蔓草
わたしは病院の個室の窓際に座ってベッドを見ていた。
耳をすませると、厚い防火窓越しにもかすかに車の流れる高いうなりが聞こえる。高速がこの近くなのかもしれない。
ベッドには50代半ばと見える男性が、点滴と鼻カニューレを付けられて仰向けに寝かされていた。時折息を吐くのに合わせてぶつぶつと唇を震わせ、むくみきった赤ら顔の眉間に皺を寄せながら小さく寝返りを打っている。あまりいい眠りにつけていないのかもしれない。それでも命の危機の足音は無い様子だった。規則的に布団が上下している。
次に目を伏せて考えた。わたしがどうしてここにいるのか分からない。
わたしは、きっと、しばらく前から何もせず、背もたれもないような固いドーナツ型の椅子に座って静寂に身を預けている。見ず知らずの人間の病室にいることほど退屈なことはないのにと、頭の中で誰かが言うけれど、わたしはただ口を半開きにして天井と男を交互に見つめている。唇がぱりぱりに渇いていくのがわかるのに、こう、脱力していないといけないような気がしていた。そうでなければ相手の攻撃をやわらかに受け流せない。迫りくる大波を捌ききれない。
瞬きをする。ひとつ事実をはっきりと思い出す。
ここでこの男に今から何かが起こる。わたしにとってもそれは分かりきった、すでに決定されたこととして感じていて、だからわたしはそれを見ていなければいけない。そのためにこの椅子に座らされているのだ。でもそれを目の当たりにするのがなんだか恐い。鈍く抽象的で清潔感のある独特な恐怖だった。
男がまた目を瞑ったまま、ごろりと天を仰ぐ。男の口に視線が吸い寄せられた。
口の端から涎のように双葉が垂れている。やっとの思いで這い上がってきたというような白っぽい双葉は、凄まじい勢いで伸び始めた。鼾が芽を吹く。タイムラプス動画のような速さ。茎が布団へ巻き付く。――蔓草。
点滴針を打った場所からも芽が出てきて、テープを引きちぎった。点滴の管がだらんと腕から離れる。鼻の穴からも丸い葉っぱが出てくる。
静寂の中で葉っぱが男の薄氷色の病衣の袖や布団に擦れて乾いた音を立てた。吹いているのかも分からないような空調の風にふわふわゆさゆさと揺れる。無邪気にたてがみを振りながら、生まれたばかりの命と広々とした空気を喜んでいる。
やがて、植物の丈が病床全体を覆い始めたころ、紫に近いピンク色の花が咲いた。伯母が畑で育てていたエンドウ豆の花だと思い出す。葉っぱからも茎からも花からも巻きひげからも、青々とした春の日向の匂いが香ってくる。凄い。思わずわたしは椅子から立ち上がって神秘を眺めていた。きっと目を丸くしていたと思う。蔓草は湧き水の如く、上に上に茎を伸ばそうとして次々と重力に負け、男の頭を中心にして放射状に広がっていった。ベッドテーブルやベッドの手摺や点滴台には太い枝が嬉々として絡まっていく。
きれいな緑だな、と、葉っぱに触れようと指を伸ばしかけてやめた。葉っぱが指を食べてしまうような光景をちょっと思い浮かべてしまったせいもあるし、(この男には申し訳ないけれど)中年男性の鼻や口腔から出てきたものを触る気には……と考える頭がまだあったからだった。とはいえ、えんどう豆の木とこの男とは全く別の生命体だろうと思えた。つまり、何らかの原因があってこの人がえんどう豆の木を生やしたんじゃなくて、えんどう豆の木がこの人を選んで生えてきたという方が、きっと正しい。これはわたしの信憑性の高い直感。
わたしは男の顔を葉っぱの隙間から覗き込んでみた。もう緑がわさわさして、胸のあたりで葉っぱが上下に動いているのさえ、男の呼吸によるものなのか、植物の止まらない成長の動きによるのか分からない。多分まだ呼吸はしているはずなのだけれど、先ほどのような鼾はもう聞こえない。緑の影に光を隠されたせいか、それとも栄養分を持っていかれたせいか、肌の色も少し白くなったようだった。さっきよりずっと和らいだ眦もちらりと見えた。この短時間で、男の身体の主導権が男から失われつつあるということだけは分かる、木が蔓草にゆるりと締め付けられて枯れていってしまうように。
ふと我に返り、こめかみを両手で抑えた。
わたしはどうかしているのかもしれない。
この男性の死をわたしは願っているのだろうか。それぐらいえんどう豆の花に心を奪われて仕方なかった。いや、それだけじゃない。憐みだけではない、この中年男の人並みの醜さを蔑むような感情が生まれているのは、たとえ今から死ぬとしても当然の報いだとさえ感じる。
