十一月の出来事・⑤
東京都下多摩地区に存在する清隆学園には、母体となる大学から、それに付属する各学校が存在した。それは幼年部(幼稚園)から始まって、初等部(小学校)中等部(中学校)と続き、高等部(高校)にまで及んだ。
文系の学部などは別の場所に移転してしまったが、農学部の試験農地などを含めて様々な施設が敷地内に存在していた。
その中には、もう使用されていない施設もだいぶ混じっていた。例えば昔の大きな戦争に使われた掩体壕であったり、流体力学を研究するための大水槽であったりだ。
同じように古くはなったが、本来の用途とは使用目的が変わった物もある。一番は大学の体育館として建設された建物だ。大学レベルでの各種競技団体の育成に使用された木造の建築は、新しい体育館が完成した後は、複数ある学食の一つとして機能していた。
主要な建物に適度に近いし、またその広い床面積が各種催されるパーティに都合が良いのである。
その各種パーティと呼ばれる中に結婚披露宴というものもあった。東京の大学らしく、国内どころか海外からも学生が集まる場所である。ひょんなきっかけで巡り合った二人がゴールに(いやスタートと言う人もいる)辿り着いた証として細やかな式が挙げられるようになっていた。それは学食を運営する大学生協も全面的に応援している事であった。
そして二人の未来を誓い合う施設の方も一通り揃っているのであった。
学園がこの地に設けられる以前から土地の人間に大事にされてきた神社…、というか祠は敷地内、毎朝時鐘を鳴らす室町時代建立の寺は徒歩圏内、そして洋風の結婚式には欠かせない教会は、皮肉にも科学研究棟のすぐ近くに存在した。
今は廃止された神学部の付属施設として建てられた教会である。礼拝所の他には控室として使用できる小部屋とトイレぐらいしかない、とても小さな物だ。
その教会の控室に、二人の人物がいた。
片方は高等部の男子生徒である。紺色のブレザーと定められた一般の制服ではなく、黒い学ランを着用していた。いちおう学ランは高等部の第二種制服規定にあるが、第三ボタンまで外して中に着た黒いワイシャツを見せている辺りは服飾規定違反である。黒いワイシャツに白いネクタイを締めているのが、開いた首元から見えた。
細い銀色フレームの眼鏡をかけた面差しは、某推理ドラマの帝都大学理工学部物理学科教授が当たり役になった俳優に似ているために、外見だけは女子生徒の間で話題にはなっていた。
清隆学園高等部一年に在籍している彼は、図書室の『常連組』に「ブラックプリースト」の呼び名をつけられた左右田優であった。
その呼び名の通り、普段は司書室の一角に置いた泥をこねて作った土人形へ「メートル・シミティエ・ブンバ」と名付けて崇めていたりしていた。
もちろん、そんな奇行を繰り返すせいで、好印象な外見と対照的に特定の女性と付き合った経験は無かった。
優は部屋に置き忘れられたような古い調度品のひとつである木製のテーブルに、自分の少し破けたディパックを置き、提げて来たビニール袋をもう一人に差し出した。
「こんにちはラモニエルさま。何か変わったことはありましたか?」
テーブルと同じように古い木製の椅子に胡坐をかいて座っていた相手が微笑んで荷物を受け取った。
「マサルくん、ありがとう。特に何も無かったね」
受け取った相手は、まだ小学生ぐらいの男の子であった。
寒くなってきた季節に合わせてプリント柄のトレーナーと長ズボンを合わせている。ただどちらも古着なのか、アチコチとツギがあててあった。
そして足元は裸足のままである。人体で一番熱が逃げる足の甲を晒しているというのに、寒そうな素振りすら見せずに受け取ったビニール袋を開いた。
中から出てきたのは、高等部の購買部で売っている菓子パンと牛乳パックであった。
「毎度言わせていただきますが…」
優は言いづらそうに口を開いた。
「ボクの家へお越しくださいませんか? ラモニエルさま」
「ありがとう」
ラモニエルと呼ばれた男の子は天使のような笑顔を返した。いや、その名前が示すように正真正銘の天使と呼ばれる存在なのだ。
「だが何度も拒否させてもらうよ。地上での贅沢は堕落の一歩になりかねないから。堕天使どものようになりたくはないからね」
彼こそが地上で主の理に逆らう術である『施術』を操る者たちを滅ぼしに来た天使ラモニエルであった。
ハサミを入れていないので背中の中ほどまで伸びた髪の毛は、大半がアッシュブロンドという色をしているが、先端の五分の一はグラデーションを重ねて茶色に変化していた。そして二学期が始まる頃からこの部屋に引きこもっているせいか、焼けた事のない肌は真っ白であった。
「しかし、最近は大学生たちの間で噂になっているようです。教会に小学生が住み着いたらしいと」
優が最初に出会った時に比べ目鼻立ちも整ってきていた。もう少し成長すれば美少年と呼ばれること間違いなしだ。そのせいかボランティア活動でこの教会の掃除に来る大学生の間でも話題になり始めていた。
