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2 熊を斃す騎兵は小動物がお好き

カタジナとグスタフの馴れ初めのお話。

 ――死神に出会ってしまったと思った。




 スヴェアルト宮殿の奥、花園の離宮に王太子や側近の婚約者が集うようになって以来、令嬢たちはあることに気がついた。


「王女様方はカタジナ様がお気に入りなのですね」


 離宮の扉が開くと幼女たちが一斉に駆け寄ってくるのはいつものことだが、中でも一番多くの王女に囲まれるのは決まってカタジナ・シェヴィンスカ伯爵令嬢だった。


「…多分、私が小さいので親近感があるのでしょう」


 ドレスをあちこちから引っ張られたカタジナはよろけながら言った。今年十八歳の伯爵令嬢は小柄で金髪碧眼、二年前に社交界デビューを果たして以来美貌で知られていた。磁器人形さながらの可憐な姿に他の令嬢たちも目を細めた。


「エデルマン様も人気ですね。方向性は少し違いますが」

 アリツィアが視線を向ける先には、幼女タワーと化した長身の陸軍騎兵士官がいた。カタジナはやや硬い笑顔になった。


「カタジナ様は猛獣に襲われたところをグスタフ様に助けられたのがご縁だったとお聞きしましたが」

 カトレインの言葉にアリツィアやラウラ、ヴァンダも好奇心に目を輝かせた。

「本当ですの?」

「そんなドラマチックな出会いだったなんて」


「……ええ…」


 カタジナは視線を逸らせながら肯定した。彼女の脳裏に運命的な出来事が回想された。




*          *




 一年前、夏。ロウィニア王国北部グロフ山地。


 目の前にそびえるような影に、シェヴィンスキ伯爵令嬢カタジナは身動き一つ出来なかった。

 荒い息をしながら立ち上がっているのは大陸でも凶暴で知られるハイイログマだ。


 さっきまで自分はピクニックを楽しんでいたはずなのにと、カタジナは愛犬マージャを抱きしめながら思った。

 避暑地で有名なウラム湖畔にある別荘に来て、侍女や警護の者と一緒に馬車で遠出をし、猟犬のボルコも連れてきているから獣が出てきても大丈夫だと笑い合っていたのはついさっきだった。


 伯爵家の護衛は熊とカタジナが近すぎて発砲できず、ボルコはどこかに消えてしまった。彼女の側にいるのは身を守る術を持たない侍女と愛玩犬だけだった。


 ハイイログマは唸りながら前足を振りかぶった。カタジナは目を閉じた。

 その時、熊に飛びかかり斬りつける者がいた。背後から襲撃された熊が咆吼し撃退しようと身をよじる。襲撃者は敏捷に飛び退いたかと思うと、一気に距離を詰めて熊の懐に入った。断末魔の叫びが響いた後、周囲は嘘のように静まりかえった。


