04「戦乱期1」−2
「日米戦争」
・後期:
1936年に入ると、日本軍はパナマ運河を通じてカリブ海に進出した。
全長1000尺(300メートル)を越える巨大な原子力空母群などは、南米大陸南端のホーン岬を回って大西洋に入った。
ハワイ沖海戦で初陣を飾った原子力空母 《ヤマト》の名は、アメリカ軍の恐怖の象徴だった。
春から夏にかけて大規模な戦闘がカリブ海のアメリカ領各地で起きるが、技術差が余りにも開いているためアメリカ軍はことごとく敗退した。
アメリカの巨大な生産力で再建された大艦隊も、最新鋭機群が「鴨撃ち」と揶揄されたほど呆気なく落とされて制空権を奪われると、あえなく海の藻屑と消えていった。
アメリカでは日本の捕獲兵器からの技術フィードバックも懸命に行われていたが、日本軍は常にアメリカを上回る兵器を前線に送り込んでいた。
一連の戦闘でキューバとプエルトリコが日本軍に占領され、ここに超重爆撃部隊が展開した。
今度はメキシコ湾岸から東海岸、さらには五大湖沿岸にかけて、アメリカの心臓部に対して戦略爆撃が開始された。
日本軍は容赦することなく、アメリカの戦争経済を徹底的に破壊し始めた。
西海岸に爆撃目標がなくなっていたハワイやアラスカに展開していた戦略爆撃機部隊の半分以上も移動して、爆撃は徹底を極めた。
電算機を用いた効率的な爆撃計画に従って、アメリカの都市が一つ一つ効率的に灰燼に帰していった。
そして窮地に追いつめられたアメリカだが、それ故に禁断の兵器を使用を決定する。
1937年3月10日のキューバ島グアンタモナ日本軍基地に、昨年末に開発に成功したばかりの原子爆弾が投下された。
原爆により日本軍基地の一つが大損害を受け、世界で初めて核兵器が使われた瞬間となった。
これに対して日本は、アメリカに対して改めて全面降伏を求める「ホノルル宣言」を発表。
事実上の降伏勧告だったが、受け入れられないのならば自ら封じていた核攻撃を開始すると宣言した。
かなり過酷な要求を含んでいたため、アメリカは強い態度で拒絶。
さらなる原爆使用で応えた。
原爆は重爆撃機群の基地ともなっていたプエルトリコの港湾部に落とされ、市街地にも被害が及んだため大きな人的被害が発生した。
これに対して日本軍は、4月1日を皮切りに以後1週間〜2週間に1発のペースで躊躇なく原爆投下を開始した。
亜音速で飛んでくる超重爆撃機が他の通常爆撃などと混ざって攻撃してくるので、アメリカ軍では迎撃がほとんど不可能だった。
使用された核兵器は、アメリカの使用した20キロトンクラスではなく、ワンランク上の50〜100キロトンクラスの戦略型大型原爆で、爆発威力の違いから一発で都市が壊滅した。
だが初期は都市爆撃はされず、まずはノーフォークなど軍事拠点が順番に廃墟となっていった。
最初に被爆した大都市はフィラデルフィアで、これも多数の造船施設のある港湾部に投下された。
一方で日本政府は、核兵器と数発落とすごとにアメリカへの降伏勧告を行う事も忘れなかった。
日本は自らによる原爆使用が不本意だとも、世界に向けて発信した。
そうした姿勢は日本の本意だったかもしれないが、むしろアメリカの神経を逆撫でするものだった。
対する米軍は懸命の防空網を展開したが、無数の巨人爆撃機による通常爆撃や機動部隊による沿岸部からの空襲など傍若無人となった日本軍の攻撃の前に、1万機の航空機と500万人の人員を投入した空前の防空網はまともに機能しなかった。
何しろ米軍はいまだレシプロ機しかないのに、日本軍機のほとんどがジェット(噴流)機となっていた。
高度な電磁波妨害を仕掛けたり、超音速などで飛ばれては、対抗する術などあるわけなかった。
電子戦も、やっている事は大人と子供ほどの落差があった。
そしてその年の6月24日、日本は世界中に公開する形で爆発威力15メガトンの水爆実験を実施。
並行してアメリカ本土上陸作戦の準備も進め、改めてアメリカに「ホノルル宣言」受諾を打診した。
