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天孫来航  作者: 扶桑かつみ
第二部「汎日本主義」
14/22

05「戦乱期2」

 ・1940年代


 概要:

 日本本土の総人口は、一気に9000万人台を突破した。

 日米戦争中は男子の大量出征のため停滞していたが、戦後は先の世界大戦後のように多産期ベビー・ラッシュとなった。

 また日米戦争後は、敗戦したアメリカからの移民が増加した。

 外郭地、植民地を含めた日本全体の総人口も、一億人台へと突入した。

 

 そして日本が平和宣言を行ったその翌年、ヨーロッパで二度目の総力戦が発生する。

 この戦争に対して、日本及び日本占領下のアメリカは、局外中立を宣言した。

 ただし、各国に対する外交関係や貿易は行う状態で過ごすことになる。

 そして日米戦争でそれなりに疲弊していた日本経済は停滞からさらなる躍進へ進み、多くのものが破壊されたアメリカの復興も同時に進んだ。

 

 第二次ヨーロッパ大戦後、ヨーロッパ諸国は戦災のため大きく落ち込み、逆に日米戦争で停滞した日本とアメリカの経済と産業は大きな成長もしくは復活を遂げた。

 

 また戦争に辛うじて勝利したヨーロッパ各国は、自らの経済と国家財政維持のため既存の植民地統治を継続した。

 

 一方では、戦争の惨禍を教訓として、日米が中心となって国際連盟よりも高度な国際組織設立の話も出た。

 だが、進歩的意見や提言が多すぎた事などから、ヨーロッパは自分たちの復興のためこれを無視した。

 世界は、理想主義を掲げる日本を始めとした環太平洋諸国と、現実主義のヨーロッパとに分裂する気配を見せるようになる。

 


「ヨーロッパ大戦」(1939年〜46年)


・前半


 第二次世界大戦とも呼ばれる戦いは、1939年9月の「ロシア=ポーランド戦争」で開幕した。

 

 戦争原因は、日米戦争後の大規模な不況を原因とした革命の危機に瀕するロシア政府が、ちょっとしたガス抜きを目的とした外征を画策したのが発端だった。

 そして外征の対象に選ばれたのが、ドイツなどヨーロッパ諸国を後ろ盾として、ロシアに対して高慢な外交を展開していたポーランドだった。

 そしてロシア世論がポーランドに対して激高して、ロシア政府としては何もしないままでは収拾が難しいため、国境線に軍隊を配備してさらに威嚇する。

 これでポーランドはドイツやイギリスなど他国へ泣きつくも、この時点ではロシアも軍事力を用いないだろうと考え、特に対策はとらなかった。

 

 そうして両者国境線の緊張だけが高まるが、ロシアの少数民族によるテロ組織が起こした偶発事件から、国境紛争が発生。

 事態収拾を図ったロシア軍が、追加の軍を国境沿いに派遣。

 

 これに危機感を覚えたポーランド側では、急進的だった軍部の一部部隊がついに暴発。

 ドイツ領近くの国境係争地で大規模な戦闘を仕掛けて、不意を突かれたロシア軍は戦術的敗退を喫した。

 

 これでロシア世論が一気に反ポーランドに染まり、国内的にも国際的にも引っ込みの付かなくなったロシアは、ポーランドに対して謝罪と賠償をしなければ宣戦布告も辞さずという、外交としての最後通牒を突きつけた。

 そして歴史的経緯から弱気は亡国だという強迫観念のあるポーランドは、他国をアテにしてついに戦端が開いた。

 一足先に軍の国境近辺への動員を進めていたポーランド軍は、最初の1週間ほどは戦闘を優位に進めることが出来た。

 しかしこの敗北で引っ込みが付かなくなったロシアは、ポーランドが降伏するまで戦争を行うことを決める。

 

 ある意味この戦争は、ロシアの半ば伝統的問題である少数民族問題と連動するため、ロシアとしては引くに引けなかったのだ。

 

 軍事衝突から2週間ほど後から行われた戦闘では、雪辱のために準備を整えていたロシア軍が、怒濤のごとくポーランドに侵攻を開始する形で再開される。

 そして圧倒的戦力で力押ししたロシア軍の前に、ポーランドの首都ワルシャワはわずか二週間で包囲下に置かれ、ここでロシア軍は改めてポーランドに降伏を要求。

 ロシアの民衆も勝利に喝采を送った。

 ロシア民衆にすれば、少し規模の大きな少数民族に対する懲罰程度という気持ちだっただろう。

 