「保護者のいない子供は施設や団体に保護されるのがこの国ですから、そういったところに話しが及ぶと厄介な事になるかもしれません」
相手が天使だからか丁寧な言葉を選びつつ説得に入る優。
「孤児や弱者が見捨てられない理想の国か…。ここは地上の楽園だな」
ちょいと腕を組んで考えたラモニエルは、うんと大きく頷いた。
「そうだな考えを改める必要があるかもしれない。だが今の私だって少しだけ能力がある。そういった輩から姿を隠すのは造作も無い事だよ」
考えている間は曇らせていた表情を元に戻したラモニエルは、それが簡単な事のように言い切った。
「それに本来の能力全てを取り戻したら、そのような心配は必要無いからね」
「…スフィアですか」
ラモニエルが言うには地上へと降臨した際に能力のほとんどを他の場所に落としてしまったようなのだ。そのため夏にラモニエルが退治すべき『施術者』たちと対峙した時には敗北を喫し、いまこの教会で捲土重来を胸に臥薪嘗胆している最中なのであった。
おそらくラモニエルの能力は光る球として、地上のどこかにあるはずなのだ。
「下賜された『天使の涙』に今日も反応がありました」
優は学ランの胸ポケットから涙滴形をした水晶のような物を取り出した。これはラモニエルに残された能力で作ったスフィア探知機である。降臨した場所である清隆学園高等部に見た目が小学生のラモニエルが入っていくのは目立つと思い、優が代わりに校内の探索を請け負っているのだ。
昼に宝くじがどうしたとかいう話題で同級生が盛り上がっていた時にも反応はあった。
「やはりユミコさんの周囲にあるようですか?」
優が言うには『天使の涙』は、ある特定の人物に近づいた時に熱を帯びるようなのだ。
「はい、間違いなく」
ラモニエルの確認に素直に頷く優。
優は怪しげな像を司書室に設置するぐらいに図書室に顔を出す『常連組』の一人であった。その彼が『天使の涙』を持って高等部のアチコチを歩き回った結果、おそらくスフィアは図書委員長の藤原由美子女史が所持している様なのだ。
「彼女は、私が地上に最初へ降りた時に、その場に居合わせたのだ。だから、彼女がスフィアを持っていてもおかしくはない。それが故意なのか偶然なのかは分からないけどね」
ラモニエルは表情を曇らせた。
「だが私は『悪』に敗れた後、それまで世話になっていた人たちに危険が迫らないように、こうして距離を取って来た。ユミコさんもその内の一人だ。いまさら接近するのは…」
顎に手を当てて歪んだガラスが入った窓から深まる秋の風景へと視線をやった。
「…嫌だな」
「よろしいのではないでしょうか」
悩まし気な声を出すラモニエルに、調子を変えない優の声が届いた。
「ラモニエルさまが一度決めた事ですから、その通りに為されればいい」
振り返ったラモニエルに微笑みながら優は言った。
「不肖ながらボクがスフィアの回収をさせていただきます」
胸に手を当てて一礼する優に眉を顰めるラモニエル。
「しかし…」
「調べはついています」
下げた頭を戻しながら優は安心させるように言った。
「最近、藤原さんのスマートフォンは充電をしなくても使えるようになったとか。科学的にはあり得ないことですが、もしラモニエルさまの能力であるスフィアがソコに取り込まれているとなったら、合点の行く話であります」
「たしかに電池の代わりとなって機械を動かし続けることなど、スフィアには簡単な事だろう」
頷いて同意するラモニエルへ向けて乗り出しながら優は言った。
「どうか、ご命じ下さい。そうすれば世界の片隅で主の威光を信じるボクであっても勇気をもって事に当たれると自負しています」
「いずれは頼むかもしれない」
いま「うん」と頷いたら部屋を飛び出して行きそうな優を宥めるようにラモニエルは言った。
「だが、まだその時ではない」
「そうでしょうか…」
まだ意見があるという優をラモニエルは手で制した。
「大丈夫だ。スフィアの存在する場所が分かった以上、次に気にしなければならないのは『悪』の存在だ」
「『悪』ですか」
優は鼻に乗せた眼鏡の位置を修正した。
「マサルくんには説明したと思うが、私は地上の『悪』を滅ぼしに来た」
「この身に分かるように、再び『悪』をお教え下さい」
「うむ、よかろう」
おそらく意識してであろうが芝居がかった口調になってラモニエルは告げた。
「森に生きる鹿を見れば分かるだろう。どのような生命も、生まれてきて親に守られながら育ち大きくなる。やがて愛を知り伴侶を見つけ、そして子を成す。親となった生命は、子を育て上げ送り出し、やがて老いて死んでいく。これは主が定めた生命の約束である。しかし、この秩序に逆らう者たちがいる。知恵の樹になる禁断の果実を口にした者の子孫でありながら、生命の樹になる果実の恩恵に与ろうとし、天界から盗み出した『施術』という秘法で許されない不老不死の存在となった者たちだ。不老不死となれば子を産むことも、育てることもない。そこに愛は存在しない。そこに生まれる新たな秩序は、なんと不敬で不毛な物だろう。そのような地上は主の望むものだは無い。愛無き者たちはすなわち『悪』だ。よって私たちは『悪』の存在を許すことはできない。『悪』を滅ぼし、この地上に主の定めた秩序を取り戻さなければならない」
