後編「新たなる伝説」
特別観覧席にて、巨大な怪物の出現を目の当たりにした国王は冷や汗をかいていた。
「すさまじいな、今年の魔術公演会は……」
「……陛下、非常事態にございます」
「なに?」
このとき王の傍にひかえていたのは、魔術学院の長であるダリウス・カーバイドだ。
「彼奴は、かの伝説の邪神〝ドン・クトゥルーゼプス〟にございます」
「なんだと!?」
おとぎ話の中にしか出て来ないような邪神の名前を聞き、王はガタッと椅子を揺らした。
「なぜ、邪神などを呼び出しおったのだ!」
「――ここからでは正確な事情はわかりかねますが……おそらくは不慮の事故でございましょう。ともあれ、両陛下は今すぐここから避難なされよ」
ダリウスの忠告を聞いた王は椅子に深く掛け直し、ややあって重々しく口を開いた。
「――……ならん」
「なんですと?」
王の言葉を聞いたダリウスは、自分の耳を疑った。
「余が真っ先に逃げ出しては、みなが混乱しよう。それに、あれが伝説の邪神ならば、どこにも逃げ場などなかろうよ」
「……一理ございますな」
二人はこの後、観客の避難や邪神への対抗策について手短に協議したのだが、ここではその辺りの詳細に触れることはしない。
††
伝説の邪神の出現に気づいた私や周囲の学生たちは、のんきな観客たちとは違って恐怖におそれおののいていた。
「……お、おい! ウィナークーゲルフップフ、早く逃げるぞ!」
「あなたは逃げて。私はあの子を助けなきゃ!」
「正気かよ! ……クソっ、死ぬなよ!」
しかし、私ことユプフェルシュトゥルーデリア・フォン・ウィナークーゲルフップフは、逃げ出そうとはしていなかった。
強大な邪神に対して勝算や対策があるわけではなかったが、この一か月、付きっきりで指導してきた後輩――アレッタのことを放っておけなかったのだ。
ある男子と短いやりとりを終えた後、私はアレッタの待つステージへ続く階段に足を掛けた。
そのとき、アレッタは自らが召喚してしまった邪神と正面から向き合っていた。
『……さあ、願いを言え。しかるべき対価さえ支払えば、どんな願いでも叶えてやろう』
「な、なな、何も要りません! も、もう帰ってくださいっ!!」
アレッタは両手を前に突き出し、必死で首を横に振っていた。
しかし――
『……さあ、願いを言え。しかるべき対価さえ支払えば、どんな願いでも叶えてやろう』
「ひ、ひぃ〜っ! 『いいえ』が選べないタイプの邪神だよおぉぉ」
私がアレッタの隣に立ったのはそのときだった。
私の姿を見たアレッタは、地獄で天使を見たかのような明るい表情を見せた。
「ユピー先輩!」
「アレッタ、余計なこと言っちゃダメよ!」
「……余計なこと?」
小首をかしげるアレッタの肩に私は手を置いた。
……まったく、わざわざそんなことを言わせないでほしいんだけど。
「世界征服とか、人類滅亡とか、そういうのよ!」
それを聞いたアレッタは、勢いよくうなずいた。
「わかりました! 世界征服と、人類滅亡ですね。絶対に言いません!」
すると――
『――心得た。人類の滅亡を対価に、世界征服を成そうというのだな』
どうやら邪神は、それをアレッタの「願い事」だと解釈したようだ。
「…………へ?」
「あー、もう! なんでそういうときだけ滑舌いいのよ、あんたは!!」
私は思わぬ事態の展開に頭痛を感じた。
『……グハハハハッ!! 千年ぶりの鏖殺だ! 血がたぎるぞっ!』
邪神が魔法を発動する体勢に入った。
人間とはけた外れのすさまじい魔力が、空間にうずを巻いているかのようだった。
……もうダメだ。世界が……人類が終わってしまう。
「ま、待ってください!」
そのとき、アレッタが立ち上がり、邪神を呼び止めた。ただし、その両足はガクガクと恐怖にふるえていた。
……アレッタ。あなた、そこまで――
しかし、邪神はもはや用は済んだと言わんばかりに、召喚主であるアレッタに対して何の興味も示さなかった。
『……む。なんだ? もう貴様の願いは聞いた。――大人しくそこで願いが成就するところを見ているが良い』
「そ、そそ、そんなこと頼んでませんっ!」
『――いや、確かにこの耳でしかと聞いた。今さら取り消しは認められん』
「そ、そんな……」
勇気を振り絞ったアレッタだったが、聞く耳を持たない邪神の態度に絶望したのか、その足は自然と後退していた。
私は、そんなアレッタの背にそっと片手を添えて支えた。
「――待ちなさい!!」
私は滅びの魔法の準備をする邪神の横面に向けて、あらん限りの声を張り上げた。
すると邪神はゆっくりとした動きでこちらを向いた。その目はまるで虫けらを見下ろすかのようで、私はゾクリと怖気を感じた。
『……なんだ、小娘。貴様から死にたいのか?』
私はくじけそうになる気を必死で奮い立たせ、半ばやけっぱちな気持ちで叫ぶ。
「殺すなら殺しなさいよ! ――でもその前に、アレッタの滑舌を治してからにしてもらいましょうか!」
『…………なに?』
さすがに、私のこの言葉は予想外だっただろう。
邪神の表情に疑問符が浮かんだ。
(――ここで、たたみ掛ける……!)
