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3 勝負はカードを切る前から始まっている

ラウラとアンジェイのお話です。

 ――勝てないと分かっていても、挑戦は諦められなかった。




「シュアルツェン法の定義は?」

 遊び時間用の小さなドレスを丁寧に畳み、アンジェイ・ミクリが質問した。


「王権神授説からの脱却の根拠」

 幼い王女たちの着替えを手早く仕分けしながら答えるのは、彼の婚約者ラウラ・マチェク子爵令嬢だった。癖のない黒髪を三つ編みにした彼女は、駆けずり回る幼女たちを器用にかわしながらドレスを乳母や侍女に渡した。


「なんだ、試験勉強はちゃんとしてるんだ。これなら卒業試験の首席は余裕だろ?」


 白っぽい金髪のアンジェイが笑うと、ラウラはむっとした顔で婚約者に反論した。

「首席だけじゃ駄目なの。誰かさんが作った化け物みたいな点数を超える最後の機会なんだから」

「あ、もしかして僕?」

「ふざけた話よね。法学院に一緒に入学したのにさっさと飛び級で首席卒業してそのまま法務卿直属だなんて」


 不機嫌そうな愚痴もへらっとやり過ごしてアンジェイは提案した。

「帰りに君のとこの書斎を使わせてもらって良いかな」

「構わないけど」

「ありがとう。うちは王都に家なんてないし、今は公舎暮らしだから窮屈なんだよね」


 婚約者の家を勉強部屋代わりにするのもいつものことと、ラウラは気にも留めなかった。


 子爵であるマチェク家と準男爵でしかないミクリ家は一見釣り合いが取れないようだが、双方官僚として名を上げた家である。アンジェイはミクリ家の長男というより本家筋のザモイスキ伯爵家の有力後継者候補として見られがちだった。


「本家の屋敷なら王都にあるでしょ」

「面倒だから嫌だ」

「他の跡継ぎ候補が本家詣でしてるから?」

「後継者争いに立候補した覚えはないんだけど」


 迷惑そうな言い草に、ラウラは内心溜め息をついた。これほど有能で前途有望な者ならどこの家だって欲しがるに決まっている。


「その余裕綽々ぶりが敵を作るんじゃないの?」

「えー」


 黙っていれば聖堂の天使像に張り合えそうな顔を歪めるアンジェイは不本意そうだった。


 宮殿奥の花園の離宮は後宮生まれの王女たちの保護施設状態だったが、最近は経験豊富な乳母や侍女が増えたこともあり、王太子と側近、彼らの婚約者による保育はかなり負担が軽くなっていた。今では全員が揃うことの方が珍しいほどだ。


