表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

桜の木の下で

作者: KAMEN0000
掲載日:2026/01/19

 1.壊れた日


 階段って、こんなにも長かったっけ。


 真っ逆さまに落ちていく間、どうでもいいことばかり考えてた。

 制服のスカート、変にめくれてないかなとか。

 

 スマホ、割れちゃうかなとか。

 ……あと、明日提出のプリント、まだ出してなかったなとか。


 そんなくだらないことばかり、ぽつぽつと浮かんでくる。

 本当におかしいよね。

 今まさに、私は落ちているのに。


「え?」


 背中に、何か触れた気がした。

 すごく冷たくて、でも強くて。

 その手が、私を押したのだと理解するまで、数秒かかった。


 足が宙を切った瞬間、時間が引き延ばされる。

 身体が傾いて、重力に逆らえなくなって。

 目の前がくるりとひっくり返る。


 “落ちる”って、思った。

 心の底で。


 だけどそれは、まるで夢の中みたいにぼんやりしてて、

 どこか現実じゃない気もしてて、

 でも、痛みだけはちゃんとリアルで。


 頭を打った瞬間、世界が真っ白になった。


 誰かの足音が、遠くへ逃げていく。

 私は声も出せなくて、ただ空を見上げていた。

 季節はもうすぐ春だ。

 空が、やけに青かった。


 最後に見えたのは、

 私を突き落とし逃げ出す男の背中だった。

 どこか切ない背中をしていた。


──わたし、何か悪いこと、したっけ?


 そんなことを思ったところで、

 意識は、深い底に沈んでいった。







 2.出会い




 ……うすぐらい。

 どこか遠くで、機械の音がしている。

 規則的で、乾いた音。

 それが何なのか、考えるより先に、まぶたがゆっくりと持ち上がっていった。


 目を開けると、天井があった。

 真っ白で、どこまでものっぺりしていて、輪郭がつかめない。

 眩しい。


「……目、覚めた?」


 声がした。

 やわらかくて、少し緊張を含んだ声。

 視線を動かすと、白衣を着た女性が俺の顔を覗き込んでいた。


「あ、分かりますか? 今、目覚めたばかりですから無理に喋らなくていいですよ」


 喉がからからで、返事のかわりに小さくうなずいた。


「よかった……ほんとに、よかった。菊井優斗くん。覚えていますか? 自分の名前」


 ――菊井、優斗。

 頭の中に、その音だけがぽつんと浮かんでくる。

 でも、それが自分の名前かどうか、確信はなかった。


 何も、思い出せない。


 目の奥に、霞がかったような違和感が広がっていく。

 恐怖でも混乱でもない。空白。

 すべてが「分からない」という事実だけが、はっきりしていた。


「……名前……ですか」


 それが俺の最初の言葉だった。

 声が自分のものに聞こえない。

 けれど看護師は安心したように笑った。


「少しずつでいいの。優斗くんは、交通事故に遭って……それから一ヶ月、眠っていたの。昏睡状態だったのよ。でも、今日こうして目を覚ました。すごいことよ」


 俺はもう一度、天井を見た。

 ここが病院であることは、視界の白さと機械の音、消毒のにおいが教えてくれる。


「ご家族のことや、自分のこと……思い出せないかもしれない。でも焦らないで。お医者さんがちゃんと説明してくれるからね」


 彼女は、ベッドの横にある引き出しを開けて、小さな紙袋を取り出した。


「事故のとき、ポケットにこれが入ってたの。大切そうに持っていたの。見覚え、あるかな?」


 差し出されたのは、小さな写真だった。

 使い込まれた紙の角が丸くなっていて、色は少し焼けている。


 ゆっくり手に取る。

 写っていたのは、満開の桜の木の下。

 笑顔の大人がふたり、そしてその間に立っている、小さな男の子。


 誰だ、この人たちは。


 けれど、不思議と――涙が出そうになった。

 懐かしいのに、名前が出てこない。

 覚えていないはずの記憶が、心の奥を揺らしてくる。


 写真の裏に、小さく文字が書かれていた。


 「4月15日 7月6日」


 身に覚えがないがこの日付に体のどこかが微かに反応した気がした。


「桜……」


 無意識に、その言葉を呟いていた。


「きれいでしょ。この辺で大きな桜の木がある有名な公園なのよ。病院からも近いのよ」

「これ……俺……?」


「たぶんね。真ん中の子が優斗くんで、両親だと思う。私たちもまだ、詳しいことは確認中だけど、事故のとき身元が分かるものがこれだけだったの。連絡が取れる親族も、今のところいなくて……」


 いなくて。

 その言葉が、胸に沈んだ。


 俺は、ひとりなのか?


 写真の中の人たちが本当に自分の家族なら、

 彼らは――どこへ行ったんだろう。


「……家族は?」


 看護師は一瞬、言葉を詰まらせた。

 そして、小さく首を横に振った。

「詳しいことは、お医者さんからお話があると思うわ。今日はまだ、無理しなくていい」


 彼女はそう言って、写真をそっと枕元に置いていった。


 窓の外では、風にそよぐ木の枝が揺れていた。

 春の終わり、葉桜になりかけた枝。


 俺は、その写真を胸の上に置きながら、そっと目を閉じた。

 なにも思い出せないことに、涙は出なかった。

 ただ静かに、世界と自分の距離を測っていた。





 目が覚めた翌日も、病室には静かな時間が流れていた。


 白い壁、白い天井、シーツの擦れる音、遠くから聞こえる車椅子の軋む音。

 病院という場所は、時間が違う速度で流れている気がした。

 世界から少しだけ取り残されたような、そんな感覚。


 ベッドの上で、俺はあの写真を何度も眺めていた。

 折れ曲がった角、焼けたように色褪せた縁。

 大事にされていたことが伝わってくる。

 そして、あの日――事故の日にも、ポケットに入っていた。


 満開の桜の木の下で、笑顔を浮かべる三人。

 男の子と、その両親らしき二人の大人。


 写真の裏には日付が書かれている。

 文字をなぞる指が、何度目かの感触を確かめるように滑っていく。


「4月25日 7月6日」


 その日付に、何の思い出も湧いてこない。

 でも、胸の奥だけが妙にざわつく。

 なぜ、こんなに苦しいのだろう。


 コンコン、と控えめなノック音がして、ドアが開いた。


 入ってきたのは30代くらいの女性の看護師だった。

 髪をひとつに束ねていて、白衣の袖口を折り返していた。


「優斗くん、少し調子はどう?」


「……変わらないです。何も……思い出せなくて」


「うん、いいの。焦らなくて」


 彼女はにこりと笑い、ベッドサイドの椅子に腰かけた。

 どこか他の看護師と違って落ち着いた雰囲気で、少しだけ気を許せた。


「そうだ。昨日言い忘れたけど……この写真、ね」


 彼女が目を向けたのは、俺が胸に抱えていた写真だった。


「事故のとき、それだけポケットに大事そうに持っていたって。

 きっと、すごく意味のある写真なんだと思うよ」


「はい……これしか、何も持ってなくて」


「もしかしたら、それが記憶の糸口になるかもしれない。

 ……桜崎公園、って知ってる?」


「名前だけ、です。なんとなく、聞いたことがあるような……」


「この病院の近くにあるんだよ。この写真の大きな桜の木があって、地元ではちょっと有名。春になると人がたくさん来るの」


 看護師は、ふっと遠くを見るように目を細めた。


「私も子どもの頃、家族でよく行ってたな……懐かしいな」


 彼女の言葉の中にある“家族”という響きが、心にじわりと染みてきた。


「家族って……俺、ほんとに……いたんですよね」


 ぽつりと出た言葉に、看護師は静かにうなずいた。


「いたよ。絶対にいた。写真が証拠でしょ?

 それに――写真ってね、不思議なの。

 目に映る景色は色褪せても、感情は消えないことがあるのよ」


 俺はその言葉を胸にしまいながら、また写真を見つめた。

 満開の桜の下に立つ三人。


 その記憶がどれほど大切だったのか――

 今はまだ分からない。

 でも、分からなくても、俺はこの写真を手放せなかった。


 なぜならこれは、過去からたった一つだけ残された、

 “俺が何者だったか”を知る手がかりなのだから。














 …窓の外では、朝が始まっていた。

 柔らかな日差しがカーテン越しに差し込んで、部屋の空気を少しだけあたためている。


 目を覚ましたとき、身体は重く、足の感覚は――なかった。


 それが現実だと理解するのに、時間はかからなかった。

 痛みではなく、何も感じないその静けさが、真実を物語っていた。


「……ああ、また……今日も、か」


 口に出した言葉が、思った以上に冷たく響いた。


 あの日足を強く打って、損傷した。

 両足足の感覚はなく、今は車椅子での生活が基本になる――と、そう説明された。


 そう、私はもう、歩けない。


 でもそれよりも、もっと強く胸に残っている感覚がある。

 あの瞬間。

 背後から、誰かの手が肩を押した。

 景色が揺れ、視界が一瞬真っ白になった。


 あれは――事故じゃない。

 私は、突き落とされたのだ。


 けれど、誰に?

 なぜ?


