第2話:地獄の100%トレーニングと、可愛い絆創膏
「……ぜぇっ、はぁっ……っ、もう、無理……死ぬ……」
日曜日の朝八時。
札幌市内にある広大な中島公園のジョギングコースで、長谷川康太は地面に四つん這いになり、文字通り肺から血の味がするほどの荒い息を吐いていた。
大学時代に着ていたヨレヨレのグレーのジャージは、すでに汗でぐっしょりと重くなっている。昨夜の深酒と唐揚げの油が胃の中でシェイクされ、今にも口から飛び出しそうだった。
「ちょっと長谷川! まだたったの三キロよ!? アンタの体力、どうなってんのよ。もやしか!」
康太の頭上から、ドスンドスンという力強い足音と共に、呆れ果てたような声が降ってくる。
見上げると、そこには蛍光ピンクのピチピチのスポーツウェアに身を包んだ、近藤めぐみが仁王立ちしていた。
そのダイナミックな体躯は、朝の爽やかな日差しを完全に遮るほど巨大なシルエットを描いている。信じられないことに、彼女の息は全く乱れておらず、額にうっすらと健康的な汗をかいているだけだった。
「もやしで結構……っ! そもそもなんで日曜の朝っぱらから、こんなこと……俺、昨日帰ってから莉奈のSNSの更新チェックして、寝たの深夜三時なんだけど……」
「まだそんなキモいことやってんの!? バカじゃないの!?」
めぐみは特大の溜め息をつき、康太の首根っこを掴んで強引に引きずり起こした。
「いい!? 別れた女のタイムラインを監視して『あ、新しい男の影があるかも……』なんて無駄に考えすぎるその思考回路が、アンタを女々しくさせてんの! 過去の関係を分析したって、もうアンタの席はそこにはないのよ!」
痛い。言葉の暴力が痛すぎる。
めぐみの言う通り、康太の頭の中は「なぜ別れたのか」「どのタイミングで間違えたのか」という無駄な分析ばかりが堂々巡りしていた。正解なんて出るはずもないのに、一人で勝手に傷つき、一人で勝手に落ち込んでいるのだ。
「そんなの分かってるよ……。でも、頭から離れないんだ。俺のどこが悪かったんだ、もっとああしていれば……って。どうせ俺なんか、何やってもダメなフリーターみたいなもんさ。背伸びして予約したおしゃれな店でも、メニューの横文字読めなくて莉奈に笑われたし……」
「ああもう、ウジウジうるさい! 四の五の言わずに腕立て伏せ三十回!!」
「はあ!?」
めぐみは康太の背中をバンッ! と叩き、無理やりに地面へと這いつくばらせた。
「筋肉が悲鳴を上げれば、失恋の痛みなんか吹っ飛ぶわよ! ほら、イチ! ニ! 腕が全然曲がってないわよ!」
「む、無理だって! 腕がプルプルして……ひぃっ!」
「長谷川! アンタの力はそんなもん!? まだ本来の30%しか出してないような顔してるわよ! これじゃあ、100%中の100%になった私に潰されるわよ!!」
めぐみは、どこかの妖怪アニメに出てくるサングラスの屈強な弟のようなセリフを叫びながら、自らも康太の横で腕立て伏せを始めた。
しかも、ただの腕立て伏せではない。体を押し上げるたびに空中でパチン! と手を叩く、ジャンピング腕立て伏せである。
その巨体から繰り出される、信じられないほどの俊敏さとパワー。地面がズシン、ズシンと揺れているような錯覚さえ覚える。
(なんなんだよこいつ、バケモノかよ……っ!)
康太は、圧倒的な「強者」のオーラに完全にビビり上がり、半泣きになりながら必死で腕を曲げ伸ばしした。少しでもサボれば、めぐみの100%の鉄拳が飛んできそうな気がしたからだ。
***
一時間後。
地獄のような筋トレとランニングを終えた康太は、公園のベンチにスライムのように崩れ落ちていた。
指一本動かす気力すらない。心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、全身の筋肉が熱を持っていた。
「はい、お疲れさん。よく頑張ったじゃない」
不意に、康太の冷や汗まみれの頬に、冷たいペットボトルがピタッと押し当てられた。
「ひゃっ!?」
驚いて顔を上げると、めぐみがスポーツドリンクを差し出して、豪快に笑っていた。
「ほら、水分補給。筋肉が喜んでるわよ」
「喜んでるのはお前の筋肉だけだよ……。俺の筋肉は今、完全にお葬式状態だ……」
康太は文句を言いながらも、震える手でペットボトルを受け取り、キャップを開けて一気に喉へ流し込んだ。
冷たい液体が、干からびた体に染み渡っていく。
ふと、康太は気がついた。
この一時間。走って、腕立て伏せをして、スクワットをして、めぐみに怒鳴られている間。
たったの一度も、莉奈のことを思い出していなかった。
「……気づいた?」
めぐみが、ベンチの隣にドカッと腰を下ろして言った。
「人間ってね、体が極限状態になると、脳みそが余計なこと考えるのをやめるのよ。生きるのに必死になるからね」
「……乱暴な理屈だな」
康太は苦笑いを浮かべた。しかし、確かに彼女の言う通りだった。
今の康太の心には、失恋のドロドロとした未練よりも、「足が痛い」「腕が上がらない」という物理的な痛覚の方が圧倒的に勝っている。なんだか、憑き物が落ちたように頭の中がクリアになっていた。
「さーて! 筋肉をいじめた後は、超回復のための栄養補給よ! 行くわよ長谷川、近くに美味い定食屋があるの!」
