十一月の出来事・⑩
土曜日である。普段の清隆学園高等部では必修科目の授業は割り当てられていない曜日である。だが講習会という名目で各種勉強会が開かれて生徒たちのレベルの底上げが計られる日でもあった。
清隆学園高等部を卒業するだけならば関係は無いが、大学へ進学を考えている者にとっては受講しておいて損にはならない講習ばかりである。
ということで、あくまでも自主的に生徒たちは受講するために登校する。
ちなみに赤点などの成績の悪い者を集めて行われる補習も土曜日に行われる。こちらの方は卒業に直接関係して来るので、出席しないと冗談ではなくなる。
そのどれもが午前中に集中しており、午後は自習会が各クラスで催されていたりした。
今週も、大学受験に向けて自分の学力を分析した生徒たちが、数学だったり英語だったり、不得意科目を克服しようと学んでいた。
また講習会や自習会、補習に参加しない生徒も登校する事もあった。主に運動会系の部活に所属する者たちである。文武両道が清隆学園のモットーである。その事をしめすようにどの部活もが都大会上位に食い込むほどの実力を持っていた。トーナメントの組み合わせなどで運が良ければ全国大会にまで駒が進むことだってあった。
そういう実力だって一朝一夕に身に着くわけでは無い。ということで彼らは土曜日だけでなく日曜日にすら練習を欠かさないのであった。
よって、本来ならば休日ということになっている土曜日であっても、ほとんどの生徒が登校しているのだった。
「くわああ」
毎週受けるようにしている英単語講習の終わった教室から、奇声を上げつつアキラが出てきた。逆手に手を組むと、そのまま廊下でグーッと伸びをした。
「ご苦労さん」
後からついて来たヒカルが苦笑交じりに声をかける。ちなみに外国での暮らしが長かったヒカルは、日本語と同じぐらい英語が達者である。それなのに受講しているのは、アキラにつきあってである。まあ日本の試験に出る英語と実用英語には、天と地の開きがあるので受講に全く意味が無いとは言えないのであるが。
「まだ土曜日も午前中だというのに、そんなことで大丈夫か?」
これは明実。彼もその出自から二言語話者どころか英語を含め五ヶ国語も堪能であるが、今日はこの講習を受けた。もちろん受講するアキラにつきあってである。さらに付け加えれば、天才である彼は高等部の授業なんか受けずに、なるべく早く大学への飛び級をするように打診されている身だ。もうひとつ付け加えると、彼が発表している複数の論文は英語で著述された。
「頭が悪いと苦労するな」
ヒカルがニヤリとしながらアキラの肩を叩いた。アクビの直後で呆けた表情だったアキラの顔が歪んだ。
「うるせ」
いちおうアキラの名誉のために擁護するが、色々な事件や事故に巻き込まれている割には、アキラの成績は一定以上をキープしていた。
進学校である清隆学園高等部において頑張っている方であり、このまま学力が保たれて苦手科目を克服できれば、希望する進路に間違いなく進めるはずである。
だが比べる相手がこの二人となると不利となるであろう。富士山は日本で一番高い山であるが、エベレストやK二などが並ぶヒマラヤ山脈からは見おろされる存在である。そういうことだ。
もちろん真面目に授業を受けているのでアキラは補習なんて受けたことも無かった。ただし、成績が良ければ両親に買ってもらえるはずのスマートフォンは、まだ約束が果たされていなかった。まあ、もう少し努力が必要という事であろう。
「さて…」
二人を追い抜いて前に出た明実が振り返った。
「次の講習と、午後の自習会はキャンセルとさせてもらうぞい」
自分がつきあったから、その分の誠意を見せろと言わんばかりだ。
「午後に何かあったか?」
アキラは隣でさっそく柄付きキャンディの包みを解き始めたヒカルに訊ねた。
「いや…。コレと言って無いはずだが?」
キャンディを口へ放り込みながら視線は天井の方へと向いた。
「二人には会場のセッティングを手伝ってもらう」
