最終話:最高のモヒートと、特盛り豚骨ラーメン
すすきのの路地裏にある、静かで薄暗いオーセンティックバー。
マホガニーのカウンター越しに、バーテンダーが静かにグラスを置いた。
「お待たせいたしました。レモンサワーと、モヒートでございます」
コトリ、と置かれたグラスから、爽やかなミントの香りがふわりと漂う。
長谷川康太は、自分の前にあるレモンサワーのグラスを握りしめ、隣に座る近藤めぐみを横目で盗み見た。
黒いシックなドレスに身を包み、髪を綺麗にアップにまとめためぐみは、康太の知っている「唐揚げ暴食モンスター」とは完全に別人の、息を呑むほど美しい大人の女性だった。
彼女は、グラスの縁に添えられたミントの葉を見つめ、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……乾杯」
「あ、ああ……乾杯」
カチン、と涼やかな音が鳴る。
めぐみがモヒートを一口飲み、「……美味しい」と小さく呟いた。
その瞬間、康太の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いた。
(やばい。どうしよう。緊張しすぎて、吐きそうだ……)
康太の脳内で、持ち前の「女々しい過剰分析モード」が、かつてないほどのフル回転を始めていた。
今の俺は、ただの平凡なサラリーマンだ。それに対して、今日のめぐみは圧倒的に綺麗で、まるで手の届かない高嶺の花のように見える。住む世界が違いすぎて、完全に空回りしている気分だった。
本当なら、今すぐ彼女の手を握りしめて、胸の内に秘めたすべての感情をぶちまけたい。
でも、もし引かれたら? 「ただの同期だと思ってたのに、気持ち悪い」と嫌われてしまったら?
それを想像するだけで、康太の心は恐怖で揺れ動き、激しく戸惑っていた。関係を壊したくない。でも、このままじゃ嫌だ。
「……ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
康太は、耐えきれずに席を立ち、逃げるようにバーの化粧室へと駆け込んだ。
洗面台の鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、極度の緊張で顔面を蒼白にし、冷や汗をかいている情けない男の顔だった。
「……なんだよ、この顔。ダッサ……」
康太は、鏡の中の自分を見て、自嘲気味に笑った。そして、水道の冷たい水で顔をバシャバシャと洗い、ペーパータオルで乱暴に顔を拭いた。
(何が「嫌われるのが怖い」だ。何が「関係を壊したくない」だ。そんなウジウジした言い訳、あいつに一番怒られるやつじゃないか)
大学時代、背伸びをしてモヒートを一気飲みし、トイレで吐いていたあの日の自分。
元カノの顔色ばかりを窺って、見栄を張って、勝手に自爆していた自分。
もう、あんなカッコ悪い過去の自分には、絶対に戻らないと決めたはずだ。
康太は、鏡の中の自分に向かって、両手でバシィィン! と頬を張った。
「よし……!! 行け、長谷川康太。お前らしく、泥臭くぶつかってこい!」
トイレを出てカウンターに戻ると、めぐみはモヒートのグラスを傾けながら、どこか寂しそうな横顔で氷を見つめていた。
近づく距離。彼女から漂う、甘いコロンと、少しだけ苦くてキツいミントの香りが混ざり合う。
康太は、自分の席に座り直すと、大きく一つ深呼吸をした。
「……めぐみ」
「ん?」
めぐみが、不思議そうにこちらを向く。
「俺さ。今までずっと、自分のことしか見えてなかったんだ」
康太は、震える手をテーブルの下で固く握りしめ、めぐみの大きな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「女の子と付き合う時も、自分がどう思われるかばっかり気にして。可愛い子と歩いてる俺スゲー、みたいな、最低な見栄っぱりでさ。……でも、お前が全部、ぶっ壊してくれた」