 カタジナはそろそろと目を開けた。自分を襲おうとしていた熊はうつ伏せに倒れていた。

「……え?」

 何が起こったか分からない彼女の前で、熊が不意にむくりと上体を反らした。カタジナと侍女は悲鳴を上げた。

 熊の身体の下から若い男性が這い出してきた。手に軍用ナイフを持ち、顔も衣服も血まみれだ。


 彼らの前に別の人物が現れた。

「エデルマン候補生、無事か?」

「民間人五名、負傷者なしであります、教官殿」

 男性は敬礼をして教官を迎えた。年配の男性はナイフを収める士官候補生に呆れた様子だった。


「ナイフだけで斃したのか」

「発砲は民間人を巻き込む危険性があると判断しました」


 教官は頷き、伯爵家の護衛から聴取を始めた。そのうちに他の士官候補生も現れて、仲間が倒したハイイログマを検分した。


「メス熊か。仔がいるかもしれんな、探しておこう」

「取りあえず捌くか」


 当然のように熊の皮を剥ぎ始めた彼らを、カタジナは信じられない思いで眺めた。


 黒髪を短く刈り込んだ長身の士官候補生エデルマンは近くの茂みが動くのにナイフを構えた。それが猟犬だと分かると、彼は武器を下ろした。


「ボルコ、無事だったのね」

 カタジナは犬を撫でようとしたが、その前にエデルマンが立ちはだかった。鋭い眼光を猟犬に向けると、犬は尾を後足の間に巻き込んで後ずさりした。彼は低い声で言った。


「貴様、主人の窮地に敵前逃亡したな。その失態、万死に値する」


 死刑宣告でも受けたように猟犬は震えだした。カタジナは必死で自分の犬を庇った。

「ボルコは猟犬と言っても撃った鳥を銜えてくるくらいよ。熊と戦う訓練なんてしてないわ」


 士官候補生は頷いた。

「なら来い。軍用犬訓練所で鍛え直してやる」

 首輪を掴まれ、哀れな猟犬は観念した様子で彼に従った。カタジナは慌てて止めようとした。


「待って、うちの犬を勝手に…」

「そうだ、驚かせた詫びだ。珍味だと聞く」

 仲間から何かを受け取ったエデルマンが振り向きざまにそれを放った。カタジナの両手に重い物が落ちてきた。


 それが切断されたばかりの熊の前足だと認識した瞬間に、彼女の意識は途切れてしまった。




 目を開けたとき、カタジナは別荘の自分の寝室で横たわっていた。

「……夢?」


 そろそろと起き上がると、侍女の声がした。

「奥様、お嬢様が目を覚まされました」

 

 部屋に入ってきた伯爵夫人が寝台の側に座り、娘の様子を見た。

「大丈夫? 無事で良かったわ」

「…お母様。無事って?」

「昨日、熊に襲われたのよ。覚えてないの?」


 言われてカタジナは一気に記憶を呼び起こした。

「あ、あの変な人、ボルコを連れて行って、熊の……」


 手のひらの重みと血の感触が甦り、伯爵令嬢は身震いした。母親の方は至って落ち着いていた。

「ああ、熊の手ね」

「信じられない、あんな物を…」

「美味でした」


 あっさりと答える母親を、娘はまじまじと見つめた。

「一番美味しい部位をくださるなんて奇特な方ね」

 シェヴィンスキ伯爵夫人が美食家で知られていることを、カタジナは今更のように思い出した。


「とにかく、あなたがグスタフ・エデルマン様に命を救われたのは事実です。体調が良くなったら、エデルマン元帥閣下のお宅にお礼に伺わねば」

「元帥閣下?」

「知らないの? あの方は閣下の次男よ」


 現当主が陸軍元帥を務めるエデルマン家は武門の名家で、先のザハリアス戦役ではザモイスキ家と並んで王国の盾と呼ばれたほどだ。 

 道理でやたらと戦闘力の高い士官候補生な訳だとカタジナは納得した。ベッドで綿菓子のような小型犬が彼女の手を舐めた。

「マージャ、ずっといてくれたの?」


 愛犬を抱き上げると、連れて行かれた猟犬のことが気にかかった。

「ボルコは無事でいるかしら」

 連行されていった不運な飼い犬のことは祈るしかなかった。




 結局、別荘での避暑を早々に切り上げて、シェヴィンスキ伯爵一家は王都パデレシチに戻ってきた。

 

 社交界への挨拶も早々に、彼らは陸軍元帥エデルマン伯爵の屋敷を表敬訪問することとなった。


「大きなお屋敷…」

 カタジナはいかめしい門の前で息を呑んだ。内部の感想はまた違ってきた。邸内には仰々しい装飾はなく、むしろ質実剛健といった印象だった。広大な敷地は主に訓練場と馬場で占められている。乗馬好きなカタジナは厩舎の立派な馬に興味を引かれた。


