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十一月の出来事B面  作者: 池田 和美
12/19

十一月の出来事・⑫



「は? 中等部旧校舎(ここ)に泊まる?」

 夕飯の炊き出しの列に並んでいたアキラは、配膳をしていた女子大生に目を丸くされてしまった。昼といい、夜といい、同じ女子大生である。もしかして槇夫のグループの炊事係なのだろうか。見かけは学問優先で家事は後回しといった雰囲気なのに意外である。

 もうちょっと具体的に言うと学校で教鞭を取り、理論的に論破されない限りは自分のルールを押し付けてくるようなタイプだ。厳しそうな吊り上がった目に、主張の強い鼻筋、口元もたおやかというよりガッシリと歯列が揃っていて、言葉を言い切るという話し方だ。

「え、ええ」

 空がだいぶ赤くなった頃、無事に撮影機材の設営は終了した。午前中のままヒカルと二人で続けていたら終わらなかっただろうが、午後の自習会を不参加に決め込んだ『常連組』が次々にやってきて、最後は十人以上で取り掛かって終わらせることが出来た。

 作業が終わって夕飯の炊き出しの列に並んだら、世間話のついでに今の質問が投げかけられたというわけだ。

 量産品のプラスチック製ボウルに豚汁を注いでいた女子大生は、お玉を寸胴鍋に放置して、コンロが置かれた長テーブル越しに腕をのばした。

「な、なにを…。あいててて! タンマタンマ! オタケさん痛い!」

 アキラの後ろにはヒカル、明実の順に並んでいた。カレー皿にご飯とカラアゲを乗せて、ここで豚汁を受け取れば、今日の炊き出しメニューは受け取ったことになる。

 悲鳴を上げているのは、明実のさらに後ろに並んでいた山奥槇夫であった。

「おおおおオタケさん! ちょちょちょっと! いたいって」

 右の耳たぶを引っ張られた槇夫は、カレー皿のバランスを取るのが忙しくて、逃げることもできないようだ。

「なに考えてんのよ」

「ナニ?」

 二人の前で大学生が顔を突き合わせて話し始めた。

「こんなに可愛い()たちに、もしもの事があったら、どう責任取るのよ」

 ギリギリと「オタケさん」こと女子大生の眉が寄せられ、同じように槇夫の耳たぶがねじ切られるばかりに引っ張られた。

「いだいいだいって!」

「安心してください」

 槇夫のさらに後ろに並んでいたサトミが、微笑みながら口を挟んだ。

「彼女たちのために、鍵のかかる部屋をひとつキープしてあります。それに皆さんが『紳士』であることは、オレも知っておりますから」

「一番あやしいヤツに言われてもなあ」

 オタケさんは遠慮なく言い捨てると、ぐいっと槇夫の耳たぶを引っ張ってから乗り出していた上半身を戻して、最後に伸ばしきったゴムを離すようにして手を開いた。気のせいかパチンという音が聞こえた気がした。

「おう」

 あまりの痛みにカレー皿のバランスをとりながらも、その場にしゃがみ込んでしまう槇夫であった。

「まったく。女の子なんだから身の回りの事に注意しなきゃダメでしょ」

 寸胴鍋の向こう側に戻った彼女は、年長の女性らしく二人に注意した。

「え、でも」

 アキラが後ろに並ぶヒカルと明実へ視線をやった。

「しょうがねーだろ、アキザネが残るって言うんだから」

 つまらなそうにヒカルが言い、二人して明実を見た。

「はは~ん」

 すると、それを見ていたオタケさんの目が細められた。

「そういうことか」

「どういうこと?」

 なにか深刻な誤解が発生したように思えた。

 アキラもヒカルも外見だけは、街を歩いているだけで振り返って見る男がいるぐらいの美少女である。そして明実も欧州人の血が入っているので彫が深くて(黙っていれば)素人モデルぐらいのルックスではある。

 ちなみに今夜、泊まり込むことになった理由は、各所に配置したカメラから画像を受け取る中継器の調整が終わらなかったせいだ。置いて来るだけのカメラはともかく中継器の方は機械に強い明実でないと分からない。担当している明実にどうするか訊いたところ、徹夜になろうともこのまま中等部旧校舎に泊まり込んで総仕上げをすると言われたのだ。