「会場?」「セッティング?」
仲良く顔を見合わせている二人へ明実は言った。
「忘れたのか? 明日は『常連組』とSMCの決戦日。その決戦会場のことだ」
「は?」
「あ~、戦争ごっこの?」
歩き出した明実に釣られるように二人も廊下を歩き出した。
「サトミが決戦場所に選んだのは、中等部旧校舎だ」
「ん?」
明実の言葉にアキラは顔を曇らせた。何かがおかしい気がしたからだ。
「…?」
ヒカルと顔を見合わす。しかしヒカルの方には違和感は無いようだ。
「どうした?」
アキラの様子が変なのでヒカルに訊ねられても、はっきりと問題点が指摘できない。隔靴搔痒といった感じだ。
「どうしたのだ?」
見つめ合う二人に、前を歩く明実も異常を感じたのだろう。振り返って、身長差から見おろしてきた。
「なんか中等部の校舎というところに引っかかるもんがあるんだが…?」
腕を組んで頭を傾げると、明実は明るい顔で指を立てた。
「ああ。それはきっと、本来ならば夏に取り壊されている予定だったからではないか?」
「あ~、そうそう」
つい明実を指差して、アキラは声を上げてしまった。
清隆学園が所轄する建築物が耐震基準などの問題を抱えたのは、関西で大きな地震が起きた後である。その震災で日本の耐震基準が大きく変えられ、とくに子供たちが集まる学校は、考えうる大震災が直撃しても絶対に潰れないように、強度が増される事になった。
清隆学園でも大学にある研究棟などは丸々建て替えることになったし、高等部の校舎にも太い鉄骨で補強が入っていた。
もちろん中等部の校舎にも補強が入れられ、無事に新しい耐震基準をクリアできた。
そこまでが話しの半分である。それから他の建築物は、経年劣化などを補修しながら、特に問題なく使用が続けられているが、中等部の校舎だけ問題が発生したのだ。
まず後になって耐震工事が過大であることがわかった。それは震災十年目の点検という事で、大学の建築学科が実習を兼ねて行った建物の点検で発覚した。
まあ、施工当時は「より頑丈ならばより安心」という空気があったのだろう。工事業者も少々余分に頑丈になるよう工事したけど、弱いよりいいよねという認識であったようだ。
もちろん基準に届いていないのでは法律違反となるが、基準を超えている分には問題は無いはずだった。
二番目の問題が起こらなければ、である。
基本的に木造だろうと鉄筋コンクリートだろうと、水という物は建物に悪影響を及ぼすものだ。津波や洪水などの極端な例を挙げなくとも、古い建物が夕立程度で雨漏りしていると、やがて染み込んだ水分が色々と悪さをする事から理解できると思う。シミやカビの原因ともなるし、電気系統に回れば漏電の危険もある。白アリを始めとする害虫の温床にもなりかねない。
中等部の旧校舎を襲ったのは、給排水管の老朽化という問題だった。いちおうそれまでは普通の鉄筋コンクリート製のビルと同じように、市の本管から受水槽へ水道水がまず貯められ、それをポンプで高架水槽へと上げてから、重力を利用して各階の水道へ給水されていた。
排水は汚水と雑排水の二系統に分けられ、校舎を貫くパイプスペースに通された各本管により地下の汚水槽、雑排水槽へと集められ、一定のレベルに溜まると各槽のポンプによって市の下水道へと流される事になっていた。
その汚水本管と、雑排水本管の使用寿命が来てしまったのだ。昭和の古い鉄管を組んで作られた排水の本管であるが、長い年月使用している内に内側より削られていく。もとは数センチあった鋼鉄製のパイプの厚みが、数ミリという薄さになってしまった。放置しておけばいずれ破裂する事間違いなしだ。
これが普通の建物ならば、まだ再生させる方法がある。代表的な方法は、古い配管をそのまま使用不能とし、建物の外壁に沿って新しい配管を巡らせばいいのである。
もちろん旧校舎もこうした工法で再生させようとした。だが、そこを最初の問題が邪魔をすることになった。
