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十一月の出来事B面  作者: 池田 和美
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十一月の出来事・②



 海城(かいじょう)アキラは、自室の学習机の上に置いた鏡に向かって、ヘアブラシを握りしめていた。

 深い溜息をつく。

 母が学生時代に使っていたという楕円形の鏡面から、アキラのことを見つめ返す美少女が居た。

 目鼻立ちは、はっきり言って標準以上。町中ですれ違う男が十人いたら八人は振り返るのではないか、そう思えるほど可愛らしさと美しさを併せ持った面差しをしていた。

 黒眼の大きな瞳には意志の強そうな光が宿り、瞳孔の中には青い炎のような物が見えるような気がした。可愛らしく小振りな鼻なんかは、誰かにチョンとつついてもらう事を待っているかのようだ。薄い唇は程よく湿っていてどこか蠱惑的(こわくてき)な魅力に溢れていた。

 有名な絵画や彫刻にあるような黄金律に支配されたような計算された美とも違う、生きている人間だからこその魅力がそこにあった。

 これを美少女と呼ばずに、なにをそう呼ぶのだろう。

 この部屋に、こんな美少女が座っているなんて去年の自分が知ったらどう思うだろうか。なにせ去年の自分は思春期の中学生であった。喜んで飛び上がるだろうか? それとも戸惑って逆上して訳の分からないことを叫んでいるとか?

 ただし、それが自分自身だと聞かされたら、酸っぱい顔になっていただろう。

 なぜか。それはアキラが男の子だからである。ただし「元」という冠詞がついた。

 男の子から女の子に? どういう事? なんて疑問を抱く前に、身体が変化した原因のほぼ八割をアキラは推察できるはずだ。

 おそらく自分の身体にそういった変化があるとしたら、それは幼稚園からいつも一緒にいる幼馴染のせいだと断言できた。

 事実、今年の春。無事に受験を終えて清隆学園高等部に合格が決まったその日、それまで普通の中学生男子として暮らしていた海城(かいじょう)(あきら)は、不幸な交通事故に見舞われた。

 都市間を繋ぐ国道を渡ろうとしたところに大型トラックが突っ込んできたのだ。そのまま異世界転生の一つ起きても不思議でないような事故であった。

 通常だったら、そのまま死ぬかと思われた彼を救ったのは、大人たちから「明日のノーベル賞受賞者のその候補」と評価されているほどの天才である彰の幼馴染であった。

 ただし残念な事に、幼馴染は天才である前に真性の変態であった。

 よって、この始末。母親よりも高かった身長は同じぐらいに、学ランがそれなりに似合っていた胸板には二つの膨らみが。そして下も…。

 つまり今の海城彰は「女の子のようなもの」である海城アキラという存在に作り替えられてしまったのだ。

 まあ「あのままでは死ぬことは間違いなく、救命のためには仕方が無かったのだ」と当の幼馴染から言われてはいた。しかし幼稚園から続く長い付き合いのせいか、いまいちその言葉が信用できないアキラなのであった。何度も言うが相手は真正の変態だ、幼稚園からの付き合いのある友人の救命においても「好み」を優先させた疑いが濃かった。

「はー」

 今度は声に出すようにして溜息を漏らしてみた。

 三月の末にこんな姿になってから、はや半年。四月や五月なんかは、部屋に座っている時に、ふいにガラスに映った自分自身の姿にビックリして飛び上がったことがあった。

 さすがに最近は慣れて、そんなことは少なくなったが。

「はあ」

 何度目かの溜息をついてから、止まっていた手を動かし始める。ブラシで自分の髪を整えるなんて、こんな身体になってから身に着いた習慣であった。世の女性たちが毎日こんなに苦労しているなんて、中学生男子だった頃の自分は知らなかった。