 やがて帰宅時間になったアンジェイとラウラは王女たちと世話役に別れを告げて王宮を出た。





 二人が戻るのはラウラの家であるマチェク子爵の屋敷だった。貴族の屋敷が並ぶ区画でも比較的下町に近い場所にあり、敷地も控えめな家が並んでいる。

 マチェク家の特徴は書斎や資料室が屋敷のかなりの部分を占めていることだ。


 子爵夫人が娘とその婚約者を出迎えた。

「お帰りなさい、ラウラ。いらっしゃい、アンジェイ。今日も書斎を使っていくの?」

「できれば」


 仕方ないわね、と夫人は慣れた様子で娘に案内をさせた。二人はもはや専用の感のある場所に向かった。

 書斎は蔵書部屋と研究部屋に区切られており、彼らはその一つに入った。中はおびただしい数の紙がそこかしこに重なり黒板に貼られていた。


 そこに並んでいるのはかつての後宮の側室の名と、その後ろ盾となる者の相関図だった。アンジェイは上着を脱ぐと天気の話でもするような口調で言った。


「始めようか。できれば建国祭までに元老院を黙らせたいんだよね」

 ラウラは頷きテーブル上の法解説を手にした。


「毒殺事件に関わった側室の処分は王室典範の第九十条二の二を使えない?」

「いや、それより七十三条一の三が近い。判例はファロス歴817年のグラーツ事件で」

「あれは側室とも言えない愛人の起こした事件だから、853年のセブ事件の方が近くない?」

「それって情報漏洩事件だろ、前例にするなら殺人事件だよ」

「計画性を立証できてないでしょ」


 法典や法規類集をめくり資料を探しながらの検証は夜中まで続き、結局アンジェイは部屋のソファで横になったまま眠ってしまった。


 様子を見に来た子爵夫人が呆れ声で言った。

「このまま泊まってもらいましょう。でもラウラ、研究も勉強も良いけど、少しは婚約者らしいことをしているの?」

 それには答えず、子爵令嬢は自分の寝室に移動した。


 着替えてベッドに転がり、天井を見上げて彼女は呟いた。

「…婚約者らしいって何?」


 そもそも彼、アンジェイ・ミクリとの出会いは法学院の同級生だったからだ。飛び抜けて可愛い容姿の男子学生がいると、少数の女子学生の注目を集めていたのが彼だった。


 その真価がずば抜けた知能にあることはすぐに分かった。入学から首席を譲らず、飛び級で一年後には先輩になり、あっという間に卒業してしまった彼は法学院では既に伝説の存在だ。

 置いて行かれる悔しさと寂しさがラウラの努力の原動力だった。


「同級生だった一年間は同じ班で法令研究をしたり、いい友達だったのに…」


 いくら頑張ってもアンジェイの残した記録を塗り替えることは出来ないまま、彼女も法学院を卒業しようとしている。いつか追いつくことを目標にする競争相手と想定外の関係になったのは半年前。母親から彼との婚約の話が出ていることを知らされたときは驚きすぎて言葉が出なかった。


 アンジェイ本人は平然としたものだった。

『結婚するなら君だと思ってた』

 理由はこれで充分という顔で言われ、婚約前と同じく法務卿の元で働く彼と勉学に励む日々が続いた。これまでとの違いといえば、左手に指輪が嵌められたことくらいだ。

「…別に変わらないわ」

 違和感を封じ込めるようにラウラは目を閉じた。





 王立法学院。首都パデレシチに設立された官僚養成のための学府である。法律に関しては王立大学よりも高度な授業があることで有名で、全国から政府機関での立身出世を望む若人が集っている。