 わからない。

 何度考えても、あの「冷たい手の感触」しか浮かんでこない。


 ガラリと扉が開いて、祖母が入ってきた。

 淡いグレーのカーディガンに、淡い水色の花柄スカート。

 祖母は昔から、おしゃれな人だった。


「ゆり、起きていたのね」


「うん、おばあちゃん」


 祖母は私の隣の椅子に腰を下ろし、手を握ってくれた。


「体調はどう?」


「変わらないよ。下、ぜんぜん感覚ない。でも……もう慣れちゃった」


 笑顔でそう言った


「……そうね。慣れるしかないことも、あるものね」

 祖母の手はあたたかくて、でもどこか寂しそうで。


「お父さんは?」


 聞かなくてもよかった。

 でも、つい、聞いてしまう。


 祖母は、視線をカーテンの向こうに逸らして、小さく答えた。


「……今日は来られないみたい。仕事が忙しいんですって」


「そっか」


 わかっていた。

 来ないだろうとは、思っていた。

 でも、心のどこかで期待してしまった。


 昔は、あんなに優しかったのに。

 いつからだろう――お父さんが笑わなくなったのは。


 母は、数年前に離婚していなくなった。

 父は多忙になり、仕事人間になった。

 私はひとり家に残され、祖母に支えられて育ってきた。


 それでも、父が嫌いだったわけじゃない。

 どこかで「また家族に戻れるかもしれない」と、そんな淡い希望を抱いていた。


 でも、その希望は、

 突き落とされたあの瞬間に――完全に手放した気がする。


「ゆり」


 祖母がぽつりと言った。

「ゆりの人生は、まだ終わってないわ。歩けなくなっても、生きてる。

 人は、何度だって始められるのよ」


「……うん」


 私は答えながら、カーテンの隙間から外を見た。

 中庭が見える。

 季節の花が咲いていて、光が揺れていた。


 そこに、人の姿が見えた。

 病衣を着た、背の高い少年。

 彼はひとりで、ベンチに腰をかけ、何かを見つめていた。


 その姿が、なぜか少し気になった。

 ――でも、この時はまだ、

 その少年が私の人生を大きく変えていく人になるなんて、思いもしなかった。

 午後の光はやわらかく、中庭の花々を照らしていた。

 色とりどりの草花が植えられた花壇の横に、小さなベンチがひとつ。

 その端に、俺は静かに座っていた。


 胸ポケットから取り出したのは、あの一枚の写真。

 満開の桜の木の下で笑う三人――父と母、そして自分。

 名前や声は思い出せない。けれど、

 この写真の中の「家族」は、心の奥にほんのりと温かいものを残していた。


 そこへ、車椅子の音が静かに近づいてきた。


「こんにちは」


 顔を上げると、風に髪を揺らす少女がいた。

 車椅子に座り、白い病衣にカーディガンを羽織った彼女は、まるでこの花咲く中庭に溶け込んでしまいそうなくらい、自然だった。


「……こんにちは」


「ここ、座ってもいい?」


「どうぞ」


 車椅子のブレーキを軽くかけて、彼女は優斗の隣に止まった。

 目の前に咲く花たちを、まぶしそうに見つめている。


「私、神田ゆり。高校二年生。」


 その名前を聞くとなぜか胸がざわついた。


「菊井優斗……俺も高校2年…たぶん。事故で記憶がないんだ。」


「……そっか」


 それだけ聞いて、ゆりはそれ以上何も言わなかった。

 ただ、同じように花壇を見つめた。


 やがて、ふと視線を下ろした彼女の目に、優斗の手元の写真が映った。


「あ、それ……」


「……ああ、これ。事故のとき、ポケットに入ってたらしくて」


 優斗は、ゆりに写真を見せる。

 ゆりは何も言わず、それを見つめた。


 桜の木の下で並ぶ三人の姿。

 色褪せた写真の中の笑顔に、ゆりの表情がわずかに変わる。


 言葉にはならない。

 けれど、どこか切なそうに目を伏せ、

 そのままゆっくりと視線を空へ向けて遠くを見た。


 口を開きかけて、けれどやめる。

 その沈黙に、優斗は何も言わなかった。

 ただ、写真をそっと胸ポケットにしまった。


 しばらく風の音だけが二人の間を通り抜けた。


「……私ね、本を読むのが好きなの」


 ふと、ゆりが呟くように言った。


「本?」


「うん。入院する前もよく図書館行ってた。今は病院の図書コーナーにあるやつ読んでる。……ページをめくってるだけで、別の場所に行ける気がするから」


「……いいね、それ」


 優斗はほんの少し笑った。


「なんか、俺も……昔、好きだった気がする。小説。ジャンルとかは思い出せないけど」


「じゃあ、思い出すまで少しずつ読んでみれば?」


「うん、そうしようかな」


 そう言って、二人はまた空を見上げた。

 マーガレットの花が風に揺れ、その向こうで光がきらきらと跳ねている。

 それはきっと、偶然のようで、偶然ではないはじまりだった


「じゃあ、これ読んでみて。」


 ゆりが膝の上に置いていた小さな布バッグから、一冊の文庫本を取り出す。

 表紙には、手をつないで歩く二人のシルエット。

 春を思わせる淡い桜色の背景に、その姿が浮かんでいた。


「“四月の終わりに咲く”っていう恋愛小説。……ちょっと切ないけど、いい話だよ」


「へえ……タイトルからして春っぽいな」


「季節の移ろいが静かに流れてて、気づいたら泣いてた、みたいな」


 ゆりの話し方は穏やかで、ほんの少し熱を帯びていた。

 まるで、物語の余韻をそのまま持ち歩いているような空気が、彼女にはあった。


 優斗は、その本の表紙を眺めながらふと口を開く。


「たぶん……俺も、そういうの好きだった気がする。

 記憶があるころは、よく読んでたんじゃないかなって……感覚だけ、残ってる」


「じゃあ、また始めてみれば? きっと身体が覚えてるよ」


「うん……そう、かもな」


 ゆりが笑う。

 小さな風が髪を揺らすたび、その笑顔は花のようにやさしくて、目を逸らすのが惜しかった。


「ねえ、ゆりは……これから何か、やりたいことってある?」


 ふと優斗が聞くと、ゆりはすこし驚いたように目を瞬かせて、視線を空に向けた。


「うーん……あるよ。あるけど……少し、恥ずかしいかも」


「笑ったりしないよ。」


「……そっか。じゃあ言うね」


 ゆりはゆっくりと言葉を紡いだ。


「……お母さんに、会いたい」


 静かな声だった。

 でも、それはどこか強さを含んでいた。


「離婚してから、行方が分からなくて……でも、最近ふと会いたくなったの。

 今の私の姿を見て、どう思うのか、知りたくなった」


「……そっか」


 優斗は、その言葉にどう返せばいいのか少し迷って、

 けれど心から出たままの言葉を返した。


「きっと叶うよ」


「……そうかな」


「うん。ゆりみたいな子が思い続けてたら、きっと届くって思う」

 それを聞いたゆりは、ほんの少し目を伏せて、くすっと笑った。


「じゃあ、優斗は? やりたいこと、ある?」


「……それが、よく分からなくて」


「分からない?」


「記憶もないし、自分が何が好きだったかも曖昧で。

 だから“やりたいこと”って聞かれても、真っ白なんだよな」


「そっか……」


 ゆりは少しだけ考えるように黙って、それから笑った。


「でも、私とこうして話してるのは、楽しい?」


「……うん。楽しい。ゆりと小説話するの楽しい。」


「じゃあそれでいいじゃん。今は“好きなこと”より“楽しいこと”の方が大事だよ。

 記憶がなくても、こうして笑えてるなら、それってすごく意味があることだと思う」


 その言葉は、やさしくて、芯があった。


「……ありがとう」


「ううん」


 二人の間に、静かな時間が流れた。

 空にはゆっくりと雲が動いていて、どこか春の終わりを告げるような穏やかさがあった。

 その日、優斗は病室に戻ってから、

 ゆりに借りた小説を読んだ。


 ページをめくる指先が、少しだけ震えた。

 懐かしい景色が、遠い記憶のどこかに重なった気がした。


 小説を通して、少しだけ自分に近づけた気がした。

 そして、もう一歩、彼女にも。











 白い廊下の向こうから、主治医の軽やかな足音が近づいてきた。

「菊井優斗くん、ちょっと診察室に来てくれるか?」と声をかけられる。


 心臓が少しだけ高鳴った。

 まだ完全ではないと思っていた自分の体に、ようやく“合格”が出るのかもしれない。

 記憶はなくても、身体は確かに動いている――そう信じたかった。


 診察室のドアを開けると、温和な笑顔の医師が待っていた。

「体の検査結果は良好だ。異常は全く見られない。これからは通院しながら、日常生活に戻っていいよ」

 そう告げられた瞬間、胸の中にぽっと小さな光が灯った。


「明日から退院だ」


 医師の言葉は、自分への小さなご褒美みたいに感じられた。


 診察室を出て廊下を歩くうち、優斗の心は少しずつ浮き立った。

 そして向かったのは、いつも一緒に過ごした病院の中庭。

 そこでゆりが待っていることを思い出した。


「ゆり、俺、明日退院していいって」


 声をかけると、ゆりは驚いたように顔を上げた。

 けれどすぐに、優しい笑顔を向けてくれる。


「そうなんだ、良かったね」


 二人はしばらく静かに空を見上げた。


「きっと記憶取り戻せるよ」


 ゆりの言葉に、優斗は小さく頷いた。


「うん、ありがとう。ゆりと出会えて、本当によかった」


「私もだよ。またいつでも会いにおいでね。」


 夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばした。


 新しい日々の始まりが、そこにあった。


 次の日俺は退院した。

 空は青く澄み、やわらかな春の陽射しが降り注いでいた。


 その足で向かったのは、桜崎公園。

 子どもの頃、家族とよく訪れた場所らしい。


 満開の桜が風に舞い、淡いピンクの花びらがひらりと舞い落ちる。

 その景色を前にすると、胸の奥がざわついた。


「……なぜか、痛い」


 ふと、軽い頭痛が走る。

 まるで、閉ざされた記憶が引っかかるような感覚だった。


 花びらが指先に触れる。

 確かに、何かを思い出せそうな気がした。


 だけど――何も出てこなかった。


 記憶の扉は、まだ固く閉ざされている。



 それでも、桜の匂いに包まれながら、

 ほんの少しだけ温かい気持ちが戻ったのを感じた。

 その後事前にもらった地図をみて我が家に向かった。


 家に着いた。少し古く小さい家だ。

 家に入ると薄暗い玄関の奥に、かすかに光を反射するものがあった。

 近づいてみると、そこには両親の遺影が静かに置かれていた。


 写真の中の二人は、かつて家族だった。


「三人家族……だったんだな」


 その言葉が、ぽつりと漏れた。


 遺影を見るたび、胸の奥で何かがざわめく。

 懐かしさと同時に、どこか切なさも混じった感情が波のように押し寄せた。


 記憶は戻らなくても、確かな事実を見つめることで、

 優斗は少しずつ現実を受け入れようとしていた。


 静かな家のベット中で、彼はひとりゆっくりと目を閉じた。












 3.神田ゆり


 夜――布団に潜り込んで目を閉じても、眠りは訪れなかった。


 天井を見つめながら、ぼんやりと思う。

 静かな部屋。時計の針の音だけが妙に大きく響く。

 眠れないまま朝が来てしまったのは、これで何日目だろう。


 退院してから数日。優斗は今、2年生として学校に通い始めていた。


 とはいえ、記憶がないため、クラスメイトたちの顔は誰一人としてわからなかった。

 むしろ、ほとんどの生徒が彼のことを「新しく転校してきた子」だと思っている。

 それも無理はない。

 入学してすぐ不登校になり、そのまま事故で入院していたのだから。


 朝の冷たい空気が、制服の袖口から静かに入り込む。

 小さくあくびをしながら、優斗はいつもより少し遅れて家を出た。


 空は晴れているのに、心の中はどこか薄暗い。


 途中、桜崎公園の前を通る。

 視線の隅に、大きな桜の木が揺れるのが見えた。


(帰りに……少し寄ろう)


 そう思いながら、足早に駅へ向かった。


 通学路も、電車の揺れも、教室のざわめきも、すべてが“知らない日常”だった。

 けれどその中に、少しずつ“馴染みそうなもの”が増えていく予感もあった。


 朝のHRホームルームが始まる直前の教室。

 優斗は窓側のいちばん後ろの席に座り、ぼんやりと校庭を眺めていた。


 他の生徒たちがにぎやかに話す声は、どこか遠くの出来事のようだった。

 それはまるで、薄いガラス越しに誰かの“青春”を見ているような気分だった。


「……よう、菊井くんだっけ?」


 声をかけてきたのは、整った顔立ちに爽やかな笑みを浮かべた男子生徒だった。

 制服の襟元には、クラス委員長を示すバッジがついている。


「あ、うん……はい」


「俺、渡辺薫。クラスの委員長やってる。分からないことあったら何でも聞いてな」


「ありがとう」


 初めて話しかけられたその声に、優斗は少しだけ肩の力を抜いた。

 薫の雰囲気は明るく、でも押し付けがましくはなかった。


「そういえば……菊井くんってさ、転校生ってわけじゃないんだよね?」


「うん……入学はしてた。でもいろいろあって、しばらく来てなかった」


「そっか。まあ、なんていうか……こっちも知らなかったから。

 てっきり最近入った人かと思ってた」


 薫は笑いながら、窓の外を見た。


「そういえばさ、前にこの学校で、めっちゃ人気だった子がいたんだよ」


「……人気?」


「うん。神田ゆりって子。明るくて、優しくて、誰にでも分け隔てなく接する。

 男女問わず、みんなに好かれてたな。」


「……」


 その名前を聞いた瞬間、胸がざわつく。

 けれど、すぐに理由はわからなかった。ただ、どこかで聞いたような、そんな気がした。


「今はもう通ってないんだけどな。なんか、階段から転げ落ちて大怪我したって話だ」


「……階段から?」


「そう、たしか桜崎公園の近くにある広場の階段。事故か、転落か……詳しくはわかんないけどさ。

 確かここの高校の子が見つけて通報したんだよ。その後、ずっと入院してるって噂」


 優斗は無言のまま、窓の外へ視線を投げた。

 言葉にならない感情が、胸の奥でふわりと浮かんでいた。


「知ってるかどうか聞いただけだから、気にしないでな。

 俺も、入院してるってのは最近知ったばっかなんだ。

 でも……ゆりちゃん、すごくいい子だったんだよ。一年の頃に友達だったんだ。」


「……そうなんだ。」


 優斗は短くうなずいた。

















「神田ゆり」という名前を聞くと、何度も胸がざわつく。


 その名を、彼女自身から聞いたのは最初の出会い――病院の中庭だった。

 車椅子に座り、花壇の前で静かに笑っていたあの少女。

 柔らかな声で「神田ゆり」と名乗った瞬間、胸の奥がひりついたような感覚が走った。


 けれど、その理由はわからなかった。

 思い出そうとしても、そこには何もない。

 ただ、心がざわつく。風が巻くように、落ち着かない違和感だけが、ずっと残っていた。


 帰り道、優斗はまっすぐ家へ帰らず、今日も桜崎公園に足を向けた。

 彼の中で唯一、家族の“記憶”とつながっている場所だった。


 すでに日が傾きはじめていて、公園は少し肌寒い。

 桜の枝はそよ風に揺れ、花びらがひらひらと舞い落ちる。


 そんな時、見知らぬ男性がゆっくりと近づいてきた。

 彼の顔には深い皺が刻まれているが、目は柔らかく澄んでいた。


「この桜の木は、ずっと昔からここにある。俺も昔からこの街にいて、ずっとこの桜を見てきたよ」


 男性は穏やかに話す。

「君も何度もここに来ているようだね。きっと、この桜には特別な思い出があるのだろう」


 優斗は少し驚きながらも、素直に頷いた。

「はい……多分家族と来てました。」


 男性は微笑み、やわらかな声で言った。

「少年…またどこかで会えるといいな。その時は桜を見ながらゆっくり話でもしよう」


 そう言うと、男性はゆっくりと公園の小道を歩いて去っていった


 家に戻ると、玄関前に見知らぬ女性が立っていた。


「こんにちは。家事代行サービスの中村と申します」


 清潔感のあるエプロン姿に、少し落ち着いた年上の女性。

 声のトーンも低くて優しく、どこか看護師に似た安心感を感じた。


「病院の看護師さんから連絡があって……無理しなくていいの。

 できることから、少しずつ助けていけたらって思って来ました」


「……よろしくお願いします」


 優斗がそう言うと、中村は丁寧に頭を下げて家に上がった。


 キッチンでエプロンを直しながら、さっそく食材を並べ始める。

 まるで長くここにいたかのように自然な動きだった。


 その背を見ながら、優斗はリビングの棚にある写真に目をやる。


 そこには、あの桜の木の下で撮った家族、遊園地で撮った家族などいろんな場所で撮った写真が飾られている。


 けれど、いくら見つめても、声も、笑い方も、ふとした表情も――

 そのすべては、彼の中にはもう存在していなかった。


 俺はこの家のことも何も知らない。


 でも一つ確信したことがある。

「神田ゆり」という名前はきっとずっと前から知っていたこと。


 なぜなのかは、まだわからない。

 けれど、胸のざわつきが、それを告げていた。



 

