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2カラスの住処


先程からカラカラと車輪が回る音だけを聞いている。

日が落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。星影と細い月明かりの他は、車引きが握り込む支木に下げられた小田原提灯の灯りだけが頼りの、心もとない道中だ。千代は闇の中をポツポツと灯すそれらの光を頼りに、どこをどう走っているのか探ってみたけれど、町中から外れたところだということしか分からなかった。


ゆらゆらと揺れる提灯が生み出す陰影の不気味さにマントを掻き合わせると、摘み立ての花のような香りがして胸の奥がそわそわする。

それは「冷えるでしょうから、これを」と言って青年が貸してくれた、あのカラスみたいな黒いマントだった。それを肩にかけてもらった瞬間も、この洒落た香りがふわりと漂って、ひどく落ち着かない気持ちがしたのを思い出す。


あの時、戸惑いながらも礼を言う千代に彼は柔らかく笑って返した。

実際には方々へ伸びた髪と髭の間から目元が僅かに見える程度だったが、それにしたって細められた目が実に優し気で、好ましいとさえ思った。

今、あの時の瞳を思い返しても、ひとりでに頬が熱くなる。


「話は私からしておきますから、安心してお乗りなさい。ああ、申し遅れました。私は賀茂雷矢。雷の矢と書いて、らいし。どうか貴女には名前で呼んで頂きたいな」

「…らいしさま」

「はい」と彼は、くすぐったそうに笑って返事をした。

「私も、千代さんとお呼びしても?」

彼の話し方は甘い色を帯びていて、むさ苦しい見た目に似合わない軟派な雰囲気があった。だから躊躇する気持ちもあったのに、頷いてしまったのは何故だろう。

「では、また後程お会いしましょう。千代さん」


知り合ったばかりの男性と名前で呼び合うなんて、ふしだらだと言われても仕方がないのに、彼の嬉しそうな笑みを見ると後悔の念も遠ざかった。

言葉を交わしたのも初めての人だというのに、こんな風に心が靡いてしまうのは、帰る場所を失くして心細いせいだろうか。


自身のことを「悪党でしょう?」と言ってのけた彼を、どうしたって悪い風に捉えることができないから困る。得体の知れない人だというのに、彼のことは信じてもいいとさえ思い始めている。根拠はない。でも、千代の胸の内がそう訴える。


物腰も物言いも優しくて柔らかい。目元にしたって感じが良い。

不安や恐ろしさを意識しようとしてみても、今までに感じた事のない温かくて甘いものが胸に込み上げてきて上手くいかない程だ。

千代は雷矢を擁護するようなことばかりに思考が偏っていき、好ましいと思う点ばかりを挙げていることに気付かないでいた。


本当はもっと警戒すべきなんだろう。

けれど、極わずかの間に状況が変わり過ぎたせいで、千代は自分が置かれている状況がどこか他人事のように思えてならなかった。

そうでなければ、たった一人でこんな暗がりを見知らぬ車夫が引く車に乗って、知らないところへ連れていかれるような真似はできなかった。

気付かぬうちに夢でもみているのではいかと考えたのは自然なことだった。


夢ではないかと思えるのは、目の前の車夫にも原因がある。

そもそも、車夫と言うにも憚られる少年だからだ。

随分と線が細い紅顔の美少年。その彼が車を引くと聞いて、千代はまず遠慮した。腕力も脚力もあるように見えなかったのだから仕方がない。

心外そうにする少年の手前、遠慮しきれないものがあって、もし駄目なら一緒に歩こうと考えて乗ったのだが、彼は見た目を裏切るような力強さで危なげなく車を走らせている。それも、驚く程の早さでだ。