「さすがね。私邸でも訓練を欠かさないなんて」

 伯爵夫人は感心しきりだが、カタジナはあの血だらけの大男と再会するのかと考えただけで気が重かった。


 それでも、客間に案内され元帥夫妻を前にすると彼女は自然に微笑みを浮かべ、優雅にお辞儀をした。

「お初にお目にかかります、元帥閣下。シェヴィンスキ伯爵家長女、カタジナと申します。このたびはご子息に窮地を救っていただき感謝の念に堪えません」


 金色の巻き毛を背に流した姿は等身大の磁器人形のようで、元帥夫人は感嘆の吐息を漏らした。

「何て愛らしいお嬢様でしょう」

「さすがパデレシチ社交界の名花。息子もこのような美しい御令嬢を助けたことを誇りに思うだろう」

「恐れ入ります」


 カタジナは肝心の士官候補生をちらりと見た。グスタフ・エデルマンは部屋の隅に無言で直立していた。元帥夫人が彼に注意する。

「グスタフ、わざわざお礼を言いに来てくださったのに失礼ですよ。ごめんなさいね、本当に無愛想な子で」


 それには伯爵夫人が首を振った。

「いいえ、娘を救っていただいた上に熊の手まで持たせてくださって。滅多に手に入らない貴重な食材に我が家の料理人も感激していましたわ」

「あれをどう調理されましたの?」


 夫人同士は熊料理に花を咲かせ、家長同士は何やら込み入った話をしている。カタジナとグスタフは追いやられるように庭園に出た。


 夏の花が咲き乱れる花壇横の四阿で、二人は休憩した。それまで一言も口を開かなかったグスタフが、いきなり質問してきた。

「どういう経緯で熊に襲われたのか教えて欲しい」

「経緯、といっても……」


 カタジナはなるべく冷静にあの日のことを思い出そうとした。

「森にピクニックに行って、綺麗な川があったからその側でお茶をしていて、そうしたらマージャが魚を引きずってきましたの。食べかけみたいな大きな魚で、どうしたのかと川を見たら可愛い子熊が二匹もいて、近くに来ないかとお菓子をあげようと…」


