十一月の出来事・⑥
「こらあ」
一日の授業も終わった清隆学園高等部一年一組の教室に、勇ましい声が響き渡った。
「逃げようとすンなぁ、真鹿児ぉ!」
鋭い声に、終業の学活が終わると同時に、そっと教室から抜け出そうとしていた一人の男子生徒が首を竦めた。
鋭い声の主は、歴代最恐と名高い図書委員長、藤原由美子である。そして怪鳥の叫びのような声を聞いて首を竦めたのは一言で言うと「印象の薄い少年」であった。
背は高からず低からず、その面差しも十人前以下。不細工と断言できる程ならば、それはそれで特徴になるだろうが、そうでもなかった。特に鍛えていないのか筋肉量だってそんなにないが、卑下する程でも無い。姿勢が悪いのか猫背気味なのが特徴と言えば特徴なのだが、それだって日本人の平均からはかけ離れた物では無かった。
こうして由美子に怒鳴りつけられなかったら、その他大勢として一生他人の背景と通り過ぎていくだけの存在のような気がした。
彼は真鹿児孝之といって、この一年一組に所属する男子生徒である。天文部に所属し、愛読書は天文年鑑だったりする。
「くぉるぅおわあああ、ぬにぃぐぁすぅくあああああああ」
もう少しで教室を脱出というところで、彼の足は床に根を張ったかのように動かなくなってしまった。もしかしたら由美子の声には怪鳥のように、人を石化させる能力があるのかもしれない。
「ぐへええ」
動きの止まった孝之へ由美子は突進し、ガッチリと彼をスリーパーホールドに押さえ込んだ。
「あいてて」
ギリギリとコメカミを締め付けられて孝之は早くも降参の雰囲気であった。
「また始まった…」
教室の後ろで始まった、ここ一組で放課後を迎えるための儀式のような騒動に、教室最前列という居眠りが許されない席の海城アキラは、椅子に座ったまま振り返った。
もちろん一日の授業を終えたばかりであるから、いまは「女の子のようなもの」であるアキラも、紺色のブレザーの上下に同色のベストという清隆学園高等部の女子制服を身に着けていた。お洒落な女子の一部はこの「ダサイ」制服に反抗するようにカラーブラウスなどを合わせたりするが、アキラは学校指定である臙脂色のネクタイを緩めに締めている以外は、おおむね真面目な格好をしていた。
振り返ったアキラの視界には、昨夜の寝癖がまだピンピンと残っている孝之の頭を、右の小脇に抱えるようにして捕まえた由美子が入っていた。
寝癖の様子からすると、もしかしたら印象が薄いのを逆手に、授業中に居眠りしていたのかもしれない。
アキラと由美子とは、この一年一組で同じ班に所属するクラスメイトという関係である。そして仲良く(?)じゃれ合っている由美子と孝之は、各クラスから男女一人ずつ選出される図書委員という関係であった。
既述の通り、由美子は委員長という肩書を持つほど熱心に委員会の仕事をこなしていたが、孝之はそれとは正反対に、所属する天文部の方ばかりかかりきりになっていた。
そのせいで毎日のように、委員会をさぼろうとする孝之に、由美子が掴みかかるという騒動が起きるわけだ。
コメカミを絞められたまま、孝之はやる気のない声で喚くという、不思議な芸を披露した。
「いやいや藤原さん。子供に強制する事は教育上良くないよ。やはり自発的行動って奴に…」
「その自発的行動があてになンねえから、こうして苦労してンだろうが! ふん!」
「いだだだだだだ」
バンバンと自分を締める由美子の腕を叩いてギブアップを宣言するが、もはや彼女には許す気が無いようだ。腕の力は緩められるどころか増すばかりであった。
「また騒いでるの?」
騒動から距離を置くためか、アキラの席まで『学園のマドンナ』である佐々木恵美子が寄って来た。
「毎日飽きないもんだ」
「まったく」
アキラの感想に恵美子の反対側から近づいて来た新命ヒカルが頷いた。ヒカルがアキラと同じクラスなのは偶然ではない。護衛対象は近くにいた方が便利だからと「明日のノーベル賞受賞者のその候補」として大人に色々無理な注文ができる明実が手を回したからだ。
「今日は子供の教育方針で揉めている様だのう」
その御門明実も同じクラスである。いつものように男子用制服の上から白衣を着て、教室後方で起きた騒動を見物する態勢だ。
一年一組においてアキラとヒカル、そして由美子と恵美子の四人で班を組んでいるので、学校生活では行動を共にすることが多かった。最初は護衛のために仕方なく高校生に扮していたヒカルも、半年以上も一緒に行動すれば、同じ班員の二人と会話する口調も砕けた物に変化していた。
スカートのポケットから柄付きキャンディを取り出すと、包みを解いて口へと放り込んだ。
「私にも頂戴」
めずらしく恵美子がヒカルに向けて手を差し出した。その掌を見おろしたヒカルは、ポケットをまさぐりながら訊いた。
「何味がいい?」
「何味があるの?」
恵美子の質問に、ポケットから三本ほどキャンディを取り出した。
「これは『シメサバ味』で、こっちが『デミグラスソース味』。これは…」
目を細めて三本目の包みを確認する。
「『チクワとコンニャクのピリ辛煮味』だな。どれがいい?」
「…」
恵美子は言葉を失ったようにヒカルを見おろした。一年生ながら剣道部でエースであるからか彼女は男子に負けない程身長が高く、かつヒカルは小柄なアキラと同程度の身長しかなかったから、身長差はハッキリとあった。大人と子供ほどには離れていないが、男女差ほどにはあった。
恵美子は沈黙だけで「よくそんなキワモノな味ばかり集めることができるわね」と表現していた。
「ちなみに、いま嘗めているのは?」
恵美子の質問に、反対側のポケットに突っ込んでいた包みを取り出した。
「コーラ味…、じゃなかった『ダイエットペプシ味』だった」
「それが一番甘そうね」
「そうか? じゃ、ホレ」
ヒカルは咥えていたキャンディをひょいと恵美子の口元に差し出した。
一瞬だけキョトンとした恵美子は、まるで雛が親鳥から餌を貰うかのようにキャンディに飛びついた。
「…、あま~い」
甘味にニッコリと頬に手を当てる恵美子。ヒカルはポケットから出した三つの中から『デミグラスソース味』の包みを解き始めた。
「? なんだ?」
そこで初めて、席に座ったままのアキラが何か言いたそうな顔で見上げている事に気が付いた。
「いや、なんでも」