 そうなると護衛のヒカルも泊まり込むことになるわけで、自動的にアキラも半ば野宿のような環境で寝る事となった次第である。

 ちなみに家に外泊の許可を得る電話に出た香苗は二つ返事で了承した。その口ぶりからして、どうやらアキラの言葉よりもヒカルが一緒という事の方が重要視された気がした。

 なにやら色眼鏡がかかったような視線が、一人飛ばして後ろの人物に移った。

「あなたがちゃんと守ってあげるの?」

 睨みつけられてもサトミは平然と言った。

「もちのろんでございます」

 とても安請け合いのように見えた。これも普段の信用度のせいなのだろうか。

「う~」

 眉を顰めてサトミを睨んでいたオタケさんは、右の小指を差し出した。

「?」

「ゆびきり」

「…」

 清隆大学では、オーバーテクノロジーではないかと疑われる最先端をさらに突き抜けた技術を研究していたりする。その科学の学び舎と同じ敷地で「なんとも非科学的な方法を提案するんだね」とデカデカと顔に書いたサトミは、それでも微笑みを崩さずに女先輩と小指を絡めた。

「ゆびきりげんまん、うそついたら、ハリセンボンの~ます。ゆびきった」

「ハリセンボンは、だいたい一五〇本ぐらいの針を持っとるらしいぞ」

 どうやら明実は海洋生物学にも造詣が深いようだ。

「言っておくが、魚のハリセンボンじゃないからな」

 炊き出しに用意されたメニューを全て受け取ったヒカルが、パイプテントの方へ歩き出しながら言った。

「えっ」

 知らなかったアキラが声を上げると、オタケさんが鍋の中をかき混ぜて、具が底に沈んだままにならないようにしながら教えてくれた。

「ゆびきりって、子供のまじないらしくて、けっこう残酷なのよ。まず『指』を『切る』でしょ。『げんまん』も『げんこつ』『一万回』…、まあ数は例えで、数えきれないほどっていう意味なんだけど、つまりそれぐらい殴るぞって脅しているわけ。それで『針』『千本』って言うのは…」

「…二人とも、この近くの出身らしいよ」

 説明の途中でサトミが口を挟んで来た。

「は?」

「だからハリセンボン」

「それは人間のハリセンボンでしょ」

 呆れた顔をして見せるオタケさんを置いてサトミが続きを教えてくれた。

「『針』って言うのは『縫い針』らしいよ。『千本』は『げんまん』と同じで実際の数じゃなくて例えじゃないかって」

「殴って針飲まされて、指切るのか。さんざんだな」

 ヒカルに先を越される形で抜かされたアキラは、豚汁が入ったボウルを受け取りながら首を竦めてみせた。

「あ~、オレの知り合いに居るなあ…」

 自分の分の豚汁を盛ってもらいながらサトミは一番星が輝き出した空を見上げた。

「?」

「指が一本無いヒト。その人、ヤッパもハジキもベンツも持ってるし、団体(カイシャ)は一等地に事務所すら構えているのに、なぜか小指だけなくてさあ」

「そのヒト、小指の事『エンコ』って呼んでなかった?」

「あら、なんで分かるんだろ?」

 眉を顰めて質問したオタケさんに、不思議そうにこたえるサトミなのであった。



 研究所の近所にある洋食屋で、城國吾一はカツレツを注文した。マサチューセッツ州生まれのゾーイは当然ビフテキ。二人の付き添いをしてくれているサブちゃんには「遠慮なく注文してくれて構わない」と言ったのだが、食べ慣れているという理由で(日の丸の旗が立ててある)オムライスを選んでいた。