 ここでようやくドイツなどヨーロッパ主要国家が両国の仲裁に入るが、既に政府がワルシャワを脱出していたポーランドは、不用意にも各国が仲裁に入る前にロシアに対する徹底した抵抗を訴えており、政治的にはロシア軍の全面撤退以外に解決が難しい状況に陥っていた。

 

 このためロシア側のポーランドに対する反発は続き、自らも引けなくなったドイツなどヨーロッパ主要国家も、ロシアの侵略を許さないと反発。

 ロシアも今更弱気を見せるわけにもいかず、加えて国内世論のために引くことも出来ないので、結局短期間での解決は望むべくもなかった。

 

 そして心理的な面で時間切れとなって、ヨーロッパの主要国が次々とロシアに宣戦布告し、瞬く間にヨーロッパ世界全体を巻き込んだ大戦争となった。

 

 戦争名称は、当初「ロシア=ポーランド戦争」とされ、後に「第二次世界大戦」となったが、戦後に「ヨーロッパ大戦」へと変更される戦乱の勃発だった。

 


 開戦当初は、ロシア対ヨーロッパ世界の過半の対決のため、ロシアに勝ち目はないと考えられた。

 ただしヨーロッパの全ての国は、ロシアを含めてまともに戦争準備など行っていなかった。

 前の戦争の教訓もあって、ある程度の動員準備は常に整えられている反面、民意は総力戦など二度としたくないという心理が強かった。

 そしてヨーロッパよりも少し遅れた社会と経済を持つロシアは、常に他国よりも大規模な軍隊、特に陸軍を有していた。

 先の大戦の教訓もあって、東欧やドイツに攻め込む計画と事前準備も行っていた。

 しかもロシアは、既に対ポーランド戦争のため、ある程度の戦争準備を終えていた。

 

 そして全てのヨーロッパ諸国を敵としなければならなくなったロシアは、大陸国家特有の恐怖心と現実での不利な状況を克服するためにも、先手を打って大規模な侵略を行わなくてはならなくなる。

 ドイツに先に大打撃を与えておかなければ、自らの敗北が確定的だからだ。

 

 かくしてロシアは、翌年の1940年春に彼らの中での戦略的攻勢防御の一環として、半ば泥縄式に東欧全土及び中東方面に進撃した。

 そして僅か二ヶ月で、中部ヨーロッパ連邦(MEU)以下東欧諸国とトルコ、イラクなどがロシア軍の軍門に下った。

 

 この過程で、旧オーストリア・ハンガリー帝国の中部ヨーロッパ連邦が呆気なく崩壊。

 占領後は、ロシア主導によって各民族地域ごとに分けた軍政と民族自治が始まる。

 流石にドイツは踏みとどまったが、ロシアに近い古都ケーニヒスベルグやダンツィヒは包囲下に置かれ、ベルリン前面のオーデル川が最前線となった。

 そしてここで中立だったイタリア(ファッショ政権)が、自らの政治的に逼塞した状況の打開と漁夫の利を得るべく、ロシアの有利を見てロシア側に立って参戦を発表。

 火事場泥棒よろしく、バルカン半島と地中海各地の攻撃を開始した。

 これで戦争は、ヨーロッパ全土に広がることになった。

 

 なお、この大規模な攻撃では、ロシア軍が日本やアメリカから多数の技術を導入して国内産業の育成を行った効果が発揮されていた。

 多数の戦車、装甲車による攻撃力、航空機の打撃力、トラック群による円滑な補給体制を整えた事によって、ロシア軍もしくはコサック伝統の騎兵戦術を近代版を可能とした。

 その結果が、先の大戦より遙かに早い戦争展開となって、元々弱小だった東欧、中東諸国は瞬く間に蹂躙されていったのだった。

 


 その年の秋には、次の戦争準備が早かったロシア軍が、総数500万人の大兵力でドイツ正面に総攻撃を実施した。

 

 イタリアの突然の行動に翻弄された形になったヨーロッパ諸国は、クリスマスまでにドイツの首都ベルリンが長い包囲戦の末に陥落して、ドイツ領の約半分がロシアの占領下に入った。

 先の世界大戦での各国のマイナス感情が、ドイツの防衛体制構築を遅らせた結果だった。

 