 と、アキラの部屋の扉がノックされた。

「入るぞ」

 返事を聞かずに扉を開けたのは、これまたスタイルの良い美少女であった。目鼻立ちを見る限りは純粋な日本人ではなくエキゾチックな雰囲気を持っていた。

 背の高さというと今は小柄になったアキラと同じぐらいだ。そしてその身長に似合ったプロポーションをしていた。

 そして髪の毛も黒ければ瞳も黒い彼女は、真っ白なカッターシャツに、白黒のストライプ柄をしたロングパンツを合わせていた。

 腰に巻いたちょっとゴツいウエストポーチ風の物入れすらファッションに沿っていた。

 見た目もアキラと同じぐらいの十代後半であるが、大人びた召し物を身に纏っているので、いまはもうちょっと歳上のお姉さんに見えた。

 これほど黒色が似合う者もいないであろう。口に咥えた白い棒状の物すら大人を感じさせる。まあ、ソレはタバコではなくて世界的に有名なキャンディの柄なのだが。

 振り返ったアキラは、少々残念そうに視線を泳がせた。

「ん? どこか変か?」

「いや…」

 自分の身体を見おろして、さらに背中の方まで気にしているのは、春からの同居人である新命(しんめい)ヒカルであった。

 アキラが言葉を濁したのには訳があった。長めのボブカット程度に伸ばしたヒカルの髪に光る物が混じっているのを見つけたからだ。

 間違いなくアレである。年齢と共にメラニン色素を供給している幹細胞が死滅し、最初は色が薄くなっていき、だんだんと色自体が失われていくという…。まあ簡単に言ってしまうと白髪(しらが)である。

 もちろん目立つところに白髪があるなんて指摘すると大騒ぎになるのを知っているアキラが、ヒカルに教えるわけがない。

 よって先ほどまでとは違う質の溜息をつくことになった。

「お? なんだ生意気に溜息なんてついて」

 ニヤリと笑ったヒカルは、部屋の主の許可を得ずにズカズカと入り込んで来た。どうやらヒカルの機嫌はよろしいようで、咥えたキャンディの柄がピコピコと縦に揺れていた。

 もちろん思春期男子だった頃の彰ならば、勝手に他人が部屋へ入り込んでくるなんて、怒鳴り散らしかねない事態であったが、いまは違った。

 この美女と美少女の中間地点に居るような相手が、いきなり「女の子のようなもの」になって戸惑っていたアキラの世話をなにかと焼いてくれ、それどころか生命すら守ってくれる頼りがいのある存在であることを知っているからだ。

 そんな、お姉さんのような存在を一人っ子だった彰は気にするようになっていき、いまでは少なからず想うようになっていた。うまく伝えられなかったがヒカル自身にも、心の内を告白してあった。

 これが普通の男の子と女の子であったら無事にカップル成立といったところだ。年齢からして、ちょっとギクシャクした付き合いから始まるはず。そのまま何事もなく歳を重ねたら誰からも祝福されるゴールが待っていたかもしれない。

 だがそうはイカのチョンマゲ。アキラは既述の通り「女の子のようなもの」だし、実はヒカルも「女の子のようなもの」だった。

「ん?」

 自分を見つめるアキラの視線の意味が分からずに、ヒカルは小首を傾げた。

 アキラの幼馴染が、その天才的頭脳で開発した超技術『施術』。それによってアキラは死ぬ運命から逃れられた。(ついでに性別まで変わってしまった)

 それと同じ技術を、じつは世界には成功させている者が複数おり、事実上不老不死の身体を得ていた。

 ヒカルはその内の一人だ。

 と言ってもヒカル自身がその『施術』が使用できるわけでは無く、『施術』を扱う『施術者(マスター)』に『構築』された『創造物(クリーチャー)』なのだが。

 アキラと幼馴染との関係と同じと言えた。

「おまえ、出かけていたんじゃないのかよ?」

 ちょっと拗ねたような声が出た。

「あ? もしかして妬いているのか?」

 クスクス笑いながらヒカルはアキラの手からブラシを掬い上げるように奪うと、前を向かせて髪の毛を梳かし始めた。

「そんなんじゃねえけどよ…」

 鏡の中の自分が口を尖らせていた。

 二人が通う高校…、清隆学園高等部の文化祭である『清隆祭』が終了して半月近くが経っていた。それまで準備やら何やらドッタンバッタンと忙しかったが『清隆祭』一週間後の体育祭を終えれば、一般学生たちはスポッとやることが無くなって虚脱感に包まれているところだ。そんな時期に二学期の中間考査が控えているなんて、悪魔のようなスケジュールである。