フイッと視線をずらすようにアキラはソッポを向いた。
「あ、やだ。ごめんなさい」
慌てて恵美子が謝罪の言葉を口にした。
「あ?」
意味が分からないとヒカルが眉を顰めるのを見て、恵美子は楽し気に言った。
「ヒカルちゃんとの間接キッスに嫉妬したんでしょ?」
「そ、そんなことあるか」
アキラは間髪入れずに言い返したが、あからさまに声が震えていた。
「ごめんね。返そうか? ヒカルちゃんのキス」
恵美子は口の中からキャンディを取り出すと、それを持ったままの手でアキラの顎先を摘まむようにして顔を固定した。あからさまに唇をすぼめると、顔と顔とを近づけてきた。
「~~~!」
「をーい」
アキラが声にならない悲鳴を上げていると、教室の後ろから由美子の声が飛んできた。
「コジロー。あたしゃ、このままコイツを図書室に連れてくから、荷物お願い。おら、いくぞ」
「まってまって。流星の観測条件がずれちゃうから、天文部へ行かせて」
「コッチは記念図書館からリクエストされた蔵書が準備できたって連絡があったンだよ。運ぶのに人手が必要なんだ」
ギリギリと締める音が聞こえてきそうな雰囲気であった。
「降参! 降参するから!」
どうやら今日は由美子の剛腕が勝ちを得たようだ。
「じゃ、コジローおねがい」
「オッケー」
恵美子は気安くアキラを解放すると、指で丸を作って了承のサインを出した。
「じゃ、キャンディありがと」
恵美子は茶色い球へキスをするような仕草をしてから口へ放り込むと自分の席へと戻っていった。そのまま机にかかっている通学用のバッグを二人分回収して、ズルズルと廊下へと引き摺られて消えていく孝之の足先を追っていった。
「…」
「なんだよ」
湿り気がある視線で睨まれているように感じたアキラが、ヒカルに訊ねた。ちなみに明実は教室の窓から遠くに見える富士山を眺める振りをしていた。
「なんでもねえ」
明らかに腹に一物ある声でヒカルはこたえた。
「…」
今度はアキラがヒカルへ視線をやった。
「なんだよ。おまえも欲しいのか? 欲しかったらやるぞ」
黙って座ったまま見上げて来るアキラに、ヒカルは別のキャンディをポケットから取り出して言った。ちなみに包み紙に書かれているテイストの項目に「湯豆腐味」とあるのは、何かの見間違いであって欲しかった。
「あ、いたいた」
微妙な雰囲気で二人が見つめ合い、一人がソッポを向いていると、廊下から声がかけられた。
見ると下校しようとする生徒たちの流れに逆らうようにして、大人の女性が教室へ入って来るところだった。
第一印象は二十代後半と思われる背の高くスタイルがいい女性であった。一番の特徴は先が床に届きそうなほど長く伸ばした亜麻色の髪である。切れ長で宝石みたいな碧眼といい、よく通った鼻梁といい、純粋な日本人ではなく、かといって一〇〇パーセント欧州人というわけでもなさそうだ。輝く碧眼の中心には青い炎が揺らめいているような光があった。
高校の教室に現れた大人と言っても別に不思議ではない。この人物は一年生の英語を担当している教師であるからだ。
高校教師らしく濃い紺色に桃色をしたピンストライプというシックな色をしたパンツルックのレディススーツを完璧に着こなしていた。
ヒカルが親の仇を見るような目つきで、この国籍不明の美人を睨んだ。一年一組にこの女教師が顔を出すこと自体は珍しいことではない。名前は松山マーガレットといい、一組の英語の授業も受け持っているし、なにより副担任だった。
アキラの視界の隅でゆっくりとヒカルの右手が動いた。後ろ腰に回しているウエストポーチ風の物に手がかかった。
「クロガラス…」
ヒカルが憎々し気に呟いた。クロガラスというのは松山先生の裏世界での名前だ。正体は自らに『施術』を施し不老不死の身体を『構築』した『施術者』である。
クロガラスは、二人にとって仇敵に近い存在であった。彰がアキラとなってしまった交通事故を起こしたのも、世界中を一緒に旅をする仲だったヒカルの『施術者』を殺害したのも、長年『施術者』として生きて来たクロガラスの手によるものだったからだ。
その理由は簡単だ。『施術者』が増えると天使に発見されやすくなるからだ。クロガラスは『施術者』が一人か二人で居るならば探知されにくいが、五人ほどの集団となると天使に探知され襲撃される事を経験的に知っていた。よって予防措置として天使よりも倒しやすい『施術者』を狩っていたのだ。
だが天使が降臨してしまった今は同盟を組んで、一緒に天使と戦う仮の仲間であった。もちろん今日いきなり趣旨替えをして『施術者』を全員片付け、ひとり逃亡に走るかもしれなかった。ヒカルの警戒にはじゅうぶん理由があった。
「松山センセ、なんのようです」
ヒカルほど抵抗が無いアキラが、他のクラスメイトに挨拶を返しているクロガラスへ声をかけた。アキラにしたって自分自身の仇であるから心の底から信用しているわけでは無いのだが、まだヒカル比べればマシであった。
「何だと思う?」
教壇に上がってきてアキラの席を見おろしたクロガラスは、十代でも通じそうな無邪気な微笑みを二人に向けた。
「どうせ、ろくな話しじゃないんだろ」
利き手を後ろ腰に回したままヒカルは不遜な態度で言った。
「…」
クロガラスは、ちょっと驚いた風に表情を作って見せるが、内心面白がっている事が目尻に現れていた。
そのキラキラ好奇心を浮かべた表情のまま、クロガラスは右手をスーツの内ポケットへ入れようとした。途端にヒカルがマジックテープをベリリと剥がす音が教室に響いた。
次の瞬間には銃把だけ顔を覗かせた黒い自動拳銃に手がかかっていた。
「こんなところで物騒な物を取り出さないでよ」
まるで悪だくみをしているように、表情は笑顔で固定のまま、三人にだけ聞こえる音量で囁いて来た。
「せんせー、じゃーねー」
傍から見ていれば、にこやかに先生と生徒が語り合っているように見える。水面下で殺気が交差しているなんて夢にも思っていないクラスメイトが、教室の扉から振り返ってクロガラスへと別れの挨拶を飛ばして来た。
「寄り道しないで帰るのよ~」
クロガラスも機嫌よく、その女子生徒に手を振って見送った。
「で?」
いいかげん教室に残っているのはアキラたち三人になっていた。これならば内緒話も気を遣わずにできようというものだ。
