十一月の出来事・⑲
「あいてて」
突然の転覆であった。それでも二人を傷つけないように身を捻り、柔らかい腹部が当たるようにしたサブちゃんが、文句たらたらに身を起こした。
「いったい、なんだって言うんでい」
ゾーイと和子が座っていた進行方向右側を下にして、電車が傾いて止まっていた。
あとはシュウシュウと不気味な音が近くでする。
「なんだ? 事故か?」
誰かが傾いた床を登って左側の窓を覗く。
「機関車とぶつかってやがる」
町の明かりに透かして見ると、たしかに丸い影が窓の近くにある。すぐに町の明かりが煙で見えなくなった。
幸い衝突脱線事故といっても、並走していた列車同士が接触し、こちらは右側を下に傾いた程度。衝突の衝撃もあったが、それだって駅への急停車程度であった。
少々の打ち身はあったが、三人の中で目立った怪我をした者はいない。
暗い中を見回しても、床から呻き声を上げながら立ち上がる人がいる。しかし動けない程の大きな怪我を負った者はいないようだ。
「燃え移るんじゃないか?」
誰かが不安そうに言った。一○年ほど前に東海道線の国電で火事があり、一○〇人を超える乗客が、車内に閉じ込められて焼け死ぬ事故があった。それを覚えていたのだ。
だが大きな事故が起きた後に、何も対策がされていないわけではない。暗闇の中で乗客の誰かがシートの下へ手を入れ、非常用ドアコックを操作した。
これで走行中は開かないようにドアエンジンにかけられている空気圧が抜け、手動でドアが開けるようになる。
ガラガラとまるで立て付けの悪い教室の扉のような音を立てて、電車のドアが開かれた。
右側が下になっているため、自然と乗客たちも、そちらから車外へと下りた。
「あっしらも出ましょう」
サブちゃんに促されてゾーイは和子に支えられながら傾いた車内に立った。
ホームがなく線路までの高さがあったが、傾いたことで少しはその距離が縮んでおり、先に降りたサブちゃんの手を借りて、二人も車外の人になった。
「なんか音が大きくなってないか?」
顔の知らないサラリーマン風の男が、誰に言うでもなく不安を口にする。
街の明かりに透かして見れば、どうやらまず蒸気機関車が側線から本線へ向かって倒れるように脱線。そこへ突っ込んだ国電が斜めに転覆したようだ。
国電へ横から倒れ掛かるように脱線した蒸気機関車からは、黒い煙や白い蒸気が盛大に上がっていた。
「安全弁が働いていればいいが…」
別の職人風の男が同意する。蒸気機関車は丸い胴の中でお湯を沸かして、その蒸気の力で走る。しかし倒れた事で制御不能となり、その蒸気圧力が異常に高まるかもしれないということだ。
「うへえ、たまったもんじゃねえ」
サブちゃんが大げさに肩をすくめた。
「…駅の方向へ避難してください」
遠くからそう呼びかける声が近づいて来た。
まだ明るい三両目の下から紺色の服装をした男が現れる。どうやらこの電車の車掌が様子を見に来たようだ。
「爆発するぞ!」
車掌へ現況を簡単に知らせるために、サブちゃんが怒鳴り声をあげた。その一言で車掌は転げつつ後部へ向けて走っていった。
逃げたのではなく、おそらく色々やるために車掌室へ戻っていったのだろう。
「さて、あたしらも行きましょうかね」
ここで倒れた電車を眺めていても意味はない。それにもう九時半になろうかという頃合いだ。あまり中学生の女の子を連れまわすのに似合いの時間ではない。
他の人はどうしているのかと見回せば、来た方向へ戻る者、先へと歩き出す者、半々のようである。
「戻っても無駄でやんしょ」
どちらにするか迷った直後に、サブちゃんが提案してくれた。
「この様子じゃ明日まで国電が動くかどうか。だったら千住まで歩いちまった方が早い。駅前に電停もあることだし」
「そうね」
彼の意見の整合性に頷いたゾーイは、和子と支え合いながら線路を歩き出した。事故が起きたあたりは高架線路になっていて、進むか戻るかで他に行く道がない。歩きにくいが枕木を選んで足を進めるしかなさそうだ。
「和子は、怪我していない?」
「私は大丈夫。ママは?」
「私はサブちゃんのおなかがぶつかっただけだから。サブちゃんは?」
ゾーイの問いかけに、いつものようなお道化た返事は無かった。
「?」
反応が無いので彼を振り返ると、青ざめた彼の顔がはっきりと見る事ができた。
(なにをそんな顔をして…)
そこまで考えて気が付いた。夜の町、しかも線路の上である。暗くて見失うことはあっても、こうして相手の表情を細かく観察できるのはおかしいはずだ。
耳を押しつぶすような警笛の音。
進行方向に顔を向けると、ゾーイたちが立っている線路の上を、別の電車がやってくるところだった。
娘を抱きしめるだけで精一杯だった。
「はっ」