考えていたらなんだか眩暈がしてきた。服の胸元を掴みながら下を向く。枝が床に広がっていた。自分のスニーカーの上に葉っぱが重なっている。私は動いているから、支柱の代わりにはならないだろう。でももしかするとそのうち枝が足に絡んで、ここから動けなくなってしまうかもしれない。……それにしても、今日のわたしはいかにも陰気そうな藍色づくめの服を着てきてしまっている。現代風死神みたいだ、なんて、わたしは全然そんな格好いいものじゃないけれど。
そうこうしているうちに、花弁のいくつかが萎んで実がなった。
葉っぱや花はえんどう豆のそれだったのに、肝心の実はまったくえんどう豆には似ておらず、赤かぶみたいな色をしたつやつやまんまるの実だった。木の大きさもあって、クリスマスツリーのオーナメントのようにも見える。
ほうっと息を吐いたその時、病院の引き戸が勢いよく壁にぶつかって跳ね返る音がした。意味もなくわたしは狼狽える。
女性の看護師だった。背が高く、荒れたダークブロンドの髪をひっつめて団子にしている。顔立ちからするに、ハーフか外国人のように思われた。色の悪い皮膚、こけた頬。病室がこんなことになっているというのに顔色一つ変えず、早足でこちらに向かってくる。痩せているせいだけでなく目つきがきつい。見た目より若いのかもしれないが、あまり年齢が読めない。
看護師は荒っぽく枝を搔き分けると、成っていた実のひとつを迷いなくもぎ取った。乱暴な手つきに不服を唱えるかのごとく盛大に葉が揺れる。
やっと。どうして。歯を食いしばりながら息を漏らして何か呟いていた。
硬直していると彼女と視線がぶつかってしまった。案の定、きつく責めるような目でこちらを見上げてくる。わたしは弁解しようとして軽い混乱に陥ってしまった。わたしがここにいる資格があるのかどうかなど、今も分かっていないのだから。
しかし彼女が発した言葉はわたしの予想していた叱責の内容と幾分違っていた。
「あなたは何をしているの。せっかく成った実も採らずにただ突っ立っているなんて」
まあ、確かに、ここまでの過程を経てできた実は珍しいどころか、おそらく世界でこの木からしか採れないものだろう。人間に一人として同じ個体がいないのと同じことだ。実際こんな風につやつやと輝く実も見たことが無い。
でも、いいのだろうか。わたしはそうと指先で葉を掻き分け、小さめの実を手で包んだ。表面はひんやりしていて、軽く爪で叩くと音が鳴るぐらいには固い。しばし見つめてから決心し、できるだけ丁寧に枝を捻って蔕ごと実を外す。ちぎった断面の、縦に裂けた繊維も、なんの変哲もない健康な植物のそれだ。
その間、看護師はベッド脇のテレビを半ば無理やりどかして実を載せるスペースを作り、白衣のポケットから小ぶりの刃物を取り出して実にあてがうと、体重をかけて切っていった。果たしてそのメスは持ち出して良かったのか。いや、わたしには関係ない。余計なことを聞くのは止めよう。
実の内側は白かった。毒見をさせるまでもない、皮を剥いていない実に一切の迷いなく彼女は歯を立てる。僅かに果汁が霧となって散った。咀嚼し、飲み込む。さらに大きく齧り付く。実を貪るごとに彼女の目に生気が灯り、激しくなっていく。次の実に伸ばす手の速さとは裏腹に、不味いものでも食べたように顔が歪んでいく。
ほら、お食べなよと、わたしの嗅覚が手元にも自然の匂いがあることを知らせる。にわかに呼び起こされた食欲が強くなっていく。意を決して私は果実を噛んだ。林檎よりも少し固い程で、何度か齧り直してようやく果肉へ深く歯が食い込む。
口の中へ含んだ途端、思わず動きが止まった。
目の覚める酸味、酸味。固さの内側に隠された、はじける瑞々しさ。どちらといえば野菜らしい風味。最後に来る僅かな塩気が後を引き、唾液が湧いてくる。まず豆の味で無いとだけは断言しよう。あえて近い味を挙げるとするなら、幼稚園のころ、暇つぶしにしゃぶっていた蓼科の植物の茎、あれが実として食べられるようになった感じだ。
そして、葉っぱと土と乾いた太陽の味のような新鮮な実特有の香り。美味しいという形容が正しいのか分からない。けれど、ひたすら身体に滲みる、健やかでありながら蠱惑的なぐらいの酸味、これは。
最後の欠片を飲み込んで指を舐める。溜息が揺れる。わたしは首を傾げた。身体の底から掬い上げたような何かがあった。身体全体が怠いのに心地良い。ただの食事でどうしてこんなに疲れてくるのだろう。思考と同時にその答えに辿り着いた身体が、喉を鳴らした。