明実に水を向けられたクロガラスは、あいかわらず信用のおけない笑顔のまま、ゆっくりと動き始めた。
「早とちりして撃たないでよ」
「早とちりじゃなくても、おまえに鉛弾を喰らわせたくて、ウズウズしてるぜ」
しかし黒い自動拳銃はまだホルスターから抜かれてはいなかった。
「相談があるのよ、三人に」
クロガラスが内ポケットから取り出したものは、小さな置物であった。
一見すると地方の土産物店で取り扱っているような物である。本体は球形をしていて、それに台座がついている。透明な球体の中には親指の先ほどの大きさをした丸太小屋の模型が雪に埋もれていた。
引っ繰り返すと球体内部の白い粉が、満たされた透明な液体の中でキラキラと雪が降りしきる様子を再現する、世間一般で言われるところのスノードームと呼ばれるオモチャであった。
「これが?」
アキラはこのスノードームの正体を知っていた。クロガラスが天使の襲来を察知するために使用する『天使発見器』だ。
小さな丸太小屋の上で、ピエロを模ったと思われるヤジロベエが踊っていた。
このヤジロベエが強く反応しだしたら天使が襲ってくる兆候である。いまは丸太小屋の上で何回か旋回をした後に、教室の窓を指差すという大雑把な反応しか示していなかった。
ただ完全に無反応というわけでも無いので、やはり『天使』は、近くに潜伏している物と思われた。
「ね、反応はしているのよ」
「気になるなら、指差す方に行ってみればいいじゃねーか」
ヒカルがフンと鼻を鳴らすと、突き放すように言った。
「先生ひとりで行くの?」
目を丸くしてクロガラスは言った。
「女の細腕じゃあ、ちょっと荷が重いと思わない?」
「どこが細腕だよ」
ヒカルが言い返した。見た目は高校教師というよりモデルのような体型なので、たしかに細腕という表現は間違っていない。ただ忘れてはならない『施術』で『構築』された不老不死の肉体は、常人では出せないような膂力を出すことができるのだ。
「わざわざ藪をつついて蛇を出すこともあるまい」
明実も否定的な考えのようだ。
「ここにおるのはセンセの他にアキラとヒカルだけ。他の二人を呼び寄せてから探索するなら分かるが、戦力が半分以下のいまは無視する方が妥当ではないか?」
「あら? そう?」
クロガラスは別の意見のようだ。
「前に戦ったダメージがまだ向こうには残っているかもよ。それなら三人でもじゅうぶんじゃない」
「うむ、やはりパスじゃな」
白衣に通した腕を明実は組んだ。
「オイラたちはこれから予定が詰まっておるのだ」
「あらそお」
自分の意見が通らないと諦めたのだろう、クロガラスはあっさりとスノードームを内懐へと戻すと、もう興味が無いとばかりに身を翻した。
「じゃあ、寄り道しないで帰るのよ」
ガララッと幅のある金属製シャッターが上へと上げられた。外の光がコンクリート面に差し込む。その切り取られた四角い太陽光の中に四つの影があった。
「もとはメッキ工場なの」
シャッターを開けたのは、ピンク色のサロペットスカートに淡い桃色のブラウスを合わせた女性だった。長い髪を両耳の上でお団子にしており、お化粧は控えめであった。
パッと見て近所の不動産屋の看板娘が知人の相談に乗って物件を紹介しているという雰囲気である。
「金属加工品なんかを流れ作業でクロムメッキしたりしていたみたい」
「だからこの臭いか」
その説明に納得するように、人より高い鼻をハンカチで覆ったのは、清隆学園高等部の制服の上から白衣を着ている御門明実であった。
彼の反応はもっともであろう。建物全体にメッキ処理の時に使用する酸っぱい薬品の臭いが染みついていた。
「広さはなかなかだな」
案内の女性に続いてシャッターをくぐった空楽が、室内を見回した。しかしガラーンとして何も無い、まるでガレージのような空間だけがあった。床面には様々な機器が配置されていた名残とばかりに、不規則不連続な凸凹や、立ち上がったところで断ち切ったような配管などがあった。
「これはいい物件だな」
まず背後を確認してからヒカルも薄暗い室内へと入って来た。シャッターの前は荷物の搬出のためかちょっと広めの空き地がアスファルト舗装されており、中型トラックならばじゅうぶんに切り返しが出来そうだった。
経年劣化でヒビがアチコチに走っているソコに、いまは小型自動車と自転車が二台停められていた。小型自動車の方はヒカルがハンドルを握って明実を乗せて来たレンタカーだ。ここ最近、不動産物件を見て回るので駅のレンタカーを借りっぱなしにしていた。
自転車の方は、一台がドロップハンドルの速度が出そうなロードランナー。もう一台は日本の町中で見ないことが無いシティサイクル…、つまりママチャリだ。
敷地とトラックがバンバン走る道路との境目には低めのフェンスがある。フェンス際には手入れを何年もしていないような細長い植え込みがあった。
振り返って工場内を見れば、体育館と言うには狭いが、学校の教室よりも確実に広い空間である。
大きな製品でも取り扱えるようにか、天井の高さも相当ある。普通の民家ならば三階層分はあろうかという高さだ。床面積もガレージとして使用したら、中型車を三台入れても余裕がありそうだった。
「うっ」
ヒカルが短い声を上げて、踏み出した一歩を引いた。
足元の緑色に変色していたコンクリートの角が脆くなっており、ヒカルがかけた体重で砕けて砂になった。
「だいぶ建物としては傷んでいるな」
その感想に案内の女性が頷いた。
「先代の社長でメッキ工場は廃業、いまは空き家。土地建物の名義は社長の息子さんになってるわ」
「その社長の息子というのはどうしているのだ? 実家の工場をやるつもりは無かったのか?」
空楽が足を広げて立つ女性に訊いた。
「少子高齢化ってやつで、こういう町工場は後継者がいないのよ。ピコピコっとコンピュータを叩いて一獲千金の方が、いまの人たちに受けるから」
「ふむ」
空楽は納得したのかしていないのか、とても微妙に頷いた。
「よくこんな物件があるのを知っていたな」
ヒカルが感心したような声を漏らした。
「蛇の道は蛇って言うでしょ」
「この不動産のドコに蛇の道があるのか、後学のために教えて欲しいもんだ。サトミよ」
明実の質問に、案内の女性は髪型が崩れないように気遣いながら振り返り、ニッコリと笑った。