 

 今日は休日で通院日。

 病院の中庭は、今日も静かだった。

 春の終わりの風がそよぎ、色とりどりの花が揺れている。


 診察を終えた俺は、自然と足を中庭へ向けていた。

 ここに来れば、あの少女に会える気がした。


「優斗くん」


 ゆりがいつもの場所にいた。

 花壇のそば、車椅子に座りながら文庫本を閉じて顔を上げる。


「やあ、また来たよ」


「うん。また、会えたね」


 ふたりは自然と微笑み合い、優斗はゆりの隣のベンチに腰を下ろす。


 ジャケットのリュックから、一冊の文庫本を取り出した。


「これ、返すね。前に貸してくれたやつ」


 手渡したのは、ゆりが数日前に貸してくれた小説だった。


「読んでみて、登場人物の考え方とか、自分と重なるところがあって……思ってたよりずっと引き込まれた。ありがとう」


「……そっか、よかった」

 ゆりはふわっと笑って、「読んでくれてありがとう」と優しく言った。

 その声には、ほんの少し照れたような響きがあった。


 言葉にしなくても伝わる時間が、ゆっくりと流れる。


 いつもの家族写真を取り出す。

「家にたくさんの家族写真があった。……まだ思い出せないけど、少しずつ良くなっている気がする。」


「よかった。」

 ゆりは写真を覗き込み、すこし目を伏せた。


 その表情が、かすかに揺れる。

 言葉には出さないけれど、彼女の心の奥に何かが触れたのが分かった。


「ねえ、優斗くん」


「ん?」


「……その写真を見ていると羨ましいなと思っちゃう。」


 ゆりの声は静かで、風に混ざって消えそうだった。


 優斗は返す言葉を持たなかった。

 ただ、視線をゆりに向けて、静かに隣にいる。


 少しの沈黙が流れたあと、優斗はそっとたずねた。


「……家族とは、仲いいの?」


 ゆりは一瞬、何かを飲み込むようにまばたきをして、それから笑った。


「うん。……仲良いよ」


 その「笑顔」は、あまりにも寂しすぎた。

 本当は、話したいことがたくさんあるのかもしれない。けれど、今はまだ言葉にならないのだろう。


「じゃあ、またね」


「うん。また」


 その言葉を最後に、優斗は帰りのバスに乗った。


 だが、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、ポケットの中がやけに軽いことに気づく。


(……あれ、小説……)


 今日、ゆりに新しく借りた文庫本を、中庭のベンチに置き忘れてきたのだ。


 少し迷ったが、優斗は引き返すことにした。

 花壇の前のベンチに向かう途中、足が止まる。


 そこにいたのは――

 ベンチにもたれながら、肩を震わせて泣いているゆりだった。


 顔は伏せているが、彼女であることはすぐに分かった。

 あの優しい笑顔の裏に、どれほどの孤独が隠されていたのか。

 今、初めてそのほんの一端を垣間見た気がした。


 優斗は声をかけようとして、言葉をのみ込んだ。

 そして、静かにその場に立ち尽くす。


 

 

 春の花が風に揺れている。

 夕暮れが、中庭を淡い光で染めていた。


「……ゆり?」


 声をかけた瞬間、彼女は顔を上げた。

 目のまわりが赤くなっていて、涙のあとが頬を伝っていた。


「……優斗くん?」


「ごめん、忘れ物しちゃって……来てみたら、ゆりがいて」


「そっか……」


 気まずそうに笑うその顔が、いつもの笑顔とは少し違っていた。

 花の向こうに、沈みかけた太陽が見えた。


 優斗はそっとゆりの隣に座る。

 中庭を吹き抜ける風が、ふたりの間をさらりと通り抜けた。


「……たまに、わけもなく泣きたくなること、ない?」


「あるかも。理由があっても、うまく言えないときとか」


「……そう。そんな感じ」


 ゆりはそう言って、少し俯いたまま、言葉を続けた。


「お父さん、一度も面会に来てくれないんだ」

「事故にあったときも……そのあとも、一度も」


 優斗はそっと息を呑む。

 ゆりの声には怒りはなかった。ただ、深い寂しさだけがあった。


「お母さんは、ずっと前に家を出ていったの。私を置いて」


 風が吹いて、木々がわずかにざわめく。


「ずっと強くなきゃって思ってたけど……今日みたいに、ふとしたときに全部崩れてきて。あたし、弱いんだなって思っちゃった」


「……弱いから、泣けるんじゃない?」

「泣ける人の方が、ちゃんと自分を感じてる気がする」


 優斗の言葉に、ゆりはふっと笑った。

 それはいつもの笑顔とは違う、少しだけ照れたような、救われたような笑みだった。

「……ねえ、優斗くん」


「ん?」


「もし何でもひとつだけ叶えられるなら、何がしたい?」


「叶えられること……」


 夕焼け空を見上げながら、優斗はしばらく考える。


「……わからない。記憶がないから、やりたかったことも、何を夢見てたのかも思い出せない。でも、また見つけたいとは思ってる。ゆっくりでも」


「……うん、それでいいと思う」

 ゆりはうなずきながら、自分の胸に手を置いた。

「私ね……お母さんに会いたいの。ちゃんと話してみたい。なんで出ていったのか、今どこにいるのか、それでも……私のことを思い出してくれるのか」


「……」


「それが今の、いちばんやりたいこと」


 優斗は、ゆりの言葉をしっかりと受け止めた。


 記憶のない自分とは違い、彼女は何かを求めて、何かに傷ついて、それでも前を見ようとしている。


「……きっと、会えるよ。ちゃんと、会える日が来る」


「そうだといいな」

 空が暗くなりはじめた。

 病院の明かりが、ポツポツと灯り始める。

 風がやわらかく吹いて、ゆりの髪をそっと揺らした。


「ありがとう、優斗くん」

 そう言ってゆりは笑った。

 どこかまだ寂しさを含んだ笑顔だった。


 優斗はしばらく黙ったあと、ふっと顔を上げた。


「退院したら……一緒に探そう。お母さん、見つけよう」


 ゆりは驚いたように目を見開いた。

 そして、ゆっくりと頷く。


「うん……ありがとう、優斗くん。きっと、一緒なら怖くない」


 二人の間にあたたかい空気が満ちて、夕暮れの風が優しく頬をなでた。


 だけど――

 俺たちはこれから、大きな壁を乗り越えることになる。

 その壁の先に、もしもとても辛い結末が待っていたとしても――


 それでも、今はただ、手を取り合って進もうと思った。









 4.新生活


 朝の光が、ゆりの病室をやわらかく満たしていた。

 カーテンの隙間から差し込む日差しが、白いシーツを温かく染める。


 ゆりは目を閉じたまま、深くゆっくりと息を吸い込んだ。

 長い眠りから覚めてからの毎日は、不安と少しの希望で彩られていた。


「神田さん、調子はどうですか?」


 ドアのノックとともに、穏やかな声が聞こえた。

 医師の佐藤先生がゆりのベッドの横に立っている。


「退院の日が決まりましたよ。明日から自宅に戻ってリハビリを続けましょう」


 ゆりは小さくうなずいた。

 まだ自分が車椅子生活になることの実感は薄いけれど、これからのことを考えるとドキドキする。


「リハビリを続ければ、また歩けるようになる可能性は十分あります。ただ焦らず、少しずつ進めていきましょうね」


 先生の言葉に、ゆりはかすかに微笑んだ。


 病室には、ゆりを見守るように祖母の姿もあった。

「明日からは、私の車で学校に行くのよ」と祖母は優しく話す。


 ゆりはその言葉に安心感を覚えた。

 これからまた違う毎日が始まるのだと、心の奥で確かめるように。



 俺は診察を終え、病院の廊下を歩いていた。

 体調はすっかり安定し、これからの通院も続けながら学校生活を少しずつ取り戻していく日々が始まるのだと、自分に言い聞かせるように思った。


 ふと、病院の中庭に目を向けると、見覚えのある姿があった。

 車椅子に座るゆりが、まるで風に揺れる花のように微笑んでいる。


「優斗くん!」


 声をかけられ、振り返るとゆりが嬉しそうに手を振った。

 その笑顔には、不安よりも希望が満ちていた。


「ゆり、退院が決まったんだって?」


「うん! 明日から家に帰るの。しかもね、同じ学校に通うことになったんだよ!」


 優斗の胸に、ほんのり温かいものが広がった。


「やっぱり、一緒の学校は嬉しいよね」


 ゆりの目は輝いていて、まるで新しい未来を見つめているようだった。


 二人はゆっくりと話し始めた。

 入院中のことや、これからのリハビリのこと、学校生活のこと。

 時折笑いながら、時折真剣な表情になりながら、言葉を交わす。


「優斗くんはどう? 学校は……」


「まだ慣れなくてさ。記憶も戻らないし、不安はあるけど、ゆりがいるなら頑張れそうだ」


 ゆりは優しくうなずいた。


「私も怖いけど、優斗くんと一緒ならきっと大丈夫」


 日が傾き始め、病院の影が長く伸びていく。




 

 

 

 

 

 帰り道、優斗の心は未来への期待と少しの不安が入り混じっていた。

 それでも、どこか楽しみな気持ちが勝っていた。

 桜崎公園の桜が、夕陽に照らされて淡く色づいていた。


 優斗が自宅のドアを開けると、家の中は静かでひんやりとしていた。

 一人で過ごす空間に、どこか孤独を感じながらも、心は少し落ち着いていた。


 ほどなくして、玄関のチャイムが鳴る。

 家事代行の中村彩乃だった。


「ただいま戻りました。今日はどうでしたか?」


 優斗は軽く笑って答えた。


「病院でゆりと会って、退院の話を聞いたよ。明日から同じ学校かもしれないって」


 中村はよかったと言いにっこりと微笑み、バッグから何かを取り出した。


「ところで、優斗さん、そろそろスマホを持った方がいいと思いますよ。何かあったときにすぐ連絡できるし、学校生活でも便利です」


「スマホか……実はまだ持ってないんだ」


「それじゃあ明日、一緒に買いに行きましょう。おすすめの機種もあるし、使い方も教えますから」


 優斗は少し考えてから頷いた。


「ありがとう。じゃあ明日、お願いするよ」


 それからの夜、優斗の頭の中には、新しい生活のためのさまざまな準備が浮かんでは消えた。


 スマホを手に入れることで、少しずつ世界が広がっていくのだろうか。

 そんな期待を胸に、優斗は静かにベッドに身を沈めた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆりの祖母の車が校門前に止まったとき、俺はちょうど靴箱の前にいた。

 ゆりが車椅子で降りてきた瞬間、周囲が一気にざわめき始める。


「ゆり!」「本当に戻ってきたんだね!」

「心配してたよ」「ずっと待ってたんだから!」


 教室に入ったゆりは、たくさんの声に囲まれていた。

 みんなの笑顔と、ゆりの柔らかな笑顔が重なって、教室の空気がぱっと明るくなる。


 そんな光景を、俺は自分の席から静かに見ていた。

 心の中に、小さくて言葉にならない寂しさが広がっていた。


 あれだけ嬉しそうな顔、病院では俺にだけ向けてくれてたんじゃなかったのか。

 いや、きっとそれは思い上がりだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥がモヤモヤと濁ったままだった。