 アキラもまた大騒ぎの後の軽い疲労感を伴った虚脱感と戦いながら、少しでも良い成績を残そうと勉学に努力しなければならなかった。

 対してヒカルは、放課後に出かけることが多くなっていた。

 ひとりで遊びまわっているわけでは無い。それにはちゃんと目的があった。

 既述した通りヒカルは、別の『施術者』に『構築』された『創造物』であった。自分の『施術者』と二人で、それこそ世界中を旅してまわっていたヒカルであった。『施術』により無限の青春が与えられたと言っていいほどの日々。しかし、それも終わりを告げた。

 クロガラスと呼ばれる第三の『施術者』に、自分の『施術者』が殺害されたからだ。

 ヒカルは仇を取ることを誓ってクロガラスを追っていた。しかし『創造物』は定期的に『生命の水』と呼ばれる薬物を投与しないと身体を維持する事ができないのだ。

 自分の『施術者』を失ったヒカルは、その『生命の水』を確保する事が出来なくなった。このままでは仇を取るどころか、道半ばで倒れることが必至であった。

 そこで『生命の水』に関する特別な物質の流れを追ったところ、『施術』を成功させたアキラたちに行き着いたのである。

 最初は乱暴的な方法でアキラたちから『生命の水』を奪おうとしたヒカルであったが、和解して協力関係を築くことになった。

 アキラたちは『生命の水』をヒカルに提供し、ヒカルはアキラたちを襲撃者たちから守るという関係だ。

 腰に回したウエストポーチのような物だって、じつは自動拳銃のホルスターである。

 二人の護衛のために、ヒカルは見た目とは違って本当は大人なはずなのに、女子高生のフリをして清隆学園高等部に通うことになったし、ちょうど空き部屋があった海城家に居候(いそうろう)する事になったのだ。

 ヒカルが最近出かけているというのは、その協力関係のためだ。

 隣家に住むアキラの幼馴染が出かける度に、身辺警護をするため一緒について行っているのだ。

 どこに行っているとかアキラへ一切の説明が無い。ただ『施術』の研究のためだとしか聞かされていなかった。

 春からおおよそ半年間、一緒に行動することが多かった三人である。「学生の本分は勉学だろ、家で中間テストに向けて勉強してろ」なんて言われてアキラだけ留守番では不満がたまる一方だ。