 その歴史で初の女子首席卒業者になるだろうと噂されているラウラは、学友たちと廊下を歩いていた。


「アンジェイは元気にやってるのかな」

 かつての同級生を思い呟いたのはヘンリク・ポニャトフスキ。次期王太子妃カトレインの弟だ。


「この前も一緒に判例研究をしました」

 ラウラが言うと、彼は顔をしかめた。


「あの激務の法務省に勤務してて、よくそんな余裕があるよな」

「勉強は良いけど、ラウラ、少しは一緒に夜会に出てるの? 全然姿を見ないけど」


 心配そうに言うのはブランカ・ザヌッシ。地方領主の娘だ。

 法を学ぶ者は平等という学院の理念で生徒は身分に関係なく講義を受け、持論を戦わせることができた。


「建国祭舞踏会には一緒に行くわ」

 やや言い訳がましくラウラが答えると、彼女は嘆かわしげに首を振った。

「当然よ、婚約者なんだから。ドレスだって早く仕立てないと、いいお店は予約を締め切ってしまうわよ」


 その辺は母親に任せっきりのラウラは、笑って誤魔化すしかなかった。

「でもアンジェイは何を着たって気づかないわ、きっと」


 今着ている黒いローブの制服で会うことが一番多かった相手だ。舞踏会用の正装などしたら他人だと思われるかもしれない。

 やや自嘲的にラウラは考えた。その胸中を知らない友人たちは、建国祭の話題で盛り上がっていた。


「王宮の行事であれが一番好きだな。お祭りだから貴族以外も大勢参加するし、気取ってなくて楽しいよ」


 ヘンリクの言葉にブランカも頷いた。

「そうね。男女どちらからでも踊りを申し込めるし、無礼講だし」


 実際は同じ身分同士で踊ることが圧倒的に多いのだが、様々な階級の人々が一堂に会する貴重な場でもある。


 ふと外を見ると、物々しい警護兵の姿が目立った。立ち止まるラウラにブランカが声をかけた。

「どうしたの?」

「何だか警護の人が多い気がして」

「建国祭の警備増強のせいだろ」

 ヘンリクは気軽に言うと、次の講義場所へと学友をせかした。





 帰宅したラウラは、家の中の空気が違うのに気づいた。


 使用人が不安そうに囁き合うのを咳払いで止めさせ、子爵令嬢は両親の声がする居間に向かった。


「何かあったの?」

 娘を見るなり、子爵夫人が縋り付くように抱きしめた。

「ああ、大変なのよ、ラウラ。フェリクスが」


 夫人が口にしたのはこの家の長男、ラウラの兄の名だった。

「お兄様がどうしたの? まさか病気か怪我でもしたの?」


 アグロセンに留学中の兄に不幸でも起きたのだろうかと、彼女は硬い声で尋ねた。しかし、もたらされた答えは予想外だった。

「あの子、アグロセンの女の人と結婚して向こうに永住すると言ってきたの」

「永住? お兄様が? この家はどうなるの?」


 マチェク家の子供はラウラとフェリクスだけだ。ロウィニアは女子相続を認めているが、ラウラの婚約はこんな事態を想定して結ばれたわけではなかった。


「とにかく説得はしてみるが、許さないなら廃嫡してくれとまで書いてある」

 マチェク子爵が唸るような声で言った。その手に握られた手紙はぐしゃぐしゃになっている。


 手紙だけでなく、荷物らしき箱まで届いているのにラウラは気づいた。

「お兄様は何を送ってきたの?」

「もう不要だと言って、この国で揃えた服や身の回りの物を詰めていたわ。あなた宛の物もあるのよ」

「私に?」


 母親から小さな箱を受け取りラウラは開封した。アグロセン名産の磁器のカップだった。緩衝材代わりの新聞紙にくるまれたそれを、彼女は腹立たしい思いで眺めた。

「詫びのつもりかしら。この家を押しつけるからって」


 見ていると壁に叩きつけてしまいそうで、ラウラは乱暴に箱を閉じた。怒りをあらわにする娘に、夫人がためらいがちに言った。

「ねえ、ラウラ。このままだとあなたの縁談を白紙に戻すことも考えなくてはならないから、頭に入れておいてね」

 言葉もなく、愕然とした子爵令嬢は立ちすくんだ。





「フェリクスが?」


 翌日、法学院を訪ねていたアンジェイに昨夜の騒動を打ち明けると、さすがに信じられない様子だった。

「お父様は書斎に閉じこもるしお母様は泣いてばかりだし、家はメチャクチャよ」


 愚痴をぶちまけるラウラだったが、彼との婚約が風前の灯火であることは口にできなかった。少し考えた後で、アンジェイ・ミクリは言った。

「これから法務省に戻らなきゃならないけど、なるべく早く君の家に伺うから」

 ラウラは足早に去る彼を見送った。





 王都の行政区画、厳めしさを感じさせる法務省の建物にアンジェイは入っていった。多くの職員が行き来する中、彼は法務卿の執務室に入室した。


「法学院から資料を借りてきました」

 最年少職員が学院に保存されていた古い判例集を取り出すと、法務卿ヴァツワフ・シェッフェルがそれを受け取った。片眼鏡を嵌めて内容に目を通し、彼は難しい顔をした。


「確かに、この判例に従えば毒薬の輸入手段を作った者も殺人教唆に問えるが、問題は証拠だ」

 執務室にいた法務卿直属の部下たちも、その言葉に同意した。

「入手経路も判明していないのだからな」

「黒幕の見当は付いているのに」


 苛立たしい空気を全く読もうともせず、アンジェイが発言した。

「実行役を引っ張ってきて吐かせるしかないでしょ」

 法務省きっての精鋭集団は若い後輩に批判的な目を向けた。

「別件逮捕は諸刃の剣だぞ」


 それを意に介さず、アンジェイは一人の資料を差し出した。

「タデウス・スコルプコ。チャルトルィスキ家子飼いの男爵家出身。主にアグロセンで商業活動中」


 資料を囲み、職員たちは首をかしげた。

「確かに警務省でも監視対象に入れている人物だが、国外では余程のことがないと身柄を拘束できないぞ」


 先輩の言葉を最年少職員は笑い飛ばした。

「そんなの、外国で孤立させればすむでしょう。お仲間を捕まえて手足もがれた状態で独房にでも突っ込んでおけば大抵の奴は根を上げるから、そこで聞きたいことを全部聞き出して首を切ればいい」