少年は雷矢から借りたものとよく似た黒いマントを羽織っていた。

ひらひらと靡く布地が揺れる提灯明かりに照らされる様は、まるで闇夜を飛ぶカラスの羽のようで、知らぬ間に幻想世界へ誘われているかのような想像をしてしまう。

おとぎの国へ向かっていると言われても信じてしまいそうだった。


傾斜のついた道をいくつか折れ曲がり、一体どこを走っているのか場所の検討がすっかりつかなくなった頃、千代は急に無数の提灯に照らされた。

道に立てられた鳥居のような木枠の上方へ高張提灯が横並びに配されていたせいだ。その様は、千代が子供の頃に父に連れられて見た祭り支度に似ていた。

車は提灯の門を潜り、軒を連ねる民家の前を走る。そのどれもが道に提灯を出してあるから、家々の様子が良く見えた。


どの家も新しそうな家ばかり。

まるで、一つの村が集団で越して来たのではないかというような印象があった。

鉱山か、はたまた何かの製造業かを運営している一帯なのだろうか。

近代化にあって、新しい町や村ができているところも珍しくはないのだろう。


とはいえ、そうした場所なら夜でも機械の稼働する音や人の往来があるものだ。

煙突の煙も感じなければ、耳を澄ましてみても人の声や機械が動いている音も聞こえてこない。綺麗な家々が、しんとした静けさの中にあるのは、不思議な心地がした。

本当に別世界へ来たのではないかとさえ思う。


車はやや速度を落としながら家々の前を通り過ぎ、石垣を積んだ坂の上の一等立派な屋敷の前で止まった。

少年は静かに車を止めると支木をそっと下ろし、マントを後ろへ優雅に捌きながら「着きましてございます」と千代へ恭しく手を伸べてくる。

「……ありがとうございます」


戸惑いながらもそれへ手を重ねて車を降りると、示し合わせた様に屋敷の門が開いた。中から滑るような足取りで現れたのは、雷矢や少年が着ているものと似た黒いマントを羽織った青年で、彼もまた大変な美青年だった。

顎のあたりで綺麗に切りそろえられた黒髪をさらさらとこぼしながら、彼は千代へと美しい一礼で迎えられる。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


言葉も態度も丁寧なのに、それがどこか慇懃無礼に感じられた。

嫌々ながら相手をしているという感情と、隙あらば虐めてやろうという感情がみえる。千代は己の経験から、悪意を抱いている相手の視線には敏感だった。

急に不安になって、お辞儀を返しながらもマントを掻き合わせて言う。

「ここで雷矢さまをお待ちしてはいけませんか?」


彼は綺麗な笑みのまま一瞬ピクリと眉を動かした。

「寒空に嫁御を待たせたとあっては、大頭に叱られてしまいます」

言葉は丁寧なままだったが、声色は冷たい色を帯びた。

「それから、是非にお召替えをして頂きたい」

千代の恰好をみすぼらしいと思っているのを隠さない視線を向けられた。確かに、立派なお屋敷に上がるには、着古した地味な着物は相応しくないように思われて恥ずかしくなったし、惨めに思った。


賀茂雷矢という人は偉い方なのだろう。千代はその彼の嫁になるらしいが、目の前の美青年の態度からして歓迎されていないのが分かる。そうでなくても、何も持たず身一つで急に嫁入りしてきたような女を受け入れろと言う方が難しい。きっと目の前の彼の他にも納得できないという人はあるだろう。

早々に、この結婚の話は無くなるに違いないと千代は思った。


この先、どうしようか。

この屋敷へ、せめて使用人としておいてもらえないだろうか。

分不相応だと罵られ、卑しい身でと陰口を叩かれながら嫁でいるよりは、その方がいいような気がした。それに、この着古した着物だって許される。


「どうぞこちらへ」

青年は語気を強めて千代を促してくる。断るのは良くないのだろうと、目の前の青年に従うことにした。

彼は車が寄せられた場所から離れて、屋敷の裏手へと千代を導く。

表とは異なる意匠の檜皮葺屋根が立派な門を潜り、建物の隅の小さな入り口へ案内される。履物を脱いでおく沓脱石の向こうには、廊下ではなく昇りの階段が続いた。千代は先導されるままにそれを上がって、そしてすぐに別の階段を下った。


階下にあったのは板間だ。そこへ置かれた几帳を雪洞の灯りが淡く照らしている。

「まずは禊を」

当然のように帯へと手をかけようとした青年に千代は慌てて、その手を避けた。

禊という言葉に、几帳を立てた向こう側から湯気が立ち昇っていることに気付く。風呂があるらしい。湯浴みを男性に手伝われるなど、考えられない。


「一人でできますので」

そう断わってみるものの、彼は唇の端を引き上げた。

「ですが、作法がお分かりではないでしょう?」

千代はまた彼が伸ばしてくる手を避けた。

「どなたか女人にお願いできないでしょうか?」


目の前の彼は声を立てて笑う。

「あはは。この屋敷に女人はいませんよ」

その目が笑っていないから怖い。

「なに、気にすることはありません。我々は、おカラスさんですから」

「カラス…人ではないのですか?」


いよいよ、おとぎ話めいてきた。けれど、車に乗っていた間中、そうしたことを想像していただけに、何か突拍子もないことを言われたという気がしなかった。

むしろ、彼らの正体がカラスか何かの妖や天狗の類だった方が納得できる。

「人ではないと?いいえ、同じ人ですよ。ですが、男だろうと気にすることはないと言っているんです。あなたは本当に何もご存知ないんですね」

真剣に聞いた千代を彼は馬鹿にしたように言った。


マントを掻き合わせて首を振ると、彼は笑みを深める。

「では、こうしましょう。ほら、僕を見てください。あなたのようなお嬢さんたちは僕のような美しい容姿に目がないのでしょう?この僕が相手をしてあげますから、まずは着物を脱ぎましょう」