ラモニエルの短く熱い演説は優の心に沁み込んだようだ。
優は短く拍手をしてみせた。
「ということで、愛無き者の動静を確かめなければならない」
「我々の敵、ということですね」
優の確認にラミニエルはそうだと頷いた。
「どのように探るのですか?」
「こういう物を作って欲しい」
テーブルの上をなぞるように、ラモニエルの細い指が走った。それはLの字をした物のようだ。
「こういう形をした針金をふたつ」
「…。ダウジングですか?」
両手にそういった物を一本ずつ持って歩き回ることによって、地中の水脈やらガス管などを見つけることができるという話しを聞いた事があった。
「魔術は忌むべき存在なのだが」ラモニエルは前置きをして話し始めた。
「いま我々に残された選択は非常に限られている。忌むべき物だろうが何だろうが、使える物は何でも使わないとね」
「針金は何でもよいのですか?」
「うむ。なんでもいい。それを探知機として敵を探るのだ」
「探知機…」
そう言われてもただの針金である。優が微妙な顔をしていると、ラモニエルは笑顔を作り直して見せた。
「最近思いついたのだが…」
ラモニエルは前置きをして語り始めた。
「一番は敵自体を見つける事でなく、敵の本拠地を見つけてこれを叩く事だと。不老不死の技を持つ相手だ。その技で普通のヒトが死ぬほどのダメージを与えても、本拠地に戻ればケロリと直してしまうはずだ」
「本拠地…」
優は眉を顰めた。悪の本拠地と言われて想像できたのが、どこかにある地下室で怪しげに掲げられた悪の秘密結社のエンブレムといった物だったからだ。もちろんエンブレムには赤いランプが設けられ「ピコーンピコーン」と明滅する演出つきだ。
「針金自体はすぐに用意できます。明日にでも持って来ましょう」
「よろしく頼むよ」
「御門の話しを信じているのか」
場所は変わって清隆学園の近所にある喫茶店<コーモーディア>である。
そこにある窓際のボックス席は、高等部図書室の『常連組』が完全下校時間を過ぎて学校から追い出された後のたまり場になっていた。
ボックス席を占領しているのは一組の男女…、と見せかけて先ほどまで御門明実他一名と世間に公表できない話をしていたサトミと空楽とであった。
いつも一緒に居るため『正義の三戦士』と呼ばれる最後の一片たる権藤正美は見当たらなかった。
実は二人と入れ替わりに店から出て行ったのだ。どうやらこれから誰かとカラオケに行く約束をしたようである。何やら落ち着かない様子で腰を浮かせたところを見ると、相手は男ではなく女であることはバレバレであった。
いつもなら、そういう事には目聡いサトミがウザ絡みするところなのだが、今日は違った。
サトミのポケットに、明実から渡されたUSBメモリーがあるからだ。
扱う情報が国家機密級という事もあり、普段ならネチネチと針でつつくように尋問してデートの相手を聞き出すサトミが、逆に早くココから出て行けレベルの素っ気なさで正美を見送った。
正美にとってはありがたいことだったろう。
サトミはソファ席に置いた自分のディパックから、まるで弁当箱のような四角い箱を取り出した。喫茶店のテーブルに出して弁当箱の蓋にあたる部分を回転させると、内部に収められていた液晶パネルが露出した。
これはサトミが自作したモバイルパソコンである。弁当箱のような容積のほとんどが電源であるので、ずっしりと重さがあった。
サイドのUSBポートを覆っている蓋を外すと、明実から渡されたUSBメモリーを差し込んだ。
LEDが小さく灯って接続が無事に行われたことを示した。
「御門の証拠とやらが、どこまで本当の事なのやら…」
このメモリーには、これまで明実行って来た『施術』の全てが記録されていると言っていた。二人とも、それが不老不死に至る研究だと明実に告げられたが、もちろん半信半疑のままだった。
「ふん。マスター、お茶」
面白くなさそうに空楽がボックス席から注文した。
「おまえら、ここは喫茶店だ。コーヒーを注文しろよ」
カウンターから蝶ネクタイを締めたマスターが悲しそうに言った。いちおう断っておくが<コーモーディア>のオリジナルブレンドコーヒーは全日本バリスタ選手権でも高評価を得ている逸品であった。
「まま、そう固いことを言わずに」
データを読みだすのに時間があるのか、ボックス席からスススと音もたてずにサトミがカウンターの中へと無断で入って来た。手慣れた調子で益子焼と月夜野焼の湯飲みがカウンターに出され、常滑焼の急須から緑茶が注がれていった。
「いつの間に茶器まで…」