頑丈に中等部を包むように組まれた鉄骨が、外に配管を這わせる事の邪魔をした。できないことはないが、余分なでっぱりやへこみをたくさん作らなければ通せそうも無かった。そして圧力のかかっていない下水に余分な曲がり角を作るという事は、将来的に詰まりの原因になりえるので、できれば避けたかった。
内部にある古い配管を全て撤去し新しい物に交換するという方法も試算されたが、結構な金額になることが判明した。なにより工事中は一切水道の使用は禁止となるが、校舎を最も長く使用しないはずの夏休みの間に工事が終わりそうも無かった。
そうなると仮校舎を建てて一時的に生徒はそちらで学ばせ、その間に工事するという事になる。
ここで清隆学園の施設を担当する部署は気が付いてしまったのである。旧中等部校舎には冷房もろくな機械が入っておらず、暖房に至っては二一世紀だというのにダルマストーブであった。さらに情報化社会に際しコンピュータを扱う授業に対応できるだけの通信線も光ケーブルどころか電話線ですら職員室や事務室程度にしか備えてなかった。
それどころか一つの教室をコンピュータ教室に改装工事しただけで、電源の容量に問題が発生したほど設備に余裕は無かった。
この数々の問題を前にして、施設を担当する部署は試算を重ねた。このまま旧校舎を改築して使用するのが安価なのか、それともいっその事丸ごと新校舎を建ててしまった方が良いのか。
その答えが、新校舎建設であった。
大学の半分(文学部系と基礎教養の全て)が多摩丘陵のキャンパスに移動して、清隆学園自体の敷地に余裕はかなりあった。また中等部設立当時はじゅうぶんな広さを持っていた校庭だが、手狭になっていたこともあった。それに別の場所での新築ならば仮校舎の建設が不必要となる。新校舎の建設場所は中央通りに面した高等部に近い場所が新たに選ばれた。これにより学習が進んだ生徒は、高等部の教員が教鞭を取り中等部で学ぶ以上の学習範囲を学べることにもなった。
こうして中等部は今年度から新校舎へと引っ越すことになった。地元の中学から清隆学園高等部を受験したアキラもそのぐらいの情報は知っていた。中等高等学校として一本化はしないのかと不思議に思ったぐらいだ。
そして旧校舎と呼ばれる事になった建物は、夏の長期休暇の間に取り壊される予定という話しも耳に入っていた。耐震補強された鉄筋コンクリートの建物を壊すには、大型重機が運び込まれるだろうし、ガレキなどを運び出すのにダンプカーが学園内を走ることになるだろうから、夏休みに登校した際は交通に注意するようにと学校側からプリントが配られたぐらいだ。
「夏休みに壊したんじゃないの?」
アキラの質問に、まるでドラマに出て来る俳優のように、明実は肩を竦めてみせた。
「それが中止になった」
「ちゅうし?」
「工事を発注した学園の施設部と、工事を受注した解体業者が結託して、工事代金を不当に吊り上げていたことが発覚したらしい。相手企業はもちろん、清隆学園側の何人かが背任行為で逮捕起訴されて裁判は係争中らしい」
「それで中止になったのか?」
テレビの情報番組でしか耳にしないようなニュースに、アキラは目を丸くした。
「工事は入札からやり直しだそうだ」
クルリと前を向いた明実の背中を見上げ、アキラはちょっと声を張って訊いた。
「ほんと?」
「?」
アキラの問いかけに、明実は半分だけ振り返って視線を寄越した。
「ほんとーに、それだけの理由?」
「…」
黙って行こうとする明実の背中をジト目で見たアキラは、探るように言った。
「不自然に警察へ証拠が送りつけられたりとか、そういう事があったりしたんじゃないのか?」
明実は咳払いをすると、腰に手を当てて今度は体全体で振り返った。
「科学部はこの件についてノータッチだ」
「…じゃあ…」
「業者と、私腹を肥やそうとした者とが交わした会話が録音され、学園の査察部へ『なぜか』届けられたことはあったらしい。もちろん、オイラは何もしておらんぞ」
「おまえがしてなくても、もう一人ヤバそうな奴がいるじゃん」
「その時」
アキラの言葉を遮るかのように明実が声を張り上げた。