 地中海方面も、占領されたボスポラス海峡からロシア海軍が続々と地中海入りした。

 そしてロシアとの同盟により当座の資源輸入を確保したイタリア海軍と結んで、各地の攻撃を実施した。

 

 大きな戦況の変化を前に、それまでのらりくらりとし、戦争から遠かったヨーロッパ列強も結束するに至る。

 正式に「ヨーロッパ連合軍(EA)」を結成して、ロシアの侵略に立ち向かっていく。

 そして自らの正義として「ヨーロッパの解放」と「ロシア帝国並びに戦争を主導した強欲な政府の打倒」、「全ての人々の圧政からの解放」を謳った。

 

 この前後にイギリスなど数カ国から日本にも対ロシア参戦の誘いが来たが、日本側は丁重に謝絶した。

 理由として、先の自らの宣言に反することはできない事、先のアメリカとの戦争の疲弊から回復していない事、アメリカの統治と復興を疎かにできない事などを理由として挙げた。

 また、ヨーロッパ連合軍が掲げた戦争目的は素晴らしいが、自らの植民地には適用外とするなどの二重規範が存在する点など、外交的に受け入れられない点も多いとした。

 

 そして日本は局外中立を改めて宣言し、さらに日本は講和の仲介なら取り持つと逆に提案して、後背を気にしなくてよくなったロシアをある程度安心させると共にヨーロッパ諸国との溝はかえって深まった。

 

 なおドイツは、ライン川地区に臨時首都を移したが、皇帝が我先にベルリンから逃げ出した事もあって民意を失い、辛うじて続いていた帝政は事実上崩壊した。

 以後は臨時政府の議会による政府が作られ、「ドイツ連邦共和国」が成立した。

 そして特に戦争中は、「西ドイツ」と呼ばれるようになる。

 


・中盤1


 ロシア側の戦争準備と矢継ぎ早の戦争展開と革新的な戦争によって、ヨーロッパ全域、地中海、中東が戦場となった。

 またロシアは、中央アジア方面からインドやイラン、さらには直接中東方面を圧迫した。

 ロシアの同盟国の北亜連邦にも、援助を増やしてヨーロッパ側についた中華民国に対する攻勢を強化させた。

 

 ただドイツ中原では、建て直しが図られたドイツ軍や駆けつけた英仏などのヨーロッパ連合軍がロシア軍の攻勢を何とか押しとどめ、膠着状態となっていた。

 このためロシアは地中海からイタリアに続々と応援を送り込んでスエズ運河の制圧を進めると共に、イタリアにフランスに対する第二戦線を開かせようとする。

 

 これに対してイタリアは、資源から兵器に至る大量の援助を要請するが、多くがイタリアの元に送り届けられると気をよくして攻勢を開始。

 ロシア軍の増援部隊も戦列に参加し、フランス南部の国境線突破に成功する。

 こうして南フランスも戦場となった。

 また長らく続いていたスペインの内乱にも各国が介入し、補給線を確保したロシア・イタリアがフランコ将軍を手厚く援助したため混乱が一層広がった。

 

 しかし本土が戦線から離れていたイギリスは、世界中から資源と兵士を集めて順次反撃体制を整えつつあった。

 またイギリスは原爆開発も加速させ、いざとなれば戦争に投入する覚悟を固めた。

 戦争に我関せずな日本のおめでたい言葉など聞いている場合ではなかった。

 

 なお日本と日本の占領統治が続くアメリカは、宣言通り各国との貿易を継続した。

 決済の多くが即金もしくはバーター取引が主となったが、ヨーロッパ連合とロシア双方との取引が行われた。

 

 ただし日本は、日本だけが持つ先端兵器及び高度技術製品の輸出は一切行わず、一部輸出された兵器も世界一般のものや日本での旧式兵器だけだった。

 それでも、膨大な外貨が日本に転がり込み、技術が応用された兵器は戦争を広げることになった。

 また、大量に輸出されたトラックや輸送船舶などは戦争を大規模化させる要素となったが、企業側の要求もあって日本政府も国の外交戦略に外れない限りは輸出を許した。

 流石の日本も、更地にしたばかりのアメリカの復興のためには、お金が必要だったからだ。

 