「――あなたが呼び出されたのは偶然。たまたま舌っ足らずな魔術師が呪文を誤って呼び出しただけのことよ。あなたが本当にすごい力を持った邪神だというのなら、そんなへっぽこ魔術師の滑舌を治すことなんて簡単よねぇ?」
そう。私は邪神を煽った。
冷静に考えれば、邪神に私の言うことを聞く理由もメリットもない。
でも、この人を舐め切ったような態度の邪神なら、これだけ煽れば――
『フン、くだらん……』
(――ダメか……)
私はこの瞬間、全てを諦めてしまいそうになった。しかし、その直後――
『……だが、言われっぱなしというのもシャクだな。
――よかろう。我がその娘の滑舌を治してやろう。
その後、人類を滅ぼす段になったら、真っ先に貴様を殺してやる』
(――乗って来た!)
私はニヤリとしたいのをこらえ、憎々しげに邪神の顔をにらみつけた。
ほどなくして邪神の体から今にも放たれそうだった大魔法の兆しが消失し、私はほっとひと息をつくことができた。
そんな私に、アレッタが心配そうな顔を向けて来る。
「ユピー先輩、どうして……?」
「シッ! だまって。いい? あなたはこれから――」
私はアレッタの耳に顔を近づけ、彼女にやってほしいことを指示した。私の言葉を聞いたアレッタの顔がくしゃりとゆがむが、最後にはコクリとうなずいてくれた。
(――もうこれしかない。この子の規格外の魔力に懸けるしか……)
『何をコソコソと相談しているかは知らんが、早速その娘の舌をマーメイドのごとくなめらかにしてやろう』
邪神は六本ある腕の一つをアレッタに近づけ、指先で魔法の光を放つ。
――しかし、その光はアレッタに届く前に雲散霧消した。
『む……?』
邪神は不可解そうな声を出し、もう一度同じ魔法の光を放つ。
しかし、その光はまたしても何かに防がれるようにしてかき消えた。
『……なんだ、これは?』
邪神はより強い魔力を込めて魔法を放つが、何度やっても同じ結果に終わった。
(――何がどうなってるの……? どうしてすぐにアレッタの滑舌を治さないの?)
邪神も混乱しているようだったが、私も混乱していた。
(……もしかして、治さないんじゃなくて、治せない? …………アレッタの滑舌の悪さって、どんだけ……?)
事態をおぼろげに察した私は、内心でどん引きしていた。
「……アレッタ。私の名前、言ってみて」
「は、はい! えっと、ユピふゅっ」
「――ありがとう。もういいわ」
「はぅ……。ごめんなさいぃ……」
――両親にむだに長くややこしい名前をつけてもらっていて良かった。
私は、このときだけはその事実に感謝した。
『馬鹿な! 我の力を上回っているだとッ! この娘の滑舌の悪さはそれほどだというのかっ!!』
――……いや、ほんとそれな。
さっきまで考えていた展開とは異なるが、この流れを逃す手はない。
「……あら? 邪神さん、どうしたのかしら? アレッタの滑舌を人魚顔負けにしてくれるんじゃなかったの?」
『クッ……、おのれ……!』
邪神の表情は人と違ってわかりづらいが、私には邪神が悔しそうに歯ぎしりしているように見えた。
悪魔や邪神という生物は、一度交わした約束を取り消すことができない。
いちかばちかだったが、私は賭けに勝ったのだ……!
『小娘、命拾いしたな……! 次に相まみえるときまで覚えているがいい!』
邪神は捨て台詞を残しつつ、現れたときと同じ魔法陣に飲み込まれるようにして、地面へと消えていく。
邪神が完全にその姿を消すと、邪神を呼び出した魔法陣も消滅し、暗転していた空も間もなく元通りの明るさを取り戻した。
「…………ハ、ハハッ。なんとかなった……」
全てが終わったことを理解した私は、安心のあまり両膝をステージの床について座り込んでしまった。
体力的にはそうでもないが、精神的にはどんな大魔術を放った後よりも疲れきっていた。
――この後の魔術演技、もう棄権しちゃってもいいかしら?
「先輩! 良かった!!」
アレッタもほっとしたのか、私の頭をぎゅっと抱え込むように腕を回してきた。
「先輩が死ななくて良がっだ……!」
アレッタは鼻をぐずぐずと鳴らして泣いていた。
……まあ、本当は邪神の力で滑舌を治してもらって、アレッタに今度こそ大精霊を呼び出してもらおうとしてたからね。――もしその展開になっていたら、確かに私は邪神に殺されていたかもしれない。
私たちが抱き合って喜んでいたとき、観客たちもようやく事態が飲み込めてきたらしい。パラパラとまばらに発生した拍手が徐々に大きくなり、やがて万雷の拍手となって、大歓声と共に会場を満たした。
――後日のこと。
アレッタは「うっかり邪神を呼び出した滑舌が悪すぎる魔術師」として、そして私は「邪神を追い返して世界を救った魔術師」として、それぞれ伝説になった。
(おしまい)
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