「ヤツが何をしていたかなんて、把握しているわけ無かろう。オイラはオイラで忙しかったのだから」
夏と言えば、まだ『施術』に関する情報が明実のところから持ち出された事件で、その犯人捜しに忙しかった頃である。たしかに明実にそんな余裕は無かったはずだ。だがライバルの動向ぐらいは把握していてもおかしくは無かった。なにせその相手は明実の研究を盗み出した容疑者第一号だったのだ。
「で?」
ヒカルが片眉を上げて訊いた。
「中等部の旧校舎は、今ではどうなっているんだ?」
明実は、また咳払いをした後に教えてくれた。
「いちおう関係者以外立ち入り禁止という事になっておるが、鍵がかけられておらん。機械警備どころか電気も水道も止まっておる。そのため高等部の愛好家たちの間で屋内サバイバルゲームの会場として使用されておる」
アキラとヒカルが、ほらやっぱりと言わんばかりに顔を見合わせた。高等部のサバイバルゲーム愛好家たちという括りの中に、図書室の『常連組』が含まれるのは知っていたからだ。
「で? ただの空き校舎だろ? なんの準備が必要なんだ?」
ヒカルの質問に合わせてアキラも賛成とばかりに首を縦に振っていた。
「色々だ」
問題が山積していると言いたげに前を歩きだした明実は、肩越しに顔だけを二人に向けた。
「明日行われるゲームであるがな。インターネットを使用した生中継を考えておる」
「なま…」「ちゅうけえ?」
再び顔を見合わせている二人へ明実は告げた。
「なにせ一円でもより多くの資金を集めたいと考えておるからの」
「生中継ったって、カメラは?」
「写真部をはじめ、ゲーム研やら数学研やら、デジタルカメラを持っている全ての部活に声をかけた。それらを旧校舎のあらゆるところに仕掛けようと思う」
たしかにコンピュータを常備している部活ならば、一台や二台のデジタルカメラを所有していても不思議では無いはずだ。
だが普通の部活動ならば器材の貸し借りにおいて、そんなに大量の器材を一ヶ所に集めることは不可能に近い物があった。なにせどこの部活がどんな器材を所有しているかなんていう情報を網羅している存在なんて、それまで無かったのだ。
だが、今年度からは科学部が存在した。
科学部では所属する下部組織が獲得している予算の有効的な活用のため、所属する全ての団体が所有する器材はリストにしてあった。そうすれば何かの実験などで「あとひとつアレがあったらなあ」みたいな状況になった時に、無駄に購入せずとも所有している部活から借りればいいだけだからだ。操作が難しい器材ならば、その操作に慣れている者ごと借りる芸当までできた。
今回、全校からデジタルカメラを借り集めるなんていう事ができるのは、明実の科学部総帥の肩書が伊達では無い証拠である。
「各教室、廊下、便所に至るまでカメラを設置する予定だ」
「そんな映像だけの中継で視聴率が稼げるのか?」
咥えたキャンディの柄をピコピコ動かしながら訊くヒカルの言葉に、いい質問だと明実は笑顔を作った。
「もちろん、ただの映像ではダメだな。実況は放送部の遠藤くんに、解説は銅志寮の有志である小林さんに頼んである」
放送部に実況を依頼するのは理解できるが、解説の方が分からなかった。
「ゆうし?」
「男子寮の方の集まりだよ」
「あー」
そこまで言われてやっと二人は思い出した。
高等部には正式に部活として登録されたサバイバルゲーム部が存在した。最近では市民権を得たサバイバルゲームではあるが、部員の集まりはイマイチであった。理由は簡単で、銃の威力が弱いからだ。
エアソフトガンを販売する企業は事故を防ぐために対象年齢によってその威力を自主規制しており、制限なしの製品を購入できるのは十八歳以上になってからと定められていた。
清隆学園高等部では留年している生徒もたまに存在したが、基本的に生徒は年相応の学年に籍を置いていた。つまり三年生の一部(四月生まれなど)を除けば十八歳未満の制限がかけられたエアソフトガンまでしか購入できないことになる。