疲れを癒すだけなら、栄養ドリンクでも事足りる。でも、これは、厭世的に言えば生きることへの疲れを癒してくれる食べ物だ。上手くはいえないけれど、ただ分かるのは、実のもう一つ分でも疲れを吹き飛ばしたいということだけだった。まだ少し足りない。その思いが喉の渇きや唾液や高揚に置き換わっていくのを感じる。
今度は大きめの実を見定めて、わたしはゆっくりと立ちあがった。
これは、たしかに、怖じ気づいたという理由などで食べずにいるのはもったいない。わたしは何をしていたんだろう。足元に絡みはじめている蔓を外しながら、もう一度実を捻る。
さぞ異様な光景だっただろう。見舞い人と看護師の役目のはずの二人が、衰弱死していく男には目もくれず、男から生えた植物の実をひたすら貪っているのだから。
愚かな。でも仕方ない。二人を傍観するわたしが呟き、明後日の方向へ目を反らす。そう、仕方ないんだよ、食べたいんだから。わたしはわたしに言い聞かせ、咀嚼音に浸った。
それでも、わたしの胃は幾分理性的らしい。何個目か数えてもいないけれど、実の欠片を持ったままの手を膝に降ろし、大きく息をつく。やっと、少し落ち着いた。この実を持ち帰ってもいいのなら、いくらでも持っていきたい。
横を見ると、看護師はまだ実に喰らいついている。血走った目は潤み、今にも零れ落ちる寸前だった。きっとこの人はわたしと違って全てを知っていたのだろう。きっと待ち望んでいた瞬間だったのだろう。それにしても。まるで餓死寸前の旅人のような様子に圧倒されて何も話しかけることができないままわたしは何気なく一口を齧り、そして早回しのような映像を薄く脳裏に見た。
泣き腫らした顔の男の子が祖母に負ぶわれ、次には成長して2、3人の友達と走り回っている。ネクタイを付け大言壮語を語る。身体に脂が乗り腹が出てくる頃には仕事場に今年入ってきた新人達の尖った主張をせせら笑う。酒の席では管を巻き、隣の痩せた男と背中を叩きあいながら口を開けて笑っている。帰路の景色か、日が沈んだ直後の青い空を感じた直後に回想の糸が綻び、切れた。ゆっくり瞬きし目を開くと病室が戻ってくる。
「これは……?」
反射的に出した問いに、看護師が一瞬だけ睨みをきかせてくる。
手触りも脈動も全く馴染みのない記憶だった。妄想か夢か分からないものだったけれど、結論から言えば、男の意識が永遠に失われたことを感じていた。
走馬灯の共有。
もちろんわたしにテレパシー能力など無いので、一連の不可解な状況の為せる業としか言いようがない。何とも言えない気持ちになりながらも残った欠片を飲み下す。
「凡庸すぎるわね」
看護師が忌々しそうに笑ったのでわたしは顔を上げた。太枝の絡んだテーブルに水の入ったコップが置かれた。この人にも人の気を察する能力があったのか、と不遜なことを考えながらわたしはコップを手に取る。
「いっそとても追いつけないぐらい遠い人間だったら思い切りも付くし目も当てられないような人生であったならどうやってこんな植物を生み出すことができたのか興味も沸くというのに」
「いくら実績のある人が下した診断でもこれだけは解せなかった。だから診断が下されてからずっと、私はずっと密かにこの男を観察していた。この男の体質経歴家族構成周りからの評価、この男に美しい実を付けうる美しい蔓草に選ばれる特別な何かがあるのだろう。そうに違いないと。掘り出せば掘り出すほど今貴方も見たような凡庸な情報が出るばかりだったのを、そんなはずはないと思ってここまで来てしまった。それともこの男のような、突出したところもなければ落ちぶれることもない人生こそ至高だと言いたいのかしら、この植物も。私への当てこすりのためだけに」
「私はこの男に診断が下った時、いえきっと生まれた時からずっと類い稀なる素晴らしい蔓草に選ばれるために行動してきた。看護師になって蔓草の存在をはっきりと自覚してからは、密かにこの植物のことを研究して生きてきた。ずっと……ずっと。それなのに私はこんな美しい蔓草とは引き合えないと言われてしまった。一生を懸けてもお前はヤブガラシの木ぐらいしか生やせないだろうと」
出そうとした言葉を水道水と一緒に飲み込む。わたしが話の内容を2割も嚙み砕けないでいるうちに彼女は泣き出し、髪を搔きむしる。
「や、ヤブカラシも……そういう植物というだけで、悪い草と決めたのは人間の方ですし」
「他人事のような口ぶりで言うけれど」
「え?」
「分からないの」そんなことも、が絶対に前についたであろう言い方で、看護師は言った。
「ここにいる私達は同素体なのよ」
ここにいる? なら、この男の人も?