マスターは自分の店に見知らぬ茶器が揃っていたことに衝撃を受けた。
さらに仕入れた記憶すらない茶請けの柿ピーをのせた小皿を添えて、こればかりは<コーモーディア>の備品である銀色のお盆に一式揃えると、空楽の待つボックス席へとサトミは運んで行った。
「さて、どうなったかな?」
自分の店の現状を嘆くマスターを尻目に、サトミは空楽の前に湯呑を置きながら液晶モニターを覗き込んだ。データの読み出し状況を示すカラーバーはもう右端に届いていた。
「きたきた」
スカートを捌きながら滑り込むようにソファにお尻を納め、さっそく図面や写真が添えられた論文を画面に呼び出した。
「ほほーう」
テーブルを挟んでサトミが変に間延びする声で感心する声を上げたので興味が湧いたのか、ひと湿りお茶を口にしてから空楽は、モバイルパソコンを乗り越すように身を乗り出して液晶モニターを覗き込んだ。
四つほどのウインドが開かれ、そのドレにも英文が表示されていた。
「うへ」
ちょっと酸っぱい顔になった空楽は尻をソファに戻すと、対面に座るサトミを睨みつけた。
こちらは平気な表情のままのサトミは、タッチパネルを器用に使って画面をスクロールさせていた。
しばらくゲームでもしているようにサトミは画面の虜となり、対面の空楽はゆっくりと湯呑から上がる湯気を吹き散らしてお茶を楽しんだ。
赤茶色の瞳に反射する液晶モニターの明かりが動かなくなったのを見て取って、空楽は口を開いた。
「で?」
「う~ん」
読んだとしても斜め読み程度しかできていない程の速さで画面をスクロールしていたサトミは目をキラキラさせながら鼻息を噴いた。
「研究はそうとう進んでいるようだ」
つい地の男言葉で返事をしたサトミを睨むようにしてから、空楽はもうひと啜りお茶を口にした。
「じゃあ…」
湯呑と入れ替わりに尻を浮かせた空楽へチラッとイタズラ気な視線をサトミは送った。
「だけどコイツをどんなに素晴らしい論文に書きなおしても、いわゆる学界ってヤツからは認められないと思うぜ」
とどめとばかりに液晶モニターをツンとつついた。
「なぜ?」
空楽の問いかけに、サトミはパソコン自体をテーブルの上で回して画面を彼へと向けた。
「これは…? 魔法陣?」
英文で埋められたウインドの上に重ねられて表示されているのは、何重にも円が重ねられ、間隙をラテン語の慣用句で埋め尽くしたような図形であった。
円には六芒星と正方形が重ねられていた。空楽がつい呟いたとおり、魔法陣と呼ばれる類の図形であることは間違いないはずだ。
「途中までは真面目な生命科学の論文だが、後半に入ると錬金術やら占星術やら、いわゆる魔法と呼ばれる物の記述に近い物になっている。こんな代物を認めたら、科学の根幹に関わるんじゃないかな」
「科学的な部分は正しいのか?」
空楽の尤もな質問に、サトミはウンと頷いた。
「細胞の分裂できる回数ってのは、実は決まっているんだ」
「たしか…、テロメアとか?」
「そう、ソレ」
ニッコリと目を細めたサトミは、ちょいとタッチパネルに触れて、別の図形を表示しているウインドを上にした。分子構造が二重螺旋を描く有名な図形であった。
「で、一学期の生物の授業でやった通り、細胞が分裂する時に遺伝情報であるDNA配列を複製する。この分裂する時にDNA配列が解けないように末端で留めている部分がテロメアなんだ。でも分裂すればするほどここの長さが短くなっていき、最期には分裂が不能となる。これを細胞老化と言う。一部のガン細胞などの例外を除けば、それ以上の細胞分裂は起きない。御門の研究だとそれを逃れるために、DNA配列の複製を、テロメアを含めて他の物質にまるっきり置き換えてしまうようだ」
ウインドの中で二重螺旋は解れるように離れて行き、その先で新たに二つの二重螺旋が構築されていった。
「DNAの複製?」
理解できなかったとばかりに空楽の眉が顰められた。画面の中では赤、青、黄、緑の粒で作られていた螺旋構造が、黒、白、紫、橙の粒へと置き換えられていく様子がアニメーションで表示されていた。
「一学期の期末で問題に出されただろ」
ちょっと呆れた声を出すサトミに対し、空楽は大窓からすっかり暮れた町を眺めた。
「そんな昔の事は覚えちゃいないな」
「これだよ。まったく自分がボガートのつもりなんだから」
ふーっと鼻息をひとつついたサトミは、別の図形を呼び出しつつ説明を続けた。
「デオキシリボ核酸を構成する遺伝物質は四つ。アデニン、チミン、グアニンそしてシトシンでしょ」
「うっすらと記憶の端に残っているような気がしないわけでもない」
湯呑を抱えたまま空楽はソファの背もたれに体重をかけた。
「その四つの物質と、似たような作用をする別の物質に置き換えたとしたら? それは元のDNAとは同じなのでしょうか? それともまったく別の物なんでしょうか?」