 中学生なのに「おこさまランチじゃないのかい」と、いつもサブちゃんにからかわれる和子は、ハンバーグを選んだ。

「もう、わたし中学生よ」

 プイッとそっぽを向く娘の和子は(親の贔屓目もあるだろうが)美しい少女に育っていた。あと何年かすれば引く手あまたの美人となるだろう。

 母親であるゾーイ譲りのはっきりとした目鼻立ちに、未だ腰すら曲がっていない吾一の母親…、彼女にとって祖母となる人からの遺伝か、きめ細かい肌を持っていた。

 ゾーイは、それがアメリカ風の教育なのかもしれないが、和子の顔立ちを遠慮なく褒めちぎる。しかし本人には、自分の容姿に気に入らない点が複数あるようだ。

 その中で一番気に入っていない物は、両親の髪の色を絵の具で混ぜたような栗色の髪らしい。本人が語るところによると、同級生の春香ちゃんのような黒髪が欲しかったようだ。

 まあ大人になれば染めるなど色々手はある。いまは自然のままの美しさを鑑賞していたい吾一なのだった。

 それから一家団欒といった感じで、とりとめない話をした。最近流行している歌謡曲やら、この前引退した若乃花のことなど、話題が尽きようもない。

 それがいけなかったのか、時計を確認すると九時を回ってしまっていた。

「さてと、サブちゃんよろしく頼むよ」

「合点承知の助。奥さんとトモちゃんは、しっけりあたしが送って行きやすよ」

 下町生まれの下町育ち。紛れもないチャキチャキの江戸っ子のサブちゃんが爽やかな笑顔を見せる。城國邸の近所で小さい商いをやっている彼だが、なにかとこうして面倒を見てくれて、研究で家族をほったらかし気味の吾一には有難い存在になっていた。

「今度、お礼をしなくちゃね」

 吾一の好意に、そっぽを向くサブちゃん。

「水臭えぇ。あたしゃ美人二人をこうして連れまわせて、それこそ両手に花ってやつでさぁ。これ以上なにか頂いたら、駒込のお不動さんに叱られるちゅうもんだ」

「…。和子はやらんぞ」

 ふと気が付いて吾一が釘を差す。サブちゃんの年は知らないが、まだ二〇代のはずだ。この先、和子が高校大学へと進学したら、そんなにおかしくない年齢差でもある。

「やだ、パパったら」

 そこで赤面などしたら勘繰りたくもなるが、中学校の制服姿の和子はケラケラと笑ってみせた。サブちゃんの方が、歳の割に純情なのか顔を真っ赤にしていた。

「堪忍してくださいよ」

 そう上げた悲鳴のような彼の声に、城國家一同は吹き出してしまった。

 それから吾一は駅の改札口まで三人を送って行くことにした。ここまで時間を浪費してしまったからには、数分の差なんて関係あるまい。要は明日の朝に報告書が出来上がっていればいいのだ。

「まあ、もうすぐ研究もひと段落だから」

「そうしたら毎日帰って来る?」

 和子が身長差から顔を下から覗いてきた。吾一もゾーイも高身長なので、もう少し身長が伸びてもいいはずだ。女の子は中学校で一番伸びるというが、これからなのだろうか。

「そうなるといいね」

「遅くなりやした」

 切符を買いに行っていたサブちゃんが走って戻って来た。

 三越の包装紙をデザインしたという画家が描いた壁画の下で家族は左右に別れた。

 駅のホームでは発車ベルが高らかに鳴っていた。

「ママ、はやくはやく」

 通う学校のセーラー服姿の和子が、スカートの裾を翻してブドウ色の扉をくぐった。

「奥さん、はやくはやく」

 とっくに乗車していたサブちゃんも、娘の横で手を振っていた。

「ひいふう」

 わざとらしく声を上げながら、二人の待っていた先頭車両へと彼女が飛び込んだ。それを待っていてくれたのだろうか、列車の後ろから車掌の吹く笛の音が響き、空気圧でドアが閉まった。

「間に合ってよかった」

 彼女がほっと息をついていると、車内に異様な雰囲気が広がる。すでに慣れていた彼女はそれをまったく無視した。

 少々混んでいる車内。立っている者もいたが、三人が疎らに埋まっているロングシートの前に行くと、そそくさと逃げ出すように尻を浮かす者がいた。遠慮なく座らせてもらう事にする。

 母娘並んで座り、サブちゃんが二人を車内の視線から守るように前に立ってくれた。

 ゾーイの外見は金髪碧眼。戦前とは違って、みんな進駐軍で見慣れたとはいえ、日本ではまだまだ珍しい白人そのままの外見だからだ。

「すっかり遅くなりましたねえ」

 国電はキシキシと車輪を鳴らしながら左カーブを進んでいく。カーブを抜けたところに山手線の駅があるが、こちらは通過だ。窓から駅の明かりが差し込んで、座ったふたりの横顔を照らした。