軽い舌打ちが病室に響く。それきり彼女は何も言わなくなった。どんなに主観的であったとしても現状この人の話からしか情報を得る術はないというのに。
わたしの頭はこの個室に来るまでの記憶を手繰り寄せようとした。しかし空気を掴むように手ごたえが無い。足を踏み出しても着地できそうにない。そんなことはどうでもいいことなのかもしれないが、そういえば携帯に着信がかかってきて呼び出された気もする。
いよいよ椅子に座っていられなくなってきたので無理やりにベッドを乗り越えて通路側に移動した。はじめ重力に負けていた蔓草はもはや天蓋のようになっていた。病室の灯りが翳る。下方の葉は枯れ、熟れた実はだんだん色あせていく。彼女はまだ実に未練がありそうだったけれど、わたしはもう満足していた。
「そろそろ帰りますね」
独り言のようにわたしは呟いた。看護師の手から実が転がり、ベッドの下でゆっくりと腐っていく。それを見届けて、ベッドに背を向けようとした時だった。
「待て」
嗄れた声がわたしを止めた。突然看護師は立ち上がると早足で出口に向かう。
そして大きな音がした。
半分開いた扉の手前で彼女は倒れていた。思わず驚いて近づいていくと服越しにも爪が食い込むほど足を掴まれる。もう片方の手で、右目を抑えて唸っていた。苦しそうなのだけれど、笑っているような、苛立ちに涙ぐんでいるような表情。何か叫ぼうとした言葉の代わりに、彼女は何本もの茎を吐く。右手の指の隙間からも小さな暗緑色の葉が覗いていた。
伸びるために血液さえ吸い尽くす、その猛烈な速度たるや男を養分にして生えてきた蔓草の比ではなかった。わたしは今更になって恐怖を覚えた。情けなく細い悲鳴が喉から出る。反射的に身を引いたが、看護師が手を放してくれない。
彼女の左目が殺気を放っていた。細腕の血管が浮き上がるほど、全身の力を込めて枝を引きちぎりながら必死に抗っている。赤紫色の茎を噛みちぎろうとした歯が折れて床に転がった。それまで部屋を支配していた春の日向の匂いに、鼻をつく湿っぽい雨の匂いが混ざる。
解れた金髪。花弁に似た栗色の虹彩。
少女のようにわたしを見上げて、看護師は喉の奥から息も絶え絶え囁いた。
「違う。……死にたくない」
あ、聞いてしまった、と思ったけれど、時すでに遅し。わたしは彼女と目を合わせてしまった。彼女が身体の主導権を諦める瞬間を見てしまった。
助けようとする間も無かった。看護師の頭がヤブカラシの葉に覆われる。こちらへ伸ばした腕が飲み込まれる。彼女の名前を呼んで意識を取り戻させようとしても、悲しいかなわたしはその名前を知らない。
足を掴んでいた腕を伝って伸びてきた枝に足を取られて尻餅を付いたわたしは、真顔になった。
とにかく必死でわたしは自分の中の憎悪をかき集めて枝を引きちぎり、葉を薙ぎ払うと、看護師の身体であった藪を病室の中へ押し込めるだけ押し込んだ。自分の後ろ、病室の奥で何か割れる音がする。たぶんテレビの液晶だ。
逃げ出そうとして枝に軽く躓いた瞬間の隙を突いて左腕を絡め取られる。病室の白壁を引っ搔いた右手の爪の先が割れる。肺が冷える。
振り返ると目の前に、通常見かけるものより大分大ぶりの、ヤブカラシの花が咲いていた。
花盤から透明な蜜がぽろぽろと溢れていた。
廊下は暗く、遠くの非常灯をリノリウムが反射している。扉の閉まった病室を確認すると、わたしは若干朦朧とした意識のなか何事もないような素振りをして歩いた。
受付ではスタッフがずっと手元を見ながらせわしなく作業をしている。わたしの存在にも自動ドアが開いたことにも、気が付いていないのか気に留めていないのか。
冷たい風が頬に当たった。力が抜けていた足に活が入る。
そしてわたしは知らない町の知らない大通りを全力で走っていた。