「何と、愚かな」

 唸るような声が彼女の回想を中断させた。カタジナは目を瞠った。グスタフの言葉は予想を超えていた。

「熊は餌に対する執着が強く、横取りされれば何日でも追跡する。しかも、仔にちょっかいをかけるなど、襲ってくれと言っているのも同然だ」

「…でも、馬車で逃げれば…」

「熊が全力で走れば山道の馬車では無理だ。最悪馬車ごと潰される」

「そんな…」


 どれほど危険な状況だったのかはカタジナにも理解できた。しかし、他に気になることが浮かんだ。

「子熊はどうしたのかしら」

「捕獲済みだ。今、国内の動物園やサーカスに引き取り手を探している」

「山に返してあげないのですか」

「母親のいない子熊をか? 雄熊や他の動物の餌になるだけだ」

「もし、引き取り手がいなかったら?」

「処分するしかなかろう」

「ひどい……」


 涙ぐむカタジナに、グスタフが言い聞かせた。

「不用意に山に入り、野生動物と安易に接触した結果だ」

 伯爵令嬢は彼を睨み上げた。

「私のせいだとおっしゃるの?」


 無言を肯定と見なし、彼女は立ち上がった。

「助けてくださったお礼は申し上げます。ボルコを早く返してください。あの子は我が家の一員です。あなたや軍の玩具ではありません」


 それだけを言い、いささか雑な礼をしてカタジナは邸内の両親の元に戻った。母親は険しい表情の娘に首をかしげた。

「あら、グスタフ様は?」

「知りません」


 早く帰りたい一心の彼女に、父親が爆弾発言をした。

「カタジナ、元帥閣下がお前とグスタフ殿との婚約を打診してくださったのだ」

「……は?」

 完全に虚を突かれてしまったが、カタジナはどうにか微笑みらしい表情を作った。

「…あの、光栄ですけど、よく考えさせていただくことは」


 元帥は気を悪くした風もなく頷いてくれた。

「勿論だとも。息子はあのとおりの無愛想者、どんな夜会や舞踏会に出ても壁の大木にしかならない有様で」

 隣で元帥夫人も嘆かわしそうに溜め息をついた。

「今回のことは神様のお導きだと思っておりますの。ぜひご検討なさってね」


 じわじわと外堀を埋められる気分で、カタジナは両親と帰途についた。





 元帥邸訪問からひと月後、伯爵邸の庭で、カタジナは愛犬マージャを遊ばせていた。

「ほら、取ってきて」

 小さな毬を転がすと、白い愛玩犬は必死に追いかけた。少しよろける足取りを見て、カタジナは犬を抱き上げた。

「もう走るのは大変みたいね」

 幼い頃からの友達に話しかけていると、侍女が来訪者を告げた。

「グスタフ・エデルマン様がお見えです」


 意外な思いでカタジナは立ち上がった。彼がシェヴィンスキ伯爵家を訪れるのは初めてだ。婚約の話が出た後もたまに当直日誌のような手紙が来るだけだったのに。

 元帥邸での気まずい別れ方が足取りを重くした。彼の言葉に理があったと分かるだけに尚更だ。


 小犬を抱いたまま客間に行くと、エデルマンが直立不動で待ち構えていた。

「突然の訪問失礼する、カタジナ嬢。今日はあなたにお返しするものがある。13号、前に」


 彼の背後には懐かしい者がいた。

「ボルコ!」

 あの熊騒動で連行されてしまった伯爵家の猟犬だ。しかし、すぐに彼女は異変に気づいた。

「ボルコ……なのよね」


 かつては走る姿も優美だった長毛の猟犬は、関節部を除いて坊ちゃん刈りにされていた。何より目つきと雰囲気が別の犬のようだ。エデルマンは平然としていた。

「13号は元が猟犬なので訓練は順調だった」

 そう言って彼は犬から離れ、指を鳴らした


「招呼」

 犬は従順に士官候補生の元に来た。エデルマンは指を下に向けた。


「停座」

 犬は定規でも入っているようなお座りをした。次に彼は自身の左大腿部を軽く叩いた。


「脚側進行」

 犬は彼の左側につき、ぴったりと速度を揃えて歩いた。満足げにエデルマンは手のひらを下に向けた。


「待機」

 床に腹ばいになり次の指示を待つ犬に、カタジナは唖然とした。


「……あの」

「もう一つ、動物でも人でもカタジナ嬢が脅威を感じたら大きく振りかぶって指し示せ。攻撃合図だ」

「攻撃?」

「たとえ丸腰の相手でも13号は躊躇せず飛びかかり、主を守るはずだ」


 人の犬に何を仕込んだのだ、そもそもこの犬は13号などと言う名前ではない、と叫びたいのをカタジナが我慢していると、彼女が抱える小犬を見てエデルマンが屈み込み指さした。

「愛玩犬を訓練したことはないが」

「結構です!」


 カタジナが拒絶すると小犬も鼻にシワを寄せて唸った。そして勇敢にも長身の士官候補生の指先に噛みついた。

「マージャ!」


 さすがにカタジナは慌てて詫びた。

「申し訳ありません、エデルマン様」

「いや、手袋越しであるし、消毒すればすむことだ」

 意に介さない様子でグスタフ・エデルマンは伯爵邸を辞去した。その後ろ姿を見送ったカタジナには、彼の広い肩が心なしか落ちているような気がした。





 夏の夜にシャンデリアがきらめき、社交シーズンを目前にした人々は避暑地や旅行から王都に戻った知人友人たちと歓談していた。

 中でも華やかな一角に、客人の視線は奪われがちだった。湖のような瞳と同じ青いドレスのシェヴィンスキ伯爵令嬢カタジナがいる場所だ。


「そんなことがあったの」

「笑い事ではないのよ、ボルコが規律正しすぎるせいで部屋にいると落ち着かないもの」


 カタジナが愚痴をこぼす相手はノルダウ子爵夫人テレサだった。この夏に外交官と結婚した彼女は夫の赴任地に帯同することなっている。


「寂しくなってしまうわ、あなたが国外に行ってしまうなんて。女学院もつまらないし」

「何年かの間よ。あなたこそ、エデルマン元帥のご子息との縁談はどうなっているの?」


 友人の質問にカタジナは表情をこわばらせた。

「両親は是非にと言うけど、本人がどう思っていらっしゃるのか…」


 微笑んでいたテレサが不意に扇を開いて顔を隠した。『嫌な奴が来た』の合図だ。

 同様にカタジナが扇の影から窺うと、通常の倍以上の足音を立てて近づく者がいた。


「これは、ロウィニアが誇る花がお揃いで」


「ご機嫌よう、チャルトルィスキ様」

 侯爵家の御曹司に挨拶すると、彼は大汗をかきながら頷いた。そのたっぷりとした腹回りに円周率という単語を連想しながら、カタジナは如才なく言った。


「そろそろ秋が近いのに暑うございますわね」

「まったくだ。不快な季節は目の保養となる麗人を眺めるのが一番だ」

 そう言ってカタジナの手を取る御曹司は、にやにやしながら離そうとしない。

見かねたテレサが話題を変えて伯爵令嬢に尋ねた。


「今夜はエデルマン様はお見えなの?」

「急用で遅れるとおっしゃっていたわ」


「エデルマン?」

 侯爵家の御曹司が不思議そうに言い、従僕に耳打ちされて誰かを思い出した。

「ああ、元帥の」

 取るに足らないと言いたげな表情が癇に障り、カタジナはさりげなく手を引き抜くと周囲の者に語った。


「ええ、勇敢な方ですわ。私が避暑地の山で熊に襲われた所を救っていただいたの。あの恐ろしい猛獣相手にナイフだけで立ち向かい、心臓をひと突きで仕留めてしまわれたのよ」

