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天孫来航  作者: 扶桑かつみ
第二部「汎日本主義」
9/22

01「黎明期」

 ・1870年代


 概要:

 日本の総人口が4000万人を越える。

 

 日本最初の近代製鉄所となる官営八幡製鉄所が稼働開始。

 石炭は自国内で十分採掘できるが、砂鉄以外の鉄がないため輸入が始められるようになる。

 

 その他の発展も含めて日本の近代化と近代産業の水準が、イタリアなどヨーロッパの二流国家の水準に並ぶ面が多くなる。

 多くの工業製品が自力生産されるようになり、主にイギリスからの綿布や羊毛製品の輸入は激減する。

 主力輸出商品は依然として生糸関連だが、軽工業分野での機械化の進展により、綿布生産で国際水準に並ぶ。

 工業製品の輸入に関しては、大きく減少し始めた。

 

 一方では、農業技術の大幅な進展と新作物の普及、加えて国による社会資本の急速な整備によって、国内の農業生産は飛躍的に向上する。

 人口増加よりも多い食料生産となって国内だけでは供給過剰になったため一部が輸出にまで回されるが、人口ボーナス期を大きく後押しする。

 

 幕末までとは比較にならない高度な医療、公衆衛生の普及も、死亡率の低下、平均寿命の上昇、そして人口増加を大きく後押しする。

 20世紀に入るまで、農村部を中心にして爆発的に人口が増加して後に社会問題となる。

 

 またこの時期から蝦夷、樺太開発が大きく進展する。

 蝦夷開発では早くもトラクターなど大型の土木機械が登場し、国土開発と社会資本整備が急速に進んでいく。

 一方で、日本の主力産業の一つにまで躍り出た鯨油産業が、世界的な石油の利用開始(初期は照明油と潤滑油用)により衰退するが、アメリカ人を太平洋から駆逐することには役だった。

 もっとも日本では、冷凍技術の出現と共に食用としての鯨産業が再び伸びていく事になる。

 牧草などが少ない日本では、蛋白源としての鯨の価値が高かったからだ。

 

 また瑞穂からばかりでなく、西洋の国々からの技術輸入や文物の交流が行われ、これも少なからず日本の科学技術、文化に影響を与えた。

 しかし、日本人一般に西洋賛美や絶対視する感覚は存在せず、あくまで自らの文化と文明を尊ぶ姿勢が貫かれた。

 これは白人こそが世界の主であり「唯一にして本当の人間」だとする考え方に反するものであり、白人国家との間に心理的溝を作る事にもなる。

 逆に、西洋の進歩的・中立的な考えの人からは、日本という有色人種国家と人種についての偏見を早々に改めさせる機会となっていった。

 もっとも、ファッションや食料品などが、日本人が取り入れたヨーロッパ文化は多かった。

 例外は軍事面で、多くの武官(軍人・将校)が海外に派遣され、技術や教訓を学ぶようになった。

 


 一方国内では、新たな時代になじめない武士階級の反発が見られたため、政府が強く指導した。

 援助政策に従わない者は力で押さえつつ、武士階級は徐々に近代化と国民国家という時代の流れに飲み込まれていく。

 そうした中で、困窮した武士による小規模な反乱も発生した。

 ただしほとんどの武士が、時代の荒波にもまれながらも責任階級として順当に近代化に対応していく。

 

 江戸時代の建造物や文化、産業についても破壊よりも保全に力が入れられ、徐々に政府主導で海外への紹介と輸出に力が入れられた。

 ヨーロッパ文明だけが優れたものでなく、価値観が一つでないことをヨーロッパ社会を中心とした世界に少しでも示唆するためだった。

 当然これは、日本の生存戦術の一つとされた。

 

 また日本は、荒れ狂う帝国主義時代に対応するため、ヨーロッパ諸国との植民地争奪戦に一部参加する。

 太平洋各地の島嶼に改めて標識を立てたり、測量のための船を派遣。

 重要拠点には商館や役所を設けた。

 自国民の移民場所と、並行して製糖業の発展が表向きの目標とされたが、諸外国(欧米列強)に先んじて重要拠点を抑え、ゆくゆくの国防のための外郭地を得るためだった。

 

 1875年には、各国と国境線及び勢力圏の国際条約を締結。

 ロシアとは樺太、千島、そしてアリューシャン列島を、清王朝とは琉球を、イギリス、フランス、オランダとは太平洋各地の島嶼、ニューギニア島東部、ニューギニア島東部近在の島嶼、さらにはロシア、イギリスとの間にはアラスカの境界線を確定。