煌々と輝く十三夜の月と渋滞気味の車のテールランプが、満開の桜並木と花桃とを祝福している。疾走するわたしにとって舞い散る桜の様はまさしく前も見えない滝のような吹雪だった。息が上がり視界が赤く滲み、訳の分からない笑いが心を支配しても、わたしは走った。鼻腔の奥で感じていた葉と薬品の陰気な匂いが、ひんやりとした桜の香りに完全に代わるまで。
どうやって自分のアパートまで帰ってきたのか、そんなことはどうでもいいことだった。そういえば桜まみれの髪で駅のロータリーに立っていたような気もする。
夜も更けるころだけれど、2DKの自宅は今日も暗いままだった。玄関に立って一息ついた時、わたしははたと気がついた。
まずは姿見を見ながら入念に衣服や髪の埃をはらう。桜の花弁が一片だけ見つかった。つぎにコートを着たまま部屋に上がる。ダイニングテーブルに置いてある同居人の書置きを確認した後、キッチンを見た。
迂闊に電気をつける気になれなかった。明るい電灯の元では事実が事実だと確定してしまう。そうなればこの恐怖を認めるしかないし、そうでなくとも興が醒めるというもの。廊下と窓の外からの青白い光だけで十分だ。
コートのポケットに手をいれた。
いくらかの手ごたえがある。
取り出して眺めたら、思わず肩の力が抜けた。……お腹がすいていた。
サイズは大粒のミニトマトぐらいだろうか。色はたぶん銅より少し暗いぐらい。5粒、水に浸して洗う。ほんの5粒、たった5粒だ。エンドウから生った実の味を思うと、これで満足しきれるはずがない、と思った。
恐る恐る実を含む。舌触りもミニトマトみたいだった。歯を立てると、よくここまで潰れなかったというぐらいあっけなく、ぷつりと皮が切れる。
息が止まるんじゃないかと思うぐらいに、甘かった。
良く味わえば、ただ甘いだけではない。香り高く、爽やかさもある。とろとろとした食感もあって蜂蜜みたいだった。それでも飲み込んだ後はかなりの甘さが胸を焼く。ゆっくり味わえば味わうほど舌が麻痺していき、飲み下すには一種の辛ささえ感じる。エネルギーの要る食べ物だ。
想像していた味とは少し違っていたけれど、できるだけ大切に食べていく。ちいさな種も飲み下す。最後の粒を手に取る時には、甘さのせいで堰を切ったように涙が出てきた。むりに止めようとすると変な汗が噴き出す。仕方ないので、夜中の台所で流しにしがみつきながら、流れるに任せ泣いた。
エンドウの木より、身体にヤブカラシを宿らせて実をつける方が大変なことなのではないか。それは確かにエンドウの木の方がヤブカラシよりは珍しいし美しくも見えるけれど……。ただ、あの看護師にとっては、隣の芝生が青く見えるとか、そういう単純な問題じゃなかったのだろう。走馬灯のような幻こそ見なかったけれど、わたしは彼女の異常なまでの執着心と激昂と、もしかすると人一倍純粋であったかもしれない過去とに想いを馳せていた。
やがて涙が止まると、わたしは立ち上がって何とか水を飲んだ。
これで不可解なもの、非日常は完全に消え去った。いつも通り、シャワーを浴びて寝る準備をすることにした。
一人の夜にはよく、自室の窓にレースのカーテンだけを引いて寝ている。
深海のように沈んだ部屋は少し雑然としていて、観葉植物もある。こうしていると、いつも自分が変わった鳥籠の中にいるような気分になってくるのだ。
わたしはごろごろと寝返りを打ちながら腕を伸ばした。月明りを反射して爪が青く光る。そういえば爪が割れたところは、浴室でよくよく見たら結構血が滲んでいた。どうせすぐ治るだろう。
なんだか身体がすっきりとして軽い。でも今はこのまま底に沈んでいこう。甘い香とともに、ゆっくり、ゆっくりと。
これから見るのは誰の夢だろう。わたしを待っている人がいてもいなくても、きっとこれからはすばらしいことばかりが起こるような気がする……。
思い出し笑いが泡のように胸の中ではじけて消えていった。