 あなたにできて? と言いたげな視線を扇越しに送ると、御曹司は鼻白んだようだった。話を聞いていた者は驚きの声を上げていた。


「そのような危険な場所、貴女のような小さく可憐な令嬢が行くものではない」

 侯爵家の令息が決めつけると、カタジナは反抗的に言った。

「あら、私、山も海も好きですわ。乗馬が楽しい季節になりましたし」

 それを聞き、御曹司は顔をしかめた。

「折角の磁器人形のような肌が日焼けしてしまうではないか。野蛮な騎兵見習いの悪影響のようだな」


 カタジナの視線が険悪になったとき、別の者の声が割って入った。

「士官学校は先日卒業して、騎兵第一旅団に配属された」


 振り向いた御曹司は遙か上から鋭い眼光を浴びせられ、思わず後ずさった。


「エデルマン様」

 カタジナは婚約者候補に向けてお辞儀をした。グスタフ・エデルマンは尚も侯爵家の跡取りを凝視している。

「で、ではカタジナ嬢、失礼する」

 発汗量を激増させながら、御曹司は退場していった。


 珍獣でも見るような目でそれを追い、エデルマンはカタジナに腕を差し出した。それに手を添えて伯爵令嬢は歩き出した。背後でテレサ夫人が微笑みながら応援するように扇をくゆらした。


 相変わらず沈黙が続く中、ぼそりとエデルマンが尋ねた。

「カタジナ嬢は乗馬が好きなのか」

「ええ。出来ればドレスで横乗りよりも、殿方と同じ乗馬服で乗りたいですわ」

 はしたないと言わば言え、とばかりにカタジナは答えた。

「……そうか」

 意外にも新任の騎兵は頷くだけだった。結局、他に話題らしい話題もなく、夜は更けていった。



 夜会から二週間後、いよいよ本格的な社交シーズンが始まろうとしていた。女学院から帰宅したカタジナは母親に呼び止められた。

「ご覧なさい、エデルマン様から贈り物よ」

「あの方が、何を」


 また熊の手だろうかと身構えたカタジナは、居間で広げられた物に目を瞠った。

「…乗馬服ね、素敵」

 男性と同じ裾の長い上着とズボンだったが、所々にあしらわれた金モールが華やかさを演出していた。伯爵夫人も満足げだった。

「士官候補生用をあなたのために仕立て直してくださったのですって。ちょうどシュテルンの森の狩猟会にお誘いが来ているわ」

「どなたの主催なの?」

「チャルトルィスキ侯爵家よ」

 酒樽のような御曹司を思い出してカタジナは顔をしかめたが、早く礼状をと母親にせかされて自室に行った。



 首都の北西に広がるシュテルンの森は動物が多く狩猟場として有名だった。

好天に恵まれた中、カタジナは颯爽と白い愛馬エラにまたがった。その姿は大多数のドレスで横乗り組の貴婦人に衝撃を与えていた。


「まあ、カタジナ様、騎兵のようですわね」

「ありがとうございます。エデルマン様が贈ってくださったので」

「元帥閣下のご子息が?」


 女性陣は納得した様子だった。厄介なのは主催者側だった。今日も盛大に汗を掻きながら侯爵家の御曹司が馬を寄せてきた。

「カタジナ嬢、そのような格好、市井の奴らがするものだぞ」

「乗りやすくて落馬の危険性も減りますわ」

 馬番に手綱を引かれるだけの御曹司をさっさと置き去りにして、カタジナは白馬を走らせた。チャルトルィスキ家の令息は顔を歪め、従僕に何かを言いつけた。


 ラッパが鳴り、狩りの開始を告げた。カタジナは兎を見つけ、猟犬のボルコと共にそれを追った。動物を殺すのは好きではないが、こうやって森を駆けるのは楽しい。兎が茂みに逃げ込んでしまうと、木の陰に狐がいた。