 にこやかに事も無げに言われた内容に、職員達は薄気味悪そうな表情を隠そうともしなかった。

「…なるほど、悪魔の所業は悪魔に教われということか」

 一人が吐き出すと、アンジェイは目を瞠ってから笑って見せた。

「それって、祈るしか能のない天使より役に立つって事ですよね。突破口さえあれば外務省が働いてくれそうだし」

「そこまでだ」


 険悪な言い合いになりかけたのをシェッフェル卿が止めた。部下を退出させ、最後に出て行こうとした最年少職員を彼は呼び止めた。

「ミクリ君、才気煥発は結構だがあまり過激な方向に突出するとそれこそ悪魔の領域に踏み込んでしまうぞ」

 アンジェイは微笑んだ。

「大丈夫です、僕には強いお守りがありますから。で、人間に戻りたいんで早退させてください」

 それには法務卿もしばらく言葉が出なかった。





 ラウラは自宅で落ち着きなく居間をうろついていた。法学院で事情を知った友人達から慰められても講義もあまり身に入らず、結局必修科目だけで帰宅してしまった。


 玄関ホールからアンジェイの声がしたのは夕暮れ前だった。

「失礼します、マチェク夫人」

 帽子をメイドに渡し、彼は顔色の悪いラウラに近寄った。


「大丈夫かい?」

「…ええ」

「早速なんだけど、フェリクスからの手紙を見せて貰えないかな」

「お兄様の? ……いいけど」


 かなりよれてしまった便箋を渡すと、法務省職員は食い入るように読んだ。

「何かあれば僕を頼るようにって書いてあるね」

「そうね」


 婚約が白紙撤回になれば頼ることも出来なくなるのにいい気なものだと、ラウラは憤りを滲ませた。アンジェイは室内を見渡した。

「荷物も送られてきたって言ったよね」

「そうだけど。中身は身の回りの物だけで特に変わった物はなかったわ」

「見せてくれる?」


 真剣に頼まれて、ラウラは兄の部屋に案内した。箱は届いた状態に戻され放置されていた。両親の怒りを感じたが、今は身勝手な兄に同情する気にはなれなかった。


 箱の外側をアンジェイは確認した。

「税関の検査票がずれてる」

「えっ?」


 確かに、国外からの荷物に貼られる検査済みの札が巧妙に貼り直されていた。アンジェイが中の衣類を取り出した。

「……やっぱり」


 呟く彼の背後から兄の上着を見たラウラは、服の内側が破られているのに息を呑んだ。

「何なの、これ」

 混乱する彼女と対照的に婚約者は落ち着いていた。

「手紙を少し借りていいかな、封筒も」

「……ええ」


 それらを手渡すと彼は上着の内側にしまい込み、そそくさと帰り支度をした。

「邪魔したね。また、改めて挨拶に来るよ」

 それだけ言うと去って行く彼に、ラウラは落胆を覚えずにいられなかった。

 自分たちの婚約について、アンジェイは何一つ触れなかった。せめて一言心配するなと言ってくれれば、それだけで救われた気持ちになったのに。


 子爵夫人が一人で玄関ホールにいる娘に気づき、怪訝そうに尋ねた。

「アンジェイはもう帰ってしまったの?」

「知らない」

 それだけ言うとラウラは二階に駆け上がった。


 自室に入り扉を閉めると、涙がこみ上げてきた。

 兄が後継者から外れて自分が子爵家を継ぐことになれば、配偶者は当然この家に入ってくれる者を選ばなければならない。アンジェイはザモイスキ伯爵家の後継者候補だ。

 もう成績を競うことも、法令研究をすることもない。会うことも出来ない。


 フェリクスから送られたカップの箱が目に入り、彼女は腹立ち紛れにそれを手に取った。本気で投げ割ってやろうかと思ったとき、検査票に気づいた。

「これは貼り直してないわ」


 何故だろうかと考え、彼女は思い至った。

「あの箱はお兄様が差出人だった。これは店から直接送ってきたのね。一緒に送ればすむのに…」


 中身を慎重に取り出してみる。カップはありふれた物で特に変わった様子はなかった。諦めて箱に戻そうとしたとき、緩衝材代わりの新聞紙に異質な物があった。

 きっちりと折りたたまれた紙が差し込まれていたのだ。

「これも新聞みたいだけど……。『アグロセン―ザハリアス鉄道開通』…」

 紙を開くと、中には一枚の写真があった。数人の男性がいる中、一人の顔が丸で囲まれている。


 ラウラは顔を上げた。手紙と荷物に固執していたアンジェイ。大して親しくもない彼に頼れとわざわざ手紙で指示してきた兄。開封し服まで裂いて何かを探した形跡。

 彼女は窓に駆け寄り通りを見た。もう婚約者の姿はなかった。


 手近な手提げバッグと帽子、手袋を掴み、ラウラは部屋を出ると階段を駆け下りた。

「どうしたの?」

「用事があるの」


 驚く母親に構わず彼女は外に出た。

「待ちなさい、一人で出かけるなんて駄目よ。ああ、アガタ、着いていって」


 年若いメイドが慌てて子爵令嬢の後を追った。早足でラウラはアンジェイの公舎を目指した。子爵家が法務省に近い区画に家を構えているおかげで、女性の足でもそれほどかからない距離だ。