 日本の行動に各国の植民地化も加速され、1880年代初頭には太平洋の分割が完了する。

 その中で、太平洋の島嶼の8割が日本領とされるようになった。

 後に、植民地獲得競争に出遅れたアメリカやドイツが文句を言ったりもしたが、帝国主義的な植民地獲得競争は力のある者が先に押さえれば勝ちという状況なので、文句を言う以上の事はなかなかできなかった。

 

 もっとも、進出の過程での小規模な出兵や原住民の反乱鎮圧を通じて、日本軍全体の経験不足が指摘されるようになった。

 台湾出兵では、原始的武器しか持たない先住民相手に日本兵が逃げ出したりして、国内でも物議を醸しだした。

 このため、軍の改革と実戦経験の獲得が目指されるようになった。

 


 そして日本は、近代国家として文句のない統治体制と、必要十分な軍事力を有しているため、欧米列強に対して臆することはなく、欧米列強も日本が出過ぎない限り過度は干渉や威嚇などは行わなかった。

 

 なお、北方植民地では漁業と林業が、南方植民地では製糖業と漁業が重視された。

 漁業については、冷凍技術が発展すると大きな飛躍を遂げることになる。



 ・1880年代

 概要:

 日本の総人口が5000万人を越える。

 東北、蝦夷など北部での開発と農業が躍進し、同地域の人口と所得も大きく増加した。

 自然環境に異常に強く成長が早く、そして収穫量が非常に多い新品種のおかげだった。

 ただし、肥料が多く必要になる作物が多いため相応に生産コストも上昇し、合理化と労働生産性の改善が強く言われるようになる。

 人工肥料の開発も熱心に行われた。

 そして収穫量の増大に対して、政府は農業政策を重視して農業の大規模化、集約化によるコストダウンを少しずつだが始めるようになる。

 特に開拓地の北海道などでそれが顕著となった。

 日本での優れた作物の一部はヨーロッパ人にも注目され、ジャガイモなど一部の農作物が海外でも栽培されるようになる。

 

 また南方からは大量の国産砂糖がもたらされ、各家庭の一般的調味料、甘味としての地位を確保し、缶詰による加工食品も普及するようになった。

 

 そして豊富な農作物の副産物で家畜飼育が広まり始め、漁業(缶詰産業)の拡大と重なって日本人のタンパク質摂取量も大きく増加した。

 

 タンパク質、糖質の大量摂取によって、日本人一人当たりのカロリー摂取量が、都市部を中心として江戸時代末期の平均よりも10%近い増加を示すようになる。

 しかも政府は最終的には30%の向上を目指し、特に子供の栄養摂取を奨励して、この時期に酪農産業も大きく躍進した。

 

 食生活の変化に伴い、日本人の体格向上も始まる。

 政府自身も摂取カロリーの上昇を政策として行うことを決めており、二世代(40年)後には日本人の体格がラテン民族に準じる程度まで向上する事が目指される。

 連動して、乳牛、乳製品の量産と普及が推し進められ、蝦夷、樺太の開発が促進される。

 

 一方、日本の近代化と近代産業の水準が、80年代末には当時の欧米列強最先端に達する。

 繊維など軽工業品ばかりではなく重工業に関連する輸出品が登場し始めるが、まだ先進国列強があえて欲しがるレベルではなかった。

 また製品の多くは、まだ開発未熟な国内と新たに得た各植民地、入植地に投入される。

 日本中で様々な工場が増加して、農村部の余剰労働力を吸収し始める。

 

 国内の社会インフラでは、鉄道がほぼ日本中に張り巡らされ、汽船網が覆い、並行して日本全土の均質化が大きく前進する。

 医療水準も、都市の整備や各地で生活及び医療環境の整備が進むのと並行して充実した。

 連動して、平均寿命がヨーロッパ先進諸国並みに伸び始める。

 

 一方、急速な国内開発の過程で土建業が大きく発展。

 農業人口の他産業への吸収が始まり、各地の土建業がその受け皿となる。

 しかし高性能な農作物と高い農業技術のため、農村を中心とした人口爆発は続き、工場労働者、都市住民の肥大化と合わさって、人口拡大は続いた。

 政府は人口対策に苦慮し、植民地の移民を積極的に推し進める。

 