画像の中では次々と赤、青、黄、緑の粒が黒、白、紫、橙の粒へと置き換わっていた。すでに片側が黒、白、紫、橙に置き換えられた二重螺旋構造が、再び解け、今度は全ての部位が黒、白、紫、橙で構成されていった。
「それは…」
クイズの問題を出したようなサトミに、一言で断言しようとして口ごもる空楽。その顔を眺めてニヤリとしたサトミは、人差し指を立てた。
「そう都合よく同じ作用を持つ物質があるとは思えないかな? では、分子構造で再現するのではなく、もっと大きなロボットで構造を再現したら? もちろん試験管の中では再現できないだろうから、学校の校庭とか広いところで行うことになるだろうけど。果たして、その構造物は元のDNAと違う意味を持つのでしょうか」
「ふむ」
同じ作用をする構造がスケールを変えて存在する事は、一つの分子を一台の大きなロボットに置き換えれば不可能ではないかもしれない。ただ、それを本当に行うのであれば莫大な予算と、そしてエネルギーが必要とされるだろう。その実験を考えることこそが机上の空論と言われてもおかしくない話である。
「もとのDNAが二つに分かれても、同じ物だと定義するなら、同じ作用をする他の物質に置き換えても、それは元と同じ情報を保持している事になる。というのがこの論文の前提だ」
「それで?」
なにか丸こまれたような気がした空楽は、不快感を表情に浮かべながら湯呑をテーブルに置いた。
「つまり新しく、かつ老朽化しない物質を並べてあるってことか?」
「まったく老化しないわけではない。そうでないとエントロピー増大の法則に反するからね。ただ元に比べたら遥かに頑強のはず。置き換えのすんだ細胞は、文字通り不老不死に近い存在になるけど、殺したら死ぬことには変わりない」
「なんだ貴様」
サトミの声に違和感のある響きがあることを聞き取った空楽は、右眉を額の方へ上げた。湯呑を持ったままサトミの方へと身を乗り出した。
「殺しても死なない程の不死性を求めるのか?」
「…オレ、欲張りなんだ」
赤茶色をした目を狐のように細めて微笑んだ。
「そんな完全生物なんか、お話の中にしか存在出来ん」
「まあね。でも、いずれは…」
サトミの視線が画面へと戻った。
「で、その仏道をも恐れぬ方法が、ここに?」
サトミのモバイルパソコンの脇に刺さっているUSBメモリーを空楽は顎で示した。
「そういうことになる」
再びモバイルパソコンをクルリと回して自分の方へ向けたサトミは、楽しそうにキーボードを叩いて、短いコマンドを入力した。
「貴様に再現は可能か?」
楽しそうなサトミに、難しい顔をした空楽は訊いた。
「う~ん。錬金術に魔術、数秘術だからなあ」
のびをするようにサトミは仰け反った。
「三年ぐらい時間をかければできるようになるかなあ。でも私、他にも色々抱えていて忙しいからなあ。片手間に出来るような物じゃないことは確かよ」
やっと今の姿を思い出したのか、サトミの口調が女言葉に戻っていた。
「で? 協力するのか?」
明実から求められたのは、とりあえず研究の手伝いではなく、安心して研究する場所を確保する事だった。
「こういう時に貸しを作っておくと、後で倍に帰ってきそうだしね」
「アテがあるようだな」
「まあね」
頷きながらサトミは自分のスマートフォンを取り出し、裏面を開き始めた。
「?」
中からメモリーカードを取り出すと、モバイルパソコンのUSBポート横にあるスリットへと差し込んだ。
「それは?」
当然の疑問にサトミはうんと頷いた。
「このコンピュータはネットから独立しているんだ。だからデータはこうして手動で別のメモリーを用意してやらないと吸いだせない」
「全部コピーするのは、危なくないか?」
電子技術には素人ながらネットには他人のデータを盗み出したりするクラッカーという存在が居ることぐらいは空楽も知っていた。
「カードにそんなには容量無いよ」
「では、なにをしておるのだ? 貴様」
「この魔法陣だけでもプロに見てもらって、論文の裏付けを取らないとね。まあ、こんな壮大なホラ話し、矛盾なく考えるだけでも大変だろうから、まず間違いないと思っているけど」
メモリーカードをスマートフォンに戻すと、早速データをどこかへ転送を始めるサトミ。
「こんな小さな画面じゃ不便だから。図書室のコピー機で印刷しちゃおうかなって思ってる」
「御門の話しがまるっきりのヨタだとしたら?」
サトミの口からその話題が出た事を良い機会と捉え、空楽は訊ねた。
「私を引っかけて、いまの御門にプラスになるかどうか微妙なところね」
うーんと唸りつつサトミはテーブルに肘をついた。データ処理に時間がかかるのかスマートフォンをテーブルの上に放置して、柔らかい仕草で自分の頬を包むようにして頬杖をついた。
「どちらにしろ不老不死なぞやめておけ」
明実たちと話した時のままの不快感を示しながら空楽は言った。
「仏さまは生きるに四つの苦しみがあるって言ったらしいけど、それが無くなるのよ?」
不思議そうにサトミが訊き返した。