 あの角を曲がれば、と思った時、ラウラはいきなり現れた男とぶつかり、バッグを引っ張られた。


「お嬢様!」

 メイドのアガタが果敢にひったくり犯に立ち向かった。

「返しなさい!」


 それを突き飛ばし、犯人は逃げようとした。ラウラは男の服の裾を掴んだ。

「返して!」


 男は懐からナイフを取り出し、彼女に刃を向けた。悲鳴を上げてうずくまるラウラの耳に、蹄音と怒号が聞こえた。騒然とした空気の中で、覚えのある声が優しく問いかけてきた。

「大丈夫?」


 そろそろと顔を上げると、見たこともないほど心配そうなアンジェイがいた。手を差し伸べられ、彼女はゆっくりと立ち上がった。


「お嬢様、お怪我は?」

 半泣き顔でアガタが尋ねるのに大丈夫と首を振り、自分を襲った男に目をやる。彼は憲兵に取り押さえられていた。


「アンジェイ、ラウラ嬢は無事か?」

 野太い声が頭上から降ってきた。騎馬憲兵を率いたグスタフ・エデルマンだった。


「無事だよ、警備の増強を要請しておいてよかった」

 憲兵からバッグを返してもらったラウラは、そもそもの用件を思い出した。

「お兄様が別便で送ってきたカップの箱の中にこれがあったの」


 畳まれた新聞紙とそれにくるまれた写真を受け取り、アンジェイは被写体を凝視した。そして拳を握りしめた。

「よしっ! これで行けるぞ!」


 唖然とするラウラを抱きしめて彼は笑いだした。

「ありがとう、ラウラ! やっぱり君は最高だ!」

 振り回されるような抱擁にされるがままだったラウラは、近くの公舎の窓から多くの職員が顔を出して冷やかすのにも気づかなかった。陸軍騎兵は礼儀正しく見て見ぬ振りをして、襲撃者の捕縛を監視した。





 数日後、マチェク子爵家の書斎には三人の関係者が集っていた。

 ラウラとアンジェイ、そして昨夜遅く帰国したばかりの子爵家長男フェリクスだ。


「あーら、アグロセンに永住宣言をしたはずのお兄様ではありませんか。私、幻影でも見てるのかしら」

 棘だらけの視線を向ける妹に、兄は首を縮めて詫びた。


「申し訳ない、手紙が検閲されてたからああやって誤魔化すしかなかったんだ」

「だからって、もっとましなやり方があったでしょ」


 怒りが収まらないラウラに、アンジェイが未来の義兄を援護した。

「外務省からの要請だったんだよ。アグロセンにいるタデウス・スコルプコの動向を探るのは」

「いつからそんな諜報員まがいのことをなさってたの」

「あー、向こうの大学近くの酒場の女の子とちょっと仲良くなって、そしたらある日いきなり外務省の人間が押しかけてきて、彼女は留学生を狙う工作員で、このままだと国家反逆罪になるって脅されて、仕方なく……」