康太の真剣なトーンに、めぐみの顔からいつもの余裕が消え、少しだけ戸惑いの色が浮かんだ。
「な、なによ急に。レモンサワー一杯で酔っ払ったの?」
「酔ってない。……いや、酔ってるのかもしれないけど、シラフだよ」
康太は、言葉を探すように少しだけ目を伏せ、そして、はっきりと告げた。
「俺、お前のことが好きだ」
バーの静寂の中に、康太の言葉が吸い込まれていく。
めぐみは、目を丸くして、瞬きも忘れたように康太を見つめていた。
「俺のカッコ悪いところも、ダサい黒歴史も、全部知ってるお前の前なら、俺は素の自分でいられる。ガサツで、声がデカくて、食欲が化け物みたいなお前が……俺は、世界中の誰よりも、愛おしいんだ。……俺と、付き合ってくれないか」
言い切った。
もう、後悔はない。これが、今の長谷川康太の、100%中の100%のすべてだ。
めぐみは、しばらくの間、氷のように固まっていた。
やがて、彼女はプッと吹き出し、肩を震わせ始めた。
「……っ、ふふっ……アハハハハッ!!」
めぐみは、静かなバーの雰囲気を少しだけ気にして口元を押さえながらも、必死に笑いを堪えているようだった。
「……な、なんだよ。人が一生懸命告白してんのに、笑うことないだろ!」
康太が顔を真っ赤にして抗議すると、めぐみは笑い涙を指で拭いながら、康太を指差した。
「だって、おかしいじゃない! あんたみたいな、筋金入りの『面食い』が! 華奢で可愛い女の子しか愛せないって豪語してた男が、私みたいなデカくてうるさい女に告白するなんて!」
「面食いとか、もうどうでもいいんだよ! 俺は中身を見て……!」
「バカね、長谷川」
めぐみは、笑うのをやめ、ふいに、ひどく優しい、そして少しだけ震える声で言った。
「あんたが面食いだってことくらい、私が一番よく知ってんのよ。……だから、ずっと、言えなかったんじゃない」
「え……?」
康太の思考が、一瞬停止した。
今、めぐみはなんと言った?
めぐみは、モヒートのグラスを両手で包み込みながら、視線を落とした。
「……大学の、新歓コンパの時からよ。あの時、慣れないお酒飲んで潰れてた私に、あんたが水買ってきてくれて、『大丈夫か? 無理すんなよ』って背中さすってくれた時から。……私、あんたのこと、ずっと好きだったのよ」
「は……っ!?」
康太は、椅子から転げ落ちそうになった。
「う、嘘だろ!? じゃあ、なんでお前……」
「言えるわけないでしょ!」
めぐみが、顔を上げて康太を睨んだ。その大きな瞳には、いつの間にか涙がいっぱいに溜まっていた。
「あんたの好みが、美穂先輩とか莉奈ちゃんみたいな、おしとやかで可愛い女の子だってことくらい、痛いほど分かってたわよ! 私みたいな、太ってて、ガサツで、可愛げのない女が告白したって、困らせるだけじゃない!」
めぐみの言葉に、康太はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
「だから私は、決めたの。あんたの『一番の悪友』になろうって。恋愛対象じゃなくていい。ただのうるさい同期としてなら、あんたの隣で、ずっと一緒に笑って、怒って、あんたがバカやって落ち込んだ時に、尻を蹴っ飛ばしてやれるから」
めぐみの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、黒いドレスの膝元に染みを作った。
いつも豪快で、無敵のブルドーザーのようだった彼女が。
俺なんかのために、自分の本当の気持ちを必死に押し殺して、傷つかないように、ずっとピエロを演じてくれていたのだ。
どんなに自分が惨めでも、俺がフラれて泣いている時に、駆けつけて、怒鳴って、励ましてくれた。
すべては、俺への、深くて、不器用な愛情だったのだ。
「……ばか野郎」
康太は、気がつけば、めぐみの手を、両手でしっかりと握りしめていた。