そう放課後になった途端に、サトミはこの姿で現れたのだ。そして男か女か会うたびに姿形が不定形であるが、サトミは普通の高校生のはずである。不動産物件の情報など持っている方が変であろう。
「うふ」
チョキをホッペに沿えて微笑んだ。そのままシャッター横にある鉄製の扉まで行き、さらにその脇にあるスイッチボックスで電源を入れると、だいぶ草臥れた様子で安定器がブーンと唸ってから、天井に設置されていた蛍光灯が回路ごとに灯っていった。
明るくなったおかげで元工場の奥まで見通せるようになった。
建築当時は白く堅固な床であったろうが、いまはアチコチに薬品のシミを広げた風化直前のコンクリートが広がっている。明かりも無しに歩き回ろうものなら、床の凸凹や配管の名残などに足を掬われる事は間違いなさそうだ。
手前の三分の二は高い天井まで何も無い。奥の三分の一には天井の鉄骨からぶら下げるようにして二階が設けられていた。それと二階の下には壁で仕切った部屋もあるようだ。
「メッキ槽を循環させるために、たくさんのポンプが設置されていたの。だから動力電源が引きこまれてるわ」
サトミはスイッチボックス横の大きな分電盤を開いて見せた。主幹のブレーカは一般家庭ではお目にかかれないような大きな物だし、そこから分岐している子ブレーカ一つ取っても大きな容量の物が並んでいた。
施設を撤去した時に手間を省くためだろうか、一本が親指ほどの太さがある黒い電線が三本で一組となりブレーカに繋がれたままで、分電盤を出たところで断ち切られていた。
「メッキ槽なんかの設備は、放っておいてお漏らしなんかしたら環境破壊なんていう生易しい物どころじゃない毒劇物だから、建物よりも先に片付けたってわけ」
かつて高度経済成長期に重金属を含むメッキ溶液が引き起こした公害などは、日本の学校制度では中学生程度で習うはずである。他にもメッキ前に行う洗浄には強酸を使用するし、この工場が現役だった頃は、しっかり管理していないと問題を起こす薬物だらけだったはずである。
「水回りも、外に受水槽があったでしょ。容積が大きな物よ」
サトミは建物の反対側を指差した。メッキした製品が仕上がった時に、溶液を洗い落とすために必要だったのだろう、太い水道配管が立ち上がったところで閉められたバルブが設けられて唐突に終わっていた。
「なるほど。至れり尽くせりじゃな」
制服の上から白衣を着ている明実が満足そうに頷いた。
「メッキ工場とは思いつきもせんかった」
「社長の息子さんは、光熱費は別に、敷金礼金はいらない。家賃は月に一万円で貸してくれるって」
「それは…」
疑うようにヒカルが下からサトミの顔を見た。
「まてまて」
何か言う前にサトミは手を振った。この好条件の裏にはヒカルが思うようにカラクリがあるようだ。やはり蛇の道は蛇なのだろうか。サトミの紹介という事を鑑みると、床下に死体の一つや二つ埋まっているのかもしれない。
「ただし借りられる期間は来年の十月までなの」
「期間限定か、なるほど」
それだけで全てを察したように明実は自分の顎を撫でまわした。
「どういうことだ?」
ヒカルが口を開く前に空楽がサトミに質問した。
「まず、ここでメッキ工場を経営していた社長さんは、脳卒中とかで現在医療施設に入っているの」
「それは、お気の毒に」
明実がちっとも同情していないような声色で言った。
「まあ、それが廃業するきっかけになったとも言えるんだけどね。奥さんも介護が必要になった社長のために、傍に居ようと特養に移ったんだ。つまり、ここはまったくの空き家になったってわけ」
一同が聞いているかサトミは確認するように見回した。一番関心が薄そうな空楽ですらサトミの言葉に耳を澄ましている様子であった。
「で、社長の息子さんって言うのが、いまはタイで情報関係の仕事をやっている人なんだ。で、社長が倒れたってことで日本に帰って来る気になったらしい。で、帰ってきたらココへ介護に便利な家を建てて、親子三代で…、結婚してお孫さんも二人いるみたい…、日本に戻ってきて暮らそうと計画しているらしいんだ。でも今やっている事業の引継ぎとか何やらで来年一杯までは帰っては来れないんだってさ。それと新居の建築を依頼した世界的デザイナーって奴のスケジュールも来年後半じゃないと空かないらしい。そういうわけでココに家を新築する工事を始めるのは来年の十月からで、再来年の新年度にお孫さんがちょうど小学校に入学するのに合わせて新生活を送る計画なんだってさ」
「それまで遊ばせておくよりは、ということか?」
空楽の確認にサトミはそうだと頷いた。
「どうせ壊す予定の物件だから、敷金も礼金もいらない。家賃も周囲の相場からもうちょっと高い物を請求してもおかしくは無いけど、なにせこの臭いでしょ。端数もなしに一万円ポッキリで交渉した私の舌先三寸を褒めて褒めて」
ニッコリと両方の人差し指をホッペに当てて目を細めるサトミを見て空楽は「ケッ」とつまらなそうに半ば舌打ちのような物をした。
「一年間限定か…」
ヒカルが今度は明実の顔を覗き込むように視線を移した。
「まあ、それまでには全て片付いている予定ではあるな」
ハンカチを当てた手とは反対の手で、生えてもいない顎髭をまさぐるようにしていた明実は、心ここにあらずといった調子でヒカルに言った。
開いた自分の左手に視線を落としていたヒカルは、拳を作るとひとつ頷いた。
「そっちはメッキで使う薬品を保管しておく倉庫だったみたい」
サトミが指差したのは二階の下にある区切られた部屋であった。
「もう、ヤバイ薬物は全部回収されて空っぽよ」
その指が斜め上に向けられた。
「上はネジとか小物の製品を作り置きした時の倉庫」
左の壁沿いに脆くなっている床から鉄骨を組み合わせた階段が立ち上がっていた。床の方が風化で痩せているので、最初の一段目だけはやけに高さがあるように見えた。
薄い生地のスカートをからげるようにしてサトミが階段へ足をかけた。手すりも太い鉄骨製だが、だいぶサビが浮いているので触るとジャリジャリとして不快しか感じなかった。
サトミが二階へと上がり始めたので、明実とヒカルが続いた。空楽はしばらく逡巡するように見上げていたが、ちょっと遅れて段へ足をかけた。