 変態ではあるがアキラの幼馴染が背の高いイケメン男子だから心配になっているわけではない…、はずだ。

「何しに出かけてんだよ」

 素直にヒカルへ髪の毛を委ねて、ここ最近で何度目かになる質問を口にした。

「だから研究のためだって」

 答えも同じであった。

 鏡に映るヒカルの表情はとても穏やかで、まるで妹か娘の髪を弄っているかのようだ。咥えている白い棒が楽しそうに左右に揺れていた。

「生意気に嫉妬なんてするな」

「嫉妬なんてしてねえよ」

 首を動かさずに鏡越しに睨みつけると、その視線に気が付いたヒカルはクスクスと笑った。

「じゃあ、なんで溜息なんてついてたんだよ」

「それは…」まさか本当の事を言うわけにもいかずに、アキラは両手を広げた。「なんで資本主義ってのは世にはびこるのかなって」

「はあ?」

 ブラシを動かす手を止めたヒカルは、アキラが小学生の頃から愛用している学習机の天板を見おろした。

 携帯電話とサイフ、それとブタさんの貯金箱が勢ぞろいしていた。

 どうやらアキラは自分の財産を確認していたようである。

「なんだ? 好きなマンガでも買いたいのか?」

「半分外れ、半分正解。オレが欲しいのはガシュウ」

「ガシュウ?」

 キョトンとしたヒカルは、ブラシを握っていない左手で、見えない何かを宙で捕まえるような仕草をした。

「ガシュ~ウ」

「それは往年のギャグ」

「仏教用語で悟りを邪魔する己の考えに妄執(もうしゅう)する…」

「それは『我執(がしゅう)』。ちゃんと倫理の授業は聞いてたぞ」

「果物を絞った時に出る」

「それは『果汁』」

「年賀状に…」

「『賀正』! そんなに変か? オレが『画集』が欲しいの」

「だってよ…」

 マジマジと鏡越しに顔を覗き込まれた。

「まさか変な物でも食べて…。おまえより長く生きて来たから忠告はしてやる。拾い食いはやめておけ」

「オレはペットの犬か何かか?」

 いいかげん頭に来て、アキラはヒカルの手を振り払って振り返った。自然と相手が立っているから下から睨みつける形となった。

「似たようなモンだろ」

 ヒカルはクスクスとまた笑うと、今度は前の方の髪を梳かし始めた。彷徨っていたキャンディの柄が、再び左右に揺れ始めた。

「で? 画集が欲しいなんて、まるで美術学校の学生みたいなことを?」

「ガ△ダムのメカデザの人なんだよ」

「あ、なんだ。そういう画集か」

 どうやらヒカルは、もっと高尚な美術品として価値の高い物を想像していたようである。

「バカにすんなよ。いまやガンダ△は、世界に通用する一大コンテンツなんだからな」

「まあ、そうだろうけど…。ガン■ムの画集ねぇ」

「いや、欲しいのはメカデザイナーをやっていた人の画集で、■ンダムの画集じゃないんだ」

「あんなロボット、誰でも描けるんじゃないか?」

「違うんだよなあ」

 別の意味の溜息をついたアキラは、首を動かさずに自分の携帯を手に取った。どうやら広告を見ていてスリープモードに入っていたのか、ちょっと触っただけで画面が復帰した。

 アキラが欲しいと言っている画集は、埼玉県出身で「女子高生モデラー」という伝説があるメカデザイナーにしてイラストレイターの物だった。

 画面には、金髪をした少女が青と白の二色をしたレーシングスーツのような物を着て、細い体格に似合わないほどの大きな剣のような銃のような物を構えた姿を画に落としたものが映っていた。

「こういうやつ」

「なんだ? 女の子が機械背負って。重そうだな」

「前回、前々回に出たやつなんか、ネットでプレミアついてるぐらいなんだからな」

 さっと操作しただけで、同じ画風の違う表紙をした別の画集が表示された。

 ブラシを握ったままのヒカルが眉を顰めた。咥えているキャンディの柄が天井を向いて動かなくなっていた。

「同じだろ?」

「違うんだって」

「ふうん」

 目をキラキラさせながら広告を見るアキラを見おろすと、ヒカルは手を再び動かし始めた。またユラユラとキャンディの柄が揺れ始めた。

「おまえ、そんなに金遣い荒かったか?」

「そんな自覚はないけどよ」

 アキラの懐事情は、その変わってしまった姿形や(よわい)十六にして冬の日本海で逆巻く荒波の中を遠泳し続けるような怒涛の経験に反して、ごく普通の物だった。つまり毎月、親から渡されるお小遣いが主力である。高校生ともなれば同じクラスにはバイトをしている者もいたが、アキラは主に身体が理由でそういった職に就くことができないでいた。

 出費の方も、ごく普通と言える。たまに帰り道に買い食いする程度。男の子らしく何かの趣味に費やしていたり、女の子らしく新色のコスメを買い集めたりしているわけでもない。春から一緒に居てヒカルはアキラが何かを欲しがるのを、ほぼ初めて聞いたぐらいだ。

