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1カラスの青年


ガス燈が並ぶレンガの道。

パラソルを手に歩く洋装の婦人。

散切り頭がマントを揺らして乗り込む鉄道馬車。

西洋文化の吸収によってもたらされた華々しい文明の開化。


それらは人力の功績にほかならない。

貧しい山村の娘たちが女工として売買されるのも、近代化がもたらしたものの一つだ。

千代が育った大鳥家でも、先代が興した紡績工場で多くの女工を雇っていた。


赤レンガの工場の傍には女工たちの住まう長屋があるのだが、それが少しでも視界に入ろうものなら、叔母は決まったように千代へ軽蔑の眼差しを向けて言うのだった。

「お前の母も卑しい女工さ。孕まされたとか何とか騒いで、兄さんを揺すったに違いないんだ。でなけりゃ、お前みたいな子を引き取ったりしやしない。兄さんも厄介なことをしてくれたもんだ」

叔母だけでなく、親族中がそう思っているのを千代は知っていた。


ある日突然、大鳥家の当主が連れ帰った母親の知れない赤子。

それが千代だった。

以来、大鳥家当主の一人娘として育てられてきた。

しかし、もうすぐ十六歳になろうかという早春に、当主である千代の父・新太が亡くなったことで、千代の立場は変わろうとしていた。


葬儀の後、親戚一同が今後のことについて話し合うために集められた。

「どこの女が生んだとも知れない娘に、大鳥家をやれはしない」

「私は女工が生んだと聞きましたよ」

下座におかれた千代の耳など誰一人として気にも留めない。


「きっと新太さんが、責任を取るとかで引き取ったんだろう」

「それにしたって人が良すぎやしませんか?」

「ともすると新太さんの子かどうかも怪しい。新太さんは人が良かったから、あなたの子だとか言われて押し付けられたんじゃないか」

蔑むような冷やかな視線と声色が向けられる中で、千代はひたすら俯いて唇を引き結んでいた。


そこへ先代、つまりは新太の父である朔太が遅れて現れた。

朔太が上座に座ると、これまでの騒ぎがなかったようにシンと静まりかえる。

「千代」

朔太は十分な間をもたせてから、しわがれた声で千代を呼んだ。

「……はい」

一体、何を言われるのだろうかと思う。

今後の人生はこの人の言葉にかかっているのだと言う気がした。

返事をしたくなかったが、固く結んでいた口をどうにか開くことができた。


「うちのお得意様がな、お前さんをくれんかというてきておる」

この家を出て行けと言われていることを千代は理解した。

皆もそうだ。千代は皆の顔が意地悪くほくそ笑んだのを見た。

「行ってくれるな?」

もともと拒否権などないのだから、祖父は千代の返事を待たなかった。

「明日だ」

千代については、それだけで片づけられて終わった。

後は叔母の華子夫婦が家督を継ぐようにという話が手短にされ、早々と集まりは解散した。


「千代さんは、お爺様に売られたのでしょう?」

クスクスと笑いながら部屋に入ってきたのは、叔母の華子の娘、寿子だった。

派手な洋装姿の寿子の頭には、千代が大事にしていたリボンが結ばれている。

いつだって、寿子は叔母同様に千代を目の敵にしてきた。

最後の最後まで、一体どんな嫌がらせをしにきたのだろう。


「どこで働くことになるのかしらね。女工なら良いけれど、ともすると女郎になるのかも知れなくてよ。ああ、私、考えただけでも恐ろしい。でも、千代さんは、もとはそういう生まれですもの。分相応というものだわ。やっとあるべきところに落ち着くだけ。お爺様の采配はたいしたものね」