倉庫として使われていた二階は軽量鉄骨下地で作られた壁で仕切られていた。貼られた石膏ボードには穴がアチコチ開いており、粗末な一枚板でできた扉には反りが生まれていた。
「もうなんにも置いてないの」
かつては棚があった雰囲気が打ちっぱなしのコンクリート床に残っていたが、室内はガラーンとして積もった白い埃しか無かった。
「で、こっちが上への階段」
二階に上がったところで、外壁に一枚プレスの扉が設けられていた。そこを開くと外の光が網膜を刺激した。どうやらいつの間にか室内の暗さに瞳孔が慣れてしまっていたようだ。
外に開いた扉の向こうには、同じような鉄骨で作られた踊り場があった。外壁に沿って上下にのびる階段が設けられていた。下はもちろん地面まで続いており正面の駐車地へとおりているが、地上に降りたところで今は夏の間に茂った雑草に埋もれていた。上は屋上へと繋がっているようだ。
「だ、だいじょうぶか?」
さすがに、錆が進行して下が覗けるような穴が開いている階段を見て、ヒカルが心配そうに訊いた。
「大丈夫だよ、きっと…」
まるで異常が見られない階段に踏み出すような気軽さでサトミが外階段へ踏み出した。
途端に外壁に吹き付けた風が上昇気流となってサトミを包み込んだ。サロペットスカートの裾がフワリと広がって、かわいい膝小僧までがチラリと見えた。
スカートの中から風を追い出してから、長い年月風雨にさらされていたために赤錆の塊にしか見えない鉄階段を昇って行こうとする。手をかけた手摺が揺れたのでサトミは慌てて手を引っ込めた。
「…たぶん」
「たぶん、じゃねーよ」
文句を言いながらヒカルが後に続いた。制服のスカートは厚手なので、サトミのように裾が翻ることは無かった。
「同時に複数の人間が使わない方がよさそうじゃの」
明実は首だけ出して二人が階段を昇りきるのをまった。
外階段を昇りきると屋上に小さなプレハブ製のペントハウスがあった。片流し屋根の上に鉄骨で足場を組んで上に板を並べて平らな面をつくった屋上には、錆びきって今にも折れそうな物干し台が数本残っていた。
おそらく従業員の作業服を洗濯するのに使っていただろう二層式洗濯機が置き忘れたように設置してあり、その横にプレハブへの入り口が二つ並んであった。
片方は曇りガラスが嵌められた部屋。もう片方は広めの掃き出し窓が設けられた部屋である。これまたどちらも室内には何も残されていなかった。
「この部屋は事務室だったらしいよ。こっちは、たぶん更衣室」
より洗濯機に近い方の部屋に入ったサトミは、入り口脇のスイッチを入れた。だが電源が生きていないのか、天井から下げられた二列の蛍光灯は無反応であった。
「あら? もしかしたら下でブレーカを入れないといけないのかしら」
長い間閉じ込められていた空気が独特の臭いをさせて流れ出して来た。爽やかとは対極の香りだ。
「まあ、この部屋は使う事は無かんべ」
あいかわらずハンカチで呼吸器を覆ったままの明実は、屋上を振り返った。従業員の物干し台にしては広い空間の向こうに周囲の町並みが目に入った。
この元メッキ工場の周りには、いまだ稼働していたりもう廃業してしまったりした町工場がたくさん並んでいた。これらは主に近所にある大手総合電機メーカーが戦前から持つ大工場の下請けが仕事だった。意外と近くに、その大工場の主生産品をテストする塔が見えた。
ちょっと西に行くと昭和世代には懐かしい三億円事件の現場となった通りがある。その狙われた三億円が、大工場に勤務する工員たちの冬のボーナスだったことはあまり覚えられていないようだ。
近くには弱電に強い電機メーカーも広い工場を持つし、アルコール飲料や清涼飲料で有名な会社もあった。かつては戦車を作っていた工場もあったらしいが、今は各種金融機関の大規模事務センターが集まる高層ビル街に代わっていた。その高層ビル群が大工場の向こうに見えた。
そんな景色を持つ屋上を明実は見回すとウムとひとつ頷いた。
「だが、この屋上は使えるな」
「ココが?」
サトミが不思議そうに振り返った。
「うむ。『施術』に必要な魔法陣は、地面からある程度離れた位置に設けないといけないからの」
「ああ、それで」
晴れ渡った空を、冬の先駆けのような冷たい風が走り抜けた。腕を組むようにして風から身を守ったサトミが理解したとばかりに頷いた。
「大学の研究所にもあるものね、屋上に魔法陣が」
「そんな非科学的なものまであるのか、あそこには」
最後に上がって来た空楽が確認するように訊いた。口調からして呆れているのだという事がわかった。
「取り敢えず一件目の物件はこんな感じ」
秋の夕陽はつるべ落としと言うように、急速に空が紫色に変化していく。遠く富士山が目に入る方向では空に残った雲を下から焼くような日没が始まっていた。
「うむ。今日中にもう一軒は見て回れそうじゃの」
腕に巻いた機械式時計を確認する事もなく明実は頷いた。
「じゃあ急ぎましょうか」
サトミはプレハブの扉を閉めた。
ついこの前までしつこい残暑に悩まされていたとは思えないほど、静かに冷える夜が訪れた。
美女が海神の怒りをかい化け物の生贄にされる様子を表す星座が夜空へ高く上がり、今夜も星の光がこの永遠の褥に染み込んでいくように降り注いでいた。
だが並んでいるのは、日本人が見慣れた暗き摩天楼のような長方体の無機質な物では無かった。ある物は天使を象り、ある物は使徒が門番を務めるという天国の門を象っていたりした。そして単純に聖印を象った物がやはり多かった。
つまり日本で一般的ではない墓石の数々が並んでおり、刻まれている墓碑銘も
「HODIE MIHI、CRAS TIDI」(今日は私のために、明日は貴方のために)や
「OBIT」(個人の死)だったり
「NEARER、 MY GOD、 TO THEE」(主よ、みもとに近づかん)といった日本では見られない語句が飾り文字で刻まれていた。
つまり、この辺りで「外人墓地」と呼ばれている霊園であった。
霊園の中だけで葬儀やその他儀式ができるように、東向きに小さな教会が建ち、それと向かい合って、少々大きなお屋敷が建っていた。
英国式に縦と横を互い違いに組んだレンガの壁には、まるで緑のヴェールのような蔦が這っていた。
明治時代に外国から建築家を呼びよせて建てた建築物に共通する特徴が窓の形や庇などに現れていた。また実際に建築されたのも、それぐらいの時代だと言い伝わっていた。