「エラ、あれを追うわよ。ボルコ、付いてきて」


 手綱で馬に意思を伝えると、白馬は敏捷に駆け出した。そのうち、彼女は違和感を覚えた。

 獲物を追いたてる役のはずの勢子が妙な行動をしている。気がつけば、併走していた猟犬が遠くに追いやられていた。


「何なの?」

 邪魔な人影がいない方に馬を誘導しようとしたとき、勢子が馬の腹を棒で突いた。白馬はいななき、暴走を始めた。木の枝が頭に当たり、乗馬帽を叩き落とす。カタジナは必死で馬にしがみついた。


 行き着く先にも棒を持った勢子が待ち構えていた。興奮する馬を制御しようとするカタジナの耳に、聞き覚えのある声がした。

「さっさと落馬させてしまえ、そうしたら私が手厚く介抱してやる」

 チャルトルィスキ家の御曹司がにやつきながらこちらを見ていた。こいつの思い通りになるものかとカタジナは突破口を探したが、じりじりと追い詰められていった。


 まるで熊に襲われたときのようだと絶望感に囚われかけたとき、木々を震わせる怒号が響いた。

「行け! 13号!!」

 巨大な影が日光を遮ったのは同時だった。大型の黒馬が茂みを飛び越え、唸り声を上げた猟犬が侯爵家の御曹司に向けて飛びかかった。


「うわっ」

 あっさりと丸い身体が振り落とされて地面に転がる。

「坊ちゃま!」


 勢子たちが彼に向かう中、黒い大型馬に騎乗したグスタフ・エデルマンが地を這うような声で言った。

「貴様ら、この馬と狐の区別がつかないとは、その目玉を丸洗いして欲しいか」


 騎兵がサーベルを抜くと、勢子たちは悲鳴を上げて散り散りに遁走した。次に彼は侯爵家の御曹司に馬首を向けた。次期侯爵は完全に腰を抜かしていた。

「……き、貴様、この、王太子の犬が…」


 彼の真正面に猟犬が吠え掛かると、御曹司は世にも情けない悲鳴を上げてどすどすと走り去った。

 白馬の頭絡に手を掛けてエデルマンは低く口笛を吹き、馬を落ち着かせた。カタジナは呆然と彼を見上げた。


「…エデルマン様、どうして」

 勇猛な陸軍騎兵はそっぽを向きながらぼそぼそと説明した。

「騎兵旅団の訓練場が近くにあって…、その、母君から今日の狩りに参加すると聞いて…、見るだけならと思っていたら13号がいて……」

 そして、何故か空を見上げながら続けた。

「……よく、似合っている」


 社交界での駆け引きを覚えたはずのカタジナは、この状況にどうすれば良いのか困惑した。

「助けてくださって、ありがとうございます」

 どうにか礼を言うと、茂みでごそごそしていた猟犬が何かを銜えてきた。女性用の乗馬帽だった。


「ボルコ、探してくれたの」

「臭跡追求の訓練もしておいたからな」

 得意げにエデルマンが言った。笑うしかない心境でカタジナは帽子を被ろうとしたが、結い上げていた髪はピンが外れてしまったのか、どうやっても金色の房が落ちかかってくる。


「仕方ないわ」

 いっそのことと髪をほどいてしまい、波打つ金髪を背に広げて彼女は笑いかけた。長身の騎兵は眩しげにそれを見ていた。彼の目が意外なほど優しげな茶色なのに初めてカタジナは気付いた。