 午後の授業が終わり、帰り支度を始めていたとき。

 何気なく窓の外に視線をやると、ゆりが誰かと話していた。


 クラス委員長の渡辺薫だった。

 明るくて気さくで、誰とでも仲良くなれるタイプ。

 その薫と話すゆりを見て、なぜか心がざわついた。


 ふたりの距離が、妙に近く感じた。


「別に、気にすることじゃない……」


 そう言って鞄を肩にかけ、帰ろうとしたときだった。


「優斗くん!」


 振り返ると、ゆりが手を振っていた。


「一緒に帰ろう?」


 その一言だけで、さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに和らいでいく。

 やっぱり、ゆりと一緒にいると、どこか落ち着く。


 歩道を並んで進みながら、ふと思い出して言った。


「そういえば、今日スマホを買いに行くんだ。中村さんに付き添ってもらって」


「え、スマホ? 私もついて行っていい?」


「いいけど……退院したばかりだし、疲れない?」


「大丈夫。優斗くんの新しい一歩なんでしょ? だったら見届けたいな」


 そんなふうに笑うゆりが、まぶしく見えた。


 そのまま中村と合流し、駅前のショッピングモールへ。

 スマホの機種を選んで、契約を済ませたあと、ゆりがすぐに言った。


「じゃあ、LINE交換しよ!」


「う、うん……」


 なぜか緊張しながらも、俺たちはスマホを向かい合わせてQRコードを読み込んだ。

 画面に「友だち登録が完了しました」と表示されたとき、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 その帰り道、俺はゆりの車椅子を押して、彼女の家まで送った。


 日が暮れかけた道。

 ゆりの横顔は夕陽に照らされて、ほんの少し寂しそうで、でも優しかった。


 あれから一週間が経った。

 季節はゆっくりと進み、桜崎の街にもようやく春の終わりを感じる日々を迎えてきてる。


 朝。

 俺のスマホが小さく震える。


おはよう☀ 今日もよろしくね》

 ゆりからのLINEだ。


 たわいもない一言。

 だけど、それが毎日のはじまりになっていた。


「おはよう。今日もよろしく」


 そう返信して、鞄を肩にかけ、家を出る。


 最近は、もうこの生活にも慣れてきた。

 朝はゆりとLINEのやり取りをして、学校に行って授業を受け、帰りはゆりの車椅子を押しながら一緒に下校する。

 そんな日々が、まるで前からずっと続いていたかのように自然だった。


 帰り道、いつものように桜崎公園を通る。

 少しずつ散り始めた桜の蕾を眺めながら、ふと思い出した。


 あの夜、中庭で泣いていたゆり。

 父親が一度も見舞いに来ないこと、そして――自分を置いて出ていった母親のこと。


「なあ、ゆり」


 俺は歩きながら、彼女の隣で声をかけた。


「そろそろさ。……お母さんのこと、本格的に探してみないか?」


 ゆりは驚いたように俺を見上げた。

 けれど、それはすぐに真剣な眼差しへと変わっていった。


「……うん。私も、そう思ってた」


 言葉はそれだけだったけど、ゆりの目には、決意の色が滲んでいた。


「じゃあさ、また時間あるときに、ちゃんと計画立てよう。ゆりの記憶にある場所とか、手がかりになりそうなものとか……一緒に考えよう」


「ありがとう、優斗くん」


 その声には、少し震えた響きがあった。


 俺は静かに頷きながら、またゆりの車椅子を押して歩き出した。


 この小さな決意が、これからの大きな変化の始まりになる。

 そんな気がした。






 翌朝。

 いつものように、スマホにはゆりからのメッセージが届いていた。


おはよう☺今日も頑張ろうね》


 それに返信して家を出たものの、なんとなく胸の奥がざわついていた。


 理由は、昨日から気づいていた。

 渡辺薫の様子が、どこかおかしい。


 教室に入ると、薫はいつものように明るく誰かと笑っていた。

 けれど――俺の方を一度も見なかった。


 授業中も、目が合うことはなかった。

 休み時間に近くにいても、何も話しかけてこない。


(……あからさまじゃないか?)


 最初は気のせいかと思っていた。

 でも、今日になって確信に変わる。


 完全に――避けられている。


 放課後、意を決して、薫のもとへ向かった。


 ちょうど机の上の教科書をカバンに詰めていた薫の背中に声をかけた。


「なあ、薫。……なんか、あったか?」


 少しの間。

 沈黙が流れた。


 薫は、俺の方に顔を向けようともしなかった。

 そのまま、何も言わずに教室を出ていった。


 机の横に、俺だけが取り残される。

 ただ、ポツンと。


「……そっか」


 心の中に広がるのは、混乱でも怒りでもなく、ただただ冷たい空虚だった。


 ゆりと話すときとは違う。

 薫とは、不思議と距離が近づいた気がしていたから――余計に堪えた。


 けれど、このことをゆりに話すつもりはなかった。

 せっかく日常が戻ってきたばかりだ。

 わざわざ、その空気を濁らせたくはない。


 帰り道、今日はひとりで歩く桜崎公園の並木道。

 風が吹いて、開きかけた桜の花が小さく揺れた。


 どこかで何かが、静かに音を立てて崩れていく気がした。
















 休日は通院日だ。なので今日は病院の中庭でゆりと会った。

 制服ではなく私服のゆりを見るのは、なんだか新鮮だった。


 桜崎病院の中庭。

 色とりどりの草花が揺れるベンチの前で、俺たちは向かい合って座っていた。


 いつも通りの通院日。

 そして、あの日に交わした約束を、そろそろちゃんと形にしようと思っていた。


「……ねぇ、優斗くん」


 先に切り出したのは、ゆりだった。


「母のこと、探そうって言ってくれたの、本当に嬉しかった」


「うん。俺も……何かできることがあればって思ってる」


 そう答えたあと、少し沈黙があった。


 ゆりは花壇に咲く淡い黄色の花をじっと見つめていた。


「……父とは、もうほとんど話してないの」


 ふとしたように、ぽつりとゆりが言った。


「最後にまともに会話したの、いつだったかな……もう、だいぶ前。退院の日にも来てくれなかった」


「……そっか」


 それ以上は何も言えなかった。

 ゆりの父親について、俺は何も知らない。

 だからこそ、余計なことは言えなかった。


「お母さんは……?」


 俺がそう尋ねると、ゆりは少しだけ目を伏せた。


「小さい頃にいなくなったの。どこにいるかも分からない。でも……最近、どうしてるのかなって思うことが多くて」


「……なら、探せばいい。」


 俺の言葉に、ゆりが顔を上げる。


「おばあさんが、何か知ってるかもしれないよね? 一緒に話を聞きに行ってみよう」


 ゆりは少し驚いたように見えたけど、すぐに小さく、けれど確かに頷いた。


「ありがとう、優斗くん。……本当に、ありがとう」


 彼女の声は風の音にまぎれて小さかったけど、胸にまっすぐ届いた。


 ふたりの間に沈黙が流れる。

 けれど、それは気まずいものではなく、やわらかく、静かな決意のようだった。


 中庭の花が、さわさわと風に揺れていた。




 

 

 

 

 

 ゆりの家に到着した。

「……やっぱり、いつ見ても大きい家だなって思うよ」


 俺がそう呟くと、隣で車椅子に座るゆりが小さく笑った。


「ふふ、またそれ言ってる。何回来ても慣れない?」


「うん、俺には縁のない世界だからさ、こういうの。……記憶なくしてから来るのは初めてだけど、やっぱすごいなって」


 鉄製の門の奥、整った芝と丁寧に剪定された庭木。その奥に、静かにたたずむ広くて白い家。


 ――たしかに、前も何度も送ってきた。けど、こんなふうに中に入るのははじめてだ。


 緊張を胸に押し込んで、俺はゆりの車椅子を押しながら玄関へ向かった。


 玄関ホールを抜けて案内されたのは、白を基調にした落ち着いた応接室だった。

 壁には絵画が飾られ、テーブルの上には季節の花が生けられている。窓の外には緑が見え、外の空気がどこか別世界のように感じた。


「ようこそいらっしゃいました。お久しぶりね、優斗くん」


 そう言って穏やかに微笑んだのは、ゆりの祖母――神田澄江さんだった。

 落ち着いた身なりと上品な物腰。どこか芯の強さを感じさせる女性だった。


「……あ、はい。お邪魔します」


「どうぞ、座って。お茶を入れましたから」


 俺がソファに腰かけると、ゆりも車椅子のままテーブルの横に止まり、手を膝の上で組んだ。


「おばあちゃん、今日は話したいことがあって……。お母さんのこと、覚えてることがあれば聞かせてほしいの」


 ゆりがそう言うと、祖母は少しだけ表情を曇らせた。


「そう……。美沙さんのことね」


 その名前は、俺にとっては初めて聞くものだった。けれど、ゆりの目は真剣だった。


「美沙さんはね、すごく優しい子だったのよ。よく笑って、家の中も明るくなるような……そんな人だった」


 祖母は、あたたかい紅茶を差し出しながら、昔を懐かしむように話し続けた。


「でも、あなたのお父さん――誠司はね、その頃はまだ若くて、会社を立ち上げたばかりで……ほとんど家に帰らなかったの」


「お金も余裕がなくて、まだお手伝いさんも雇えなかったし。美沙さんは一人で、赤ちゃんだったゆりを育てていたの。きっと、ものすごく大変だったと思う」


「……喧嘩も多かったの?」


 ゆりが小さく尋ねる。


「ええ。誠司も美沙さんも、最初は一緒に頑張っていたけれど、だんだんすれ違っていったのね。責めるつもりはないの。でも……限界だったんだと思うわ」


「それで、離婚して……?」


「そう。離婚してから、美沙さんは連絡もなしに、突然いなくなったの。どこへ行ったのか、誰もわからなかった」


 沈黙が、部屋に落ちた。

 ゆりは、何かを飲み込むようにうつむいていた。


「きっと大丈夫。いつか会えるわ。」


 祖母はそう言って、やさしくゆりの手を取った。


「噂程度だけど美沙さんは最近桜崎町のどこかに住みはじめたらしいの。私の友達が見かけたみたい。」


「……神田美沙さん……」


 俺はその名前を、心の中で繰り返した。


 ようやくつながった、最初の糸。

 ゆりの母を見つけるための、最初の光だった。


「ありがとう、おばあちゃん……」


 ゆりが小さく礼を言ったあと、静かに微笑んだ祖母はこう付け加えた。


「無理はしないでね。会うのが正しいことなのかどうかは、あの子自身にもわからないかもしれない。だから、どうか――急がずに、心の準備をしてからね」


「うん……。でも、私は会いたい。ちゃんと、もう一度……お母さんに会いたい」


 ゆりの言葉は、まっすぐだった。

 その姿を見て、俺は自然にうなずいていた。


「俺も……協力するよ。きっと見つけよう。ゆりの“やりたいこと”なんだもんな」


 ゆりがこっちを見て、やわらかく笑った。

 どこか安心したように。


 話がひと段落して、ちょうどお茶を飲み干した頃だった。

 ソファに座る祖母――神田澄江さんが、ふっと穏やかに微笑みながら言った。


「せっかくだし、今日は泊まっていったらどう?」


「……え?」


 不意に言われて、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。


「いや、あの……俺なんかが、こんな立派な家に泊まるなんて」


「遠慮はいらないわよ。夜も遅くなるし、外は肌寒いし。お部屋もたくさん空いてるしね」


「そうそう! いいじゃん、泊まってけば?」


 ゆりまで乗っかってくる。


「え、いや……でも……」


「えー、なにそれ。優斗、まさか怖がってる?」


「ち、ちがっ……」


「ふふっ、冗談だよ」


 いたずらっぽく笑うゆりの顔につられて、俺も思わず笑ってしまった。

 でも、内心はちょっと焦ってた。


(泊まるって……マジで?)