 また国内のインフラ整備と並行して教育面での均質化も進み、初等教育の義務教育制度から国立大学に至る教育制度が完成を見る。

 義務教育では、貧困層への教育普及及びカロリー摂取量増加のために無料での給食制度も広く取り入れられた。

 

 なおこの時期には、武士階級がほぼ完全に平民(武士以外)に飲み込まれて、上流階級に入れた一部以外は一般人化。

 武士階級の多くが、各種公務員や軍人となる。

 武士の特権意識も、ほぼ無害なものにまで低下した。

 

 一方で、欧米列強の帝国主義強化の動きに比例して、軍備の近代化の加速が開始。

 完成したばかりの呉の海軍工廠では、国産のプレ・ドレットノート級戦艦が就役して、軍事技術面でもイギリス、フランスと並ぶ。

 

 国際関係では、ハワイ王国との間に日本皇族とハワイ王族の姻戚関係が成立。

 アメリカ合衆国が苦言を言ったが、日本は特に気にせず。

 日本は江戸時代の開国期から、必要十分な軍備と各国との平等条約を持っていた事が効いていた。

 またハワイへの日本人移民の多さが、現地の白人移民を押しつぶしてしまっていた。

 

 この頃から、白人国家から半ば非白人国家とされていたメキシコや南米国家との接触と交流が活発になるが、アメリカ合衆国の妨害もあってそれほど進展せず。

 

 しかし、非白人の文明国家として、日本が少しずつ世界から注目されるようになる。

 



 ・1890年代

 概要:

 日本本土の総人口が6000万人を突破。

 農村部からの都市部への流入と海外移民の流れがピークを迎える。

 日本各地の大都市が大きく拡大して、日本の保有する各植民地への移民も増える。

 

 日本各地に、大規模製鉄所が相次いで開業し、機械工業、造船業も飛躍的に向上する。

 工業生産能力(生産量ではない)がイギリス、ドイツ、アメリカなど世界最先端の水準に並ぶようになる。

 さらに日本国内で大量生産技術が世界に先駆け、アメリカとほぼ同時に登場し、民間会社では自動車製造会社も登場する。

 石油及び石油加工製品の需要が発生し、国内の新潟油田、樺太油田の開発が始まると同時に、近在の油田保有地域との貿易交渉が本格化した。

 当面は、近在のイギリス、オランダからの石油輸入や共同開発も行われた。

 

 石油産業の発展に伴い、国内での鯨油産業は完全に衰退していく。

 しかし今度は蛋白源として鯨が注目されたため、缶詰技術、冷凍技術の向上と共に食料産業としての鯨産業が再編成される。

 

 日本から欧米と同等でそれでいて安価な優れた工業製品が輸出されるようになり、各国からは関税の引き上げや非難が出始める。

 輸出品は、絹製品以外でも大きく伸びていった。

 日本の加工貿易国家としての躍進が始まる。

 

 並行して国内での富の蓄積が大きくなり始め、都市部では中間層(中流層)の出現が始まる。

 近在の大陸貿易やアメリカ合衆国との貿易も、より活発となった。

 

 この頃には、日本としても少しばかり自前の海外市場と資源供給先が欲しくなる時期に差し掛かるが、世界の植民地分割はほぼ終了していた。

 世界中で、帝国主義自体が飽和状態を迎える。

 

 この当時までに日本は、本土近辺以外に樺太、台湾、海南島、アリューシャン列島、アラスカ、東部ニューギニア、太平洋の島嶼の約8割を獲得していた。

 江戸時代末期から行われていたボルネオ島の北部進出では、オランダ、イギリスとの関係がこじれ、結局日本はボルネオ北部は得ることができなかった。

 外交上で譲歩して、オランダ、イギリスとの関係を改善し、後に同地域からの適正価格での資源輸入を行うようになる。

 

 またアラスカを有した事で、日本も北米大陸の一国として意識されるようになる。

 これはアメリカ合衆国が、太平洋に強く関心を持つようになったためでもあった。

 しかも日本は、アメリカが次に進出すべき太平洋の全てを先に押さえてしまっていた。

 

 なお、後に設定される経済水域での海洋面積的には、世界最大の面積を得ることになる。

 


「皇太子婚礼の儀」(1893年)


 明治天皇は皇后との間に4男3女を授かる。

 他にも侍女の子女も多く、非常に子沢山の天皇だった。

 多くの宮家も新たに立てられた。

 