(でえ)丈夫ですよ奥さん。ちゃんとあたしが家まで送りやすから」

 その駅の明かりの中に見えたゾーイの暗い顔を勘違いしたのか、サブちゃんは笑ってくれる。江戸っ子らしく、言葉に迷いが無かった。

 しかし彼女が浮かない顔をしているのは、娘を連れての外出が遅くなってしまったせいではなかった。

 彼女の夫である吾一のことである。

 アメリカやイギリスで同じ研究をしていた者が襲われたとなると、彼の身にも危険が及ぶかもしれない。そう考えると表情が明るくなりようがない。

「どうしたの? ママ」

 気が付くと和子までも彼女の顔を覗きこんでいた。

 どうやら暗く塞ぎ込みすぎていたようである。

「なんでもないのよ」

 かつて通訳として活躍し、任務で知り合った吾一と結婚してからは、さらに日本語に磨きがかかったゾーイの発音に不自然さは無い。江戸っ子のサブちゃんより確かなぐらいだ。

「今度は、一緒に映画見ましょ、ママ」

「ええ、そうね。パパも一緒できたらいいのだけど」

 先月だったか、久しぶりに三人で揃って見る事の出来たSF映画はとてもよくできていた。内容は、地球に黒色矮星が突っ込んで来るという、ちゃんと科学考証がなされているものだった。

 激しくなった宇宙開発競争とやらで、人類は宇宙空間へ飛び出す術を手に入れた。しかしそれだって、いまだ選ばれた数人の者しか行けない。その宇宙空間を、映画では見事に描ききっており、大人である彼女ですら手に汗を握って見入ってしまった。

 しかも世界中の人たちが地球の危機に際して手を取り合って難事を乗り越えようとする筋立てがよかった。

 アレに比べれば去年上映された、小人を救いに南海の小島から飛んで来る巨大な昆虫の映画なんてお遊びだ。

 そうこうしているうちに、最初の駅へ国電は滑り込んだ。

 四日前の大きな地震で被害を受けた東北地方。その余震が今日もあり、運行ダイヤは乱れているようだ。

 少し乱暴な運転で、母娘のお互いの体は押し付けられ、不快な反動で駅に停車した。

 ドアが開いたと思ったら、慌ただしく発車ベルがすぐに鳴らされる。少しでも早く発車して遅れを取り戻そうというのだろう。

 国電は駅を出て、今度は右カーブを曲がり始める。

 その急なカーブに文句を言うように、再び鳴り始める車輪。

 不安げな娘の表情に、少しだけ現実に戻されたゾーイであるが、すぐにまた彼女は思考の海へ泳ぎ出すのであった。

(核兵器使用後の放射能が溢れる土地でも、吾一の研究ならば…)

 ヒロシマやナガサキでの原爆症の知識は、元進駐軍の通訳としての経歴で、一般人より持っていた。そのおかげでゾーイは、原子爆弾が投下された時に居た者はもちろん、投下後半月以上経ってから現地へ親族を捜しに入った者にも健康被害が発生したことを知っていた。

 火傷や怪我だけではない。自分の子供へ受け継ぐ物、遺伝子すら傷つけられ損傷しているという研究結果もある。

 世界中の大多数の人間は、原子爆弾を、ただの大きな爆弾と捉えていた。しかし原子爆弾の強烈な放射線は、生物の遺伝子すら破壊する。まさしく死の兵器なのだ。

 爆発に生き残っても、正常な子供が生まれなくなり、種として人間が滅びるかもしれない。

(でも、吾一の研究が完成すれば)

 キリスト教徒である彼女は、そこに地上の楽園が誕生する事を信じたかった。だが、その裏返しに、原子爆弾ですら死ぬこともできずに、永遠に敵国と砲火を交え続ける地獄がやってくるかもしれないという不安もある。

