隻眼の目が閉じる時
蝉の声がけたたましい。空には入道雲が君臨。
外はうだるように暑いが、中学の図書室は夏休みでも冷房が入っていた。
中学三年になる幼馴染の光瀬薫子と佐原一芯は、夏休みの課題と、来たる高校入試の為の勉強に勤しんでいる。二人とも成績優秀だが、薫子は理数がやや苦手だった。
「一芯。ここ、教えて」
教科書を向かいに座る一芯の前に押し出し、シャーペンの頭で問題を指し示す。
一芯は自分の勉強の手を休め、薫子から押し遣られた教科書とノートを見た。
「……因数分解のちょっとした応用。薫子、頭良いのに、変なとこでつまずくよね」
「嫌味言ってないで教えろ」
「はいはい」
一芯は、青いフレームの眼鏡の向こう、細い左目を更に細くして、問題に見入る。右目は引き攣れた傷跡で閉ざされている。傷跡はともかく。
薫子は幼馴染の風貌をつくづくと眺める。
「あんた、殊更に美化されて巷に出回ってるわよね」
「そうみたいだね」
一芯は薫子のつまづいた問題を解き、且つ、解りやすい解説をノートに書き加えてやりながら、顔も上げずに答える。余り興味がない。
「実際に戦場で、……何だっけ、れっつ、パーティー? みたいなこと言ってたの?」
「言う訳ないでしょ。敵も味方もドン引きだって」
「じゃあ、刀をやたら何本も腰に差したりとか」
「それもないでしょ。非合理的。はい。出来たよ」
ノートと教科書を薫子に返す。薫子は、それらを見て、成程、と頷く。
「有り難う。あの兜、バランス悪くなかったの?」
「あれは縁起物だからって父上のごり押しで。特に不自由はなかったけど。バランス感覚は右目を失くしてから鍛えられたから」
薫子の目に罪悪感がよぎるのを見て、一芯はふ、と笑う。
「君は何も悪くないよ」
「…………この間、カツアゲされたって本当?」
「本当だけど」
「大丈夫だった? カツアゲして来た不良たちは」
「そこは僕を心配して欲しいところ」
「心配する要素がない。小十郎がいたら殺すでしょうし、成実がいても殺すでしょうし、あんた一人でも半殺しくらいにするでしょ」
「まあ……。刀使わずに殺さずに、って難しいよね」
一芯は一見、大人しい、真面目な学生だ。眼鏡も相乗効果となっている。
猫を被ることが多いが、その本性は猛る灼熱。
何となく、二人の手が止まり、意識が勉強から逸れた。
「……成実、泣いたらしいわよ。あんたが死んだ時」
「それが君の耳にまで届いたということは、あいつの失態だな。弱味は秘してこそなんぼだ」
薫子が図書室の歴史コーナーに目を向ける。その中に、確実に以前の一芯の名はあるだろう。
「――――死ぬ時、どう思った?」
「んーーーー。家は残ったしやれることは全部、やったし。『ふう、やれやれ』?」
「じいさんか」
「いや、あの年齢はおじいさんでしょ。我ながら、よく生き永らえたほうだと思うよ。命の綱渡りにひやひやする人生だった」
「幸せだった?」
「そういう価値観念で生きることは難しかったよ。まず生き延びるのが大前提。次に家、血脈、領地の確保。課題が多いよねえ。人取橋で死ななかったから、よし、まだいける、と思った」
「猿に阿呆なパフォーマンスまでして」
「言わないで。羞恥プレイだから」
「側室たくさん持ちやがって」
薫子が投げたシャーペンを、一芯は難なく受け留める。
「仕方ないって。家の為だったんだから。でも、君が産んでくれた子たちが、やっぱり一番可愛かったよ。五郎八とか、君によく似てたから溺愛」
「……あの子も政略結婚だったわ」
「……ごめん」
一芯が、身を乗り出した。
「薫子は、僕が死んだ時、泣いた?」
「教えない」
「ちぇ」
「弱味は秘してこそ、なんでしょ。あんたがさっさと死んだ後、八十五まで生きたあたしの身にもなってみなさいよ。家の行く末とか、子供たちの将来とか、見届ける責任感ですごく疲れたわ。あたしのほうこそ、『ふう、やれやれ』よ!」
「お互い大変だったねえ。――――――――君が、再婚しなくて良かった。今と同じ、栗色の髪は綺麗だったから、落飾したのは勿体なかったけど」
一芯の左目の柔和は、他の人間に向けられることはない。薫子は無意識に、自分のショートボブにした髪を触る。
「……今度は、前より長生きしてよ、一芯」
「薫子が僕のお嫁さんになってくれるなら」
今度はペンケースが一芯に飛んで来た。パシッと一芯の左手に収まる。
「そういう駆け引きめいたことやめろ。悪習直せ、莫迦武将」
昔の一芯を知り、そんなことを言ってのけるのは薫子くらいだ。
「薫子。物は大切にしないと。それに僕、文武両道って評判だったけど。もう少し、早く生まれてたら、会ってみたかった人もいたんだけどなあ」
悪い予感を覚えながら、薫子は低い声で尋ねた。
「――――誰」
一芯がにっこり笑った。
「織田信長公」
「……」
「信長公が死んだ時、僕はまだ家督も継いでない若造だったから、あちらとしては目もくれない存在だったろうけどね」
一芯が昔、師事していた和尚は、彼に家臣の前で横になる姿を見せるなと説いた。一芯はその教えを死ぬ時まで忠実に守った。
『ふう、やれやれ』
そう、思ったのは確かだが、薄れゆく意識の中、最後に彼の脳裏に浮かんだのは、数え年十二の幼さで嫁いできた、前の薫子の笑顔だった。また逢いたい、と思った。
落飾:貴人が髪を剃り落として仏門に入ること。