「どれどれ…。画集にしてはそんなにしないな」

 ヒカルは改めてアキラの携帯に表示されている広告を確認した。

 最高額紙幣が必要ないほどの値段である。だが高校生が一度に出すとなると、ちょっと勇気が必要になる値段でもあった。

 ヒカルがチラリとアキラを試すように見た。

「買ってやろうか?」

「いや、いいって」

 即答であった。

「こういう趣味の物は、自分で買うからいいんじゃないか」

「お」

 目と口を丸くして驚いた表情をしてみせたヒカルは、すぐに柔らかい笑顔に戻った。

「立派に育って、まあ」

 まるで田舎で祖母と一緒に暮らす同じ歳の子供を持つ母方の伯母のような口調であった。といってもアキラにはそんな親戚はいないのだが。

「カナエの教育方針はしっかりしてるんだなあ。ああ見えて」

「うちのかあさんが厳しいのは知っているだろ。ああ見えて」

 一階の方から誰かがクシャミをしたような気配があった。

「でもよ…」

 なにかに気づいたヒカルは、手にしていたブラシを学習机に置きながら訊いた。

「あたしと五月にやったバイトの時の金は?」

 アキラたちと一緒に暮らすために色々と入り用だったヒカルが、飛び入りでちょっとした「バイト」をした。その時にアキラもついて行き、手伝いをしたことがあったのだ。

 プロとして仕事をしたために、それなりの金額が支払われた。雇い主からの給金はヒカルが自分の分と一括で受け取ったが、後になってアキラの分は別口座を設けてキャッシュカードにして手渡してくれた。

 もちろん自分で用意した口座であるから内容は良く知っていた。その金ならば、こんな画集は一冊どころか一ダース買ったってお釣りがくるはずだ。

「あ~、アレは、かあさんに渡してある」

「は?」

 ヒカルは自分でも思っていなかったような素っ頓狂な声を出した。口に入っているキャンディが落ちかけたのか、まるでソバのようにすすって口の中へと戻した。

「好きに使っていいよって」

「おまえ…、気前良すぎだろ…」

 呆れたように絶句するヒカルに、当然のようにアキラは言い返した。

「いや、食費も入れてない身としては、当然かなって」

「おまえよぅ」

 ヒカルは上から細めた目でアキラを睨みつけた。わざわざ柄付きキャンディを手に取って口から出すと、ソレでアキラの眉間を指し示した。

「男だったら普通、そういう裏の金はキープしておくもんだろ。そんな面白味のないヤツはもてないぞ」

「別にいいよ。いまは女の子にもてなくったって」

 ジッと見つめ返すアキラ。その視線の意味を即座に理解したヒカルは、頬を染めて慌ててソッポを向くと、キャンディを口へ放り込んだ。

「じゃ、じゃあ、コレどうすんだよ。諦めるのか?」

 ヒカルの質問に腕を組んで「う~ん」と唸り声を上げたアキラは、三分後に高校生らしい答えに辿り着いた。

「お小遣いの前借できないかな」

「さっきまで立派な事言ってたのに、ソレかよ」

 ヒカルは両肩を落として天井を見上げるのだった。



 木造モルタル建築の海城家は、ごく普通の庭付き一戸建て住宅である。

 二階にアキラとヒカルの部屋があり、一階が親たちの部屋と家族の生活スペースとなっていた。

 足音を殺して階段を下りるとそこはダイニングキッチンで、家族が揃って食卓を囲む場所となっていた。

 置かれた広めのテーブルに、花柄のテーブルクロス。冷蔵庫や電子レンジに囲まれたテーブルの向こう側には水回りに二口のガスレンジといった具合で、これまたよくある一般的な家庭の風景であった。

 一人っ子であるアキラを含めて家族は父母と三人である。いわゆる核家族という奴だ。椅子の配置もそれに見合った物になっている。予備として置いてあった四脚目の椅子は、今ではヒカルの指定席となっていた。

 そんなダイニングへ静かに下りて来た二人が目にした物は、テーブルの上に広げられた書類の山であった。

 破いた封書や、折り目のはっきりとした紙に混じって各種通帳と判子と朱肉まで出してあった。

 それらの前に座った人物が、百均で買った小さな電卓を前に、深い溜息をついた。

 脇にあった専用の湯飲みからは、すでに湯気は立っていなかった。

 見た目は少女と言って差し支えない程の若い女性である。いまは沈んだ感情を示しているが、茶目っ気が多そうな大きめな瞳を持ち、家事の邪魔にならないように短くした髪にはキューティクルの輝きがあった。