 そうした中で、皇后の第一子だった皇子が無事に育ち、皇太子として1884年に立太子礼を迎える。

 その後祖父に当たる孝明天皇の言葉に従い、今回も瑞穂王家から皇后を迎え入れ、この日の婚礼となった。

 

 そして結婚の翌年には、皇后は無事に皇子を出産。

 日本皇室と瑞穂王室の絆をより強固なものとした。

 

 なお、明治天皇と瑞穂王族の婚姻以後、皇室の中では瑞穂王家やその系譜との婚姻が盛んとなった。

 さらには大名(華族)や財閥関係者など日本の上流階層一般の間でも、瑞穂の上流階級との婚姻が広がっていた。

 当初は血縁外交の一環だったが、瑞穂人との間の子供は単に外見が美しい場合が多いだけでなく文武双方で優秀な場合が多く、世に出ると活躍する事が非常に多かった。

 故に、それが知られるようになると、上流階層の間では瑞穂人を迎え入れる事が多くなっていった。

 

 この頃には、瑞穂人との婚姻は引きも切らない有様となり、半世紀もすると瑞穂人の血を何らかの形で持つことは日本の上流階層、富裕層では半ば一般的な事になりつつあった。

 優秀な学者や科学者、政治家、軍人も多く輩出した。

 噂を聞きつけ、白人からの婚姻の打診までがあったほどとなった。

 

 一方では、この時期から一般で瑞穂人の姿をあまり見かけなくなる。

 国際的にも日本の一地域や単なる少数民族集団と見なされるようになり、瑞穂という存在自体が次第に注目されなくなる。

 20世紀に入る頃には瑞穂学校もその名を変え、最寄りの神社にその名が残るだけとなった。

 


「ハワイ事変」(1893年)


 ハワイ王国で、白人移民を中心にクーデター未遂が発生する。

 形式上は、アメリカからの移民を中心とした民主化を求める行動だった。

 

 しかし住民全体の民意ではなかった。

 

 既にハワイ住民の半分以上が日本人移民もしくは日系人であり、先住ハワイ人との混血も多かった。

 日本人移民は、先住ハワイ人と共に勝手な事ばかりする白人に反発した。

 大量に移住していた日本人移民は、自主的に武装して白人移民を攻撃。

 結果として、現地アメリカ移民の謀略を阻止してしまう。

 

 また日本自身が、十年ほど前の両国の間での姻戚関係と「日布互恵条約」に従って真珠湾に軍艦の寄港が常態化していたため、この時もいち早く日本海軍の軍艦が派遣され、泊地の真珠湾で睨みを効かせた。

 

 アメリカは自国移民の保護を理由として日本に抗議したが、日本側は逆にハワイの白人移民の行いを強く非難。

 日米関係が悪化した。

 

 事件後、ハワイ王国は日本との間に「日布同盟」を締結。

 日本軍の駐留が常態化。

 ハワイの近代化は日本主導で進み、アメリカとの関係はますます悪化していくようになる。

 


「日清戦争」(1894年)

 朝鮮王国での内乱から、朝鮮の属国か独立国かの問題がこじれて日本と清国が開戦する。

 

 日本側の目的は、日本列島防衛のために、大陸との緩衝地帯を得る事にあった。

 清国よりはロシア帝国に対抗するのが主な目的だった。

 

 しかし日本は、最初から戦争を目的としたのではなく、まずは清国との交渉を行った。

 しかし清国側が勝手な理由で日本の言葉を殆ど無視ばかりしていたので、日本側も実力行使を実施せざるを得なくなり、偶発的な事件から双方の軍隊が衝突し、戦争へと発展した。

 

 この頃日本側は、開戦時すでにプレ・ドレットノート級戦艦(排水量1万トンクラス)を複数保有し、陸では機関銃も大量に登場させていた。

 騎兵、砲兵も列強水準に達しつつあった。

 国の発展に比べると軍備及び軍隊の発展と規模は列強の中では小さいものだったが、相手が列強でないのなら問題もなかった。

 日本の側にも、清国に対するプレッシャーはなく、焦りはむしろ清国側の一部にあった。

 

 しかし日本軍は、戦争が始まってしばらくは失態ばかり犯していた。

 武器と理論は優秀なのだが、実戦経験を持つ指揮官の少なさが日本軍の弱体となって現れたからだ。

 しかし戦闘を経るごとに格段に戦闘力も向上し、事実上李鴻章の私兵集団だった清国軍を圧倒していった。

 