後はちょっと考えれば分かると思うが、制限が掛かっていない大人や大学生とゲームをやっても不利なため、ちっとも面白くないのである。
清隆学園高等部が常識を疑うようなパーソナリティを揃えているとはいえ、学校法人である。そこが公認する部活動が、業界団体の設けた自主規制を無視するような活動をしていたのでは醜聞となってしまうのは、当たり前と言えば当たり前の事であった。
だが高校生と言えば「はいそうですか」と素直に納得できない、どちらかというと「反抗期」なお年頃である。
ということで抜け道として「銅志寮の有志」という湾曲な言い方で呼ばれる団体があった。
こちらは銅志寮の愛好家たちを母体にしたサバイバルゲームを行う団体で、学校から直に公認されていないことを利用して、細やかな違反を平気にしていた。
公認されているサバイバルゲーム部が所有しているエアソフトガンも、業界の自主規制を守った物を所持していることにして、実際のゲームでは男子寮の有志から借りたという態で、フルスペックの銃を使用していたりもした。
(サバイバルゲームはルールやマナーを守りましょう。池田より)
「放送部が持っている動画サイトのアカウントを使用させてもらって、全世界への生中継だ。もちろんスポンサー契約しているところからも幾ばくかの収入も入ることになる」
「話しがでかくなりすぎじゃねえか?」
「まあのう」
ヒカルの指摘に自覚があるとばかりに頷く明実。
「だが、アヤツが一枚噛んだ時点で予想された事であろう」
人差し指を立てた明実を見て、またアキラとヒカルは顔を見合わせた。「アヤツ」とは名指しされなくても誰だか嫌でも分かった。
「なにか言いたそうだのう」
「調子よく手を広げるだけ広げて、おいしいトコだけかっ攫われるような気がするんだが?」
人生の先輩としての助言に、明実はニヤリと嗤ってみせた。
「逃げ時さえ誤らなければ、宝くじなどよりも確実に臨時収入を得られるのだぞ」
「うまく逃げられたらでしょ」
どうやら自分は被害者にならない自信があるようなので、アキラはキッチリと明実の背中を指して言った。
「それ、正常化バイアスって奴じゃないのか?」
アキラの指摘に明実は立ち止まると、またまた振り返った。その顔は、なんと目と口を丸くしているではないか。感情を面に出すことを「恥」とすら自らの規定としている明実にとって相当な事である。
「オマエの口からそのような指摘が出るとは…」
「なんだよ。オレだって勉強してんだぞ」
「…よくぞココまで育ったな。養父として嬉しいぞい」
感極まって涙を流すのではないかというような雰囲気で明実は言った。
「いつテメーが父親になったんだよ」
おでこに青筋を立ててアキラはツッコミを入れてから、声を戻して言った。
「なあ。たまには馬鹿の言う事も聞いてみろよ。そらあ、うまくやれればガッポリ儲かるのかもしれねえけどよ。自分は頭が良いから大丈夫って思ってっと、足元掬われるぜ」
「うむ。息子の成長を見ることができて、養父は感動すら覚えておる」
腕を組んでしたり顔で頷いていたりする明実の脛をアキラは蹴った。
「ヒトの言う事をちゃんと聞いてんのかよ」
「聴いておるぞ」
むこう脛を蹴られた割に痛そうな素振りも見せずに明実は頷いた。
「まあ、最悪の事態を想定して動く事には賛成であるな。慎重に動くことを約束しよう」
「本当かなぁ」
いまいち幼馴染が信用できないアキラなのであった。
雑木林の落ち葉が舞い落ちて、だいぶ絨毯を敷き詰めたようになった渡り廊下を通って、三人は中等部旧校舎へとやってきた。
手前に位置する体育館は、大学が各科学系の屋内実験施設として利用する事になり、春から様々な実験が行われていた。高等部のいくつかの部活も、実験施設としてスペースを与えられたはずだ。
体育館の傍に建てられているコンクリート製の小屋は、一階が男女トイレに挟まれた体育倉庫。二階が男女更衣室となっているが、二階の半分が大破していた。