寿子は千代の文机に行儀悪く足を組んで座ると、千代が恐れていることを暴き立てる様に楽しそうな様子でぺらぺらと話しを始めた。

千代は無言で行李に着物を詰めて、嵐が過ぎるのを待った。

その態度が気に入らなかったのだろう。彼女は机から尻を下ろすと千代が荷造りをする手をピシっと叩いた。そうして意地悪く笑う。


「だめじゃない千代さん。今日からこの部屋は私のもの。ここにあるものも、私のものよ。まさか、勝手に持ち出すつもりじゃないわよね?それは泥棒だわ」

寿子は千代から何もかも奪うつもりのようだ。

「出て行ってちょうだいな?」

押し出すようにして部屋から追い出すと、音を立てて襖障子を閉められた。


もはや叔母夫婦の指揮下になった屋敷には千代の味方はなかった。

最後の一晩だというのに、千代は屋敷に入ることも許されなかった。

庭先で小さくなって座ったまま、暮れゆく空を眺めて過ごす。

心だけでなく身体まで次第に冷えてくる。


「お嬢さん」

ふと、低く優しい声が千代を呼んだ。


竹矢来の向こう側から千代に声をかけたのは、書生姿の青年だった。

彼方此方へ跳ねた伸び放題の髪の上に、学生帽が収まり悪く乗っていて、顔の半分を覆うような髭でその顔はよく見えない。

肩から引っ掛けた黒いマントがまるでカラスの羽みたいだ。


千代はその青年に見覚えがあった。

女学校の帰りに草履の鼻緒が切れて困っていた時の事、この青年がさっと履いていた下駄を差し出して、そのまま去って行ったことがあった。

見た目ほどに野蛮ではない。むしろ声色の通りに優しい青年だ。


「そこではお寒いでしょう。どうぞこちらへ」

なぜこんなにも、青年が親切にしてくれるのか千代には分からなかった。

声を聴いたのも、これが初めてのはずなのに。

不思議とどこか懐かしい気がしてくる。


「……ですが」

男女七歳にして席を同じゅうせずと言われているというのに、よく知りもしない男性の誘いに乗れば、世間に何と言われるか分からない。

「なに、遠慮はいりません」

青年はゆっくりした足取りで竹矢来を回って庭へ入ると、千代に手を伸べてくる。


これまでの千代なら、こんな誘いには絶対に乗らなかっただろう。

少しでも至らない言動や態度があれば、すぐさまそれが卑しい身分の証明だと言われることになるから神経を尖らせて生きて来た。

今となっては、いくら気を付けたところで、どうにも自分の評価が上がらないことは分かっている。


自分自身のことなのに、まるで他人ごとのように、どうでもいい気持ちになった。

どうせ、落ちるところまで落ちるのだ。


千代は思い切って青年の手を取った。

しんと冷えた指先が男の大きくて温かい手が包んだ瞬間に、これまでに感じたことのないぬくもりを覚えた。

世界が変わるような感覚さえした。


「やあ、小さくて可愛らしい手だ」

風貌に似合わぬ気障な物言いをして青年が笑う。少しも嫌な感じがしなかった。

壊れ物に触れるように、そっと手を包む仕草が優しかったせいだ。

千代はそれに何と返して良いか分からず、恥ずかしさに俯くしかなかった。


「表に車夫を待たせてあります。行先はすっかり告げてありますから、安心してお乗りなさい。少し早いですが、ここで凍えるよりは良いでしょう」

彼がどうして人力車を待たせていたのか、千代には分からなかった。

人攫いと言う言葉が一瞬頭を過ったが、こんな風に親切で物腰の柔らかな人攫いがいるだろうかとその考えを打ち消す。


「ですが私はここを離れるわけには。あの、明日に約束が…」

表へと彼が手を引いて誘導するのを、千代は引き留めた。そうしてみて、言いつけ通りにする必要があるだろうかとも思う。千代が裏切って、迷惑をかけるのが彼らだとしても、別になんの痛みもないではないか。


「行けない」の一言が、言えずに千代は黙り込んだ。

すると、青年は一度目を丸くしてホッと息を吐き、次には口元に拳を当てて、くつくつと上品に笑い始めた。そうしていると、むさ苦しい見た目を裏切るような気品があって、ちぐはぐな印象を受ける。


「それでは、貴女は全く知らないわけだ。ああ良かった。悲惨な顔をされているから、私はどうしようかと思いました」

青年は方々に伸びた髪と髭の間で、黒い目を細めて言った。

「貴女を明日迎えに来る予定だったのは私です。少し予定が早まったって良いでしょう?心配は要りません。早くお連れする旨を私からお伝えしておきますから」


青年は千代の手を引いて人力車の方へ歩きながら、驚くべきことを明かした。

親切そうな物腰の柔らかい青年こそが、千代を連れに来た本人だったとは。人買いの仲介人だろうか。保護でもするかのように言って、地獄へ落としに来るなんて。

「私はどこへ売られるのでしょう?」


覚悟をするために聞くと、「売る?」と青年は驚いたように聞き返す。

目を瞬かせて考えた後で「なるほど。それなら貴女を買ったのは私になるのでしょう。いえ、買ったなどと、表現したくはありません」と困ったような声を発した。


「強いて言うなら、攫いに来たのです」と力強く言い直して「いや、これにしたって、どうにも心証が悪い。私はやはり悪党のようだ」と諦めて笑う。

「攫いに、ですか?」

やはり人攫いだろうかと千代は思いかけたところで、自分を悪党だという悪党がいるだろうかと、困惑で考えがまとまらずにいた。

逃げることもせず、手を取られたままにしている。


しかし、彼は千代の困惑をさらに正反対に困惑させることを言った。

「そうです。貴女を私の嫁にするために、これから貴女を攫うつもりです」

「…お嫁さん?」


「ええ。とんだ悪党でしょう?」

楽しそうに彼は言って、千代の手を取り直すと、前を向いて歩き始める。

その時、むさ苦しい髪や髭の合間から、すっと通った鼻梁と整った顎の線が見えたことに、千代は胸が不思議と大きな音を立てて高鳴るのを感じた。


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