自信たっぷりに妖艶な流し目を送ってくる青年に、そんな誘い方ってあるだろうかと千代は思った。思っていたより、彼は子供なのかもしれない。

手を伸ばしてくる青年に頭をふりながら、そろりと後退した。


背後には何も無いはずなのに、トンと何かにその背が当たる。

肩へとポンと何かが触れて、視線をやるとそれは男のものらしい手だった。

「きゃあ!」

いつの間にか仲間が背後にいたのかと驚くとともに、逃げ場がない恐怖に陥る。


「千代さん、落ち着いて」

しかし、手の持ち主の声には聞き覚えがあった。

「らいしさま!」

味方だと分かった途端に膝から崩れ落ちた身体を、雷矢が支えて抱え上げる。


ほっとして彼の顔を見て、千代は固まった。

その顔が、先程見たものと随分と変わっていたからだ。

むさ苦しい髭も方々へ伸びた髪も見当たらない。

サラサラの黒髪と整った鼻梁、長い睫毛に縁取られた涼やかな目元の美しい顔があった。


その変わり様に、別人かと疑いそうなところだが、千代は車に乗る前に髪と髭の間から一瞬だけ見えた整った顔立ちは見間違いではなかったと思った。

これが彼の本来の姿なのだろうと何故かストンと納得した。

「…雷矢さま?」

そう呼びかけてみると「ああ、分かってくださった」と嬉しそうな笑みが返る。


キリリとした利発そうな顔が、あの髪と髭の間から見た時のように優しい笑みを描いたのを見て、千代の胸はまた高鳴る。好ましいという想いが止まらない。

「貴女に名前で呼ばれるのは、なんとも嬉しいものですね」

恥ずかし気もなくそんなことを言う男性を知らない。

「ただいま帰りました。千代さん」


期待するような彼の眼差しが刺さって、言うべきか迷った言葉を口にする。

「…お帰りなさいませ」

その途端に彼は心底嬉しいというように、顔をぱあっと明るくした。


「大頭。気持ち悪いったらないですよ。何ですか、その締まりのない顔…」

置き去りにされていた青年が眉間に皺を寄せて主張すると、ああそうだったとばかりに雷矢が青年へ視線を向ける。

「私の事はいい。弥山、私のお嫁さんを揶揄うとは、いい度胸だな」


弥山と呼ばれた青年は、悪びれもせずに笑った。

「揶揄ってなどいませんよ。大頭が困る前に、穢れ無き乙女か確かめる必要がありますからね。だって、皆が言うんです。下界の女など穢れていると。生娘かどうかの証明ができるまでは、皆、このお嬢さんを嫁御と認めはしないでしょうよ」


雷矢は「そうか皆が納得しないか」と呟くと「それなら私が確かめよう」と言い出すから、千代は我が耳を疑った。まさかと衝撃を受けている間に、雷矢は千代を抱えて几帳を回り、そこへ置かれていた厚畳へと下ろしてしまう。

「さあ、千代さん」


彼は生娘かどうか確かめるつもりらしい。

それって、でも、どうやって?と疑問に思いつつも、マントが剝ぎ取られたことからしても、嫁入り前の娘にとって恥ずかしい事に違いないと予想がつく。


千代は裏切られたのだと感じた。

まさかそんな無体を働く人だったとは。好ましいと思っていたのに。

優しくされてすっかり彼を信じていたのが悔しくなる。味方などいなかった。


誰も私の気持ちなど考えたりしないのだと思うと、千代は惨めでならなかった。

理不尽な状況と仕打ちに翻弄されて、悲しくて、辛くて、ずっと我慢していた溜まりに溜まったものが膨れ上がって限界を迎えた。

己の立場もすっかり頭から抜け落ちて、千代はとうとうバチンと雷矢の頬を打った。

「嫌っ!触らないで!」

そのまま堰を切ったようにわんわん泣いた。


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