「なによ……」
「お前、本当にバカだよ。そんなの、女々しい男のすることと一緒じゃないか。嫌われるのが怖くて、本当の気持ち隠して、友達のフリするなんてさ」
康太は、涙でぐしゃぐしゃになっためぐみの顔を見て、心の底から愛おしいと思いながら、笑いかけた。
「俺は、お前じゃなきゃダメなんだよ。お前がいないと、またすぐウジウジして空回りするからさ。……俺の一生、お前が管理してくれよ」
めぐみは、康太の手の温もりを感じながら、しゃくりあげて泣き笑いした。
「……生意気ね。あんたみたいな世話の焼ける男、私以外に面倒見きれないわよ」
「ああ、頼むよ。……それに」
康太は、めぐみの顔を真っ直ぐに見つめて、少しだけキザに、でも本心からの言葉を紡いだ。
「今日のお前……宇宙一、綺麗だよ。マジで」
めぐみの顔が、ボンッ! と音を立てて真っ赤に爆発した。
「ばっ……!! バカじゃないの!? 急にそういうこと言うの禁止!! お酒の勢いで適当なこと言ってんじゃないわよ!!」
照れ隠しで康太の肩をバシッと叩こうとしためぐみだったが、康太はその手をしっかりと掴み、優しく微笑み返した。
「酒のせいじゃないよ。……いや、お前に酔ってるのかもしれないけどな」
「うわっ、寒っ!! サムすぎるわよ長谷川!! それ、合コンで結愛ちゃんにも言おうとしてたでしょ!!」
「言ってねえよ!! お前だけの特権だろ!!」
静かなオーセンティックバーで、二人の間の張り詰めていた緊張の糸が解け、いつものようなドタバタとした、でも最高に温かい笑い声が響き合った。
長い長いすれ違いと、空回りの日々。
不器用な二人の恋は、少しキツいミントの味と、涙のしょっぱさを経て、ようやく最高のハッピーエンドへと辿り着いたのだ。
――ギュルルルルルゥゥッ。
その時。
ロマンチックな雰囲気を完全にぶち壊す、凄まじい腹の虫の音が、めぐみのお腹から鳴り響いた。
「…………あっ」
めぐみが、真っ赤な顔で自分のお腹を押さえた。
康太は、一瞬ポカンとした後、腹を抱えて大爆笑した。
「アハハハハッ!! お前、こんな感動的なシーンで腹鳴らすなよ!!」
「う、うるさいわね!! 今日はあんたに会うために、朝からエステ行って、美容室行って、ドレス着るために炭水化物抜いてたのよ!! 緊張してカロリーも消費したし、もう限界よ!!」
めぐみは、涙を拭いながら、いつもの豪快な「唐揚げモンスター」の顔を取り戻して立ち上がった。
「長谷川! 記念すべき初デート(?)のシメに行くわよ! ここから歩いて五分のところに、激ウマの豚骨ラーメン屋があるの! 替え玉三杯は絶対よ!!」
「ええっ!? このドレスの格好で豚骨ラーメン行くの!?」
「当たり前でしょ! 見栄張って腹すかせてるなんて、女々しいの極みよ! もちろん、彼氏になったあんたの奢りだからね!!」
「わ、わかったよ……! 俺の奢りな!」
康太は、慌ててお会計を済ませ、めぐみの背中を追ってバーの重厚なドアを開けた。
すすきのの夜風が、二人の火照った頬を心地よく撫でていく。
前を歩くめぐみが、振り返って「早く来なさいよ、鈍臭い彼氏ね!」と満面の笑みで康太を手招きした。
「今行くよ!」
康太は、めぐみの隣に並び、その大きな手に、自分の手をそっと重ねた。
めぐみは少しだけ驚いたように康太の手を見たが、すぐにギュッと力強く握り返してくれた。
もう、背伸びはしない。カッコつける必要もない。
俺の隣には、俺のダサいところを全部笑い飛ばして、一緒に特盛りラーメンを食べてくれる、世界で一番最高で、最強の彼女がいるのだから。
「……すいませーーん!! 豚骨ラーメン特盛り二つ! あと、チャーシュー丼と餃子五人前!!」
深夜のラーメン屋に、今日もめぐみの豪快な爆声が響き渡る。
女々しい男と豪快な女神の、騒がしくて、愛おしくて、カロリー過多な恋の日々は、これからもずっと続いていく。