息を吞んで目を開いた。身体には鋼製車体に跳ね飛ばされた衝撃が纏わりつくように残っていた。
「目が覚めたか」
声をかけられて横を向くと、見慣れた椅子を前後逆にして、明実が座っていた。待ちくたびれたという表情も隠さずに、背もたれに乗せていた顎を上げた。
「ここは…」
慌てて周囲を見回す。見慣れた天井に、見慣れた家具。小学生の時から使っている学習机に、いま明実が座っている椅子。
何のことはない、海城家二階にあるアキラの部屋であった。
いまアキラは自分のベッドに横になっており、身体は何かに押さえつけられているように重かった。
室内が薄暗く感じたので、何度も瞬きをしていると、明実は席を立って照明のスイッチを入れに行った。
「まぶし…」
「幸い怪我などはしておらん。打ち身が少々といったところか」
「いまは何時だ?」
明るくなった室内で、学習机に置きっぱなしの目覚まし時計へ視線を走らせた。明実が気を利かせて目覚まし時計を手に取って、盤面が良く見えるようにしてくれた。
「もう夕飯の時間?」
「そうだ。よく寝ておった」
「ふう」
身体の緊張を抜きながら頭を枕へと沈めた。
「悪い夢を見た」
「そうかもな。うなされていた時間もあったからの」
「学校に『えいせいばくげき』があって、大爆発に巻き込まれるんだ」
「あー」
アキラの台詞を聞いて明実はコメカミを掻いた。
「?」
「それは夢では無いぞい」
明実は、まるでそれが肌であるかのように着たままの白衣の内側から、自作の「象が踏んでも壊れないスマートフォン」を取り出した。
サッと画面を撫でて映像を呼び出した。
「ほれ」
見せてくれたのは全壊した中等部旧校舎の姿であった。今日の朝までは漢字の凹の形をしていた旧校舎は、中央部が見事に瓦礫と化し、残った耐震補強の鉄骨が形作る鎹だけ残って凶の字のような印象となっていた。
「オイラが科学技術衛星に搭載してもらった『史上最強エアソフトガン<チェリャビンスク・クラッシュ>』が二階中央部に命中。建物躯体は破壊され、後から追加で工事された耐震補強の鉄骨を残して瓦解した」
「あ、あが…」
アキラはポカンと口を開けて明実の画像を見た。
「幸い怪我人はおらんかった。大学生たちは車で避難しており、オヌシたちは地面に伏せておったのが幸いしたのう」
「槇夫先輩に指示されただけだ。怪我人がいない?」
壊れた鉄筋コンクリート造りの様子からは信じられないような報告であった。明実の指がスマートフォンの画面を指差した。
「うむ。こちらの八人中二人が東側ペントハウスに、残りが西側ペントハウスの真下におったからの。階段室は壁で囲われておるから強度が高いことは…」
「そこまで崩れるようだったら、どうしたんだよ」
アキラのツッコミにちょっとだけ右の眉毛を上げた明実はしれっと答えた。
「オイラの緻密な計算では崩れないことが分かっておった」
「うそつけ」
アキラは一刀両断した。
「出たとこ勝負で、崩れなければラッキー程度で使っただろ」
「そんなことはないぞ」
表面上は自信たっぷりに明実は言い放った。
「で、衝撃の余り凍り付いた残りの二人は、こうしてユキちゃんのサブマシンガンでインク塗れにしてやったわ」
ハッハッハと上げる笑い声がわざとらしかった。画面は壊れた旧校舎から、ペイント弾の被弾によるものと思われるインクで染められた二人のSWAT隊員といった絵柄に切り替わった。あの腹の贅肉はSMCを代表して喋っていた漢字コートの男で間違いないだろう。
「じゃあ、オレたちの?」
「うむ。勝ちじゃな」
画面はまた切り替わり、バンザイをして喜んでいる恵美子と、主に精神的な疲労を表情に浮かべる由美子という映像になった。
「オヌシたちがコジローを庇ってくれたおかげで、こうして彼女には擦り傷一つついておらん。よくやったの」
「おまえが他人の怪我を心配するなんて珍しいな」
森羅万象を科学的見地で判断する明実ならば、怪我の程度を心配する事はあっても、負傷の有無を話題にすることは珍しかった。だが意外にも長く付き合って来た幼馴染も人間らしいところがあるようだ。
「さすがにコジローほどの美貌に傷がついたら人類の損失と言っても良いだろうからな」
アキラもその意見には賛成であった。
「まあコジローに怪我が無ければいいか。どうせオレたちは、シリンダーに入ればケロッと治る身体だしな」
「うむ。ただ破片の当たりどころが悪かったのか、目を覚まさずにいたのは計算外だったの」
アキラが目を覚ましたので、ここにはもう用は無いと言わんばかりに明実は部屋の扉に向かった。
「どうして素直に幼馴染が無事でよかったって言わないかねえ」
アキラの言葉に明実は足を止めて振り返った。ちょっと咳払いのような事をしてから口を開いた。
「…いまさら?」
どうやら彼なりに照れているようだ。
