこんな野暮ったい奴のどこを気に入ったんだよ……っ」
康太は、スマートフォンの画面に向かってギリギリと歯を食いしばった。
別れてから三週間以上が経つというのに、俺はもうお払い箱なのか? ちょっとからかっただけなんじゃないのか?
未練と嫉妬と自己嫌悪がマーブル状に混ざり合い、康太の心はカラカラにひび割れていた。今すぐこの個室のドアを開けて、「もう一度やり直そう」と電話をかけてしまいたい衝動に駆られる。
その時だった。
「おーーーい!! 長谷川ぁ!! いつまでトイレにこもってんのよ!!」
ビクゥッ!!
突然、男子トイレの入り口の方から、メガホンを通したような爆声が響き渡った。
「な、長谷川ぁ!? トイレの中で倒れてんじゃないでしょうね!? 返事がないなら女子トイレから突入するわよ!!」
「い、いる! います!! 今出ます!!」
康太は慌ててスマートフォンをポケットにねじ込み、ズボンのベルトを確認して個室から飛び出した。
洗面所で手を洗い、そそくさと廊下に出ると、そこには腕組みをして仁王立ちしている近藤めぐみの姿があった。
ド派手なイエローのカーディガンに、ターコイズブルーのワイドパンツ。まるで歩く南国フルーツのような色彩を放つ彼女は、康太を見るなり特大の溜め息をついた。
「アンタねぇ、サボるのもたいがいにしなさいよ。どうせまたトイレの個室で、莉奈ちゃんのSNSでも監視して『なんであんな男を』とかウジウジ分析してたんでしょ」
「なっ……!? なんで分かったんだよ!」
「顔に『未練タラタラです』って書いてあるわよ。ほんと、アンタの心は狭いわねぇ。女心は雲みたいに形を変えるの! いつまでも過去に執着して嫉妬してる暇があったら、午後のプレゼンの資料まとめなさい!」
めぐみは康太の背中を、バシィィィンッ! と凄まじい力で張り飛ばした。
「痛っ!! お前、ほんと手加減ってものを……っ」
「終わったら、今日も特訓だからね! 昨日の古い悩みなんか、汗と一緒に全部吹き飛ばしてやるから!」
めぐみは豪快にガハハと笑い、地響きを立てながら自分のデスクへと戻っていった。
康太はジンジンと痺れる背中をさすりながら、心の中で悪態をついた。
(なんだよあいつ……デリカシーの欠片もねえな。俺が好きなのは、莉奈みたいな華奢でおしとやかな女の子なんだよ。あんなブルドーザーみたいな女、一生恋愛対象になるわけないだろ……)
康太は、めぐみの規格外のパワーとデリカシーの無さに完全に引いていた。顔が可愛いとか可愛くないの前に、生命体としての強さが違いすぎるのだ。
***
その日の夜。
定時を迎えるや否や、康太はめぐみに首根っこを掴まれ、強制的に連行された。
到着したのは、繁華街にある巨大なカラオケボックスだった。
「っしゃああ!! 歌うわよ長谷川!!」
めぐみは、パーティールームのような無駄に広い個室に入るなり、タッチパネルのデンモクを光の速さで操作し始めた。
「おい、なんでカラオケなんだよ……俺、今全然そんな気分じゃ……」
「気分が乗らない時こそ、無理やりにでも騒ぐの! ほら、すいませーん!!」
めぐみがインターホンで注文したのは、カラオケの定番メニューの域を完全に超えていた。
「メガ盛りフライドポテトと、たこ焼き三十個! あと、ピザのLサイズを二枚! 飲み物はピッチャーでウーロン茶! あ、あと食後に『そびえ立つタワーパフェ』もお願いね!」
「お前、どんだけ食う気だよ! ここ二人の部屋だぞ!?」
「何言ってんの、歌うとカロリー消費すんのよ! アンタもガッツリ食って体力つけなさい!」
やがて、テーブルの上は茶色い揚げ物と炭水化物の山で埋め尽くされた。
めぐみはマイクを片手に、もう片方の手でピザのピースを器用に二枚重ねにして口へと運んでいる。その豪快な食べっぷりは、もはや一種のエンターテインメントだった。
「ほら、長谷川! アンタも一曲入れなさいよ!」
めぐみに急かされ、康太はしぶしぶデンモクを手に取った。
今の康太の心境にぴったりなのは、悲しい失恋のバラードだ。未練と後悔を歌い上げる、泣けるラブソング。康太は、画面をスクロールして、しっとりとした失恋ソングを予約した。
イントロが静かに流れ始める。
康太はマイクを両手で握りしめ、目を閉じて、自分を悲劇の主人公に重ね合わせた。
……ああ、莉奈。君と手を繋いで歩いたあの人混みが、今でも忘れられないよ。
「♪あんなに……好きだと……」
ピピッ。
突然、音楽がプツンと途切れた。
「えっ?」
康太が目を開けると、めぐみがデンモクの『演奏停止』ボタンを押した指を突き出していた。
「な、何すんだよ!! 今、感情移入してたのに!」
「バッカじゃないの!! 今のアンタに失恋ソングなんか歌わせたら、余計にドツボにハマるに決まってんでしょ!! 湿っぽい歌は禁止!! ほら、次私ね!!」