 ゾーイは隣に座る娘を見つめた。

「?」

 少し暗い表情の母に見つめられ、和子は曖昧な笑顔でこたえた。

 電車は、ほとんど一八○度進行方向が変わったところで、次の駅に到着。ギギと耳障りの悪いブレーキ音でホームに停車した。

 やはり車掌が焦っているのか、早々に発車ベルが鳴らされた。

 ホームとは反対側にある線路を、この国電を追い越していく貨物列車が、カタンカタンとのんびり音を立てているのとは、えらい違いだ。

 開いたドアから煤煙の香りが車内に侵入してきた。動力近代化(モータリゼーション)などと国会で話し合われているが、いまだ貨物列車の牽引は蒸気機関車が主流なのだ。

 空気シリンダーの音がして、ドアが閉められる。煙の入り口さえ塞がってしまえば、元の快適な車内だ。

「な、なんでもないのよ」

 笑顔を作って娘を安心させる。その様子を誤解したのか、立っているサブちゃんが上から言ってきた。

「奥さん、疲れやしたか。もうちぃとで降りる駅ですから」

「心配してくれてありがとうね」

 乱暴に電車が発車する。揺れが非常に不快だ。

「ちょっと考えすぎたかな」

「ママは頭が良すぎ」

 和子が無邪気に笑う。

「私みたいに、な~んにも考えない方が楽なのに」

 そういう和子は、両親の血を受け継いで、理系も文系も上から数える方が早い成績である。本当は中学生なりに色々と考えているのだろうが、彼女の笑顔に何度も救われてきた。

「あたしなんか、最近おつりの計算もあやしくなってきやしてね」

「あらサブちゃんにも算数できたの?」

 和子がからかうとサブちゃんが怒った振りをする。

「九九ぐらい言えらあ。八一が八、八二が十六、八三が二十五…」

 わざと間違えているのがバレバレである。

 ゾーイがサブちゃんへ笑顔を向けた時に、破局がやってきた。

 けたたましい警笛の音が闇を裂く。同時に作動する非常ブレーキ。

「え?」

 揺れる車内で娘を抱きしめ、何事だろうと窓を見る間もなく、衝撃と共に世界が横倒しになった。

 立っていたサブちゃんが二人へのしかかるように落ちてきた。

 車内は悲鳴と怒号で満ち溢れる。

 明るかった車内は一瞬で停電し、夜の闇に包まれた。



「はっ」

 息継ぎをするように酸素を吸い込むと、同時に目が覚めた。

 ボンヤリとした明るさが、見慣れない天井に反射していた。

(ここは)

 何か暖かい物に包まれたアキラは、周囲を見回して現状を把握しようとした。

 見慣れない壁には掲示板。天井からは暗いままの蛍光灯の器具がぶら下がっている。掲示板の横には、二人分の清隆学園高等部の女子用制服がハンガーにかけられて吊るされていた。

(まるで教室のようだな)

 そう感想を抱いた直後に、そういえば今夜は中等部の旧校舎に泊まることになったのを思い出した。

 サトミが「美少女」二人のために用意した部屋は、元は習字などの授業を行う部屋だったようだ。古くなった畳が敷かれた小上がりがあり、そこに昼寝の時に使用したキャンプマットと毛布を持ち込んでいた。

 細かいことまで気の配れる性格なのか、畳には掃除機がかけられており、不潔な感じはいっさい無かった。これが明実ならば体中に棘を生やした節足動物が這っていても「毒性は低いから気にするな」と平気で言ったりする。

 服だってそうだ「制服のままで横になっても問題はあるまい」と平気に言う。まあ身体は「女の子のようなもの」ではあるが精神(こころ)は男子のアキラも別にいいかと思うが、ちゃんとした女子の思考を持つヒカルが口を開くと「制服がシワになるだろ」という反対意見が出てくる。

 アキラよりもよっぽど思考が女子よりなのか、サトミは二人分のジャージまで用意してくれた。しかも清隆学園高等部で体育の授業に使用する指定の物ではなかった。ドコから調達して来たのか分からなかったが、まあ制服のままで寝るよりは寝心地はいいだろう。

 同じような気配りで、この部屋の出入口、質よりも値段といった感じの安っぽい軽金属製の引き戸には、たしかに鍵がかけられるようになってはいた。が、屈強な男だったら体当たりで軽く突破できそうなほどの安普請である。

 まあ、そうやって強引に事を成そうと侵入して来ても、こちらにはヒカルがいる。暴漢とはいえども、ヒカルの遠慮のない射撃を浴びたら、生命の危険すらあった。もしそんな事になったら、ヒカルをどの段階で止めるのか。それがアキラに課せられた役割であった。

 畳の小上がりには、どこから拾って来たのか大きな屏風のようなパーテンションが置かれ、窓際と扉側で空間を二つに区切っていた。

 窓際には柔らかな月明かりが差し込み、それだけでは足りないとばかりに、暖色系の明かりが点けられていた。

 アキラたちが泊まり込むことになった原因である明実が、そちら側で作業を続けているようだった。

 ジュッという何かが小さく溶ける音や、細かい部品を組み合わせているようなカタカタとした小さな音が止まらなかった。

 その内、嗅ぎ慣れない匂いが部屋中に籠っている事に気がついた。

(コレは…)

 不快な匂いではない。そして一度も嗅いだことのない匂いでもない。アキラは自身を包む別の甘い匂いから嗅ぎ分けて、果たして何の匂いか思い出そうとした。

(中学の技術の授業だ)