 俺は視線をそらしながら、ポケットからスマホを取り出した。

 画面をタップして、中村さんにメッセージを打ち込む。


 【すみません、今日はちょっと事情があって外泊になります】


 すぐに既読がついて、


 【了解です!体調気をつけてね〜】


 というあたたかい返信が届いた。


(……よし)


 深呼吸をひとつ。

 部屋の空気がどこか柔らかくなっていた。


「じゃあ……お言葉に甘えて、今日はお世話になります」


 そう言うと、ゆりが「やったー!」と両手をあげて喜んだ。


「じゃあさ、夜はお菓子でも食べながらお泊まり会っぽいことしよっか!」


「え、それ本気?」


「うん。なんか久しぶりに“普通の高校生っぽいこと”したいなって。優斗といると、ちょっと安心するし」


 俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。


「わ、わかったよ……俺でよければ」


「よし、じゃあお手伝いさんにお菓子頼んどこーっと!」


 ゆりはさっそくスマホを操作しながら楽しそうに笑っている。

 その様子を見て、澄江さんも優しく目を細めた。


「ゆりがそんなに笑ってるの、久しぶりに見たわ」


 その言葉に、俺の胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


 “普通”の時間。

 何気ない会話と、笑い声と、夜のお泊まり会。


 ――でもその先にあるのは、きっと“普通”じゃいられない現実だ。


 けれど今は、ほんの少しだけ、そのことを忘れていたかった。



「この部屋を使ってね。何かあったら呼んでちょうだい」


 澄江さんに案内されたのは、広くて落ち着いた雰囲気の客室だった。

 白を基調にしたベッドルームに、木目の家具が整然と並んでいる。窓の外には、手入れの行き届いた庭のライトがぼんやりと浮かんでいた。


「……すげぇ、なんかホテルみたいだ」


 一人になってから、小さくつぶやく。

 ベッドの上に座って、スマホを取り出すと、通知が1件。


 ゆり【お泊まり会開始〜】


 ふふ、と吹き出してしまった。

 そのあとすぐ、


 優斗【うるさくしないようにします】


 と打ち返すと、


 ゆり【静かにテンションあがってるんでしょ?】


 さすがに図星すぎて、笑いを噛み殺した。


 数十分後――。


 部屋のノック音が「コツコツ」と小さく響いた。


「優斗〜、まだ起きてる?」


 ゆりの声だった。


 ドアを開けると、パジャマ姿のゆりが車椅子に座ってこちらを見上げていた。

 ライトブルーのゆるいワンピースパジャマ。髪はサイドで一つにまとめていて、どこか無防備な雰囲気があった。


「え、なに?」


「なんかさ、眠れなくて。中庭の見える廊下のとこに行こうと思って。付き合って?」


「……別にいいけど」


 内心、ドキドキしていたのは言うまでもない。

 一緒に夜の廊下に行くとか、どこの恋愛映画だよって。


 薄暗い廊下。

 ゆっくり進む車椅子と、横を歩く俺。


「夜の空気って、気持ちいいね」


「うん。昼と違って静かだし」


 廊下の端にある大きな窓からは、庭の花が月明かりで浮かび上がるように見えていた。

 風が少し吹いて、カーテンが揺れる。


「……ねぇ、優斗。今日、来てくれてありがとう」


「え?」


「なんか、こういうの久しぶりだったから。友達と、夜に他愛もないこと話すの。楽しくて」


「……俺も。あんまりこういうの慣れてないけど、楽しい」


 ゆりが、にこっと笑う。

 でもその笑顔はどこか、寂しさを少しだけまとっていた。


「今日、夢にお母さん出てくるといいな。……」


 その一言に、胸がきゅっとなった。


「きっと……出てくれるよ」


「……うん。そうだといいな」


 そうしてしばらく、2人で夜風に吹かれながら沈黙していた。


 ふと、ゆりがこちらに視線を向けて言った。


「優斗って、こうやって静かに一緒にいてくれるの、すごく落ち着く」


「……俺も、ゆりと一緒にいると、変な安心感ある。なんでだろうな」


「ふふ。……じゃあ、また明日ね。おやすみ」


「おやすみ」


 そしてゆりは、自分でゆっくりと車椅子を回して部屋へ戻っていった。


 俺はしばらくその背中を見送ったあと、夜の風が少し冷たく感じる廊下で、ひとり深呼吸をした。


(……この気持ちは、なんだろう)


 胸がざわつく。







 5.ゆりの母


「優斗くん……!」


 声が聞こえる。けれど、それが現実かどうかも曖昧だった。


 視界が揺れた。耳鳴りがする。

 頭の中に、何かが洪水のように流れ込んでくる。


 ――暗い教室。

 ――後ろの席で鳴る、クスクスとした笑い声。

 ――教科書に書かれた落書き。

 ――机の中に詰められたゴミ。

 ――引き出された椅子。転ぶ音。笑い声。

 ――誰も助けてくれなかった教室。


「いや……やめろ……思い出したくない……っ」


 力が入らない。足に力が入らず、膝が震え、崩れる。


 頭が割れるように痛い。


「苦しい……やめてくれ……っ」


 自分でも何を言っているのか分からない。

 ただ、押し寄せる記憶の波が痛くて、苦しくて、たまらなかった。


 そんな中で――ふいに、柔らかい何かに包まれた。


「優斗くん、大丈夫、大丈夫だよ……」


 震える身体に、温もりが重なる。

 細い腕が、背中をそっと抱きしめていた。

「こわい記憶、思い出しちゃったんだね。わたしにも、あるよ。苦しくて、痛くて、逃げたくなるような記憶」


 それは、ゆりの声だった。


 気づけば、ゆりは車椅子を降り、俺のそばに膝をついていた。

 無理に体を投げ出したのだろう。膝を擦りむいて、制服の裾も汚れていた。


 でも、そんなことを気にする様子もなく、彼女は俺を抱きしめ続けてくれていた。


「……わたしも一人だったよ。でもね、今は違う。優斗くんがいてくれるから、ひとりじゃない。だから、今度は、わたしが支えたいの」


 彼女の声が、体の奥にしみていく。

 ようやく、少しずつ現実が戻ってくる。


「ゆ……り……」


「あったかいね。優斗くんの背中」


「……ごめん……」


「謝らないで。わたし、優斗くんがどんな過去を持っていても……ちゃんと見ていたいと思ってる」


 彼女のその言葉が、張り詰めていた心の糸をほどいていく。


 誰かにこんなふうに抱きしめられるのは、いったい何年ぶりだろう。

 記憶の中の母の手を、少し思い出した。


 ――そのとき、思った。

(ああ……この人は、俺の「今」を守ってくれる人だ)


 立ち上がれるかはわからなかったけど、それでも、抱きしめ返したかった。


 けれど俺の腕は震え、ただ、彼女の肩に額を預けることしかできなかった。


「……どうやって来たの……?」


 しばらくして、震えながら聞いた。


 ゆりは、ちょっと困ったように笑った。


「職員用のエレベーター、勝手に使っちゃった。ダメって分かってたけど……声がした気がして……なんとなく、屋上だって思った」


「……ばかだな」

「うん、自覚してる。でも、間に合ってよかった」


 優しくて、まっすぐで、危なっかしい。

 それが、神田ゆりだった。


「ねえ、優斗くん。つらいこと、あるなら言っていいんだよ。わたしだって……強くなんかない」


「……俺、怖かった。忘れてたのに……急に……」


「記憶って、勝手に出てくるよね。」


 彼女の手が、俺の背中をぽんぽんと叩く。

 まるで、リズムを刻むように、静かに。


「……今度は、わたしが支える番」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。


(守らなきゃいけないのは俺の方なのに…)


 でも、今だけは、彼女の言葉に甘えたかった。

 ひとりじゃないと、信じたかった。


 ただ、こうして、ぬくもりに包まれていたかった


 そして、俺たちを包む夕暮れは、静かに、夜へと変わろうとしていた。






 

 

 沈黙のあと、ゆりが静かに尋ねてきた。


「ねえ、なにを思い出したの?」


 俺はうつむき、声を絞るように答えた。


「中学三年の、三学期……。俺、学校でいじめられてた」


 ゆりの瞳がわずかに揺れる。


「きっかけは、両親を亡くしたことだった。家の事情が変わって、俺が少しずつ無口になったのもあるけど……それだけじゃなかった。家庭のことをからかわれて、やがてそれがエスカレートして……教室で居場所がなくなった」


 喉が乾いていた。でも、なぜか言葉は止まらなかった。

「誰にも言えなかった。親もいない、先生にも言えない。友達だって……いなかったから」


 ゆりは俺の手を、そっと握ったまま黙って聞いてくれていた。


「……それ、すごく、つらかったね」


「でも……今は、違う」


「え……?」


「今、こうして話せてる。誰かに話せた。――ゆり、お前がいてくれたからだよ」


 ゆりの目がふわっと見開かれた。


「俺……ひとつ、やりたいことができたんだ」


「やりたいこと……?」


「お前を、お前の“お母さん”に会わせてやりたい」


 ゆりは驚いたように言葉を失った。


「まだ会えるかどうかも分からないし、どんな関係なのかも、きっと簡単にはいかない。でも……ずっと会いたがってたお前のために、俺、ちゃんと動いてみたいと思った」


「……優斗くん……」


「いじめられてた頃は、自分のことで精一杯だった。でも、今は違う。他人のために何かしたいと思える。……それが、きっと俺の“やりたいこと”なんだ」


 その瞬間、ゆりの頬に涙が一粒落ちた。


 でも、笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。


「ありがとう、優斗くん……ほんとに……ありがとう」


 彼女の手は、もう震えていなかった。


「母親が、桜崎の街に住んでるって……おばあちゃんが言ってたよね。」


「じゃあ、次の休みに一緒に行こう。」


 ゆりは、ぐっと唇を噛んでから、こくんと頷いた。


 俺たちはまたひとつ、同じ方向を向いた。


 お泊まりの日から、ほんの数日。

 ゆりの祖母は、驚くほど早く行動してくれた。


「美沙の住所、わかったよ」

 学校から帰ったその日の夕方、ゆりがLINEでそう知らせてきた。


 文面は短いのに、どこか小さな震えがあった。

 “ついにその時が来たんだ”と、画面を見つめるだけで分かった。




 

 

 

 

 

