04「戦乱期1」−1
・1930年代
概要:
日本本土の総人口は、8000万人台突破した。
外郭地や植民地などの域内全土を含めると、9000万人に達した。
ただし1950年代に第二次多産世代が生まれて以後は、人口増加が停滞状態に陥ることが予測された。
このため政府は、この時期から国家が手厚く保護する形での多産政策を段階的に開始する。
また、医療の革新的進歩によって病気の多くも克服され、各世代特に乳幼児の死亡率がさらに大幅に低下した。
一方では医療技術の躍進によって、日本人の平均寿命が70才を突破。
老人人口比率の拡大が、数字の上での人口増加を後押しするようになる。
また日本列島に流入する移民は、制限を設けてもなお年間5万人を数えるようになり、政府は移民規制によって無学で低所得な移民を厳しく制限する政策をいっそう強めた。
また世界的不景気にあっても、日本経済の成長と躍進は止まらなかった。
そして新規技術の開発と量産化の流れも、日本から発生すると言う流れがほとんど常態化するようになっていた。
他国でも日本で生み出された技術を理解するのは難しくない場合がほとんどだったが、技術そのものを開発したり製品としてコスト面でペイするまでの状態で量産するとなると、話はまるで違っていた。
しかも日本は、一部の工作機械の輸出に厳しい規制を実施しているため、その差を簡単に埋める事は極めて難しかった。
世界中は日本の成長を羨み妬みそして疑ったが、高性能な日本製品と高度な日本の技術は実際に存在するものだった。
日本政府によって作られた高度な技術情報防衛の壁の向こうに何があるのか知ることはほとんどできなかったが、東洋の小さな島国は新国家建設からわずか半世紀で世界最先端の国となっていた。
妙にあか抜けた外見が多い日本人の技術者や科学者は、世界的に見ても綺羅星のごとく活躍していた。
そして日本の政府や企業は、科学者、技術者達をいっそう厚遇した。
高度な環境につられて、欧米から日本への移民すら出始めていた。
すでに他の先進国列強との差は、理論で10年、先端技術で20年、量産技術で30年の開きがあると言われた。
半世紀前とまるで立場が逆転していた。
当然と言うべきか、日本への富と技術、知識の偏在は世界に大きな歪みと嫉妬をもたらし、それが未曾有の戦乱期を誘発する事になる。
これを世界史上では『十五年戦争』と呼ぶ事がある。
それほど世界が闇に覆われた時代が幕開けしたのだった。
「中華分裂」(1931年)
国民党、正確には独裁者となった蒋介石による中華民国の国家統合に、歴史的に漢民族を警戒する周辺民族は強い脅威を覚えた。
また中華地域の北部草原地帯を中心に大きな地盤を持っていたロシアも、同様に脅威だと考えた。
一方で日本も、近在の大陸国家の統一と拡大に警戒感を上昇させた。
統一された大陸国家は、本能的な逼塞感情から国家としての膨張傾向が強いからだ。
そのため日本は、巨大な大陸国家同士の対立を容認してきたのだが、事態は急速に対立から戦乱へと流れつつあった。
そうした中で、1931年9月に「北アジア連邦共和国(北亜連邦)」の建国が宣言された。
領土はマンチュリア、モンゴル、プリモンゴル、東トルキスタン地域に広がっていた。
国家制度的には、それぞれは自治独立しているが、連邦化する事で周辺諸国に対抗するとされた。
これに連動して、チベット全域でも独立機運が上昇。
中華地域が完全に分裂する気配を見せた。
後ろにはロシアの影が極めて強く見えるが、建前としては正しかった。
これに対して中華民国は、旧清朝領域こそが中華民国の正統な領土だと主張。
中華側の意見を、アメリカが強く後押しした。
一方ロシアは、国際連盟の民族自決主義に従えば北亜連邦の独立は正統なものだとした。
英、独、仏などのヨーロッパ諸国は、建前上は国連加盟国のため民族自決は支持したが、ロシアの影響力拡大は避けたいため、国連が入った形での独立や自治を提案した。
日本も民族自決の考えは支持するも、ヨーロッパ諸国に同調した。
そして北亜連邦入りした国連のリットン調査団も、当面は国連を仲介した自治から始めるべきだとした。
しかし中華民国は、北亜連邦成立そのものに強く反発し、軍を各地に派遣する。
これに対してロシアは、民族自決を守るための支援を発表。
これに各国も介入し、戦争へと発展していく。
「中華分裂戦争」(1932年〜)
北亜連邦に「侵入」した中華民国軍によって、中華地域での戦争が勃発した。