 なにより張りのある肌には皺の一つも見られなかった。目尻にカラスの足跡? そんな物なんて気配もなかった。

 男だったころ、つまりアキラが彰だった頃の友人たちは、小学生の時は年の離れたお姉さん、長じて中学生になった頃は話の分かる彰の姉妹という評価をしていた。そして最近はその“姉妹”という単語から姉という文字が外れかかっていた女性である。しかしてその実態は…。

「どうしたの? かあさん?」

 そう、このどこから見ても中学生に間違えられるような容姿を持つ女性は、正真正銘アキラの産みの母親(おや)である海城(かいじょう)香苗(かなえ)であった。

 どうやら書類を前に「答え一発」とはいかなかった顔をしていた香苗は、憂いていた顔をすぐに明るい物に切り替えた。

「あ、アキラちゃんにヒカルちゃん。お茶? いま片付けるからね」

 超適当にバサバサと散らかしていた書類を集めると、いい加減に封筒へと突っ込んで場所を作る。席を立つと、集めた書類を開けっ放しだった引き出しに突っ込みながら、代わりに茶器をテーブルへと広げた。

「あー」

 顔を見合わせた二人は、いまさら部屋に戻ることもできずに、並んで席に着いた。

 サッと手際よく急須の中身が新しくされ、茶器専用のお盆に並べられた。三人それぞれの湯飲みへ順番にドバァーッと電気ポットからお湯が注がれ、温まったところで急須へと集められた。

 三角形に並べた湯呑に、順番へ緑色の液体が満たされていった。

「たしか買い置きが…」

 茶請けとして出てきたのはバターピーナッツであった。

 二人それぞれの前に湯呑が「はいどうぞ」とばかりに並べられた。

 姿形は中学生女子のような若々しい香苗であったが、主婦業は完璧なのであった。

「い、いただきます」

 緊張した面持ちで自分の湯飲みを手に取るアキラに、香苗は含み笑いのような表情をして訊いた。

「なあにアキラちゃん、ヒカルちゃん。二人して神妙な顔をして…」

 そこでハッと何かに気が付いた香苗は、両手を口元に当てて嬉しさに目を潤ませた。

「まさか、二人から大事な話しがあるとか?」

「は?」

 話しが見えなかった二人が顔を見合わせていると、勝手に盛り上がった香苗は弾む声で訊いた。

「赤ちゃんができたっていう話しでしょ。とうとう私もおばあちゃんになるのね?」

「は? はあ?」

 両頬を自分の手で挟んだ香苗は、あっけに取られている二人の前で、赤くなった顔を左右に振って嬉しがっていた。

「初孫の顔をこの歳で見られるなんて、私、幸せ者だわ」

「をい」

 ヒカルが据わった目でテーブルの反対側を睨みつけた。咥えているキャンディの柄が怒りのあまりに天井を差していた。

「初孫どころか初潮すら来てねーような顔をしてるくせに、なにを勘違いしてんだ」

「だってだって二人してそんな顔をしてるんだもの。で? どっちが父親で、どっちが母親?」

「ヒトの話しを聞いてんのかコラ」

 だいぶ血圧の上がった声を出したヒカルは、後ろ腰に回したウエストポーチ風の物へ手を伸ばした。ある程度の防水を保証する蓋についたマジックテープをバリリと剝がすと、中身を躊躇なく取り出した。

「ばか」

 アキラは、サッと自分の母親に向けられた黒い自動拳銃を、横から手を出して下から上へと跳ね上げた。そうである、ヒカルの腰に巻いてあるのはただのウエストポーチではなくて、銃のホルスターなのであった。もちろんアキラたちの身辺警護に必要だから持っているのであるが、こうして本来の使用目的以外に持ち出される事もあるのが困ったところだ。