 土曜日。

 風は少し冷たかったけれど、空はやわらかな春色をしていた。


 待ち合わせ場所は桜崎駅の改札口。

 いつものように車椅子を押しながら来たゆりは、やや緊張した面持ちだった。


「……やっぱりちょっと、緊張する」


「当たり前だよ。……でも、ゆっくりでいい。会って、顔を見るだけでも、何か変わるかもしれない」


 俺の言葉に、ゆりは小さく笑ってうなずいた。


「うん。ありがとう、優斗くん」


 記された住所をスマホに入力し、電車とバスを乗り継ぎ、小さなマンションの前に辿り着いた。


 建物は見覚えのない新しいマンションだった。

 中庭の花が風に揺れて、春の匂いが漂う。


「ここが……お母さんの家……」


 ゆりは息を呑んだ。

 どこか緊張しながらも、強い決意を感じた。


「押すよ」


 インターホンのボタンを押すと、数秒の静寂のあと、中から音がした。


「は、はい……どちら様ですか?」


 女性の声が聞こえる。


 ゆりは小さな声で伝えた。


「神田ゆりです。お母さんの娘です。会いたくて……」


 沈黙の後、インターホン越しに返事はなかった。

 少しの間が空いて、玄関のドアがゆっくり開いた。


 現れたのは、優しくも少し疲れたような中年の女性。

 母親だと信じたい、その顔だった。


 ゆりは静かに、一歩一歩近づく。

 俺はその背中をそっと押した。


「来てよかったね」


 彼女は震える唇を噛みしめ、目に光るものを堪えていた。


「この先、どんなことがあっても、一緒に乗り越えよう」


 俺はそう心の中で誓った。














 リビングの淡い光の中、ゆりはおそるおそる母・美沙を見つめた。

 緊張と期待が交錯して、胸が押しつぶされそうだった。


「お母さん……ずっと会いたかったよ」


 声は震えていたけれど、確かな気持ちがそこにあった。


 美沙は視線を伏せ、小さく息をついた。

 その目に溜まった涙がゆっくりこぼれ落ちる。


「ゆり、ごめんなさいね。あの時、家を出てしまったこと……ずっと後悔してる」


「どうして、私を置いていったの?」


 ゆりの問いに、美沙の声はか細く震えた。


「あなたのお父さんと別れてから、生活も苦しくなって……私も心が壊れそうだったの。逃げ出したかったのよ。あなたに会うのも怖くて……」


 ゆりは胸が痛くなった。

 悲しみが押し寄せて涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。


「でも、あなたのことはずっと想ってた。毎日毎日……」


「どうして来なかったの? 病院にも……」


 美沙はゆっくりと口を開いた。


「あなたのお父さんとは離婚してからほとんど連絡を取っていなかった。私もどうしたらいいか分からなくて……申し訳なかった。あなたに会いたかったけど、怖かったの」


「怖いって?」


「責められるんじゃないかって……あなたを傷つけたって思われるんじゃないかって」


 美沙の言葉に、ゆりの心が少し揺れた。

 母もまた、孤独と葛藤の中で苦しんでいたのだと知った。


「でも……今は違う。これからはあなたと向き合いたい。失った時間を取り戻したいの」


 ゆりはその言葉に涙をこぼし、静かに頷いた。


「私も……もう一度、お母さんとやり直したい」


 しばらくの間、二人は言葉なく涙を分かち合った。

 どちらもが抱えてきた孤独を、少しだけ分かち合えた瞬間だった。


 窓の外には春の陽射しが柔らかく差し込み、部屋を温かく包み込んでいた。


 ゆりはこれからの未来に、かすかな希望を感じていた。











 リビングから少し離れた玄関。

 靴箱の上に射し込む午後の光が、淡く揺れていた。


「……ッ」


 こみ上げてくる痛みに、思わず額を押さえる。

 あの2人を見ていると、

 頭の奥がじんじんと焼けるように痛む。

 息が乱れて、背中を壁に預けた。


 ふいに、断片的な映像が頭に流れ込んできた。


 ――笑っている母さん。隣には父さん。


「お揃いのミサンガ、だね」


 そう言って母さんが俺の手首に結んだ。

 赤と青の編み込み。父さんのも、母さんのも、同じ色だった。


『これで、絶対に離れない』


 俺は嬉しくて、何度もそのミサンガを見つめた。


 でも……。


 次に浮かんだのは、病院のベッドに横たわる母さんの姿だった。


「ごめんね……優斗。もっと……一緒にいたかった……」


 その言葉が最後だった。


「……あのあと、俺は一人になったんだ」


 口に出した瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。

 忘れていたはずの悲しみが、音を立てて蘇る。


 そして、ふと思い出す。


 ――あの事故の日。

 誰かを追いかけるように走って、道路に飛び出した。


「……ミサンガ……」


 手首を見た。そこには何もなかった。


 あの時、確かにあったはずのミサンガは、事故の衝撃でちぎれて、どこかに落ちてしまった。


 今も、あの場所にあるのかもしれない。

 俺の過去と、誰かを恨んだ想いと、一緒に

「……父さんのことは……まだ思い出せない」


 けれど、少しずつ確かになっていく。

 この痛みの先に、俺が見つけるべき“真実”があることを。


 ゆっくりと顔を上げた。

 その視線の先に、静かに開かれかけた玄関の扉があった。


 その先には、まだ知らない現実が待っている。

 でも、もう逃げるつもりはなかった。


「……帰ろっか」


 リビングに戻ってそう言うと、ゆりは少しだけ驚いた顔をしてから、ふわりと笑った。


「うん。……ありがとうね、今日、ついてきてくれて」


「こっちこそ、ありがとう」


 俺たちは並んで家を出た。

 夕方の風が、少しだけひんやりしていて心地よかった。


 住宅街を抜け、やがて視界がひらける。

 いつもの帰り道、そしていつもの場所。


 桜崎公園。


 満開の時期は過ぎたけれど、あの桜の木はまだ堂々と枝を広げていた。

 風に乗って、ほんの少し花びらが舞っている。


 俺たちは自然と足を止め、桜の木の下に立った。


「あのね――」


 ゆりがぽつりと口を開く。

 振り返った彼女の顔は、少し緊張したような、でも覚悟を決めたような表情だった。


「私……あなたのこと、好きだよ」


 風が止まったように思えた。


 一瞬、耳がぼんやりとして、胸の奥がズキリと痛んだ。


 ――ざわつく。



 俺は、しばらく黙ってゆっくりと頷いた。


「……ありがとう」


 その言葉しか出てこなかった。

 けれど、それが嘘じゃないことだけは確かだった。


「記憶を全部取り戻したら……ちゃんと、返事する」


 ゆりは小さく「うん」とだけ返して、ふわりと微笑んだ。

 その横顔が、どこまでも綺麗で、俺はまた胸が締めつけられそうになった。


 それでも黙って彼女の車椅子を押す。

 ゆりの家が見える坂道を、穏やかに登っていった。


 ――でも、心の奥では、別の声がささやいていた。


(どうして……こんなに胸がざわつくんだろう……これが恋なのか?)


 微笑む彼女の背中を見ながら、答えのない問いがまた、胸の中を渦巻いていた。






 

 

 

 

  

  

  

  

 

 ゆりの家の門が閉まる音を背に、俺はゆっくりと坂を下っていた。

 空は曇っていて、月の光はほとんど届いてこない。


(――好きだよ)


 あの言葉が、何度も胸の奥で反響していた。

 嬉しい。けれど、その感情の奥で、説明のつかない“ざわつき”がずっと引っかかっていた。


 桜崎公園の前を通りかかったときだった。


「こんばんは、また会ったね」


 静かな声が、背後から響いた。

 振り返ると、前にも会った“あの男”がそこに立っていた。


 目立たない格好。なのに、妙に印象に残る。

 何かを探るような視線。それでも口元には薄い笑みが浮かんでいる。


「……こんばんは」


 俺は戸惑いながらも返事をした。


「夜の桜は、また違って見える。ここは昔から、人の想いが集まる場所なんだ」


 男はそう言いながら、木の幹を指でなぞるように見つめていた。


「――君、菊井優斗くんだね?」


 その名前を口にされて、一瞬、胸が詰まる。


「……そうですけど」


 男はポケットから何かを取り出すこともなく、静かに言った。


「おじさん刑事なんだ。神田ゆりさんのこと、少しだけ聞かせてもらえるかな」


「……ゆり、がどうかしましたか?」


「彼女は“あの日何者かに背後から突き落とされた”って証言してる。記憶がはっきりしてるわけじゃないけど、事故じゃなくて“事件”だった可能性がある」


 心臓が、ひとつ跳ねた。

 突き落とされた――それは、俺が初めて聞く事実だった。


「……俺は、記憶がないんです。事故のことも、自分の過去のことも。目が覚めたときには、病室のベッドの上で……。それ以外は、何も」


 男の目がわずかに細くなった気がした。


「そうか。……すまなかったね、急に」


 ほんの数秒の沈黙のあと、男は静かに背を向けた。


「また、会おう。その時は桜を見ながらゆっくり語り合おう。」


 その言葉を残し、男は公園の闇の中へと歩き出した。


(……あの人、なんなんだろう)


 優しい口調。だが、その奥にある“別の顔”をどこかで感じていた。


 しばらくその場に立ち尽くしていた俺は、ふと足を向ける。

 なぜか、体が“あの場所”へ向かいたがっていた。

 

  

   

    

 












 事故現場。


 ゆりが階段から落ちた現場のすぐ近くにある、あの道。


 街灯の薄明かりの下、アスファルトの隙間に、何かが光っていた。


 しゃがみ込み、指で拾い上げる。


 それは、ちぎれた“ミサンガ”だった。

 少し汚れてはいたが、大事なものだ。


 俺の記憶のどこかに、確かに存在していた感触。


 握りしめてそのまま、俺は家へと歩き出した。

 何かが、少しずつ繋がっていく気がした。

 けれど、まだすべてを思い出すには――もう少し、時間がかかりそうだった。




















 6.真実


「……あのね」


 いつもの桜崎病院の中庭。

 少し風が強い午後だった。白い花びらが舞い、ゆりの髪を柔らかく揺らしていた。


 彼女は、照れくさそうに笑いながら、俺の方を見た。


「このあいだ、お母さんと……また会ってきたの」


「うん」


「たくさん、おしゃべりしたよ。……なんていうか、あのとき言えなかったことも、ちゃんと話せたの」


 ベンチの背もたれに寄りかかり、ゆりは空を仰いだ。


「私ね、“置いていかれた”ってずっと思ってた。でも、お母さんも、逃げたことを後悔してた。ほんとうは一緒にいたかったって」


 ゆりの声は、どこか晴れやかだった。けれど、心の奥には、まだ少しだけ濁ったものが残っているようにも見えた。


「そっか。……会えてよかったな」


「うん。……でね、今度、両親を会わせることにしたの」


「え?」


「もう一度、みんなでちゃんと向き合わなきゃいけないと思った。……逃げてばかりじゃ、きっと何も変わらないから」


 彼女の言葉には、不思議な重みがあった。

 静かに、それでも確かに、“前に進もう”とする覚悟が滲んでいた。


「私、たぶん歩けるようになると思う。リハビリ、頑張ってるから。でも、それだけじゃなくて……心も、ちゃんと前に進まなきゃって思ったんだ」


 俺はその横顔を、ただじっと見ていた。


 気がつけば、風に乗って、あの桜の香りが流れてきた。


(ゆりは、変わっていく)


 そう思った瞬間、胸の奥に言葉にならない痛みが広がった。


(俺は――)


 その先の想いは、まだ言葉にならなかった。


「……あのさ、ちょっと見せたいものがあるんだ」


 俺はポケットに手を突っ込んで、少し迷ってから、それを取り出した。


 手のひらの上に乗せた、色あせたミサンガ。


 赤と青の細い糸が編まれ、片方がちぎれている。

 事故のあと、公園の階段のそばで拾ったやつだ。


「桜崎公園で見つけたんだ。たぶん……俺のだったと思う」

 ゆりは、そのミサンガを見つめたまま、何も言わなかった。

 ただ、目を少し見開いて、固まったように動かなくなった。


 一瞬、風の音だけが中庭を通り抜けていった。


「……どうした?」


「ううん。なんでもない。……」


 そう言って、ゆりは微笑んだ。








 病院の帰り道、俺はいつものように桜崎公園に足を運んだ。


 もう夕暮れが近い時間だった。

 空はやわらかな茜色に染まり、風に舞う花びらが金色に光って見えた。


 公園の中央にそびえる、大きな桜の木。


 その木の下に立った瞬間――

 ふ、と胸の奥が、温かく、そして少し痛くなった。


 ぼんやりと、けれど確かに。

 その記憶の輪郭が、少しずつ浮かび上がってきていた。


(少しずつ、戻ってきてる……)


 ポケットの中で、あの桜の木の写真を握りしめる。


(この写真……俺にとって、何より大切なものだったんだ)


 風が吹いた。

 顔に髪がかかり、慌ててかきあげたそのとき――

 心のどこかが、ざわざわと騒ぎ出した。


(……ゆり)


 彼女の名前を思い浮かべた瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


 苦しいわけじゃない。けど、どこか……不安定なものが、心の中でうごめいている。


(なんでだろう。――俺は、神田ゆりという存在を……)

 初めて聞いたときから、どこかひっかかっていた。

 “懐かしさ”とは違う、“親しみ”とも違う、もっと深いところにある――ざわつき。


 今、それが以前よりもずっと強くなっているのを感じた。


 彼女が笑うたび、優しく名前を呼ぶたび、

 その奥に、なにか見てはいけない記憶が隠れているような――そんな気がしてならなかった。


(俺は……なにを、忘れているんだ?)


 桜の木は今日も静かに、何も語らずにそこに立っていた。

 まるで、すべてを知っていて、ただ見守っているように――


「菊井くん、少し話せる?」


 夕食の食器を片付けたあと、中村さんがリビングに戻ってきてそう切り出した。

 彼女はいつも通りの穏やかな口調だったけれど、その声にはどこか緊張がにじんでいた。


「……どうかしたんですか?」


「……実は、そろそろこの街を離れることも考えてみたらどうかと思って」


「え?」


「新しい環境で心機一転……記憶も完全に戻っていないし、いろんなものから距離を置くのも悪くないと思うの。通院も続けられるような病院が近くにある地域もあるし……私が手配することもできる」

 その言葉に、胸の奥がざわついた。

(なぜ今……?)


「……いや、俺はここに残ります」


 きっぱりと断ると、中村さんはわずかに目を伏せた。


「……そう、よね。分かったわ」


 会話はそれで終わった。


 けれど、彼女がキッチンに戻る背中を見ていると、何かを隠しているような――そんな気がした。


 俺はテレビのリモコンを手に取って、無意識にニュース番組にチャンネルを合わせた。


『――本日午後、カンダ・ホールディングス社長の神田誠司氏が辞任を表明しました。理由は社内での複数のパワハラ問題に対する責任を取るため――』


 瞬間、心臓が一度大きく跳ねた。


 画面の中、黒いスーツ姿の男が記者たちに囲まれていた。

 痩せこけた頬、眼光の鋭さ――そして、どこかで見たことのある顔。


『私はすべての責任を受け止め、これからはひとりの人間として償っていく所存です――』


 その声を聞いた途端、ズキン、と頭の奥が悲鳴を上げた。


「……っ!」


 頭を両手で押さえた。鋭い痛みが脳を貫き、視界がゆがむ。


(神田……誠司……?)


(その名前……知ってる……俺は……)


 椅子から崩れ落ちた。

 床に手をついたまま、意識が遠のいていく。

 頭の中で、誰かが叫んでいた。


 ――お父さんを……返してよ。


 誰の声かも分からない。けれど確かに、それは「俺」の声だった。


「菊井くん! 大丈夫!? ちょっと、しっかりして!」


 中村さんが駆け寄ってきて、肩を支える。

 すぐにスマホでどこかに電話をかけている声が聞こえた。


「救急車お願いします! 若い男の子が……意識はあります、でも頭を押さえて苦しそうで!」


 その間も、頭の奥で――


 黒いスーツに無表情な神田誠司の姿が、何度も何度もフラッシュのように蘇っていた。


 その男の名前を知った瞬間から、記憶の扉は――壊れ始めていた。








 幼少期の頃。

 ――ひらひらと、花びらが舞っていた。


「見てごらん、優斗。桜の花、雪みたいでしょ?」


 母さんが笑って言った。

 その横で、父さんが手にしたカメラを構えている。


「じゃあ、みんなで撮ろうか。ほら、優斗、もっと笑って!」


「えー……まぶしい……」


 俺はしかめっ面をして、母さんの手をぎゅっと握り直す。

 春の日差しがやけにあたたかくて、目を細めた。


 場所は、桜崎公園の丘の上。

 大きな一本桜が、空に向かって枝を広げていた。

 その下には、色とりどりのレジャーシートと、母さんの手作り弁当。


「おにぎり、優斗の好きな鮭も入ってるわよ」


 母さんは笑顔でお弁当を広げ、父さんはそれを見ながらビールを一口。

 どこにでもある平凡な春の午後。


 でも――


「ねぇ、また来年来れるかな、ここ」


 ふと母さんが言った。少し寂しげな笑顔だったのを、子どもの俺でもなんとなく覚えてる。


「来年も、その次も、何回でも来よう」


 父さんが即座にそう返した。

 その時の父さんの笑顔は、今思えば――少しだけ無理をしているように見えた。


 でも、俺には分からなかった。

 ただ、桜の下で食べるお弁当が美味しくて、両親と一緒に笑っていられる時間が嬉しかった。


 写真を撮ったあと、母さんがバッグから何かを取り出した。


「これ、おそろいのミサンガ。3人でつけようって思って」


 細い赤と青の糸が編まれた、小さな輪っか。

 3本あって、名前が刺繍されていた。


「願い事、叶うといいねって……」


 母さんはそう言って、優しく俺の手首に巻いてくれた。


 ――願い事?