連動して、中華民国内では周辺諸国に対抗するという目的で、国民党と共産党の連合「国共合作」が実現した。
当然、北亜側の反漢民族感情を強く刺激することになり、中華地域では漢民族対北方周辺少数民族という伝統的な図式で各地の戦端が開かれた。
主戦場は、マンチュリア近在の万里の長城付近だった。
他の地域があまりにも広大で交通インフラがなく、そして人口希薄なため近代戦を行う戦場として選択できなかったからだった。
北亜側が伝統的な騎馬部隊を使って中華地域を侵すこともあったが、既に前近代的な戦争では大勢を決する事は、中華地域ですらできなくなっていた。
そして北亜連邦にはロシアが、中華民国には主に商売目的のアメリカが後ろ盾についた形で泥沼の戦争となった。
日本は、ヨーロッパ諸国と共に当初は中立状態だったが、徐々に民族自決の観点から、北亜連邦に肩入れするようになり、中華民国、アメリカとの対立を強めた。
そしてヨーロッパ諸国は、ロシアの強大化を阻止する向きで動き、結局は中華民国を支持するようになる。
初戦は兵力差、人口差などから中華民国軍が優勢だった。
しかしマンチュリア地域は1900年代からロシアの勢力圏として成長し、ロシア人の手による近代化ながら、中華地域で最も工業と産業が発展している地域だった。
しかも中華民国、より正確には漢民族に対する敵愾心が侵略と共に強まった。
そして中華民国軍は、マンチュリア中枢部に至る前に大規模な反撃を受け軍主力が包囲殲滅されてしまう。
反撃作戦で活躍したのがロシアと日本の軍事顧問団だと言われているが、1932年冬には総崩れとなった中華民国の残存兵力は国境線に向けて潰走した。
またロシア及び日本から大量の武器が北亜連邦に供給されており、これも北亜の勝利に大きく貢献した。
その後は北亜軍が中華民国軍を追いながら万里の長城を越えて、北京を陥落させてしまう。
これに対してアメリカが、民主主義防衛のためとして強力な中華民国支援を発表。
ロシア、日本こそが帝国主義的行動を行っているとして強く非難した。
しかもアメリカは、日露に対抗する事を理由として大きな軍拡へと傾き、軍拡と兵器輸出による景気回復を図ろうとした。
アメリカ国民も、負けている側を助けるという構図と、これまで少しずつ積もっていた日本に対する敵愾心から、自らの政府を支持した。
当然日露が反発した。
特に太平洋で互いの海軍が向かい合っている日本とアメリカの対立は、日一日と激しさを増していった。
日本海軍は、最初は中華地域に向かうアメリカ船の監視をするのみだった。
だが、アメリカ側が船団を組んで護衛艦艇を配置するようになると、日本側の監視も厳しくなり、互いに強力な軍艦を次々に送り込んでいった。
またアメリカは、日本に対抗するために極秘に原子力爆弾の開発を開始。
しかしこれが早々に世界に露見したため、国連及び日本が軍事利用するべきでないと強く提案。
アメリカは平和利用だと一方的に発表して、国連に加盟していない事もあって国連の介入を断固として拒否。
世界のアメリカに対する不信感は増大した。
「日米戦争」(1933年〜37年)
・初期:
1933年春、日本はアメリカの軍拡と中華での横暴に対抗するため、大量の援助実施と未曾有の軍拡を発表。
事実上の総力戦体制への移行を宣言したに等しかった。
優れた科学力と高い工業生産力を持つ日本は、自らも大規模な軍拡に傾くという脅しで戦争を抑止しようと試みたが、結果として大きく裏目に出てアメリカの動きが加速しただけだった。
しかも日本の方も、1931年頃から北亜支援のために新兵器開発や軍需工場の拡張に乗りだしていたため、アメリカに遅れながらも総力戦体制に向けての準備は順調に進展していた。
当然これは、アメリカの察知するところとなっていた。
そしてアメリカは、日本が戦争体制に移行する前に、短期決戦で日本を屈服させなくてはならないと常に警戒しそして恐怖していた。
でなければ、日本だけが独占する原子の炎が、アメリカを焼き尽くすと考えたのだ。
しかも日本列島の太平洋沿岸を覆い尽くす巨大な工業プラント群は、アメリカを遙かに越える生産力を誇っていた。
そして近代に入ってからの日本に対する歪んだ憎悪と偏見が、アメリカの敵意を増大させた。
日米政府は外交交渉を重ねるも、アメリカは無理な要求を重ねて、日本側は外交常識に則って対抗外交を強める以外の方策が取れなかった。