 日本の一般的な家庭には一〇ミリAUTO弾は飛び交わないはずだ。

「そのすぐ抜く癖、やめろよな」

「うるせ」

 黒い自動拳銃を握る手を怒りのあまりか震わせながらギョロリとヒカルが睨みつけた。

「あたしは、この手の冗談は嫌いだ」

「あら」

 香苗は自分に一〇ミリ口径が向けられたことを屁とも思っていない様子で言った。

「冗談じゃなくて、半分以上本気なのに」

「あ?」

 睨む先を横からテーブルの向こう側へ変更して、ヒカルがどこから出しているのか分からないような低い声で噛みついた。筒先の代わりにキャンディの柄が彼女に向けられた。

「なにが本気だって?」

「アキラちゃんとヒカルちゃんの子供の話し」

 テーブルに両肘をついた手で、自分の頬をくるむようにした香苗は、とても優しい微笑みを浮かべた。

「アキラちゃん、優柔不断なとこがあるから、ヒカルちゃんみたいなしっかり者が(そば)にいてくれたら、バランスがいいと思うの」

「ばっ」

 香苗の口撃(こうげき)で顔どころか耳たぶまで赤くなったヒカルは、窓の方を向き、そして黒い自動拳銃を握る自分の右手が、まだアキラの手に掴まれている事に気が付いた。

「は、はなせよな」

「あ、ああ」

 こっちも頬を染めていたアキラは、慌てて手をテーブルの下にしまった。

「ふん」

 見事なガンスピンを決めてから、ゆっくりと得物をホルスターへと戻すヒカル。

「で? なにやってたんだ?」

 話題を変えようとしていることは見え見えだったが、アキラもそれに乗ることにした。

「なんか深刻な顔をしてたけど…」

「ああ、あれ?」

 香苗はいまさっき閉めた引き出しを振り返ってから、あからさまに作った笑顔を二人に向けた。尖らせた唇に立てた人差し指を添えた。

「ナイショ」

「ふん」

 行儀悪く片足を椅子の座面に上げたヒカルは、咥えていたキャンディを湯呑の横に置かれたバターピーナッツの皿の上に置いた。その手で湯呑を掴んだヒカルは、何でもないようなことのように言った。

「おおかた家のローン返済やら火災保険やらの見直し時期が来て、やりくりに溜息が出たってトコだろ」

「…」

 香苗は一言も発しなかったが、作り笑顔の端にヒビが入っていた。

「どいつもこいつも不景気な(つら)しやがってよ」

 とても良く似た母娘(おやこ)の顔を見比べてヒカルは言い切り、ズーッとお茶を啜った。

 アキラは何となく天井を見上げ、香苗は小さく吐いた息の行先を探すようにテーブルの上へ視線を彷徨わせた。

「アキラはともかく、カナエはパートか何かに出ればいいんじゃないか?」

「それも手よね」

 いつもの明るい表情を取り戻した香苗は、テーブルについていた両腕を外すと、自分の湯飲みへ手を伸ばした。

「でも、とおさんに『君には家に居て欲しい。俺の宝物だから』なんて言われちゃうとねえ」

 割と似ている夫の声真似を披露した後に、伴侶の甲斐性のある横顔でも思い出したのか、香苗がイヤンイヤンと身を捩って見せた。

 思わずため息をつく二人。アキラの実父であり香苗の夫である海城(かいじょう)(つよし)氏は真面目なサラリーマンである。今年に入って会社が忙しいのか、アチコチへの出張が重なって、家でゆっくり過ごす暇が無いほどである。今週も千葉県は房総半島の先にある漁港へ泊りがけで出張中だ。

 収入の方は、もちろん住宅ローンを無理なく返済できるだけあるはずだが、まあ世の中インフレーションやら政策金利の変動やら、家計を直撃する色々な物があるということなのだろう。

「なんだったら…」

「宝くじっていうのも手よね」

 ヒカルが何か言い出す前に香苗が遮るように言った。

「贅沢な事は言わないわ。一回でいいから一等前後賞ぐらい当ててくれないかしら」

「それのドコが贅沢じゃないんだよぅ」

 実子のアキラからですら呆れた声が出た。

「だって、これまで何回も買って来たんだから、一回ぐらいは当ててくれてもいいと思うの。一等賞」

「なんだよ、その理論」

 ヒカルに至っては呆れるを通り越して悟りの境地まで至っているような声になっていた。


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