 なんだったっけ。

 今では思い出せないけれど、あの時、俺は確かに何かを願った気がする。


 父さんも母さんも笑ってた。

 その笑顔は、今も俺の心に焼き付いてる。


 あの桜の木の下だけが、

 今でも俺にとって「家族」という言葉を思い出させてくれた。



 数年経った。中学三年の春。


 俺はあの日、学校から帰ってくる途中、偶然その現場を見たんだ。


 父が職場の前で、知らない女性と話していた。

 女性は泣いていた。

 目を真っ赤に腫らしていて、何度も「すみません」「もう限界なんです」と繰り返していた。


 父は、肩に手を置いて言った。


「君が悪いんじゃない。耐えるべきなのは、君じゃない」


 あの時、誇らしかった。

 父は正義感の強い人だった。誰にでも優しくて、弱い人を守れる大人だった。


 でも、それから数週間後、父の様子が変わり始めた。


 家に帰っても何も話さず、無理に笑うようになった。

 テレビも見ず、母の料理にも箸をつけないことが増えた。

 夜中に物音がして目を覚ますと、父はリビングで煙草を吸いながらひとり天井を見上げていた。


「……お父さん、大丈夫?」


 そう声をかけたとき、父は何も答えなかった。ただ、頭を撫でてくれた。


 それが――最後だった。


 それから数日後、母が泣き崩れる声で目を覚ました。


 父は、会社近くの河原の木に、自分で縄を掛けていた。


 遺書はなかった。


 でも、あとから母が言っていた。


「お父さん……上司から目をつけられてたの。ある女性を庇ってから、何度も何度も異動や減給を繰り返されて……会社に居場所がなかったのよ……」


 その上司の名前――俺はその時、ちゃんと覚えていた。


神田誠司かんだ せいじ


 母の口からそう聞いた時、俺の中で何かが崩れ落ちた。


 神田誠司。許せなかった。


 そうだ。

 俺はその名前を、記憶をなくす前から、ずっと心の奥で憎んでいた。


 父を殺したのは、あの人間だ。

 優しかった父の笑顔を奪ったのは、ゆりの――あの「優しさの塊」のような少女の、父親だ。


 その矛盾に、胸が張り裂けそうになった。


 どれだけ恨んでも、ゆりは何も知らない。

 それでも、怒りは止まらなかった。


 その夜、母は父の遺影の前で泣いていた。

 何もしてやれなかった自分を責めていた。

 父が亡くなって、数ヶ月後。


 母は、無理に元気にふるまっていた。

 俺の前では、笑って、料理をして、学校のことをたくさん聞いてくれた。


 でも、夜になると、咳き込む音が聞こえた。

 布団の中で、息を殺すように泣いている声も、何度も聞いた。


 夏の終わりごろ、母は倒れた。

 診断は、進行性の病気だった。発見が遅かったのだと、医者は言った。


「ごめんね……優斗。あんたに心配かけたくなくて……でも、もう長くないの」


 病室で、母は俺の手を握りながら、何度も謝っていた。

 その手は、とても細くなっていて、あのぬくもりを保つのもやっとのようだった。


「お父さんがいなくなって、辛かったのは私も同じ。でも、あんたがいたから、私はここまで来られたの。……ありがとうね」


 俺は、泣きたくなかった。

 母が「大丈夫だよ」って笑ってるのに、俺が泣いたら、きっと母も苦しむから。


「ミサンガずっと、つけててね。……それで、いつか大人になったとき、自分が“ちゃんと笑えてるか”って、時々思い出して。……それが、私の願いだから」

 震えた声で母が言う。


 その夜が――最後だった。


 翌朝、病室に行くと、母はもう冷たくなっていた。


 医師が静かに告げた言葉すら、耳に届かなかった。


 俺は母の遺体にすがりついて泣いた。

 あの時、何もできなかった無力な自分を責め続けた。


 唯一残ったのは、腕につけていたミサンガだった。











 今の俺には、記憶も、家族も、なにも残っていなかった。

 ただ、あの桜の木の下に立っていた、ぼんやりとした「温かさ」だけが心に残っていた。


 でも今――それが全部、少しずつ繋がっていく。


 すべての記憶が、俺の中に戻ってきた。


 優しかった父。

 強くあろうとした母。

 大事な2人を身勝手な男に殺されたんだ。

 ただ無力な俺はただ恨むことしかできなかった。


 母さんが亡くなってから、何週間が経ったのか覚えていない。


 リビングには母さんが倒れたときの痕がまだ残っていた。

 あの夜、病院へ向かう救急車のサイレンの音が、今でも耳にこびりついている。


 静まり返った部屋。

 炊飯器の電源は切れたまま。

 もう誰も「おかえり」とは言ってくれない。


 学校にも行けなくなった。


 ――いや、行こうとはした。


 でも教室に入った瞬間、空気が凍った。

 机の上には意味のわからない落書き。

「かわいそうな奴」「暗いやつ」「死神」――そんな文字。


 ある日は、靴が汚されていた。

 ある日は、カバンの中に腐った野菜が詰め込まれていた。

 教師は何も言わなかった。見て見ぬふりだった。


 友達だったはずのやつらも、次第に距離を置かれた。

 誰も、声をかけてこなかった。


 家でも、学校でも、誰にも必要とされていない。

 そんな風に感じていた。


 ある夜、郵便受けに差出人不明の封筒が入っていた。


 紙の手触りは少し古びていて、字はとても綺麗だった。


 

 

 

  優斗くんへ


 きみは、ひとりじゃない。


 世の中には、優しい顔をして、人を壊す人間がいます。


 神田誠司という男も、そう。


 きみのお父さんは、彼に壊された。


 きみのお母さんは、愛する人を失い、悲しみの中で倒れた。


 それでも、誰も罰せられない。


 なにも変わらない。


 優斗くん、あなたの中にある痛みは、本物です。


 忘れないで。その痛みは、あなたを動かす力になる。


 心に、ズドンと何かが落ちてきた。

 救いだったのか、呪いだったのかは、その時にはまだ分からなかった。


 でも、誰かがこの“地獄”を知っていてくれることが、

 俺にはたまらなく嬉しかった。


 それからも手紙は届いた。


 あたたかく、優しく、だけど少しずつ――少しずつ、「怒り」と「復讐」へと導いていく言葉に変わっていった。


 手紙は言った。


 正義は、待ってるだけでは来ない。

 行動する者にしか、道は見えない。


 それが、まだあどけない少年だった俺の中に、

 神田誠司という名を深く刻み込んだ。















 それからも、手紙は届き続けた。


 一週間に一通、時には二通。

 白い封筒に、癖のない丸い文字。

 だけど、その中身は――少しずつ、少しずつ、変わっていった。


 最初は、俺の痛みに寄り添うような言葉だった。


「つらかったね。誰にも言えなかったんだよね」

「君の優しさが、君自身を傷つけてしまったんだ」


 読みながら、俺は泣いた。

 声を出して泣いた。

 誰にも言えなかったことを、やっと誰かが理解してくれた気がして。


 でも、何通目かの手紙にはこう書いてあった。


「神田誠司という男がどれだけ多くの人を壊してきたか、知ってる?」

「彼は今も、大きな顔をして生きてる。謝りもせず、償いもせず」


 俺は、固まった。


 その名前を、はっきりと手紙の中で見たのは、それが初めてだった。

 “神田誠司”。

 父の勤めていた会社の社長。

 父を、追い詰めた張本人。


「あなたは、きっと知らなかったでしょう。

 でも、真実を知った今、あなたはどうする?」


 俺は震えた。

 けれどその手紙の最後には、いつものように、優しい言葉が添えられていた。


 「私は、あなたの味方だから」


 その一文が、俺を支えていた。

 同時に、その一文が、俺の判断力を蝕んでいった。


──次の手紙では、こんな言葉があった。


 「神田誠司の“大切なもの”を奪えば、少しは償いになると思わない?」


 “大切なもの”──?


 俺は最初、意味が分からなかった。

 けれど、それを考えるうちに、ある名前が浮かんだ。


 神田ゆり。


 あの男の娘。

 何も知らずに、幸せそうに生きている“娘”。


 ……その姿を想像するだけで、胸がざわついた。


 なぜ、俺の家族は壊れたのに、

 あの家の人間は今も笑っていられるんだろう。


 なぜ、父さんも、母さんも、いないのに――。


「ゆっくりでいい。焦らないで。

 でも、あなたの中にある怒りを、決して否定しないで」


 それからの俺は、もう、ただの“俺”じゃなかった。

 気づけば、毎日その手紙を読み返し、

 書かれている言葉を、自分の中に何度も染み込ませていた。


 知らず知らずのうちに、

 俺の心は、その“誰か”の声に、従っていった。


 やがて俺は、行動を起こす。


 そのとき、あの桜の木の下にいた。


 写真を握りしめながら、

 誰かの名前を、強く、強く、心の中で呟いていた。


 ――神田ゆり。


 あの時の俺は、自分を失っていた。


 ただ、奪いたい”と願っていた。


 たった一人の少女の命を。
















 気づけば、俺は冷たい床に倒れていた。


「……優斗くん! 大丈夫? しっかりして!」


 焦った声がすぐそばにあった。目を開けると、タオルを持った中村さんが顔を覗き込んでいた。


「……ごめんなさい、救急車呼んだから……でも、もう少しで来るからね」


 俺は、まだ鈍く痛む頭を押さえながら、口を開いた。


「……中村さん。……あの手紙……」


 彼女の動きが止まった。


「……あの、白い封筒で、俺に届いてた手紙。――あれを書いたのは……あなた、ですか?」


 沈黙。


 彼女は、少しだけ視線を逸らし、それから微笑んだ。


「……全部、思い出したんだね」


 その瞬間、記憶の中でぼやけていた彼女の姿と声が、はっきりと重なった。


 俺の父さんが会社でパワハラに苦しんでいた時、父さんだけが守ろうとした、あの女性社員。

 何度か家に来ていた、穏やかで静かな人。


 ――それが、中村さんだった。


「……やっぱり、あなた……」


 中村さんは、まっすぐ俺の目を見つめて、語り始めた。


「……私は、あなたのお父さんに、ずっと助けられてたの。何度も辞めようと思った。何度も、消えたくなった。でも、あなたのお父さんは最後まで私を守ってくれた。あの人は……とても、優しかった」


 彼女の目が潤んでいた。


「私、あの人のこと……好きだったの。――ずっと、ずっと、好きだったのよ。でもあの人は別の女性と結婚してしまった。とても辛かった。」


 俺は、言葉を失った。


「そしてあなたのお父さんは……亡くなってしまった。守ろうとして潰された。悪質なパワハラをした。彼が自殺した後でも当時神田誠司は何の責任も取らなかった。何も変わらなかった」


 声が、震えていた。


「どうして……誰も償わないの? どうして、優しい人ばかりが、消えていくの?だから私はあなたを使って復讐を決意した。」


「なんで俺なんだ……!」

 俺が声を荒げようとしたその時、中村さんは続けた。


「私は、あなたの気持ちが分かると思った。私も、すべてを失ったの。家族も、仕事も、生きる意味も。でも……優斗くんならわかってくれると思った。」


「……!」


「あなたのことを、ずっと見ていたの。誰にも頼らず、笑い方も忘れて、ただ生きてるだけのあなただけが……そしてやり遂げてくれた…!私たちの復讐を…。」


 俺は、身を強張らせた。


「……本当は近々田舎で、ひっそり暮らそうって思った。二人で……誰にも知られず、過去を忘れて、生きていけたらって」


「……そんなの……」


「でも……ごめんね。あの時から、あなたの中にある怒りや、痛みを、利用してしまった。……最初は、ほんの少しの気持ちだったの。でも……止まらなかった」


 俺は震えながら立ち上がり、壁に手をついた。



「週に一通、時には二通……。白い封筒。癖のない文字。最初は、慰めの言葉ばかりだった。だけど、徐々に変わっていった。神田誠司という男を、憎ませるように……あなたの中の何かを、塗りつぶすように」