「競争しましょう。ボルコ、ついてきて」

 そう言って彼女は白馬を走らせた。エデルマンの黒馬が続く。


 狩りに集まった人々は、金髪をなびかせた伯爵令嬢とたくましい騎兵が見事な騎乗で駆け抜けるのを見た。お似合いだという声があちこちから上がり、広がっていった。





 後日、カタジナはボルコをお供にエデルマン元帥宅を訪問した。侯爵家の御曹司を警戒してのことだったが、特に異常なく目的地に着けた。


 元帥夫人は喜んで迎えてくれ、いそいそと息子の居場所を教えてくれた。

「グスタフなら庭に出ていますわ」

 庭園に出たカタジナは隅の方に探していた長身を見つけた。


「エデルマン様」

「カタジナ嬢」

 驚いたように振り向く彼の前には、十字架が並ぶ一角があった。

「…墓地?」


 まさか、これまで斃してきた熊の墓場だろうかとカタジナは思ったが、それにしては十字架が小さいことに気づいた。

 エデルマンがぽつぽつと説明した。

「これまで飼ってきた生き物を葬っている。あっちがコマドリでその隣がリス、それから…」

「小動物ばかりですのね」

「負傷したり衰弱しているものを保護したらこうなった」


 大きな騎兵の不器用な言葉は、伯爵邸で小さな愛玩犬に噛まれて哀しそうな後ろ姿を思い出させた。カタジナは自分の愛犬の話をした。

「私のマージャは三歳の時に両親から贈られました。一緒に大きくなったのですが最近は走るのが億劫そうで、そのうちに歩くのも難しくなるのでしょうね。でも大事な家族ですから、どこに嫁いだとしても連れて行って最後まで看取ります」


 彼女は小さな十字架に目をやった。

「でも、もう少し生きてくれたら、あの子はここに眠ることになるのね」


 グスタフ・エデルマンは数秒後に瞬きした。

「カタジナ嬢、それでは…」

「言っておきますけど、私は『小さなお人形さん』呼ばわりが大嫌いですの。まるで一生ガラスケースの中で笑っていろと言われているような気がしますもの。乗馬は止めませんし、登山や水泳、釣りにも挑戦したいと思っていますわ…、グスタフ様?」


 彼女の前で、長身の騎兵は頭を抱えてうずくまっていた。近寄ると呆然と呟くのが聞き取れた。

「……そんな、『小さくて可愛い』を禁じ手にされたら、どうやって愛情表現をすれば良いのだ…」


 その瞬間、カタジナの内で彼の頭を思いきり張り飛ばしてやりたいという衝動と、それとは真逆のものが同時に渦巻いた。本能的に彼女が選択したのは後者だった。


 伯爵令嬢は珍しく低い位置にある彼の頭を抱き寄せて囁いた。

「…バカね、こうするのよ」

 その言葉が染みこんだようにグスタフの耳朶が赤く染まった。


 無骨で直截、洗練も気の利いた言葉も期待できない大きな騎兵が可笑しいほど頼りなく愛しく思え、カタジナは黒い短髪を撫でた。

 やがてグスタフは立ち上がり、ぎくしゃくした動作で小柄な伯爵令嬢を両腕に収めようとした。その時、急な事態が告げられた。


「グスタフ、北の領地でハイイログマが集落を襲った」

「冬眠前の餌集めか」

「ああ、既に十人以上が犠牲になっている……、これはカタジナ嬢、失礼しました」


 元帥の長男が伯爵令嬢に詫び、考え込んでいた次男は大きく頷いた。

「よし、記念に狩ってくる。来い、13号!」

「……え?」

 状況が理解できないカタジナを置き去りにして、若い騎兵は犬を従え意気揚々と熊退治に出発してしまった。




 その後、一週間にわたる死闘の末にグスタフ・エデルマンは最大級の人食いハイイログマを仕留めた。

 彼は血まみれの獲物を担いでシェヴィンスキ伯爵家に現れ、カタジナは再度卒倒する羽目になったのだった。




*          *




 予想の斜め上を行く回想を聞いた令嬢たちは反応に困った。


「…それは、ご家族も驚かれたでしょうね」

 無難な言葉を選んだカトレインに、カタジナは溜め息をついた。

「熊をまるごと貰えて喜んでいましたわ。特に母が。社交界で何故か、私が婚約の条件に人食い熊を要求したという噂を流されたのはとても不本意でしたけど」


 令嬢たちは笑い出した。カタジナは王女たちを遊ばせる婚約者の元に歩み寄った。

「グスタフ様、いつか約束どおり山や湖に連れて行ってくださいますわね。私、山に行くときは充分に安全に気をつけますから」


 聞こえているはずなのにこちらを向いてくれない彼に腹を立て、その太い両腕に一人ずつ幼女を追加してやるカタジナだった。

カタジナは見かけはお人形系で中身はアウトドア派です。乗馬服のプレゼントは両家の母親が跋扈した結果でしょう。

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