・中盤2


 1941年冬になると、ユーラシア枢軸軍とヨーロッパ連合軍の戦争は完全に停滞した。

 それぞれの中心となるロシア、イギリスの戦時生産が軌道に乗り、互いの主要生産拠点が大規模攻撃の難しい場所に存在したからだ。

 しかも双方とも相手から攻撃されない多数の資源地帯を抱えているため、正面からの力で叩きつぶすしか戦争解決の手段がなかった。

 ただしロシア軍は、先の日米戦争にやや及ばないものの空の新兵器を導入することで、中部ヨーロッパからイギリス、フランス主要部、西ドイツに対する戦略爆撃を開始した。

 この結果、先年アメリカを襲ったのと同じ破壊が、ヨーロッパ各地にもたされるようになる。

 そしてまだ防戦状態のヨーロッパ連合は、イギリス以外はロシアのような戦略爆撃に訴えることは難しく、そのイギリスも初期の戦略爆撃の打撃と防空体制構築のために戦争リソースを吸い取られ、戦略爆撃に関してはロシアの後塵を拝する事になった。

 何しろロシア空軍の重爆撃機は、日米のように長い航続距離を誇っていた。

 

 そうした中1941年12月に、アメリカ合衆国が独立復帰を宣言。

 多くの国に承認され、これでヨーロッパ諸国は日本とアメリカが戦争に介入してくるだろうと予測した。

 しかし、アメリカ復興という足かせから解放された日本は、どちらかの陣営に加わる事もなく、全ての国に対しての停戦を提案してきた。

 

 だが、日本の提案におめでたい言葉が多かったせいか、多くの国が日本に失望を感じて聞き入れることはなく、不毛な戦争は何事もなかったかのように継続した。

 主権を回復したアメリカも、日本に倣って独立復帰と同時に局外中立を宣言し、今度は全ての国に対する武器の輸出までも行わないと言う、徹底した堕落ぶりに多くの国が失望した。

 

 しかし戦争は、戦略的にドイツや東欧を奪回しなければいけないヨーロッパ連合軍の方が正面の兵力数では若干劣っており、このままでは戦争経済が限界を迎えて双方停戦するしかないのではという予測が一時支配的となった。

 

 ただロシアには、もはや伝統とすら言えるアキレス腱があった。

 いまだ国内でくすぶっている革命の芽と少数民族問題だ。

 ロシアは未だに皇帝と貴族の力が残され、まともな民主議会を持っていなかったのだ。

 

 案の定、総力戦の困窮の中で国民の不満はたまっており、依然として近代国家になり切れていないロシアは内部で徐々に傾いていった。

 

 また占領地各地での抵抗運動も激しくなり、ロシア軍も額面どおりの戦闘力を発揮できなくなっていた。

 

 そうした中でイギリスが中心となった中東奪回作戦が実施され、ロシア軍は各地での反発も重なって敗退もしくは後退を余儀なくされた。

 地中海でも、激しい戦闘の末に制海権をヨーロッパ連合が握った。

 

 理想ではなく現実に向かう態度こそが、ヨーロピアン同士の容赦のない戦争を転換しつつあった。

 


・終盤


 中東や地中海を押さえられ、柔らかい下腹部をさらしたロシアは、徐々に守勢に追いやられた。

 またロシアがヨーロッパから引くよりも早くイタリアが一気に衰退した。

 

 連合軍が地中海とバルカン半島で攻勢に出てこれが成功すると、既に基盤が揺らいでいたムッソリーニ政権は呆気なく崩壊。

 イタリア本土にほとんど踏み込まれていないのに、イタリアはヨーロッパ連合軍に降伏した。

 

 1944年内には、ヨーロッパでは足場のないロシア軍は各地で敗走し、ヨーロッパ主要部のほとんども奪回された。

 ただしその過程で激戦地となったドイツ各地や東欧の一部が壊滅的打撃を受ける。

 しかも撤退するロシア軍は、各地で略奪を行うか徹底的に破壊して立ち去っており、その惨禍のため中部ヨーロッパ各国は長年苦しむ事になる。

 

 しかし連合軍の攻勢は続いた。

 

 戦略爆撃もヨーロッパ連合軍がやりかえすようになり、ロシアのヨーロッパ地域の多くが無差別爆撃で破壊されていった。

 

 そして1945年春、ヨーロッパ連合軍は一斉にロシア国境を突破した。

 すでに総合的な戦力ではヨーロッパ側が上回っており、局地的に兵力を集中してロシア軍の前線を突破した。

 硬直化したロシア軍に対して、各地で機動力を活かした包囲殲滅線を展開していった。

 