「えっ、今から飯? 無理無理、こんなボロボロの状態で食えるわけ……」
康太の反論も虚しく、めぐみは康太の首根っこを掴み、問答無用で公園の出口へと歩き出した。
連行されたのは、公園からほど近い、学生やガテン系の兄ちゃんたちで賑わう大盛りの定食屋だった。
めぐみは席に着くなり、「おばちゃん! カツ丼の大盛りと、豚肉の生姜焼き単品、あと餃子二人前ね! こいつには鶏の唐揚げ定食のご飯大盛り!」と、呪文のような速さでオーダーを済ませた。
「お前、朝からどんだけ食うんだよ……」
康太がドン引きしていると、めぐみは割り箸をパチンと割りながら、「食べることは生きることよ! 失恋して食が細くなるなんて、女々しいの極みじゃない!」と一蹴した。
やがて、テーブルの上に山のような料理が運ばれてきた。
康太の目の前には、子供の拳ほどもある巨大な唐揚げがゴロゴロと積まれた定食が置かれる。絶対食いきれない、と絶望しかけたが、一口齧ってみると、醤油とニンニクのガツンとした風味が口いっぱいに広がり、空腹だった胃袋が強烈に刺激された。
気づけば、康太は無心で白米をかき込んでいた。体を動かした後の飯が、こんなに美味いとは知らなかった。
「ぷはーっ! 食った食った!」
めぐみは、カツ丼のどんぶりを綺麗に空にし、満足そうに腹をさすった。その豪快な食べっぷりは、見ていて本当に気持ちがいい。康太も、なんとか自分の分の唐揚げ定食を完食していた。
「……あ、イテッ」
康太がテーブルの上の紙ナプキンを取ろうとした時、手のひらにチクリとした痛みが走った。
見ると、さっきの腕立て伏せの時に公園の砂利で擦りむいたのか、右手のひらの皮が少し剥けて、うっすらと血が滲んでいた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと擦りむいただけ。大したことないよ」
康太が手を隠そうとした瞬間、めぐみがスッと身を乗り出し、康太の右手首をガシッと掴んだ。
「ちょっと見せなさい」
「えっ、いや、ほんとに大丈夫だって……」
「ばっちい手で触らないの。バイ菌が入ったらどうすんのよ」
めぐみは、呆れたように言いながら、自分の大きめのトートバッグから何かを取り出した。
それは、パステルピンクの生地に、小さなサクランボの刺繍が施された、ひどく可愛らしい小さなポーチだった。
めぐみはそのポーチのジッパーを開け、中からアルコール除菌シートと、キャラクターものの絆創膏を取り出した。
「ほら、手出して」
「あ……うん」
康太が大人しく手を差し出すと、めぐみは除菌シートで康太の手のひらの汚れを優しく拭き取った。
さっきまで「腕立て伏せ三十回!」と鬼軍曹のように怒鳴っていたのと同じ人物とは思えないほど、その手つきは繊細で、慎重だった。
康太の手に触れるめぐみの指先は、意外なほど柔らかく、そして温かかった。
「……はい、一丁上がり」
めぐみが康太の手のひらに貼り付けたのは、ピンク色の可愛らしいウサギのキャラクターが描かれた絆創膏だった。
康太のゴツゴツとした男の手に、そのファンシーな絆創膏は絶望的に似合っていなかった。
「ぷっ、何だよこれ。俺、二十六の男だぞ?」
「文句言わない! 私の趣味なの! 怪我した時くらい、可愛いもの見て癒されなさいよね」
めぐみは照れ隠しのように鼻を鳴らし、そそくさとポーチをバッグにしまった。
康太は、自分の手のひらに貼られたウサギの絆創膏をじっと見つめた。
豪快で、声がデカくて、よく食う女。男勝りで、デリカシーなんて欠片もないと思っていた。
だけど、あのピンク色のポーチと、手当てをしてくれた時の真剣な眼差し。
(なんだよ……案外、女の子らしいとこ、あんじゃん)
ドクン、と。
康太の胸の奥で、小さな、本当に小さな音が鳴った気がした。
「……どうしたのよ、ボーッとして。まさか唐揚げで胃もたれした?」
めぐみが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
至近距離で見るめぐみの顔は、汗をかいてテカテカ光っていたが、その大きな瞳は真っ直ぐで、どこまでも裏表がなかった。
「なっ、なんでもねえよ! ほら、さっさと店出るぞ、ごちそうさまでした!」
康太は、顔がカッと熱くなるのを感じて、慌てて立ち上がり、伝票をひったくってレジへと向かった。
面食いの俺が、まさか。
いやいや、あり得ない。絶対にあり得ない。俺が好きになるのは、莉奈みたいに華奢で、守ってあげたくなるような可愛い女の子だけだ。
今、胸がドキッとしたのは、間違いなくあの地獄のトレーニングのせいだ。「吊り橋効果」的なやつに決まっている。
康太は、必死に自分の心に言い訳をしながら、財布から千円札を取り出した。
定食屋の外に出ると、初夏の爽やかな風が吹いていた。
手のひらに貼られた可愛い絆創膏が、風に吹かれて少しだけくすぐったい。
「長谷川! 来週も同じ時間、同じ場所だからね! 逃げたら承知しないわよ!」
後ろから、太陽のように明るく巨大なめぐみが、ガハハと笑いながら追いかけてくる。
失恋の傷は、まだ完全に癒えたわけではない。
でも、来週の特訓が、心のほんの片隅で、ちょっとだけ楽しみになっている自分がいることに、康太は気づかないふりをした。