 中村さんの手が、かすかに震えていた。


「あなたを苦しめ変えてしまったのは他でもない私よ。優斗くん……本当に、ごめんなさい」


 その謝罪の言葉が、まっすぐに響いた。

 でも、それはもう遅すぎた。


 俺の心には、あの日の“ざわつき”が、まだ残っている。


 そしてその正体が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 あの日――俺は、何をしたのか。


「……もう、手紙は出さないでください」


 俺はそれだけを告げて、背を向けた。


 背後で、中村さんが涙をこらえるような音がしたが気にせず家を飛び出した。







 7.桜の木の下で


 夜の空気が、肌に冷たくまとわりつく。

 俺は無意識に家を飛び出していた。


 全てを、思い出してしまった――

 あの日のこと。

 父が壊れていった理由。

 母が病に倒れ、息を引き取った日。

 そして、俺が……あの日…あの公園で…。


(……どうして……)


 自分の手が震えていた。

 走る足は重く、呼吸は浅くて苦しかった。

 それでも止まれなかった。


 行く先は、桜崎公園。

 この物語の終わりを迎えなければならない場所。

 今日ここへ来るように、ゆりにはすでにLINEで呼び出しをしていた。

「桜の木の下で待ってる。」

 それだけを送った俺に、ゆりは「分かった」とだけ返してきた。


 まだ来るには時間がある。

 俺はひと足先に、桜の木の下に到着した。


 月明かりに照らされたその木は、散春の花こそなかったが、どこか静かで、そして――懐かしかった。


(桜が散り始めている……あの写真とは少し違っている桜……)


 夜の桜は、昼間とは違う顔を見せていた。

 静かで、淡く、どこか切なく――美しかった。


 俺は一人、桜の木の下に立っていた。

 記憶がすべて戻った今、ここに来るしかなかった。

 ここで、ゆりにすべてを話すつもりだった。


 ……でも、その前に現れたのは――


「……やっぱりここにいたんだな」


 背後から聞こえたその声に、体が凍りついた。

 

 振り返ると、そこにいたのは――渡辺薫だった。


 制服のまま、息を荒げて。

 そして、右手には……ナイフが握られていた。


 優斗「薫……?」

 薫「ゆりは俺の女だ…!!」


 薫の目は真っ赤で、涙さえ浮かべていた。

 だがその手は、確かに俺を傷つけようとしていた。


 優斗「薫……やめろ」


 薫「テメェだけはゆるさねぇ!!!よくも俺の女を!!」


 叫んだその瞬間、薫が飛びかかってきた。

 俺は咄嗟に身を引き、地面に倒れ込む。

 桜の花びらが、舞った。


 優斗「復讐して……何が残るんだよ!!」


 俺の声が、夜の公園に響いた。


 優斗「俺は……俺は、間違ってた。

 ゆりを傷つけて、取り返しのつかないことをした。

 でも、だからこそ、俺はそれを償いたいって思ってるんだ」


 薫の動きが、わずかに止まった。


 優斗「復讐なんかじゃ、何も報われない。

 俺は……もう二度と、誰も傷つけたくないんだ……!」


 沈黙が訪れる。


 風が吹き、桜の枝が揺れた。


 薫はその場に立ち尽くし、ナイフを握る手を震わせながら、目を伏せた。


 薫「……それでも、俺は……お前を……!」


 殺される…そう確信した。


 次の瞬間、静かに、足音が近づいてきた――


「動くな!!」


 鋭い怒声とともに、薫の腕が後ろから力強く捻じ上げられた。


「なっ――!?」


「警察だ。ナイフを捨てろ!」


 男の声と共に、薫の身体は地面に押さえつけられる。

 手からナイフが離れ、カラン、と音を立てて落ちた。


 

 取り押さえた男は――


 あの桜の木の下で出会った刑事さんだった。


「……あなたは」


「すまなかったね、優斗くん。張ってたんだ、君を」


 彼は薫の腕に手錠をかけた。


「……離せっ!!なんで、おれが……!」


 薫はなおも抵抗を見せるが、男は静かに言った。


「君の気持ちは、わからないとは言わない。

 でも、その怒りを人にぶつけた時点で、もう正義じゃないんだよ」

 その言葉は俺の心に刺さった。

 俺は立ち上がり刑事に伝える。

 

 

 

「俺がゆりを突き落としました。」















 刑事は、応援を呼び他の警官に薫を預けた。そしてゆっくりと俺のそばに来た。


「優斗くん。……少し、話をしよう」


 夜風が吹き抜ける。

 桜の木が、静かに揺れていた。


 ――その花の下で、俺は、刑事に自分の罪を話した。


 静かだった。


 風が吹いて、花がひとひら、地面に落ちた。


 刑事はしばらく黙って俺を見ていたが、やがてポケットから小型の無線を取り出しかけた。


「正直に話してくれてありがとう。……だが、これはもう、俺の裁量ではどうにもならない」


「……はい」


 俺は静かに頷いた。

 もう逃げるつもりなんて、ない。


 だがその瞬間――


「やめてくださいっ!」


 息を切らし、車椅子を押して現れたのは、ゆりだった。


 刑事と俺、両方の視線が彼女に向けられる。


 刑事は驚いた表情を見せたが、ゆりの真剣なまなざしを見て、少しだけため息をついた。


「10分。それ以上は、待てない」


「ありがとうございます。刑事さん。」


 刑事が少し離れた場所へ移動し、背を向けた。


 













 桜の木の下、終わりかけの春の風が吹いた。


「……ゆり」


 桜の木の下で、俺は静かに口を開いた。


「――ごめん」


 その言葉は、まるで喉に刺さった棘を抜くようだった。


「全部、俺がやった。お前を、あの階段から……突き落としたのは、俺だ」


 ゆりは黙って俺を見つめていた。逃げ場なんてなかった。だから俺は、すべてを語るしかなかった。


「事件の日……俺はお前を尾行して、階段の前で立ち止まったお前の背中を……押した」

──あの日の記憶が、鮮やかに蘇る。


 桜が咲く前の、冷たい午後だった。


 俺はいつものように、白い封筒をポケットに入れたまま桜崎公園を歩いていた。

 ゆりの姿を見つけたのは、あの石段の上だった。制服のスカートが風に揺れていた。


 俺の胸の中には、怒りと悲しみが渦巻いていた。

 “神田誠司の大事なものを奪え”──

 その言葉が、頭の奥にこびりついていた。


 気づけば、背中に手を伸ばしていた。


 次の瞬間、ゆりの身体は重力に引かれ、階段を転がり落ちていった。


 

 怖くなり逃げ出した。

 道路を飛び出した瞬間。俺の視界は暗転した。


 あの瞬間、自分が何をしたのか、ようやく理解した。


 でも同時に、強く頭を打った俺自身も、そこで記憶を失った。


──それが、真実だった。


「……全部、俺のせいなんだ。謝って許されることじゃないのは分かってる。……でも……謝りたい。」


 震える声で、心の底から、俺は何度も頭を下げた。


「ごめん……ごめん……本当に……!」


 やっとわかった…。

 ゆりのことを考えるとずっと胸がざわつく。

 これは恋心だと思っていたけど違う。


 これは罪悪感だ。

 ゆりという人間を知ろうともせず命を奪おうとしたこと


 取り戻した記憶、ゆりの言葉、そして、あの日の自分。

 どれもが鋭利に心をえぐっていた


「私ね、気づいてた。犯人が、優斗くんだって」


「……え……?」


「突き落とされた瞬間……あのミサンガが見えたの。

 だから優斗に“ミサンガ見せてもらった時確信しちゃった。」


「じゃあ、どうして……」


 ゆりの目に、涙が浮かんだ。


 その唇が、微かに震えながら、ぽつりと言葉を紡いだ。

「……私ね、あの日、あの場所で突き落とされた時……」

 少し間を置いて、続ける。


「初めて、“生きたい”って思ったんだよ」


「……え?」


「それまでは、ずっと死にたいって思ってた。

 家庭も苦しくて、誰にも言えなくて、孤独で……

 もう、全部やめようって思ってた」


「でも、あの瞬間――落ちる瞬間に、“怖い”って感じた。

 “死にたくない”って、心から思った」

 

 俺の胸が、締めつけられるように痛くなった。


「……ごめん」


「もう謝らないで」


 ゆりは、そっと俺の頬に手を添えた。


「だって、あの日死ななかったおかげで、

 こうしてあなたと出会えたから」


 俺は何も言えなかった。ただ、泣きたかった。

「だからね、優斗くん。あなたが背負ったもの、私も一緒に背負いたい。

 苦しいことも、全部、分け合っていけると思ってる」

 

 涙がこぼれた。俺のも、ゆりのも。


「当時の俺は、ゆりという“人間”を何も知らなかった。

 ただ、“神田誠司の娘”という存在としてしか見てなかった」


「……」


「でも、それでも……やっていいことじゃなかった。

 人として、絶対に越えてはいけない一線だった」


 ゆりは静かに、俺の言葉を受け止めてくれていた。


「だけど今は違う。……お前が、どれだけ優しくて、

 どれだけ苦しみながらも前を向こうとしてるか、俺は知ってる」


「……うん」


「だからもう……殺したくない。

 生きていてほしい。幸せになってほしいって、本気で思ってる」



 俺は拳を握りしめた。


「今は……ただゆりに触れたい。心から、そう思えるんだ」


 

 そしてゆりがそっと俺に、短く、でも深いキスをくれた。


「ちゃんと償っておいで。待ってるから」


 その言葉を聞きながら、刑事が静かに近づいてきた。


「このミサンガ、ゆりが持ってて。」


 ミサンガを渡し、背を向けて歩き出す。


 そのとき、背中に声が響いた。


 






「優斗くん!」


 振り返ると、ゆりが泣きながら叫んでいた。


「ずっと、ずっと待ってるからね――!」


 桜が、舞っていた。


 俺の背中を押すように。


 その涙と叫びを胸に刻みながら、俺は前へ進んだ。

 過ちを背負って――それでも、未来を信じて。


 

 ゆり、愛してる。




 あれは、まだ入院していた頃のことだった。


 中庭で、本の話をしていたとき。

 夕暮れが近く、風が少し冷たくなってきたころ。


 優斗くんが、ふと、ポケットから何かを取り出した。


「……これ、事故現場で見つけたんだ」


 差し出されたのは、ちぎれたミサンガだった。

 くすんだ赤と青の編み込み。結び目の片方が裂けている。


 どこかで、見たことがある気がした。


 でも、思い出せない――そう思った、そのときだった。


 頭の奥に、あの日の記憶が浮かんだ。


 暗い夜だった。

 私は階段の上にいて、ひとりで立っていた。


 背後に気配を感じ、振り向いたときにはもう遅かった。

 背中に、誰かの手のひらが触れた――その瞬間。


 落ちていく一瞬の中で、私は“それ”を見たのだ。


 赤と青のミサンガ。


 夜の光の中で、確かに手首に巻かれていた。


 その色、その形、その傷んだ結び目――

 優斗くんが持っていたそれと、まったく同じものだった。


 胸が一瞬、締めつけられるように痛んだ。


 優斗くんは、あの日――あの場所にいた。


 いや、それだけじゃない。


 彼が、私を――。


 でも、不思議だった。


 怖くなかった。


 怒りも、なぜか湧かなかった。


 ただ、胸の奥が、静かに痛んだ。

 彼の悲しみが、伝わってくるような気がして。


 その日私は知ってしまった。


 彼は、生きたいと思うきっかけをくれた人

 

 彼が、犯人だったことを。


 彼が、誰よりも優しく苦しんで生きてきた人であることを――。


 私は、そっと微笑んだふりをして、何も言わずにそれを返した。










 あれから一年。


 あの日、彼は自ら罪を認め、警察へと向かった。

 私はその背中を見送ることしかできなかった。


 あの背中は、あの時とは違ってまっすぐで、どこか誇らしくも見えた。


 


 春がまた、やってきた。


 


 今年も桜が咲いた。

 あの桜崎公園の、満開の桜の下。


 


 私は、歩いている。

 もう車椅子じゃない。時間はかかったけれど、私はちゃんと、自分の足でここに立っている。


 青空に咲く桜が、風に揺れていた。


 優斗くんと見た、あの桜。


 泣いたことも、笑ったことも、全部、この桜の下にあった。


 ふと、ポケットに手を入れる。

 中には、あのちぎれたミサンガ。


 今でも大切に持っている。

 彼の優しさの証だから。


 

「……いつかまた一緒に見れたらいいね」


 誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。


 彼が戻ってくる日まで、私は生きていく。

 前を向いて。

 歩きながら、待ち続ける。


 


 たとえこの想いが報われなくても、

 たとえ彼が二度と戻ってこなかったとしても――


 私は、待ち続けると決めたのだ。


 


 この桜の木の下で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