いつしか中華問題は、双方の軍備拡張と直接対決回避の話し合いとなり、そして日米交渉は決裂するべくして決裂した。
かくして1933年12月、アメリカは日本に対してそれなりの理由を並べ立てて宣戦布告を行い、同時にハワイ王国駐留の日本艦隊及びアラスカの日本軍に対して攻撃を実施する。
「日米戦争」の勃発だった。
日米交渉が事実上まだ続いている中で、アメリカ海軍の空母機動部隊がハワイ王国真珠湾軍港を奇襲攻撃したのが戦争の始まりとなった。
戦争は、日本の準備不足とアメリカの計画的な速攻によって、日本軍が日付変更線前後に設定していた対米用の既存防衛線は、わずか2ヶ月ほどで崩壊。
開戦から僅か半年で、アメリカ軍が沖縄近辺にまで進出した。
ここでの日本軍は、近代化以後の半ば伝統だった「実戦に弱い軍隊」そのものの醜態をさらすことになった。
そして勢いに乗るアメリカは、ハワイ王国など太平洋の島嶼と日本領のアラスカなど各地を占領していった。
しかし、開戦から約半年後の沖縄近海での艦隊決戦が、文字通りのターニングポイントとなった。
「沖縄海戦」と呼ばれた戦闘において、史上初めての航空母艦(空母)同士による大規模な戦闘が行われた。
この戦闘でアメリカ海軍は多数の空母を失って大敗し、侵攻箇所での制空権を確保できなくなったアメリカの進撃はほぼ完全に停止した。
加えてアメリカは、急な進撃で補給路が伸びきっていた。
その後アメリカは、沖縄海戦のすぐ後に起死回生のために、既に占領していたマリアナ諸島からの日本本土無差別爆撃を行った。
だが、日本軍が急いで構築していた迎撃網につかまってこれも失敗した。
そして沖縄と日本本土が攻撃されて民間人に多数の死傷者が出た事で、日本世論が突然のように激高した。
それまで戦争にすら否定的だった日本の世論は、卑怯者のアメリカに対してはあらゆる反撃が容認されるとして、アメリカに対する徹底した復讐が叫ばれた。
民意の点で、日本が完全な総力戦体制に移行した瞬間だった。
加えて、近代化して以後の日本が初めて受けた本土攻撃であり、日本人の受けたショックが大きいだけでなく、極めて大きな復讐心、敵愾心を燃え上がらせてしまった。
またヨーロッパの世論も、アメリカが先に手を出した事に加えて、日本本土に対する無差別爆撃まで行ったアメリカを非難する向きが強くなった。
戦争当時の日米を比較すると、総人口比では日本の約1・3倍とアメリカが多かった。
だが、潜在的な経済力、工業生産力では日本が二倍近いの数字を示していた。
しかも日本は、理論なら10年、先端技術なら20年、量産技術製品での比較なら30年の技術的アドバンテージを持っていると言われていた。
日本を除く世界最先端の一角であるアメリカとの格差はそこまで開いていなかったが、埋めがたい技術格差が存在していたことは間違いなかった。
また日本との関係が比較的良好なロシアが、資源面で日本を後押しした。
ロシアにとっては、邪魔になってきたアメリカをアジアから追い出せる好機だったからだ。
ヨーロッパ諸国も、日本からの格安での技術輸入などを交換条件に、あらゆる資源や物資の輸出を実施した。
もっともヨーロッパ諸国は、アメリカとも通常どおり貿易を行っており、日米だけが全力で戦争して他の国が通常のままという奇妙な戦争となった。
当然ながらヨーロッパ各地では、戦争特需が発生した。
このときヨーロッパ世界は、植民地人と有色人種の愚かな戦争と高みの見物を決め込んでいたのだ。
そして場合によっては、自分たちも介入して漁夫の利を得ようとしてもいたと言われている。
そして、世界中の資源と工業力を投入した日米の総力戦が本格的に幕を開ける。
・中期:
開戦から一年もすると、日本が限定的な反撃を開始する。
高性能な新兵器を次々と前線に送り込むようになり、圧倒的戦闘力を前面に押し立てて、太平洋各地の島嶼を次々に奪回していった。
迎撃もしくは反撃に出た大規模なアメリカ艦隊に対しては、成層圏飛行が可能な重爆撃機から繰り出される多数の誘導兵器と、原子力潜水艦など革新的な性能を有する潜水艦で応戦した。
それは、新時代と旧時代の技術のぶつかり合いであり、両軍の将兵は勝者と敗者の側で時代の変化を体感する事になる。
勝者は、ほとんどの場合日本側だった。
しかも日本軍の優勢は日を増すごとに増大した。
アメリカ軍が戦略的正当性から仕掛けた通商破壊戦もまるで機能せず、潜水艦の損害だけが積み上がった。