その向こうに鉄筋コンクリート五階建てのビルが建っていた。渡り廊下だと北側から近づく事になるので校庭などは見えないが、あれが中等部旧校舎である。
東西に階段室を抱えているため、屋上の両端にはペントハウスがそれぞれあり、大雑把に表現すると漢字の凹という形をしているように見える。
中等部は有象無象だらけの高等部と違って生徒数が少ないので、その一棟だけの建物で全ての教室が賄えていた。
内部の構成は下から教科教室、教職員室、三年生教室、二年生教室、一年生教室そして屋上といった具合だ。
渡り廊下は体育館をすぎた辺りで工事用フェンスにより区切られていた。これ以上先は解体工事を行うので安全のため立ち入り禁止とされた区画だ。
だが不正があったせいで工事は止まっており、その工事用フェンスも一枚分だけが縛っていたバンセンが解かれて、横に避けられていた。
敷地の中は雑草でボウボウであった。ただの雑草と言えない、アキラ程度の身長だと埋もれて見えなくなるのではないかというぐらいに深い薮なのである。
「あ、ネコだ。ネコちゃ~ん」
両扉の出入り口へ繋がった渡り廊下部分だけが、基礎のコンクリートのおかげか、まだ通行可能であった。そこを歩いて校舎へ入る寸前に、アキラは四つ足の獣を見つけた。
しゃがんで手招きしたが愛想なく雑草の中へと消えて行ってしまった。
「あ~、ざんねん」
「…。アレじゃないのか?」
ネコにかまけていたアキラに、ヒカルが確認するように訊いた。
「あれ?」
何の事だか分からずに振り返ると、明実までアキラを見ていた。
「もう忘れたのか?」
不満があるというよりアキラの記憶力に不安があるといった態度で明実は言った。
「アレが鍵寺明日香の分身という可能性だ」
「げげ」
アキラが悲鳴のような声を上げたのも無理はない。アスカというのは、対天使で同盟を組んだ『施術』関係者である。しかしネコやハトに『施術』の技を利用して人間の感覚器を移植し、自分の離れた目や耳として使役するのだ。
その安っぽいホラー映画のような手法は、アキラには生理的に受け付けない部分があって、なるべくなら関わりたくない相手であった。
だが清隆学園高等部周辺で天使が確認され、あまつさえ交戦もしたとなると、アスカが手下を配置していない方が不自然と言えた。
「どうだった?」
腹の真ん中にヒトの顔が浮き出しているとか、アスカの悪い趣味のようになっていたかとヒカルが訊いて来た。
「普通のネコちゃんに見えたんだがなあ」
深い薮に消えた尻尾の方向を見ていたアキラは諦めて立ち上がった。
「まあ、見られている事は間違いない。それを前提に動かんとな」
アキラがしゃがんでいる間は立ち止まってくれていた明実が、再び歩き始めた。
かつては施錠されていたらしい観音開きの扉は、適当なコンクリートブロックでつかえさせて、ドアクロージャーの力で閉まらないように開けっ放しとされていた。
扉をくぐると昭和に建造された校舎の中となる。取り壊しが決まっていたせいか、使用できるものは全て運び出した後で、壁には掲示板などを外した跡が残されていた。
数十年に渡って掲示板が覆っていた壁面と、それ以外の場所でははっきりと色が変わっていた。
東西に走る廊下を渡ると、かつての生徒昇降口となる。理科室などの教科教室はその両脇に配置されているようだ。
そのまま三人は、ゲタ箱も傘立ても現役当時のまま置かれた昇降口を抜け、重そうな片扉が並ぶ出入り口から校庭へと出た。こちらの扉も開けっ放しになっていた。
校庭の方も雑草が生い茂っており、一年にも満たない時間だというのに自然というのはこれほど侵略して来るのかと驚くばかりだ。
校庭の端に首の長い竜脚竜がうな垂れているように立っているのは、バスケットボールのゴールである。リングに下げられていたはずのネットは失われ、合板製らしきバックボードには割れや浮きが生じていて使い物になりそうもなかった。一年でそこまで痛むのは不自然であるが、もしかすると校舎を建て替える話しが出る前から使われていなかったのかもしれない。