「ヒトが永遠に生きるなんて、それこそ生き地獄ではないか」
「芯からの仏教徒なのね、空楽は」
ニコッと微笑みの質を変えてサトミは言った。
「でも人を癒す術…、医学の進歩に文句をつける気はある?」
「いや。生れ出たからには死ぬまであがき続けるのが人間だ」
「その<あがき>がココまで至ったんじゃないの?」
テーブルの上のスマートフォンが小さなチャイムのような音を立てたので、サトミは画面を確認した。どうやらデータの転送は終わったようだ。スマートフォンを懐に戻すと、今度はモバイルの方の片づけを始めた。
「少しでも長く健康に生きたい。それは誰でも思う事でしょ。織田信長の時代は人生五〇年と言われていたけど、現代日本の平均寿命を知ってる? ちなみに世界で一番の長さらしいわよ」
「それとこれとは話しがちがう」
「そお? 同じだと思うけど」
腕組みして不快そうな表情を隠そうとしない空楽のドコがおかしかったのかサトミはプッと噴き出した。
「ま、同じ『常連組』の仲間として、頼られたんだから手を貸しましょうね」
清隆学園高等部の朝は早い。まるで刑務所のように校舎を囲っている高い塀に設けられた校門が開くのは日の出前の午前六時であった。
それ以前に校内に入るのは校則で禁止されている。時間までは機械警備の電源も入っているので、侵入はとても困難である。侵入者が居たとして、それをセンサーが検知すると、学園専属の警備員と近くを巡邏中の警官が五分以内に駆けつける事になっていた。
そういう理由で用事があるなしに関わらず、午前六時までは校門前の桜が植えられた並木道で教師も生徒も待つことになる。
今日も校門の前には数人のグループが、警備員がやってきて開門するのを待っていた。
グループごとに同じジャージを着ている事から、運動会系部活に所属する生徒たちで、朝連などのために早出して来ている事は一目見てわかった。
着替える手間を省いてのジャージ登校であるが、厳密に校則を適用するなら違反となる。だが、どの部活も都大会などに出場できるレベルであるから、黙認されている状態であった。
そんな体操着や練習着姿の生徒に混じって、きっちりと制服を着こなしている女子生徒がいた。カラーブラウスなんてとんでもないとばかりに真っ白なブラウスに、制服の臙脂色をしたネクタイを締め、ブレザーの両襟につける事となっている各種徽章もちゃんと所定の位置についていた。
左襟の校章とクラス章はどんな生徒でもつけているが、右襟の委員(会)章と流星の形をした徽章はつけられる者がそう多くは無い物だった。
その徽章はリーダー章と呼ばれ、各団体の「長」と呼ばれる者しかつけることはできない事になっていた。
白み始めた星空の光を反射している開いた本の徽章は図書委員会を示し、そのリーダー章を誇らしげにつけている女子生徒と言えば、おのずと限定される。
他の誰でも無い、図書委員会委員長の藤原由美子である。
二年生も三年生も委員会の仕事をろくに手伝ってくれないので、こうして彼女自身が早出して、色々な雑務を片付けなければならないのであった。
「あら、おはよ。姐さん」
いつもは一人で寂しくC棟に向かう由美子であったが、今日は話しかけて来る者がいた。
淡い色の長い髪にアーモンドの形をした赤茶色の瞳を持った女子生徒である。
冬用の制服には左襟につける事とされている校章はあるが、その下のクラス章をつける場所には何もついていなかった。
だが規則に五月蠅い由美子がそれを指摘する事は無かった。なにせ清隆学園高等部には、こんな女子生徒が在籍しないことを由美子は知っていたからだ。
「おはよ。なンだ? 今日は朝からその姿なのか? サトミ?」
春からの付き合いとは言え、何度も見せられれば見分けがつくようになる。授業を受ける時は男子の姿をしていることを知っていた由美子は、特に驚くことなくサトミと言葉を交わした。
「昨日はこの姿で帰っちゃって、一式置いていっちゃったのよ」
ちょっとスカートの裾を摘まみ上げてサトミは言った。
「さすがに、その姿で授業は受けられないか」
「私はいいんだけどね」
ニコッと笑ったサトミは、頬に指を当ててこたえた。
「いつもの姿じゃないと、先生たちが認識してくれないのよ」
サトミの言葉に由美子は溜息をついた。
「『常連組』だって半分はそうだろうよ」
その時、カタンという金属製の閂を外す音がして、ガーッと鉄製門扉が備える車輪が回る音が続いた。見れば警備員が校門を開けている途中だ。幾人かのジャージ姿が門扉を開くのに力を貸していた。
周囲の朝練組に流されるように二人も高等部の敷地へと足を踏み入れた。
朝練のある生徒たちは、直接その施設に向かうようだ。その足が向く先は、A棟の昇降口をくぐり抜けた先にある校庭か、さらに校庭を横断してC棟一階にある非常口を抜けて行くのが近い体育館や格技棟である。