 やっと思い出した。電気スタンドを作る授業の時に使った、ヤニ入りハンダが溶ける匂いと同じだ。

「アチッ」

 どうやらパーテンションの向こうでは、明実が電子工作をしている様である。まだ冷めていない部位に触れてしまったのか、こちらに気を配った小さな悲鳴を上げていた。

 いつもより重く感じる身体。毛布の中を覗き込むと、ヒカルがまるで母親にしがみつく幼子のように、アキラの着たジャージの胸元を両手で握りしめていた。

「ああいう事は、今夜はおあずけな」

 ひとつの毛布に(くる)まる前に、顔を赤く染めたヒカルに、太い釘を根元まで刺されてしまった。

「なにせ、どの教室にも自分で仕掛けたばかりだろ、カメラ」

 言われて見ればその通りである。まだ中継器の都合でネットとは繋がっていないと聞かされていたが、いつそれが繋がるか分からない状態だ。

 いちおうこの部屋に仕掛けたカメラは、寝顔を晒さないようにハンカチで視界を塞いでおいたが、『常連組』に所属する有象無象が出入りしていた建物である。二人が把握していないカメラが別に仕掛けられていてもおかしくなかった。

 ゆっくりと起こさないように気を付けて、アキラは自分の胸元を握るヒカルの指を一本ずつ外していった。

 丁寧な仕事のお陰か、ヒカルは起きずに毛布に包まったままだ。

 そうやってから、アキラはそーっと毛布を抜け出し、抜き足差し足でパーテンションの方へと移動した。

 窓際に小さな卓袱台が置かれ、その端にアルコールランプが小さなジジジという音を立てて灯っていた。暖色系の明かりだと思ったのは、その炎だった。

 あいかわらず白衣を着た明実は、晩秋の冷気対策か毛布でアグラをかいた脚を包んで、猫背になって卓上に散らかした部品に向かっていた。

「どうした?」

 昭和時代の内職といった風情の見た目に絶句していると、こちらを振り返りもせずに明実が声をかけてきた。

「ヒカルが毛布の中で屁でもこいたか?」

 こういう情緒のなさも明実らしかった。

「ちょっといいか?」

 アキラは明実の横まで行くとストンと座った。ちょっと眉を寄せて基盤にICソケットと思われる部品をハンダ付けしていた明実は、太い針金を円錐状に巻いた形をしたスタンドへ、手にしていたハンダゴテを刺すように戻した。

 コテ先に、ちょうど炎に当たるように置かれたアルコールランプが、ジジジと小さな音を立てた。ハンダコテから、まるで消しきれていないタバコのように薄紫色をした煙が一条上がり、先ほどから鼻を通る香りが一段強くなった。