それでもアメリカは、新型爆弾が実用に至っていない実験的なもので脅しでしかないと当初は黙殺。
しかし日本は水爆の一段階手前である強化原爆を、日本側により意図的に破壊が避けられていたニューヨーク・マンハッタン島に、ビラによる警告の24〜48時間後の適時に投下した。
無数の人々がパニック状態で逃げ出す中、300キロトンの破壊力が解放されたニューヨーク中心部は完全に壊滅した。
次の目標は、同じく日本軍によって破壊が避けられていた首都ワシントンDCだと考えられた。
これでアメリカ世論は二分。
徹底抗戦派と講和派が短くも激しい激論を交わしたが、独立記念日から数日が経った1936年7月8日にアメリカは「ホノルル宣言」受諾を表明。
日米戦争は終幕する。
なおこの戦争で日本軍は、約300万トン(3メガトン)分の通常爆弾をアメリカ全土に投下。
また13発・約1メガトン分の核兵器を使用した。
・総決算:
アメリカはホノルル宣言に従って、日本軍の駐留と日本の間接統治の受け入れた。
アメリカの独立が奪われた瞬間だった。
さらに同宣言に従い、戦争犯罪人の処罰、戦争責任者の公職追放、独占企業及び財閥の解体と企業の再編成、軍の大規模な軍縮としかるべき後の再編成、憲法改正、核兵器の廃絶、キューバ、プエルトリコの当面の日本軍による駐留とその後の独立を受け入れた。
これに対して日本は、軍主導による間接統治によるアメリカの戦災復興支援を約束。
加えて占領駐留経費以外の戦費賠償の権利は基本的に放棄した。
ただしチャイナ各地のアメリカ利権は接収もしくは中華民国に返還させたし、アメリカが持っていた幾つかの先端技術や技術特許も奪っていた。
戦争経済の破綻と敗戦の混乱でドルが暴落したので、日本企業によって多くのアメリカ資本が買い叩かれてもいた。
しかもアメリカ型の金融システムは、徹底的な日本型への変更も行っていた。
アメリカ金融の中心地だったウォール街から多くの人々は逃れていたが、彼らの夏は永遠の彼方となった。
なおこの戦争で、アメリカは1200万人、日本は700万人の兵士を動員した。
それよりもすさまじいのが機械化戦争だった点で、兵器を供給する工業生産力を維持するために、両国とも戦時動員を抑制しなければならなかったほどだった。
特に日本は、兵士を動員するよりも最新兵器を大量投入することを選択した戦争を展開した。
また戦死者、死者の総数は、アメリカが310万人となった。
内訳は軍人130万人、民間人180万人で、民間人の死者のほとんどは爆撃と核兵器使用がもたらした。
逆に軍人の戦死者数が少ないのは、数百万人単位の軍隊が一度に激突するような大規模な地上戦がなかったためだ。
また戦後のアメリカでは、戦災による流通網の不備などにより、都市部を中心に小規模な飢餓などの混乱が発生した。
隠されていた重火器を用いた激しい戦闘に発展する事もあり、混乱がある程度治まるまでに3年の歳月がかかり約50万人が死亡し、約300万人が負傷した。
さらに国土の荒廃も進み、人種差別などアメリカの暗部がさらけ出された。
このため占領統治した日本軍の強い命令によって連邦法及び各州法が全面的に改正され、個人の武器所有に対する大きな規制が敷かれ、さらなる混乱と反発を経た後に、より一層銃刀法規制が厳しくされた。
日本人は「昭和の刀狩り」などと言ったが、アメリカ社会を大きく変える一歩になった。
日本軍アメリカ占領総司令部による「アメリカは開拓民の国だが文明国であるはずだ」との発言は、アメリカ社会に対する大いなる皮肉であった。
なお戦争により、この間アメリカへの移民はほぼ停止していた。
戦後もあまりの戦災から、以後十年間は移民が激減した。
むしろカナダなどへの移民(脱出)が増えたため、アメリカの総人口は戦災を含めると戦前よりも1000万人ほど減少していた。
一方日本の死者は、軍人が8万人程度だった。