 そして夏、スモレンスクを指呼に捉えたヨーロッパ連合軍に驚きの報告が舞い込む。

 

 ペテルブルクにて革命が発生したというものだった。

 

 皇帝の座を追われたロマノフ王家は中立国スウェーデンへの亡命を余儀なくされ、新たに成立したロシア共和国革命政府はヨーロッパ連合軍に講和を打診してきた。

 

 しかし復讐に燃えるヨーロッパ連合軍は、ロシア帝国時代に無条件降伏を突きつけている手前もあって、革命政府に対しても同様に無条件降伏のみ受け入れると返答。

 受け入れられないロシア革命政府との間の戦争は継続した。

 しかしここで、ロシア人の中にヨーロッパに対する強い恨みの感情を産むことにもなり、戦争の終幕にも影響を与えることになった。

 


・終幕


 ロシア帝国、ドイツ帝国、中部ヨーロッパ連合、イタリアファッショ政権が崩壊もしくは消滅したが、戦争はまだ続いていた。

 一方では、武器を輸出しなくても発生した戦争特需によってアメリカが先の戦災から復興した。

 日本の経済的躍進も続いていた。

 

 だがヨーロッパ諸国は、何らかの結論が出るまで戦争を止めるわけにはいかなかった。

 

 国が滅びるまで戦争を行うという形式は、先の日米戦争によって明確にされ、この戦争でも適用されていたからだ。

 

 そして革命で混乱したロシアは突然脆くなり、ヨーロッパ連合軍は進撃に伴う破壊と殺戮を欲しいままにした。

 半ば無血開城のような状況でペテルブルク、モスクワも陥落していった。

 46年夏までに、ヨーロッパ・ロシアの過半がヨーロッパ連合軍の占領下となった。

 

 しかしここがヨーロッパ連合軍の物理的限界でもあった。

 ヨーロッパロシアを得た事で、この地域の住民まで面倒を見なければならず、後方を預かる者達の間ではロシア側の戦略なのではと言われたほどだった。

 進めば進むほど、犠牲が出ない代わりに兵站負担と経費がかさんでいった。

 そしてロシア帝国の圧政からの解放を謳ってしまっていたので、一旦「解放」した地区の住民を疎かにするわけにはいかなかった。

 しかもロシア人のかなりが、ヨーロッパ連合軍がロマノフ王家やロシア帝国ではなくロシア人を敵視した事に、強い不審を抱いているから尚更だった。

 

 ヨーロッパ連合軍は、たまらずボルガ川東岸にまで後退した共和国政府との停戦と講和会議の開催を提案。

 反撃するだけの力もなく追いつめられていたロシア共和国側も、やむを得ず受け入れた。

 

 1946年夏、約7年の長きに渡った第二次ヨーロッパ大戦は、呆気なく終幕する事になった。

 


 なお、この戦争で核兵器が使われることは遂になかった。

 イギリスは戦争中に既に保有したが、国家存亡に追いつめられなかったため使わなかったのだと言った。

 またロシアも保有していたと噂され続けたが、ロシア帝国が一度崩壊して混乱したため真相はいまだ判明していない。

 しかし日本という抑止力が核兵器使用を行わせなかったと解釈するのが自然だろう。

 

 何しろ日本は、ロケットで水爆を世界のどこにでも落とすことが可能となっているのだ。

 


「ペテルブルク講和会議」(1946年)


 ヨーロッパ大戦の決着は、ヨーロッパ連合軍とロシア共和国の講和会議によって付けられた。

 中立国は一切呼ばれなかった。

 日本、アメリカはオブザーバーとしての参加も認められなかった。

 この事は、ヨーロッパ連合軍が日本が自分たちの側で参戦しなかった事を深く恨んでいることを印象づけた。

 

 会議は完全な勝者であるヨーロッパ連合軍のペースで進み、ロシアは二度と侵略戦争を起こさないために徹底した解体が決定した。

 ベラルーシ、ウクライナ、コーカサス地域、中央アジア地域が、民族自決という建前で新たに独立してロシアから分離させられた。

 他にも、国境を隣接するポーランド、バルト海諸国、フィンランド、ルーマニアが領土を増やした。

 またロシア自身も、ヨーロッパ・ロシアが当面はヨーロッパ連合軍の占領地とされ、軍政が実施された。

 ロシア共和国政府は、それ以外の地域の統治しか認められなくなった。

 