明治と言えば屋内照明に電気が採用される前の建物である。建築当時の姿を守るこのお屋敷にも電気が引きこまれていないのか、墓石と共に闇に沈んでいた。
その様子は人の気配を感じないというより、不気味と言った方が正しい気がした。
なにも好んで墓地に屋敷を建てる物好きはいない。血が通う肉体を持つ生者には住みにくい場所である事には間違いない。しかし、このお屋敷に住んでいる者たちの経歴を告げられれば、誰もが「ああ」と納得するのだ。
難しいことは何も無い。この外人墓地が造成されてから墓守を世襲する櫻田家一族のための屋敷なのだ。
とは言っても、当代の主人は夫人を伴って外国での布教活動を手伝うために出かけたままであるから、この屋敷で寝起きしている人間は、墓守夫婦の一粒種たる娘だけであった。
電灯が無いためにただでさえ暗い屋敷内は、さらに不気味さを加えるように、一揃えの西洋の甲冑やら一族の肖像画などが、一部が経年劣化を見せているため廃墟の物とそう変わらない壁に飾ってあったりする。そこへ冬の先取りのように秋の冷気が溜まっており、窓から見える陰鬱な風景と相まって、何よりも人間の温かさが恋しくなった。
ギーッと出来の悪いホラー映画のような音を立てて、遊戯室から燭台を手に背の高い人物が廊下へと現れた。
ロウソクのユラユラ揺れる明かりでは幽鬼と見間違うかもしれないが、少々大時代的な三つ揃えを隙も無く着こなして、ピンと背を伸ばした姿は足の運びにすら理性を感じさせる佇まいであった。
男物の三つ揃えなんて着ているが、それに包まれているシルエットは明らかに丸みを帯びたもので、男装の麗人と言う言葉がピッタリの人物である。
引き締まった表情を浮かべる顔は、平均的な日本人よりも彫が深く、銀色の瞳に短くした金髪と相まって、北欧人種系の血統であることは一目瞭然であった。
彼女はとても長身で、一八五センチは超えていると思われた。
燭台を左手に、右手にはこのお屋敷の全ての鍵が集まっているだろう、大きな鍵束が握られていた。なんのことは無い、ちゃんと戸締りができているかの見回りである。電気が引きこまれていないこのお屋敷には、もちろん機械警備なんて言う最先端の技術が導入されているわけがない。面倒だが、こうしてひと部屋ごと見回らなければならないのだ。
彼女は出てきた遊戯室の鍵をかけ、次の部屋へ移動しようと廊下を振り返った。
彼女が手に持つロウソクの炎がユラリと揺れた。
どこからか隙間風が入り込んだようだ。だが、この屋敷は古いものの洋風建築だけあって滅多に隙間風など入らないことを彼女はよく知っていた。
彼女は確かめるように燭台を目の高さに上げた。隙間風が入り込んでくる方向を、炎の揺らぎから推察しようというのだろう。
彼女は、いま気が付いたように三枚向こうの扉を見つめた。
そこは図書室のはずである。
足音を殺して扉へと近づいて行く。鍵束からその部屋の鍵を手探りだけで探し出し、それが聖剣のように立てて構えた。
扉の横にはメイドたちが荷物を持ったまま扉を開けることが無いようにと、足の長いテーブルが用意されている。そこへ左手に持ってきた燭台を置いた彼女は、白手袋に包まれた手指に握力を加えた。
静けさに沈んだ闇の中で、筋が締まるギリリという音が聞こえた。
もし賊が侵入していたとしたら、素手で対抗しようというのだろう。まあ女性だとはいえ、これだけ体格に恵まれているのなら、並みの犯罪者に遅れを取る事は無いと思われた。
廊下に敷かれた絨毯の上に、扉の下から室内の光が漏れ出していた。それがチラチラと揺れるように遮られる。どうやら光源とドアの間を遮るように影が行き交っているようだ。間違いなく何者かが室内に居る証拠だ。
彼女は音を立てないように鍵穴へ鍵を差し込むと、室内を移動する影が動きを止めた。
彼女の気配に気が付いたというよりも、目当ての物を見つけたというところか。ちなみに、このお屋敷の図書室には代々の当主が収集した希少本が数多く収蔵されていた。
そういった希少本の中には同じ重さの金塊よりも価値がある物も含まれていた。ある物には古代の叡智が記されており、ある物は狂気の沙汰としか思えない文字の羅列で紙面が埋められているなど、様々である。
彼女は一気に鍵を回すと、扉を開け放って室内に飛び込んだ。
「やあ」
屋敷の者が踏み込んで来たというのに、侵入者は余裕のある声で出迎えの挨拶を口にした。
気配が薄いまま飛び込んで来た彼女を出迎えたのは、手の届かない高さの本棚に必要な木製の脚立の上に座っていた人物であった。
「ちょっと調べ物があるので、お邪魔しているよ。家令」
相手を確認したスチュワードと呼ばれた彼女は、溜息を一つついた。
「サトミ様でしたか」
欧州人そのままの容姿に似合わず、流暢な日本語がその美しい形の唇から流れ出した。
脚立の上に座っているのは、燕尾服調の黒いチュチュのような舞台衣装のような物を纏った、長い金髪をした少女であった。二重になったスカートの下の段だけがピンク色をしている。長い金髪は衣装に合わせた黒いリボンでポニーテールにしていた。
そういったコスプレをしているせいで誰だか分かりづらいようになっていたが、目鼻立ちをよく見分ければ清隆学園高等部の問題児であるサトミで間違いないようである。
ミニスカート丈のワンピースでそんな高いところに座っているなんて、所作の先生が見たら「はしたない」と怒るかもしれなかった。いちおう黒いサイハイブーツに覆われた足をちゃんと揃えてスカートを巻き込んでいるので、中身を見せびらかせたいというわけでは無いようだ。
サトミが持ち込んだ物か、脚立の最上段に立つ時に支えとなる手摺には、大光量のLEDカンテラがかけられていた。一つだけで狭いといえない室内を照らし出していた。
部屋にある壁全てが本棚で埋め尽くされているような部屋である。スチュワードが飛び込んで来た扉ですら、内側は本棚になっていた。開け閉めする時に必要なノブすら本に偽装してある凝り性な作りとなっていた。
室内をよく観察すれば、高い本棚は隙間なく並べているわけでも無く、ある一定の間隔が開けてあった。その本棚同士の隙間は分厚いカーテンによって埋められていた。
そのカーテンのひとつが夜風を受けてわずかに揺れていた。