そのみんなが通り過ぎるA棟の生徒昇降口で、由美子とサトミは上履きに履き替え、進行方向左にあるB棟の方へと歩き出した。B棟一階は三年生の教室が並んでいる、二年生以下は上の階だ。それを通り過ぎれば学食のあるD棟に繋がっている。A棟から直角に曲がってD棟を抜け、C棟の西端にある階段を昇れば図書室はすぐである。
「最近、冷えるようになってきたね」
清隆学園高等部の四つある校舎はどれも鉄筋コンクリート造りであるため、夏は暑気がこもりやすく冬は逆に底冷えする。もちろん気密性が高いので冷暖房が働けばすぐに快適になるはずだ。が、学園側が環境問題に取り組んだための省エネという言い訳で冷房も暖房も満足に入れてくれないのだった。
「これ以上冷えるンなら、あたしゃカイロを考えないと。指先が冷えると痛くなンのよ」
由美子が細い指をすり合わせてみせた。
「どれ?」
サトミが掬うようにして由美子の手を取った。
「わあ。まるで氷だ」
外で待っていた時間が長かったのか、由美子の指先は冷え切っていた。
「はぁ」
サトミは両手で包むようにした由美子の右手に優しく息を吐きかけた。
「どお? あたたかくなった?」
「や、やめろよな」
身長差から手で覆った由美子の指に向かってサトミは俯くように屈んでいた。
サトミの長い睫毛に見とれていた由美子は、顔を赤くすると自分の手を取り返すように引っ込めた。
「あ、姐さん照れてる」
プフッと噴き出したサトミの鳩尾へ、由美子は遠慮なくボディブローを叩きこんだ。
「をう」
たまらず身を屈して痛みに耐えるサトミ。
そんな毎日繰り返している子犬同士のじゃれ合いのようなスキンシップをしているうちに図書室の手前にある司書室の扉の前まで辿り着いた。由美子は預かっている鍵を取り出して、少々乱暴な金属音を立てながら解錠した。
「おはよー」
由美子よりも先にサトミが司書室へと飛び込んでいった。
「あ、コラ」
いちおう建前上は図書委員以外立ち入り禁止の部屋である。委員長の由美子を差し置いてサトミが入室することはあってはならないはずだ。
小さな溜息と共に鍵を通学用バッグに戻した由美子は、壁にある照明のスイッチを入れ、肩にかけて来た荷物を室内手前左側にある事務机の上へと置いた。
いつもなら窓際の指定席に座るサトミは、由美子と同じ事務机が集められた一角に用事があるようだ。
そこにあるのはコンビニエンス・ストアにも置いてあるような大型のコピー機だった。書類などのコピーだけでなく、ファックスと兼用であるし、さらに学内のWi-Fiにも繋がれているのでプリンターとしても使用できる代物だ。そのトレーに昨日由美子が最後に退出した時には無かった印刷物が存在した。
「また、おまえは学校の備品を勝手に使いやがって」
回線に接続しているので、サトミはデータでプリントアウトしたい物があるときはいつも遠隔操作でこのコピー機から出力するのだ。こういう使用法は図書委員会では想定していなかったため、いちおう消費した紙代ぐらいは請求することにした。が、他の生徒から見たら『常連組』が特権を乱用していると捉えられかねない。委員長の由美子としては控えて欲しい使用法であった。
「だって便利なんですもの」
裏返しになっていた紙をひっくり返して、無事に印刷されている事を確認する。
「今度はなンだよ。また得体のしれない論文か?」
前にサトミが印刷したのは、海外の科学誌に掲載されていた論文であった。コンビニのレジでもらうレシートにあるような細かい字で紙面を埋め尽くした英文であったが、紙を二〇枚も消費していた。あとちょっとでコピー機の紙が無くなるところであった。
「今日はコレだけ」
ヒラリと摘まみ上げた印刷物を由美子へと見せた。
「…マジ?」
A五用紙一杯に印刷されているのは、多数の円と正六角形、そして正方形を組み合わせ、さらに飾った文字でなにやら文言が書きこまれた図形であった。少しでもマンガやアニメが好きならば魔法陣と呼ばれる物だということが分かる物だ。
「フフ。右手が疼く…。風が騒ぐ…。伝説の赤き月により魔人解放の時は近い…」
手の中で広げた魔法陣を眺めながらサトミは意味深に呟いた。
「また下ンない物を印刷しおって」
対する由美子は腰に手を当てて眉を顰めた。科学誌の論文をプリントアウトするなら、まだ教職員へ言い訳が出来ようが、これはどう言い繕っても趣味の物としか分類できなかった。
「だいじょうぶい」
サトミは由美子に向けてVサインを出してから、コピー機のリセットを開始した。
「メモリーを初期化しちゃえば、証拠は残らないもの」
「あたしがチクったら?」
由美子の確認に、意外そうな顔でサトミは振り返った。
「姐さんが? チクる?」
「そらそうよ。委員長として司書室のコピー機の不正使用は見逃せないもの」
「え~、いいじゃん。紙っぺら一枚ぐらい。ちゃんとお金払うから」
いつも持ち歩いている青色のディパックを蔵書整理用の大テーブルに置いたサトミは、その上に魔法陣が印刷された紙をかぶせるように置いた。
「枚数は関係ないでしょ。不正は不正。先生に報告します」