しかもうち2万人は原爆による死者であり、地上戦をほとんど行っていないため戦死者数は第一次世界大戦よりはるかに小さくなった。
民間人の死者は、初期に行われた東京空襲と船舶乗り組員がほとんどで約1万人となった。
またアメリカ本土の戦災による被害額は3000億ドルに達するとすら言われたが、その後の査定で約半額の1500億ドル程度と判定された。
それでもアメリカのGDPに匹敵するほどの未曾有の損害であり、日本軍の爆撃によってアメリカの人口10万人以上の都市の80%以上が灰燼に帰していた。
爆撃をほとんど受けなかった都市は、中部の一部地域を除けば、日本軍が意図的に爆撃しなかったボストンやワシントンなどの一部の都市だけだった。
「アメリカ占領」(1937年〜)
日米戦争後、日本によるアメリカ憲法の改定が実施され、事実上の占領統治が開始される。
占領軍の総数は当初は50万人ほどで、ワシントン以外ではほとんどが半ば廃墟となった軍事施設の占領となった。
そして上陸した日本兵に、一般のアメリカ人は驚いた。
東洋人らしく華奢ながら、あまり自分たちと見た目がさほど変わらない身長だったからだ。
肌が黄色くのっぺりした顔をしている以外、ラテン系白人と比べてそれほど違いはなかった。
しかも一部の日本人は、妙にあか抜けた容姿をしていた。
また軍人は規律正しく公正だったし、何より人種差別というものとは無縁だった。
言葉(英語)はへたくそな者が多かったが、態度は堂々としていた。
これらの事は、特にアメリカの白人以外に大きなショックを与え、その後の社会変化すら促す事になる。
アメリカ人が本当に負けたと感じたのは、日本軍による占領が開始されてからだと言われたほどだった。
ただしアメリカもしくは白人の敗北を受け入れない者は数多くいたし、敗戦前後の内紛により無軌道な破壊と殺戮に走る者も数多く、アメリカ全体がある程度落ち着くまでには3年近い歳月を必要とした。
日本兵の陸上での死者の数などは、アメリカ占領中の方が多かったと言われたほどだった。
なお憲法改正では、アメリカの憲法は完成度が高いためあまり変更はなかった。
ただし人種差別排除の徹底、各種社会保障制度の充実、武器(銃)規制、各種税制特に累進課税制度と固定資産税の徹底化、さらに極端化していた経済界の解体と再編成が法律上でも行われた。
不正と法の抜け穴を使う事も、ほとんど難しい法律が組みあげられた。
こうした改正から「平等憲法」と皮肉って言われることになる。
なお日本軍による占領統治は、5年後の1941年12月7日に終わりを告げ、アメリカ合衆国は主権を回復した。
だがその間に、それまでのアメリカの価値観の多くが日本的というよりは、保守的、内向的なものとなった。
『アメリカン・ドリーム』のない公平な社会が新たに作られ、『新モンロー主義』、『平和主義』が事実上の国是となった。
その後のアメリカ人は世界から目を背け、再びマーク・トゥエインの世界や『大草原の小さな家』を、自らの理想とするようになる。
日本の異常な発展が、世界の巨人を再び眠らせてしまったのだ。
「戦後不況」(1937年〜)
日米戦争は、先の世界大戦とは別の意味で未曾有の総力戦となった。
すさまじい機械化戦争が、世界でもっとも発展した国だった日本とアメリカとの間で行われたからだ。
この戦争で日本は自ら戦争特需に沸き返るも、流石に財政は増税と膨大な戦時国債の発行によって疲弊した。
海外への輸出もほぼ停止した。
一方のアメリカも戦争半ばまでは戦争特需でわき返ったが、戦争に敗北して国土は大きく破壊され、さらには日本の事実上の占領統治まで受けた。
そして開戦一年目は日米から、それ以後は日本からの発注で、ヨーロッパ諸国は戦争景気に沸き返った。
工業力がなくても地下資源の豊富なロシアなどは、日本への重要資源輸出で大きく潤った。