床に散らかされた見慣れない金テコと合わせて、サトミの侵入経路はそこであろう。
「困ります」
はっきりと眉を顰めたスチュワードは言った。
「勝手にお屋敷に入られるなんて。私が三代目に叱られてしまいます」
「知られなきゃ大丈夫でしょ」
あっけらかんと言うサトミに、少々強い言葉をかけようとしたのか、スチュワードが息を吸い込んだ瞬間だった。
「もう知っているぞ」
背後の扉の方向から声がかけられてスチュワードが振り返ると、そこには薄い黄色いネグリジェの上から、濃い赤色をしたハウスコートを重ねた小さな人影が立っていた。
頭の上にはドアノブカバーのようなナイトキャップ、右の小脇にはお気に入りのヌイグルミと、小学生ぐらいの体格に似あった寝間着姿であった。
「サード」
慌てて扉の前から下がり道を開けると、直立不動の体勢となるスチュワード。それをチラリと睨めつけるように視線をやりながら、少女は図書室へと入って来た。
「高い位置から失礼しますね。こんばんは、お姫さま。いや、赤ずきんちゃんと呼んだ方がいいかしら」
「ウチの狼犬をけしかけてやろうか? この礼儀知らずの獣め」
少女は敵意を剥き出しに言った。
「そんなぁ…」
サトミは、自分の膝の上に置いて、黒いオペラグローブで包んだ手で切っていた古い本のページを閉じた。そのままランタンを回収して脚立を下りて来る。その顔には薄っぺらな笑顔が浮かんでいた。ちなみに、その古い本は表紙にラテン語でタイトルが書かれており、中身も同じくラテン語で著述されているはずだ。
素直に差し出した古書をスチュワードが受け取った。
「冷たいこと言わないでよ。恋歌ちゃんと私の仲でしょ?」
「いつそんな仲になった?」
「んもう、いけずぅ」
サトミは口を尖らせて拗ねるような表情をしてみせるが、恋歌と呼ばれた少女にはそれが演技だという事はちゃんと分かっていた。
「いますぐ警察に連絡して、不法侵入の罪で突き出してもいいんだがな」
面白くなさそうに恋歌は腕組みをして胸を反らせた。小学生のような容姿をしていなければ、古いお屋敷のご令嬢という貫禄のある仕草であった。
「分かったわ。私が無許可で入ったことは謝るから」
少しも慌てないでサトミは持っていた本を脚立の上へ置いて、ランタンを持ったままの手でまるで拝むように両手を合わせた。どうやらサトミでも警察は勘弁のようだ。
「用事が済んだらすぐに帰るから」
「即刻退去しろ。貴様の顔など見たくも無い」
恋歌は嫌悪する表情を隠そうとしないで、玄関ホールのある方向を指差した。
「…」
何を思っているのかニマニマ笑うお伽噺に登場する猫のような顔で恋歌を見おろすサトミ。
「あなたの好きな厄介事を見つけて来たのだけど?」
「…」
恋歌は黙って睨み返した。
「サトミさまが厄介事以外を、この屋敷に持ち込まなかった事が、果たしてありましたでしょうか?」
ちょっと砕けた様子でスチュワードが口を挟んだ。
恋歌の機嫌が悪そうな視線がスチュワードに向けられた。どうやら余計な事を言うなということらしい。慌ててスチュワードは直立不動のポーズに戻った。
「すぐに出て行きますよ」
肩をすくめたサトミは、荷物を纏めながら言った。
「ただ浅学菲才な私に、コレのことを教えて下さればね」
そう言って床に散らかした金テコを青いディパックに入れるのと入れ替わりに、折り畳まれたコピー用紙を取り出した。そのままサッと差し出された紙を恋歌は受け取り開いた。スチュワードも興味があるのか、身長の低い主人の頭越しに紙面を覗き込んだ。
その紙に印刷されているのは複数の図形を重ねた模様のような物だ。幾重にも円が重ねられるように描かれ、六芒星と正方形をさらに重ねてある。その複雑かつ有機的に重ねられた図形の線の間には、ラテン語の慣用句で埋められていた。何のことも無い、サトミが司書室で出力した、あの印刷である。
「魔法陣か」
一目でソレが何であるかを見抜いた恋歌が、背後の使用人にもよく見えるように紙の角度を変えて言った。
「碌でも無い方程式のようで」
ちょっとだけ眉を顰めたスチュワードは、古い記憶を思い出そうとしているのか、立てた右の人差し指で、宙になにやら語句を書くような仕草をしてみせた。
「わかるの? さっすが心霊探偵」
サトミが手放しで褒めた。実はこの女子小学生にしか見えない櫻田恋歌は、都内で不可思議な事件が起きると、科学以外の方法で捜査機関に手を貸す人物として、裏の世界では有名な存在だった。ついた呼び名は心霊探偵。普段はここ外人墓地で墓守の娘として鎮魂の祈りを捧げる身だが、そのアドバイスは的確で、警視庁などから相談を受けることがしばしばあるという噂だった。
もちろん観測範囲外の出来事ならば何でも相談できるというわけではないが、その方面の知識ならば都内で一番と言っても間違いない存在であった。
どうやって知り合ったのかサトミは彼女と面識があり、つい先月もとある相談に立ち寄っていた。
「ただの高校生のおまえでも知っていると思うが、魔法陣は一つずつ意味を持っている」
「じゃあ、その魔法陣の意味は?」
「うむ」
説明しにくいというように恋歌は表情を曇らせた。
「日本語にすると…、『止まれ』?」
背後に確認するように視線をやると、スチュワードは訂正した。
「『しばし留まれ』の方がより的確かと」
「ああ、そう言った方が近いな」
使用人の有能さに感心する声を上げた恋歌は、荷物を通学バッグにまとめたサトミに視線を戻した。
「この魔法陣ならば、臨終の瞬間に己が体より抜け出た魂を捕まえておくことが可能だ」
「へえ。霊魂を捕まえる事なんてできるんだ」
ちっとも信じていない声でサトミが振り返った。なにせ性別を超えたような一般的でない見た目をしている身でも、芯は明実などと同じ科学者である。実証されていない現象を疑うのが科学者というものだ。もちろん人がいつか失う二一グラムの重さの事は知識として知ってはいた。
「じゃあ、その魂とやらを、抜け出たばかりの体に戻せば、死んだことはノーカンになるの?」
「あのな…」
頭痛でも感じたのか、恋歌は自分の額に手をやった。
「死という物がそんな簡単に克服や迂回ができる物なら、世の人々は全て行っていると思うぞ」
「え? でも霊魂を捕まえられるんでしょ?」