「心配してくれてありがとな」
「ふん。それでは夕飯には呼びに来る」と、まるで我が家に居るような態度の明実。どうやら今晩の夕食は海城家で食べていくつもりのようだ。
「ヒカルが目を覚ましたら報告してくれ」
明実の指がアキラを差した。アキラの身体にかけている毛布の壁側が不自然に盛り上がっていた。毛布をめくって見なくても、温もりでヒカルがそこにいるのは分かっていた。
「ああ」
適当に答えたアキラの声を聞きつつ、明実は退出して行った。廊下を進み階段を下りて行く足音が聞こえた。
もういいだろうと毛布の中を覗いてみた。そこには母親の胸にしがみつくようにして寝る幼子といった感じで、ヒカルの頭があった。爪の形まで美しいヒカルの両手は、アキラの胸を包むベストの生地を握り込むようにして抱き着いていた。そこで初めてウエイトレスのコスチュームを着たままなのに気が付いた。
「う…、く…」
どうやらヒカルの眠りは浅いようだ。子猫が母猫に甘えるように顔をアキラの身体に擦りつけてくる。
ちょっとイタズラっ気を出したアキラは、ヒカルの鼻を摘まんでみた。
「ふが…、ふがふが」
まるで子猫が顔を洗うように、柔らかく握った拳で、鼻を塞ぐ障害物をどけようとする。その仕草ひとつが愛らしかった。
「むが? ふが!」
息苦しさに目を覚ましたヒカルは、黒い水晶のような目を開くと、自分の鼻を摘まむアキラの手を握って、顔を見上げて来た。
「おはよ」
「…おはよう」
とても機嫌悪そうな声である。ヒカルは起きることにしたのか、毛布を押しのけるようにしてアキラから離れた。
「いま何時だ?」
周囲を確認しながら、後ろ腰のホルスターへ手を伸ばす。アキラの部屋と分かって安心したのか、銃を抜くことはしなかった。
「もうこんな時間かよ」
ヒカルはアキラと同じ方法で現在時刻を確認した。いまだ横になっているアキラを見おろすと、ニヤリと笑ってみせた。
ドンと両手を顔の横に着いて馬乗りになって来た。
「な、なんだよ」
熱い視線で見おろしてくるヒカルを枕から見上げると、わざとらしく舌なめずりをしてみせる。そのまま顔が落ちて来た。
「む」
熱い口づけを交わしていると、ヒカルの手がアキラのスカートにかかるのが分かった。
「タイムタイム」
慌ててヒカルの手を掴むと、キスから逃れてアキラは声を上げた。
「なんだよ。昨日の続きは嫌か?」
ちょっとつまらなそうにヒカルが口を尖らせた。
「そりゃしたいけど、ここじゃダメ」
頭の片隅で、もし男だったらこの誘惑に負けていただろうなと思いながら、アキラはヒカルへダメ出しをした。それが意外だったのか、ヒカルの声が鼻にかかったように甘くなった。
「なんだ? いつ親が見に来るか分からないから、落ち着かないか?」
「いや」
「?」
ヒカルの確認を即座に否定すると、訳が分からないとばかりに目を丸くされてしまった。なので、ある事実を告げる事とした。
「監視カメラ」
「は?」
「この部屋には、たぶんアキザネが仕掛けたカメラがあるはずだ。それで今も見られていると思うぜ」
アキラの言葉に訝し気な表情のまま室内を見回すヒカル。
「…どうゆうことだ?」
「昔、幼稚園の時に迷子になってさ」
アキラは昔話を始めた。
「ある日、どこまでも行けるような気がして冒険に出かけたことがあんだ」
「幼稚園児が?」
アキラの上に座ったヒカルは理解できないとばかりに腕組みをした。
「三輪車を買ってもらったんだ」
「あ~」
ヒカルが納得して手を打った。
「それで隣町まで行ったところで迷子になって、半べそをかいてたとこに、アキザネが迎えに来てくれたことがあったの」
話しが見えたとばかりにヒカルの右眉が額の方へと上がって行った。
「まさか発信器か何か仕掛けられていたのか?」
「そう。三輪車の方にね。それがきっかけでアイツは、オレがどこかに行っても回収できるように、色んなところに発信器やらカメラを仕掛けるようになったんだ」
「…。頭がおかしな奴だとは思っていたが、まさか偏執狂までこじらせていたのか」
納得の表情で腕組みをするヒカル。
「おまえ言ってたろ。カメラが仕掛けられているところで、ああいうことは無しだって」
昨夜の事を思い出しながらアキラは告げた。
「だから、この部屋でそういうことは止めた方が…」
アキラはセリフを言い切ることができなかった。ふたたびヒカルに口を塞がれたからだ。
「ぷは」
長めのキスの後、息継ぎするようにアキラはヒカルから離れた。
「き、聞いてたか? 監視カメラが…」
「キスぐらいはいいだろ? ダメか?」
逃すまじと格闘技の寝技のようにアキラへ腕を絡めながらヒカルが訊いた。その質問にヒカルの腕から逃れようと動いていたアキラの動きが止まった。
「…。キスぐらいなら」
十一月の出来事B面・おしまい