 そしてヨーロッパ連合軍の占領支配によって、徐々に占領地域とロシア共和国の間の政治的溝が深まり、民族を引き裂くのかとロシア共和国は反発したがほとんど無視され、ロシアは潜在的敵対勢力とされヨーロッパから常に警戒され続けた。

 そして占領統治の中でロシア人の多くがヨーロッパに対する恨みを募らせ、主に水面下での対立はさらに激しくなっていった。

 しかもヨーロッパ諸国の占領統治は自らの体力不足により杜撰だったため、流通の不備などにより各地では食料など生活物資が不足した。

 

 この段階で太平洋側から日本とアメリカが、軍事面以外での人道面のロシアへの援助を開始。

 ヨーロッパは日米の動き表向きに反発したが、自分たちにとってもある程度の利益となるロシアを完全に二分する動きともなるので黙認。

 ロシアは分裂へと進んでいく事になる。

 

 

「ヨーロッパ大戦終了直後」(1946年〜)


 二度目のヨーロッパ大戦は、7年間もの長きに渡って続いた。

 各地での大規模な地上戦と高性能の重爆撃機を投入しあった戦略爆撃により、中立国以外のほとんどが戦場とされて各地は荒廃した。

 特に中部ヨーロッパから東ヨーロッパにかけて、さらにはヨーロッパ・ロシアは壊滅的打撃を受けた。

 

 戦後も統治システムや流通網の破壊から餓死者が続出し、ヨーロッパの総人口は戦争と合わせて3000万人以上が死亡した。

 日本やアメリカは人道的見地から食料や被服、医薬品を大量に援助したが、荒廃したヨーロッパにとっては焼け石に水のような有様だった。

 進歩した文明が行った戦争が、予想を遙かに上回る破壊をもたらしていたのだ。

 そしてかつての世界大戦と日米の戦いで何も学ばなかったが故の自業自得であった。

 

 また急な独立と戦争中の対立激化から、バルカン半島地域では民族国家ごとの対立が先鋭化。

 二つのロシアの対立もあって、ヨーロッパ全体はなかなか安定しなかった。

 

 そうしたなかでヨーロッパ連合軍はそのまま国家連合の形態としてそれなりのまとまりを見せるようになり、いつしか「ヨーロッパ連合」と呼ばれるようになっていく。

 


「新たな対立構造」(1946年〜)


 第二次ヨーロッパ大戦後、ヨーロッパ諸国は戦争に加わらなかった日本とアメリカ、特に世界の工業生産の三分の一を占める日本を強く非難するようになった。

 途中からでも日本が戦争に加わっていれば、ヨーロッパでの悲劇は大きく緩和することができたのだと。

 逆に日本がロシア側に立って参戦していればどうなったのかという議論や論調は、ヨーロッパでは全て封殺された。

 また、日本が水爆を搭載した重爆撃機か大陸間弾道弾を無制限で使った場合、戦争が数日もしくは数時間で終わったであろうという恐るべき予測も、あえて行われなかった。

 

 これに対して日本は、自らの持つ核兵器などが危険すぎる兵器であること以外に、今回の戦争が先の日米戦争同様に大国同士の利己主義が原因の戦争だと判断したため参戦しなかったと言った。

 だからこそ日米戦争ではヨーロッパ各国は特に行動を起こさなかったのだろうと、嫌みに言っても見せた。

 また日本人一般の心理として、(第一次)世界大戦での積極参戦で自らの国際的な地位向上や人種差別撤廃、白人以外による国際政治などが殆ど省みられなかったと考えており、ヨーロッパだけでの戦いに参加しないことは当然の事でしかなかった。

 

 そうした互いの反目もあったが、戦争で大きく破壊されたヨーロッパでは、日本に対する理不尽な反感が募った。

 しかも戦後はボルガ川より東側のロシア共和国を日本が人道を理由に支援するようになった事も重なって、日本とヨーロッパの溝は日増しに深まっていった。

 

 そして先の戦争で日本に敗北したアメリカは、日本に強く同調した。

 ロシア共和国も自国の生存のために日本に寄りかかり、これに環太平洋地域の国々の多くが日本側に荷担する。

 しかも日本は、アジア各地のヨーロッパ植民地の独立支援を強め、ヨーロッパとの対立姿勢を強めた。

 

 戦争一つしていないにも関わらず、急速に新たな対立構造が形成されつつあった。


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