「それを無理やり体に戻したとしても、魂の破滅を迎えるだけだ。できたとしても安い映画に出て来る知性の欠片も無い動く死体みたいな化け物になるだろうよ」
「ふ~ん」
なにか思うところがあるのか、サトミは天井を見上げて小首を傾げた。
「じゃあ、別の体を用意しといたら?」
サトミの素朴と思える質問に、恋歌とスチュワードは視線を合わせた。どう答えようかと迷ったようだ。
恋歌はスチュワードから視線を外すときっぱりと言った。
「まあ、こんな魔法陣に手を出すことは止めておけ。特におまえはな」
「あ、ひっど~い。差別だ差別」
口を尖らせて恋歌をサトミは指差した。サトミの小学生のような態度に、見た目が小学生な恋歌は再び溜息をついてみせた。
「で? 屋敷への不法侵入は、どうやって謝罪してくれるのかな?」
「え? やだーもー、私と恋歌ちゃんの仲じゃないー」
気安く肩でもポンと叩きそうな明るい声であった。
「ごめんちゃい」
軽いノリで舌まで出して見せるサトミに、二人分の冷ややかな視線が突き刺さった。
恋歌は手にしている紙の上を撫でるように触った。すると不思議な事に、印刷されている魔法陣の文字の部分だけが、まるで最初から何も印刷されていなかったかのように消えた。
「アルカンブラ」
そして呪文のような物を口にすると、今度は何も持っていない右の人差し指で魔法陣に何か書き足すような仕草をした。すると筆記用具を使用していないのに、空欄となった魔法陣の語句の位置に、新たなラテン語が筆記されていった。
「え? なになに? 怖い顔」
半目で睨んでくる恋歌の表情から、誤魔化しは効かないと判断したのか、サトミは荷物をまとめたバッグを肩にかけると、その間床の上に下ろしておいたランタンを回収しながら本棚と本棚の間の方向へ身を翻した。厚いカーテンで埋めるようにしてあるその隙間には窓があるはずだ。直射日光は古い本に大敵であるが、明り取りや淀む空気の入れ替え用として、この部屋にも最小限の窓が設けられていた。
「…」
そのまま恋歌は口の中でブツブツと何やら唱えると、カーテンに抱き着くように飛んだサトミの足元に、手にした紙を飛ばした。
紙は開いたまま、魔法陣を上にしてサトミの足元に落ちた。
「はうっ!」
金テコで強引に外から開けた窓まであと数センチというところでサトミの体が硬直した。
「魔法陣などは使い方さえ知っていれば便利な物でな。こうして式を変更すれば『しばし留まれ』が、もっと強い『停止せよ』という物になる」
動けなくなったサトミに、抱えていたヌイグルミをスチュワードに預けた恋歌が歩み寄った。
「さて、どうしてくれよう」
まるで非常口を示す緑色の人影のようなポーズのまま固まったサトミは、強張った表情の中で目玉だけ動かして恋歌を見た。
「絶対、この土地に近づけないようにする呪いでもかけておくか」
「サード。魔法や呪法などという下法を使用するというのは、当家の淑女に相応しくない行動かと」
いちおう頭を下げてスチュワードが注意をした。確かに正統なキリスト教では、その両方は忌み嫌われている物であった。
「そうは言うが相手が下衆ではな。強盗に一番効くのは銃口であるように、下衆には下法が役に立つ。ここは一発、青爪邪核呪詛でもかけておくか?」
ニヤリと下から挑戦的な視線でサトミの顔を見上げる。サトミの顔にダラダラと汗が浮くのが見て取れた。恋歌ならば致死性の呪いのひとつやふたつ平気な顔をしてかけて来ることを知っているようだ。
恋歌は壁の本棚から一冊の古びた本を抜き取り、適当な様子でページを開いた。
「キい・オうブス・プラタ・ロう…」
「サード!」
なにやら呪文を唱え始めた恋歌の体が後ろへ引っ張られた。鼻腔を擽る抹香の香りで、スチュワードが後ろから抱き寄せた事が理解できた。
いつの間にかにサトミと恋歌の間、絨毯が敷かれた床に苦無が突き立っていた。どこかでガラスが割れるような音が響き、サトミの足元に投げられていたコピー用紙がまるでアルコール綿に火がついたように弱々しい炎を上げた。
「秘技、呪詛破り」
どこからか男性の声が聞こえて来たと思ったら、カーテンが夜風を受けたように大きく靡いた。
カーテンが静まると、情勢は一変していた。いつの間にか第四の人物が現れており、片手でサトミを抱き寄せ、もう一方の手で赤樫の木刀を構えて立っていた。
「助けに入るのが遅いんじゃない?」
さきほどまで無様に硬直していたサトミが、自分を抱き寄せる厚い胸板の男に文句のような事を言った。男は夜会服と呼ばれる正装で身を固めており、顔は黒い狐の面で隠していた。
「フン」
チラリと微笑みながら怒っているサトミの顔を見てから、その正装の男は目線と木刀の先だけで、主人を庇って前に立つスチュワードを威嚇した。対するスチュワードは、手に持っていた主人のヌイグルミと古書を床に落として、徒手空拳の構えだ。
男の木刀が動き、その先が床へ突き立ったクナイの柄にある輪にかかった。手首の動きだけで床から抜くと、木刀でさらに飛ばすように空中で叩いた。
クナイがクルクルと飛んだ先は、恋歌やスチュワードの方向ではなく、なんとサトミであった。クナイはそのままサトミを抱き寄せる男の右手に回収された。
「えーっ。忍者って手裏剣を使い捨てにするんじゃないのぉ」
自分の腰に回された右手でキャッチしたクナイを見おろして、サトミは眉を顰めた声を上げた。
「…。時代はエコだ」
「新しい手裏剣を調達するのが面倒なのね…」
一言で男の主張を理解した。
「それでは、お姫さま。聞きたいことは聞けたからお暇するわね」
男の腕の中から飛ばした投げキッスのついでのように、サトミの手の中から何か転げ落ちた。絨毯が敷かれた床に落ちたところで、それが乾電池のような物だと分かった。
とたんに悪い冗談のように、乾電池状の物体から煙が噴き出した。
「お下がりください」
毒性を持つ煙幕の可能性を考慮したスチュワードが、恋歌を通路まで押し戻した。
煙が晴れた後は、転がった乾電池と、コピー用紙の燃えカスだけが室内に残されていた。
「追いますか?」
短く訊くスチュワードに、鼻で嗤うように恋歌はこたえた。
「あんな小者、追うまでも無い」
一旦、恋歌の顔を見たスチュワードは、ため息交じりでこたえた。
「それでしたら、窓の修理代は次の機会に請求するといたしましょう」