めぐみが予約していた曲の、アップテンポで激しいイントロが部屋中に爆音で鳴り響いた。
誰もが知っている、超ハイテンションなパーティーソングだ。
「さあ、踊るわよ長谷川!! 立って!!」
「はあ!? 無理だよ、俺そういうの苦手……うわっ!」
めぐみは康太の腕を強引に引っ張り上げ、彼の手にもう一つのマイクとマラカスを握らせた。
そして、めぐみ自身は部屋の中央に陣取り、激しいステップを踏み始めた。
その巨体が、信じられないほどのキレとリズム感で躍動する。腕を振り上げ、腰を落とし、まるでどこかのアイドルのコンサートかと思うほどの完璧な振り付けだった。
「♪今日は踊ろう!! もう忘れよう!!」
めぐみは、康太に向かってマイクを突きつけながら、満面の笑みで歌い(叫び)始めた。
「ほら、アンタもマラカス振る!! 悩んでる暇があったら体を動かす!!」
「無茶苦茶だろお前!!」
康太は文句を言いながらも、めぐみの圧倒的な陽のエネルギーに巻き込まれ、ヤケクソ気味にマラカスを振りまくった。
シャカシャカシャカシャカ!! と、無秩序なマラカスの音が部屋に響き渡る。
ミラーボールの眩しい光を浴びながら、康太はただひたすらにマラカスを振り、めぐみの謎のダンスに合わせてステップを踏まされた。
一曲が終わる頃には、康太は息も絶え絶えになり、ソファーに倒れ込んでいた。
「ぜぇ……はぁ……っ、死ぬ……っ」
「ガハハハッ! だらしないわねぇ! ほら、ピザ食べる? まだ温かいわよ!」
めぐみは全く息を切らすことなく、残っていたピザをひょいっと口に放り込んだ。
康太は、ソファーに沈み込みながら、天井のミラーボールをぼんやりと見つめた。
マラカスを振りすぎて腕がパンパンだ。でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
「……なぁ、めぐみ」
「ん? なに? ポテト食べる?」
「俺さ……莉奈と付き合ってた時、ずっと背伸びしてたんだよね」
康太は、ウーロン茶の入ったグラスを見つめながら、自嘲気味にポツリとこぼした。
「莉奈、すげえオシャレで可愛い子だったからさ。俺、釣り合わないんじゃないかってずっと不安で。デートの時も、無理して高いイタリアン予約したり、全然詳しくもないのにワインの知ったかぶりしたりさ。本当は、俺みたいな平凡なフリーター気質の男が、無理して着飾ってただけなんだよ」
康太の心の中にあった、見栄と虚勢。
本当の自分を見せられなくて、嫌われるのが怖くて、異常な行動ばかりとっていた。その空回りが、莉奈を疲れさせてしまったのかもしれない。
めぐみは、口の中のポテトをモグモグと飲み込むと、コーラで喉を潤して言った。
「……そうね。アンタ、そういうとこあるわ」
「え?」
「アンタさ、面食いなのは勝手だけど、相手の女の子のこと『自分のステータス』みたいに思ってた節があるんじゃないの? 『こんな可愛い子と付き合ってる俺、スゲー』みたいな。だから、見栄張って、素の自分を出せなかったのよ」
図星だった。
めぐみの言葉は、相変わらず容赦がなく、鋭かった。
康太は何も言い返せず、黙って俯いた。
「でもさ」
めぐみは、ドンッと康太の背中を叩いた。
「見栄張って疲れる恋なんて、長続きするわけないじゃない。フラれて正解よ。次は、アンタが無理しないで、ダサいところも全部見せられるような相手を探せばいいのよ」
「ダサいところを、全部……」
「そう! 例えば、こんな風にヤケクソでマラカス振って、息切らして情けない顔してるアンタを、笑って許してくれるような相手ね!」
めぐみはガハハと大笑いし、康太の頭をガシガシと乱暴に撫で回した。
「さあ! 湿っぽい話はここまで! そびえ立つタワーパフェが来たわよ!!」
店員が運んできたのは、高さ四十センチはあろうかという、生クリームとアイスとフルーツが暴力的なまでに盛られた巨大なパフェだった。
「うわっ、デカすぎだろ! これ誰が食うんだよ!」
「半分こに決まってんでしょ! ほら、スプーン持って! 溶ける前に食うわよ!」
めぐみは目を輝かせてパフェに挑みかかった。
康太も、ヤケクソになって巨大なスプーンで生クリームをすくい、口の中に放り込んだ。
甘い。甘すぎる。カロリーの暴力だ。
「うぇぇ……腹が、はち切れそう……っ」
「甘ったれない! アイスの下のコーンフレークの層が本番よ!!」
その夜、康太は胃袋の限界と戦いながら、莉奈のSNSのことも、新しい彼氏のチェック柄のシャツのことも、すっかり忘れていた。
目の前で豪快にパフェを平らげる、恐るべき食欲のバケモノ(同僚)。
恋愛対象としては一ミリも考えられない相手だが、彼女の圧倒的なパワーの前では、自分の「女々しい悩み」など、本当にちっぽけなものに思えてくるのだった。