日本軍では磁気探知装置やマイクロ波レーダー、高性能ソナー、ソノブイ、自動追尾魚雷などが次々に実戦投入され、アメリカ海軍の潜水艦は訳の分からないまま沈められるケースが続出した。
そして理由が分かったところで、海底で動きを止める以外に対処のしようがなかった。
空でも日本の噴流式最新鋭機を前にして、撃墜率は30対1以上の数字を示され目も当てられない惨状となった。
もはや、物量や技量、勇気の問題ではなかった。
その様は、コルテスや ピサロが率いたイスパニア軍と、南米原住民の戦いに等しかった。
先端技術で二十年以上の開きがあり、それらが量産兵器として出現してきたため、正面からでは戦争にならなくなっていたのだ。
そして開戦から一年半後の1935年春、ハワイ諸島近辺で大規模な戦闘が発生した。
アメリカ海軍は、大西洋の防衛を無視して全力を挙げて迎撃した。
膨大な軍事力を用いることで飽和攻撃を行い、日本軍に犠牲を強いて侵攻を止めようと言う戦法だった。
1対1で敵わない以上、アメリカ軍としては物量戦、人海戦術こそが正当な戦術であった。
だが、アメリカ軍の予想を上回る日本軍の戦術の実施により、アメリカ軍は壊滅的打撃を受けて敗退した。
空母、基地合わせて3000機を越える航空機を投入しても、日本軍機にとっては射的ゲームでしかなかった。
空中戦での撃墜率は、50対1とすら言われた。
この戦場で姿を現した《大和》という名を与えられた原子力空母は、ジェット戦闘機を100機以上搭載するモンスターであり、この作戦以後新たな日本軍の象徴となった。
初戦で奪ったハワイは日本軍によって呆気なく奪回され、ハワイ王国も独立復帰してアメリカの正義は否定された。
また夏には、ついでのようにアラスカも奪回された。
この時ほぼ初めての本格的陸戦が双方で行われたが、アメリカ軍で有効な戦術だったのは重砲や機関銃の弾幕射撃ぐらいだった。
戦車など、まるで役に立たなかった。
40トン以上ある日本軍の最新鋭戦車は時速50キロで走るのだから、まるでSFから出てきたような存在だった。
その年の秋からは、ハワイ、アラスカに進出した日本空軍の最新鋭の超重爆撃機を用いて、アメリカ西海岸に対する戦略爆撃が開始された。
量産配備が始まったばかりの噴流式の超重爆撃機は、積載量20トン以上で、航続距離は一万キロメートルを超えていた。
しかも高度一万五千メートルを最高時速900キロメートル近くで飛行するので、アメリカ軍では事実上迎撃が不可能な怪物だった。
しかも最初は1個大隊程度だったのが、三ヶ月もすると100機単位で飛来するようになり、高性能爆弾やナパーム弾を無数に投下した。
爆弾の中には無線誘導弾や赤外線誘導弾もあり、高々度からでも高い熱源のある施設、重要施設がピンポイントで破壊されていった。
太平洋で敵のいなくなった日本海軍の空母機動部隊も、アメリカ西海岸を荒らし回った。
軍港、航空機生産工場、油田、精油所は優先的に破壊され、アメリカ側の防戦空しく多くが短期間で廃墟となった。
しかしアメリカも、破壊されては再建して、それが無理になっても広大な国土を利用した大規模な疎開や場合によっては地下工場、地下軍事基地の建設で対抗した。
加えて西海岸以外は無傷なので、アメリカの巨大な生産力はまだまだ顕在だった。
開戦から二年後の1935年冬、日本軍はパナマ運河に侵攻した。
陽動作戦で再建途上の米軍主力を引きつけているうちに、対抗不可能な圧倒的戦力を用いて電撃的に占領した。
彼我の戦力差はすでに懸絶していた。
以後破壊を免れたパナマ運河は、日本の手で運用されるようになる。
この戦いで日本軍は、就役したばかりの《大和級》原子力空母群に最新鋭の超音速噴流戦闘機を満載して実戦に投入していた。
またこの頃から、原子力潜水艦隊を用いたアメリカ本土の封鎖を本格的に開始する。
ヨーロッパ各国も、自主的にアメリカに対する貿易停止などの措置をとるようになる。
アメリカも懸命に反撃したが、ずっと海中深くに潜ったまま水中速力30ノットで動き回る原子力潜水艦が相手では、まともな対潜作戦など取りようがなかった。
希に戦果があっても、それはかなりの幸運が味方した時だけだった。
技量でどうにかできる敵ではなかった。
この時点で、ヨーロッパ諸国が両国に停戦もしくは講和を持ちかけるが、日本は一方的に戦争を仕掛けたアメリカの無条件降伏が条件だとした。
これにアメリカは強く反発し、徹底抗戦の色合いを強くしていく。