 兄の弁明にラウラは頭痛を覚えた。

「外国ではそういう危険もあると散々注意されてたのに…」

「フェリクスはそれを帳消しにする活躍だったよ、ラウラ。これで鉄道技術漏洩でスコルプコの身柄確保をして、奴と君を襲った男から黒幕を辿っていける」


 あの写真がロウィニアが開発した鉄道施設技術をアグロセン工廠に横流しする場面のものだったと説明を受けていたが、ラウラは実感に乏しかった。

「警務省か外務省の仕事でしょう、そんな取り締まりは」

「逮捕後にどんな罪を適用するかは僕たちの範疇だよ」


 納得未満の顔をするラウラと上機嫌のアンジェイを残し、フェリクスは父親の説教を受けるために書斎を出て行った。


 ラウラは婚約者に尋ねた。

「最終的に、どこまで辿るつもりなの」

「チャルトルィスキ侯爵家」


 国内きっての大貴族の名をあっさりとアンジェイは口にした。ラウラは眉をひそめた。

「後宮の毒殺事件まで関与を追及するのね」

「そういうこと。建国祭には間に合わなくても、殿下の結婚式までにはあの歩く酒樽が路頭に迷う姿が見られるかな。お家取り潰しの管財関連を初めて経験できるかもね」


 いっそ爽やかに期待を込めて言うのに、ラウラは哀しげに首を振った。

「アンジェイ、私もあの人は嫌いだけど、侯爵家を潰せば大勢の使用人や関連する者が職を失うのよ。不満が殿下に向かうようなことはしないで」


 数度瞬きをして、法務省の俊英は素直に認めた。

「考えつかなかった。……そうか、受け入れ先を確保しとかないとまずいか…」


 感心したように呟く彼に、ラウラは恨み言をぶつけた。

「兄さんに家を捨てるようなことを書かせて、私たちの婚約が解消されたらどうするつもりだったの」

「え? しないよ、そんなこと。せっかく本家の婆様に口利きしてもらって君との婚約にこぎ着けたのに」


 あっさりと言われ、焦ったのはラウラの方だった。

「本家のって……、まさかザモイスキ家のバルバラ様?」

「そうだよ、以前ちょっとお役に立ったことがあって、婆様が何かあったら力になるって言ってくれて、行使したわけ」


 ミクリ家の本家筋に当たるザモイスキ伯爵家には先王の妹バルバラが降嫁しており、俗世を捨てて聖ツェツィリア修道院長となった今でも一族に対する影響は大きかった。アンジェイと血の繋がりはないが、彼の聡明さは気に入られているようだ。


「そんなの、法務院での地位とかに使うでしょ、普通」

「あそこでどうしても伯爵位が必要になったら、蹴落として乗っ取るから」

 物騒な物言いにラウラは笑うしかなかった。


「…何で私なの。一度もあなたに勝てたことないのに」

 学院最後の試験も、結局彼の打ち立てた記録を更新することは出来なかった。無能者を何より嫌い軽蔑する彼が、そこまで自分に執着する理由が今の彼女には理解できない。


「僕、一学年の時に君に負けてるけど」

「え?」


 あっさりと否定されてラウラは面食らった。

「ほら、ボイム事件の研究論文の課題の時」

「ああ、尊属殺人事件の…。でも、あれはあなたの方が評価は上だったわ」

「点数はね。君は被告の更生と救済を視野に入れて法改正を求めてた。理論の詰めは甘かったけど、僕には絶対持てない視点だった。敗北感なんて何年ぶりだったかな」


 懐かしげに語ると、アンジェイはラウラの手を取った。

「それで焦って必死に勉強して、自分が優秀なの忘れてたからうっかり飛び級になって、君と机を並べて学べる時間が短くなったのは勿体なかったなあ」

「……知らないわよ、そんなの」


 目の前の彼をまともに見られず、ラウラは赤くなる頬を隠すように両手で覆った。

「法務省ではすっかり悪魔呼ばわりされてるけど、君がいれば何とか人間でいられるんだ」

 そっと彼女の手を握り、アンジェイは懇願した。ラウラは頷いた。


 書斎から出た二人は、子爵家の庭園を散策した。

「建国祭が楽しみだなあ。どんなドレス?」

「教えない」

「アクセサリーを贈れないよ」


 ふてくされる婚約者に、ラウラは左手の指輪を示した。そこには彼の瞳と同じ青緑色の石が輝いていた。うって変わってアンジェイは笑顔になった。


「婚約者と建国祭の舞踏会で踊ると幸せな夫婦になれる伝説があって、相手がいない先輩たちから風当たりがきつくて」

「だからって失脚させちゃだめよ」


 釘を刺されてむしろ嬉しそうに頷く彼を見て、ラウラは思った。

 この人が悪魔ならそれでもいい。角や尻尾を出しかけたら叱れば良いだけだ。

 そう考える自分も、悪魔的なほど優秀な頭脳込みで彼を愛しているのだろう。

「充分同族ね」

 そっと呟き、子爵令嬢は婚約者の腕にもたれかかった。

側近の中で一番アレなのはこの人でした。

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