 腰を落ち着けると、やっと明実はアキラを振り返った。左の眼窩に嵌め込んでいたキズミをコロンと手の上に落とすと、いま組んでいた基盤の横に置いた。

 卓袱台の上には、明実が組み立ている電子部品の他に、運動会でお父さんたちが構える小型のビデオカメラらしき物が分解されて置かれていた。

「こうやって見ると…」

 チラチラと揺れるアルコールランプの明かりで、不安そうな表情のアキラの姿が闇の中に浮かび上がるように照らされていた。

 自分の脚にかけていた毛布を広げてアキラの肩にかけてやりながら明実はしみじみと言った。

「オマエは香苗さんの子供なんだな。よく似ておる」

「そらあ血が繋がっているからな」

 当然のことを言われて声の音量が上がってしまった。慌てて口に手を当てる。一瞬だけヒカルを気遣ってパーテンションの方向を見た。

 その仕草を目にした明実は、春秋を重ねた眉雪のような物を感じさせる吐息を漏らした。

「似てはおるが、やっぱり違う。別人だの」

「そうか?」

 母親を前にすると、まるで鏡が置いてあるのではないかと自分でも錯覚するぐらいだ。首を傾げていると、明実がそれまでの表情を消して微笑んだ。

「で? なにか訊きたい事でもあるのか?」

「…」

 明実もヒカルが寝ている方向を確認した。パーテーションの向こうからは寝息すら聞こえなかった。

「先月、進路相談があったろ」

「そうであったな。オイラには、まったく無為な時間であった」

 なにせ今すぐにでも高校から大学へ飛び級することを望まれている逸材である。このまま進む(みち)の先には象牙の塔が建っているに違いなかった。

「その時に、松山先生に言われたんだよ」

「まつやま…、クロガラスのことであるな。何を言われた」

 即座に単語を修正して明実は重ねて聞いた。一年一組の進路相談は、男子が担任の男性教師、女子が副担任の松山先生ことクロガラスが担当した。

「この先も普通の生活は出来ないだろうって」

「ほほう」

 いかにも興味深いと頷いた。

「オイラが取り掛かっているオマエの『再々調整』が無駄になると言いたいのかな?」

「まず天使に追われる生活が続くだろうって。その…、『再々調整』の事も言われた。元に戻すのに、元の細胞が必要だとか。それでヒトの体を作った後に、今度は魂の欠けている…、因子? 先生はテキスメキシウムって言ってた。それが足りないと、本当に戻ったことにならないんだって」

「ほほう。続けて」

 手招きするように明実は指を順番に曲げた。

「男は女の奇形だから、テキスメキシウムが不足していると、いったんは男の姿になっても、標準体である女の体に戻るんだって」

「つまり?」

 泣きそうな程しょげているアキラに明実は訊き返した。ちょっとイラついているのか、頬の辺りに小さな痙攣が見られた。

「オヌシはクロガラスから、どういった説明を受けたのだ?」

「元の体へ完全に戻るには、男の細胞一人分と、それと同じぐらいのテキスメキシウムが必要だって言われた。それには赤の他人よりも自分に近い血縁者が適当だって」

「ははん」

 軽く鼻で笑った明実は、人差し指を立てた。

「つまりクロガラスは、アキラの父親から人ひとり分の細胞を、香苗さんから一人分のテキスメキシウムの、それぞれ提供が無いと戻れないと申したのだな」

「うん」

 まるで小学生が怒られたように肩を落とすアキラ。もちろん人間が持つ細胞も、そしておそらく魂も、一人には一人分しか無いのは確実である。いや『常連組』の圭太郎あたりだと脂肪細胞に限り十人分はありそうだが。そして我が子を溺愛する両親ならば喜んで、それらをアキラのために提供するだろうことは想像に難くなかった。もちろん提供した者は、それらが欠乏する事となる。普通の人間が一人分の細胞を失ったら、それは死体も残さずに消えると言っているのと同じ意味だ。魂の方は想像もつかなかった。

 明実はわざとらしく大きな溜息をついた。

「貴様は…」

 つい出た厳しい口調に自分で驚いたように言葉を止める明実。仕切り直しとばかりに、ゆっくりと自分を泣きそうな顔で見つめる幼馴染へ言った。

「オマイは今までしたオイラの説明を何も聞いておらんのか?」

「…は?」

 キョトンとした顔に変わったアキラの前で、遠慮なく溜息を繰り返す明実。

「バカなふりをするのを止めろとは言わんが、何度も繰り返して説明せねばならぬか? オイラはそれでいいが…」

 明実の視線がアキラからずれて後方へと流れて行った。不思議に思ったアキラが、彼の目線を追うように振り返ると、パーテンションの端にジャージ姿のヒカルが立っていた。

「どうしようかのう」

 賛成を求めるように明実が声をかけると、ヒカルは厳しい顔を彼に向けた。

「だから前から言ってるだろ。こいつは能天気なバカなんだから、そのままにしておけって」

「どういう事だよ」

 喧嘩腰をした恐いほどの視線を交差させる二人を見比べて、アキラは訊いた。

「これだけは言える」

 明実はスタンドからハンダゴテを抜きながら言った。左手が卓袱台の上を彷徨い、キズミを拾い上げて眼窩へと嵌め込んだ。

「オイラが取り掛かっている『再々調整』の準備は順調に進んでおる。オマエが…。アキラが心配する事は何も無い」

「でも…」

「それよりも喫緊の課題として、オイラはコイツを組んでしまわないとならない。クロガラスに言われた事なぞ忘れて、オマエは安心して寝ろ」

 最後の言葉は冷たく聞こえた。

 アキラは明実がかけてくれた毛布からモソモソと立ち上がると、待っていてくれるヒカルの所へ歩いて行った。

「寝ちまえ」

 ヒカルも言う。

「そうすりゃ変な事は忘れられるからよ」

「う、うん」

 夢の中に逃避を求めても、きっとまた変な夢を見るのだろうなと思いつつも、アキラは頷いてパーテーションの向こう側へと行った。



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