また当時日本との関係が良好だったロシアは、日本からの生産移転によって工業力や技術のいくつかを獲得し、先の世界大戦の余波からいまだ立ち直れていなかった経済が大きく躍進した。
しかし3年半続いた日米戦争は、アメリカの全面敗北によって唐突に終わりを告げた。
あまりに強力となった兵器の破壊力が、戦争に終わりを告げさせたからだ。
そして終戦と共にヨーロッパに対する需要も消滅した。
しかも日本は、戦争中も実質的な経済拡大を達成しており、戦争を一種の公共投資として国力拡大に成功した。
その上、アメリカという巨大な市場を独占することにもなった。
かくして戦いが終わると日本製品は順次世界の市場へと戻り、そうした分野でもヨーロッパの生産物は品余りとなった。
辛うじて中華地域での戦争がヨーロッパ、ロシアの輸出経済を支えるようになるが、元々金のない中華地域が全ての需要を受けられるわけもなく、戦後市場の獲得のため大恐慌後のような経済のブロック化と市場拡大に絡んだ衝突が頻繁に起きるようになった。
しかもたいていの国は優秀な日本製品を買わざるを得ず、日本という異端な技術先進国の存在をイヤが上でも認識せざるを得なかった。
こうした負の感情は、日本の軍事力に対する恐怖心と重なって、日本を忌避する傾向を強めさせる結果となった。
「重力離脱」(1938年)
日米戦争の翌年、日本は沖縄宇宙基地から宇宙船を打ち上げ、衛星軌道上に人工物を投入する事に成功した。
むろん人類で初めての快挙だった。
日本中が、戦争の勝利を祝うかのようなお祭り騒ぎとなった。
しかし諸外国は、世界のあらゆるところに核兵器が投入可能になるという可能性を恐れた。
国によっては開発中止や逆に技術提供や技術公開を求めるが、日本は平和利用だとして開発続行を宣言した。
技術移転や供与、売却については、安易に輸出や移転できるような技術ではないとして、今までとは比較にならないぐらいの態度で技術移転や輸出を否定した。
技術流出にも過敏に反応して、日本人が罪を犯した場合でも厳しく処罰された。
その後も日本単独による宇宙開発を拡大路線で継続し、1942年には世界で初めて人類を宇宙に送り届けた。
そして日本は、世界が再び戦争の闇で覆われている時、一人驚天動地の計画を発動させる。
「平和宣言」(1939年)
日本は、「平和宣言」を発表した。
日米戦争の結果、余りにも巨大な軍事力と破壊力を日本一国が保有するようになったため、他国が同じ力を保有しない限り自らの力を自衛戦争以外に行使しない事を宣言した。
合わせて自国の生産した先端兵器、大量破壊兵器、超長距離攻撃兵器の輸出禁止や技術移転も行わないことも発表した。
関連する先端技術に関しても、多くを同列のものとした。
合わせて先の世界大戦と同様に、日米戦争で作りすぎた兵器と巨大化した軍備の9割を縮小して、不要になった先端兵器の一部は諸外国の関係者に確認させてまでして破棄してしまった。
違反して不正輸出すれば、日本人、日本企業でも大きな罰を受ける法律が整備された。
当然ではあるが、海外のスパイに対してもより強い態度で臨まれ、国際問題になる事もあった。
とはいえ日本だけが保有する兵器である、水爆、原爆、各種誘導兵器、噴流式超重爆撃機、原子力潜水艦、原子力空母は世界の脅威だった。
日本が軍縮して拡大路線もしないというのなら、誰も止める者はいなかった。
むしろ世界は、日本の宣言と行動を不気味に見守った。
行きすぎた軍縮は、日本人に対する偏見を感情面で募らせただけだとすら言われ、多くが事実だった。
また日本占領下のアメリカは、占領中は日本の軍事力の庇護下にあり、自らの手によって徹底した軍及び軍需産業の解体が進められた。
加えてアメリカは、日本に連動する形で自国に大きな破壊をもたらした核兵器の完全廃絶をうたった『非核三原則』を宣言するに至る。
北米大陸には、アメリカが軍拡しなければ他に軍拡するべき理由がほとんどなかった事が、日米戦争後のアメリカの動きに出た形となった。