「んもう、姐さんのイケズ。…わかったわ」
クルリとサトミは由美子に正対した。
女子の格好をしている時はさりげなく身を屈めたりして誤魔化しているが、高校生男子の平均身長よりも高いサトミがまっすぐ立つと、女子として平均的な身長しかない由美子は見上げる形になる。
正面から迫られると、普通の女子ならたじろいでしまう程の身長差だ。
「な、なによ」
いつも浮かべている軽薄な微笑みを消して近づいてきたサトミに、気を呑まれまいと由美子は声を上げた。ちょっと掠れていたかもしれない。
「料金以外の物を姐さんに払えばいいんでしょ? 他に無いから、せめてこの体で…」
そう言ったサトミは、制服のブレザーを肩から落とした。本当の中身を知っている由美子でも目を奪われそうになる細長い首筋が露わになった。
細く結んでいたネクタイを首元から抜いて、ブラウスのボタンを丁寧に上から外し始めた。陽に焼けたことが無いような繊細な肌がV字形に、司書室の照明に照らされていく。その神秘すら感じさせる肌が、淡いピンク色をした下着でそれ以上面積を広げることをやめた。
「~~!」
見かけだけは同性に見えるサトミの艶っぽさに、由美子は声にならない悲鳴を上げた。
「ああああああ、あにしてンだよ!」
すっかり動揺した由美子に、胸元をはだけたままでサトミは近づいた。
「姐さんを虜にしようかと思いまして」
「ばばばばばばっっっかじゃないの!」
自慢の右拳を振り回しながら由美子は悲鳴のような声を上げた。
「わわわ、わかったから! 先生に言ったりしないから! とにかく服をちゃんと着なさい!」
「え~」
あからさまな作った笑顔で眉を顰めたサトミは、何でもない事のように言った。
「せっかく大人の階段を上れるかと期待したのに」
「ふふふ、ふじゃけりゅな!」
「あいて」
由美子がグルグル回した拳が、運悪くサトミの顔面に命中した。大して痛そうでない声で拳が当たった鼻を押さえてから、いつもの微笑みに表情を戻した。
「やあねえ、着替えるだけよ」
「だったらヒトが見てないところでしろ!」
「じゃあ閉架をお借りしまして」
サトミは大テーブルの上に荷物を置いたまま、高価だったり希少だったりして禁退出となっている蔵書が並べられた司書室の本棚の列の間に姿を消した。
「おはよ~」
二人の漫才が終わるのを待っていたようなタイミングで、ゾロゾロと『常連組』たちが司書室に入って来た。
「おはよ」
面倒くさそうに由美子が答える。今日は特に用事が無いはずだが『常連組』の男子に混じって副委員長の花子までいた。
「おはようございます」
さすが華道の家元の娘といった感じの四角四面の挨拶であった。と、思ったらプフッと何かを耐えらなかったように小さく噴き出した。
「?」
「久しぶりに早く来たら、いい物が見られちゃった」
「はあ?」
一瞬何のことを言っているのか分からなかった由美子だが、すぐに顔が赤くなった。どうやら本当にギャラリーたちはタイミングを計っていたようだ。
「見てたの?」
「邪魔しちゃ悪いと思って廊下から、みんなと」
「ハナちゃん! そんなンじゃないから!」
慌てて言い訳しようとする由美子の後ろに、高身長の人影が立った。
「そんなあ。いい雰囲気だったじゃない」
ほとんど早着替えの時間しか経っていないが、清隆学園高等部の男子制服に袖を通したサトミであった。服を替えただけではない。肩を超える程に長かった髪は襟足に触るていどに短くなっているし、グロスを含む化粧をしていた肌は、お風呂上がりのようにスッピンだ。
声の調子も心なしか先ほどよりも低い気がした。
「ねえ。いい雰囲気だったでしょ」
サトミは同意を得ようというのか花子にウインクをしてみせた。
「いっぺん死ね! 死んでしまえ!」
振り向きざまに由美子は右拳をサトミの鳩尾に食い込ませた。
「げふっ」
いつも殴られ慣れているサトミですら腹を抱えてうずくまる程の威力があった。
「…」
しばらく口を空振りさせて何も言えなくなった。
「ん?」
それでも何か伝えようというのか、囁き声のような小さな声で言葉を紡いでいるようなので、由美子は花子と一緒に耳をそばだてた。
同じ文句を繰り返しているようなので、よく聞いてみた。
「…お腹の子になにかあったらどうするのよ…」
「なんべんでも死ね! 死んでしまえ!」
ふたたび由美子が拳を振るうのを見て、花子と一緒に入って来ていた『常連組』たちは笑い声をあげた。
こうして、いつもの日常が始まろうとしていた。
「どうしたの? 左右田くん?」
身長と胴回りが同じという奇跡の体型をしている圭太郎が、ひとり笑いの輪に中に入っていなかった者に声をかけた。
「いや、なんでも」
そのまま「ぬふふふ」と粘着質のある笑い声を立て始めた。
「お、おう」
気を呑まれた圭太郎は気が付かなかったが、左右田優の視線はサトミがプリントアウトしてディパックに被せるように置いた紙面に固定されていた。