校庭の半分は、渡り廊下と校舎が繋がっている辺りと同じく背の高い雑草で覆われていた。東側から昇降口にかけては、背の高い雑草だけは刈り取られていた。
それは今もエンジン音をさせている刈払機の力であろう。大学生らしい人物が三人ほどおり、小さなガソリンエンジンをブーブー言わせて長い雑草を手早く刈っていた。
三人から見て一番奥になる位置に校門があり、清隆学園の中心を貫くように走る中央通路に繋がっているはずだ。いまは校門を塞ぐようにして見た事のある中古のマイクロバスが停まっており、視界を塞いでいた。
車体中央にある扉は開きっぱなしで、その前にどこから持ってきたのか会議室用の長テーブルが立てられていた。
そこに見慣れた小柄な男がいるのに気が付いた。
向こうも三人が校舎から出てきたのに気が付いたようだ。おざなりに手を振って挨拶して来た。
「こんにちは」
草刈りを続けている人たちに挨拶をしながらマイクロバスへと近づいて行く。車両は他にも校庭に乗り込んでいて、白い準中型トラックも二台ほど停められていた。
「おー、よう来た」
まるで田舎の農家のような口ぶりで三人を迎えたのは山奥槇夫であった。地面に直に立てたテーブルの上で、なにやら機械の塊のような物を弄っていた。
「お疲れ様です」
明実が丁寧にこたえた。ヒカルは頭をチョコンと下げただけで挨拶を済ませた。
(あれ? 目上に人に使っていいのは「お疲れ様です」だったっけ? それとも「ご苦労様です」だったっけ?)
どちらを使っていいか迷ったアキラは、遅れて「こんにちは」と無難な挨拶を選択した。
「早速だが仕事の説明に入る」
小柄だとはいえさすがにアキラよりは背の高い槇夫は、ニッと笑って見せた。
「外の設営は、ウチらに任せておいて大丈夫だ。力仕事ばかりだからね」
そう言って槇夫はトラックの方を指差した。荷台から丸められた大きな白い布やパイプの束を大学生たちが力を合わせて下ろしていた。トラックの側面に「清隆大学理学部」の文字があるから、どうやら大学から借りて来た資材のようだ。
パイプの形や布の様子から、運動会などで校庭に建てられるパイプテントではないかと察せられた。
まあ最近そういう事を口にすると性差別だ何だとかうるさいと聞くが、力仕事だから男の仕事と割り振ったのであろう。とは言ってもアキラとヒカルの二人は「女の子のようなもの」なので、並みの男よりは膂力はあるのだが。
「キミたちにお願いしたいのは、コレ」
槇夫は両手を広げてテーブルに置かれた機械を示した。どれもが野球のボールほどの大きさをした機械である。
よく見なくてもデジタルカメラに小さな箱を取り付け、黒いガムテープでグルグル巻きにした物だと分かった。
どうやら明実が言っていた中継器材がコレのようだ。
「建物の電源が死んでいる可能性があるんで、バッテリーと発信器とセットにした」
言われて見ればカメラと箱の間を色とりどりの細い線が渡っていた。箱自体は百均あたりで大量購入して来たらしい、料理を取り分けるタッパーの小さいヤツであるようだ。その中に黒くて四角い電気の部品が幾つか入っているようだ。
考えたものである。電子部品に湿気は大敵なのは基本だ。タッパーならばそういった物の侵入をある程度防いでくれるはずだ。
「メーカーも型式もバラバラなもんで、調整に手間取ったぜ」
明実に愚痴のように笑いかけてから、カメラの一つを手に取った。
「箱に番号が書いてあるだろ。これを目安に、この図面通りに仕掛けて来て欲しいんだ」
槇夫が取り出したのは、どうやら旧校舎の図面であるようだ。間取り図の青写真を複製した物に、何やら設備の配置図が書き込まれていた。赤い線が各階を走り回り、重要と思われる箇所には三角形や丸の記号があった。
そこへ新たに金釘流の文字で数字が書き込まれていた。各教室の教壇中央やら、東西に走る廊下の要所にも数字があった。
「こんなにか?」
ヒカルが図面とテーブルの上を見比べて不思議そうに訊いた。
数字は結構な数が書き込まれていたが、テーブルには十個に足りない程のカメラしかなかった。