 戦争終盤には日本側の一方的展開となり、日本政府が勝ちすぎに危惧して、前線部隊の前進を止めるほどの戦争展開となった。

 

 下関で行われた講和会議で日本は、3億両(=3億円=3億ドル)の賠償金を得て、さらには台湾、海南島を割譲させた。

 満州方面は、他国とのかねあいを考慮して領土請求は行わなずに、交渉材料として使って賠償金の増額で対応した。

 海南島割譲では英仏が文句を付けるが、大きな声にはならなかった。

 海南島の領有に際しては、警察力以上の軍備を置かないことを英仏に対して約束。

 

 そしてこの戦争は、近代国家として発展した日本の威力を世界に見せつける事となった。

 

 日本は、初期の目的通りに朝鮮の完全独立も認めさせ、日本の事実上の衛星国化を行う。

 しかし純粋な商売目的以外での朝鮮進出はほとんど行われなかった。

 日本政府が、日本人の側を規制したからだった。

 また朝鮮人の日本への渡航なども、厳しく制限されたままとされた。

 日本政府の目的が、あくまでも朝鮮の自主独立と緩衝地帯の確保にあったからだ。

 このため朝鮮政府に対しては、かなり強引ながら近代化に対する援助が行われるようになる。

 

 一方で日本は、新たに得た台湾、海南島の領土化と近代化を早速開始した。

 両島には総督府が設置されて植民地扱いされたが、統治体制の確立と共に民心の安定化、産業振興、社会資本整備など様々な面で新たな国を作るほどの努力が精力的に行われた。

 産業振興では南方でできる産物の栽培が重視され、海南島ではすぐにも鉄鉱石の鉱山が開かれ、日本への移送が開始された。

 


「米西戦争」(1898年)


 アメリカが難癖を付けたような形で、アメリカとスペインの間に戦争が勃発する。

 主な戦場はカリブ海だったが、アメリカはスペインの有するグァム、フィリピンにも攻撃を行おうとする。

 明らかに、アメリカによる帝国主義的な戦争だった。

 

 この戦争に際して日本は、先に結ばれていた太平洋に領土を有する各国(日英仏西蘭の五カ国)との不干渉、不戦条約に従って、軍が警察出動を実施。

 太平洋でのアメリカ軍の軍事行動を抑止する。

 グァム、フィリピン沿岸では、貧弱極まりない現地スペイン軍を半ば無視して、日米の軍艦が事実上の睨み合いとなった。

 

 またアメリカは、ハワイなど多くの地域(島)を日本に押さえられているため、西海岸から直にグァム、フィリピンを目指さねばならず、艦船への石炭や水の補給面の問題もあって太平洋方面での活動は停滞した。

 結果として太平洋方面に進出できずに、戦争を終えなければならなかった。

 

 戦後スペインは、日本への感謝の証としてグァム島を安価で売却。

 フィリピンは、スペイン領のまま保持された。

 

 戦後、日米関係はより冷却化した。

 

 これを契機として、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、日本を脅威として認識する発言を何度も行うようになる。

 


「ブーア戦争」(1898年〜02年)


 南アフリカのケープ植民地に隣接するトランスバール及びオレンジ自由国に対して、イギリスが帝国主義的戦争をしかける。

 現地で発見された人類史上最大級の金鉱(黄金)が目的であり、帝国主義的欲望がもたらした侵略戦争だった。

 

 しかし現地ブーア人(オランダ移民)の抵抗(コマンド戦法)を前に、イギリスは長期の戦争で一時的に疲弊してしまう。

 結局イギリスは、約40万人もの兵力を遠隔地に派遣して、何とか勝利して新たな植民地を得ることができた。

 

 しかし一時的な疲弊を避けることはできず、独力でユーラシア大陸各地でのロシアの南下を抑さえられなくなる。

 そこで東アジアで一人躍進している日本に接近した。

 日本も、北東アジアでロシアの脅威にさらされつつあったからだ。

 また日本が、太平洋でアメリカを押しとどめている事も、当時のイギリスとしては日本を好意的に見る要因の一つともなった。

 

 なお同戦争では、日清戦争に続く形で新兵器も登場したが、新たな戦術であるコマンド戦法の効果の方が上回っていた。

 戦争が、武器ばかりでなく戦術面でも新たな時代に入りつつあった。

 

 また日本は、ブーア戦争に多数の観戦武官を派遣して、戦訓習得を熱心に行った。


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