「あ~、後から届く分もあるから」
どうやら器材がよーいドンで全て揃ったわけでは無さそうだ。
「まあ、とりあえずコレだけ仕掛けてきてよ。その内、昼になるからさ」
「了解っす」
アキラは頷き、高等部から肩にかけて来た自分の通学バッグをテーブルに置いた。手に持つよりも、多くのカメラが運べるはずだ。ジッパーを開くと、さっそく槇夫製の中継器材を中へと入れた。
「御門はコッチを頼む」
槇夫は手招きをすると、開けっ放しのマイクロバスの扉の方へと寄った。
「なんでござるかな?」
白衣を靡かせて車内を覗くと、すぐに黒くて四角い箱のような物を渡された。側面についたプラグやら電源コードから、何かしらのメディアプレイヤーであることが想像できた。
「もう準備ができたテントで、通信機材の設置と調整を頼む。番号が振ってあるカメラから映像が来ないなら、再調整の必要があるから」
槇夫は校庭の方を指差した。手際がいいのか、すでに一張りのパイプテントが校庭の真ん中で立ち上がる直前であった。
「これ、電源はどうするんです?」
「それは、アレ」
槇夫は指を校門の外に向けた。
昔は帝都防空を担っていた戦闘機部隊が離発着していた滑走路を流用した、ド真っすぐな幹線道路並みの設備が整った道路が、清隆学園の中央通路である。
ただ旧中等部はその中央通路に面していなかった。不思議な事に、もうひとつ校庭が作れそうなほど雑木林の奥まった位置にあった。
まったく別の場所へ新校舎を建て替えてしまった今は無駄になってしまったが、将来の拡張を意識しての配置だったのかもしれない。中央通路とは雑木林の中を太い連絡道で繋がっている。その内、車道は「一/Fゆらぎ」を意識するように蛇行するように設けられており、歩道はその曲線を吸収するような幅で真っすぐと校門に繋がっていた。曲がりくねる車道と真っすぐな歩道のおかげで、等間隔に半円形の植え込みが設けられていた。
車道の各曲線の頂点と言うべき位置には、お洒落な街灯が立っていた。反対側にあたる植え込みにはベンチなど置いてあり、結構な太さの幹に育った各季節の代表的な植木が、風に枝を揺らしていた。
色とりどりのタイルで舗装された路面は、耐震補強の時に直されたらしく、まだまだ綺麗なままだった。
そのトラックすら余裕で走る事が出来る幅の広い連絡通路に、高等部の制服を着た人物がしゃがみ込んでいた。どうやら街灯に設けられた点検用の扉を開けて、内部を弄っているようだ。
「適当な電源が近くに無いんで、アソコから失敬することにした」
見る間に作業が終わった様で、傍らに置いた布バケツに工具を放り込むと、ズボンに着いた土埃を払いながら立ち上がった。
誰でも無い、サトミである。
それからサトミは、布バケツを肩に引っ掛けると、どうやら街路灯に直結したドラム式の延長コードを、まるで欧州戦線の通信兵がごとく、手で繰り出しながらこちらへやってきた。
校門の手前で長さの限界が来たのか、そこでドラムを手放すと、屈めている間に痛めたのか、うーんと腰をのばした。
そこで校門の内側から眺めている四人に気が付いたのか、笑顔で手を振って見せた。
周囲を確認してから小走りに寄って来た。
「よっ」
「おっ」
手を挙げて簡単に挨拶して来たので、明実も同じように返した。
「じゃあオレ、追加の器材が集まった頃なんで、取ってきますね」
門扉越しに槇夫へ布バケツを渡すと、クルリと回れ右をした。
「後はヨロシク」
返事も待たずに中央通路の方へと歩き出す。距離から言ったら三人が歩いて来た渡り廊下を使用した方が高等部への近道のはずだが、もしかすると中等部からも器材を借りだす予定があるのかもしれない。
そのまま肩で風を切るように飄々と歩いて行ってしまった。
「忙しい奴だ」
本人が聞いたらお前にだけは言われたくないと言い返されそうである。半ば呆れて見送った明実は、気を取り直したかのように器材を持ち直した。
だから代わりにアキラが言ってやることにした。
「オマエが言うな」